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アルト・ドウロ・ワイン生産せいさん地域ちいき

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世界遺産 アルト・ドウロ・
ワイン生産せいさん地域ちいき
ポルトガル
ドウロ川に広がるブドウの段々畑
ドウロがわひろがるブドウの段々畑だんだんばたけ
英名えいめい Alto Douro Wine Region
ふつめい Région viticole du Haut-Douro
登録とうろく区分くぶん 文化ぶんか遺産いさん
登録とうろく基準きじゅん (3),(4),(5)
登録とうろくねん 2000ねん
公式こうしきサイト 世界せかい遺産いさんセンター英語えいご
使用しよう方法ほうほう表示ひょうじ

アルト・ドウロ・ワイン生産せいさん地域ちいきは、自然しぜん環境かんきょう上手じょうずかしたブドウ段々畑だんだんばたけ有名ゆうめいである。ドウロがわ上流じょうりゅう位置いちし、2000ねんユネスコ世界せかい遺産いさん登録とうろくされた。アルト・ドウロ地方ちほうのブドウはたけは、斜面しゃめん段々畑だんだんばたけにしてきた。段々畑だんだんばたけささえる石壁いしかべそう延長えんちょうは、すうまんkmにおよぶ。ここで産出さんしゅつされるワインは、ポート・ワインとして世界せかいてき有名ゆうめいでもある。ブドウえんあいだには教区きょうく教会きょうかい白壁しらかべむらオレンジ木立こだち雑木林ぞうきばやし低木ていぼくりんなどもなら[1]

そう面積めんせきは25まんhaにおよび、世界せかい遺産いさん登録とうろく面積めんせき24,600ha、その緩衝かんしょう地帯ちたい225,400haから構成こうせいされる。メザオン・フリオペゾ・ダ・レグアサンタ・マルタ・デ・ペナギアオンヴィラ・レアルアリジョサブロサカッラゼーダ・デ・アンシアイストレド・デ・モンコルヴォラメーゴアママルサン・ジョアン・ダ・ペスケイーラヴィラ・ノヴァ・デ・フォス・コアの13自治体じちたいにまたがる世界せかい遺産いさんである。

歴史れきし[編集へんしゅう]

近年きんねん考古学こうこがく調査ちょうさもとづくとドウロがわ流域りゅういきには、古代こだいより人々ひとびとんでいた形跡けいせきがあると判明はんめいしている。そのことは、ドウロがわ支流しりゅうコア渓谷けいこく発見はっけんされた先史せんし時代じだいいわ壁画へきがからあきらかである。また、ミランデーラのちかくにあるブラコ・ダ・パーラ考古こうこ遺跡いせきでは、3000ねんまえから4000ねんまえのブドウのたね発見はっけんされてもいる。しかし、この地域ちいきでワインの生産せいさん本格ほんかくてきとなったのは、3世紀せいきから4世紀せいきにかけてのマ帝国まていこく時代じだい推測すいそくされている。1世紀せいきには、ローマじんは、アルト・ドウロ地方ちほうでの農業のうぎょう展開てんかいするじょうで、ブドウやオリーヴといった地中海ちちゅうかいしき気候きこうてきした植物しょくぶつ導入どうにゅうした。ローマじんは、鉱泉こうせんをふんだんに利用りようし、鉱石こうせき採掘さいくつし、道路どうろはし建設けんせつしてきた。

12世紀せいきポルトガル勃興ぼっこうする以前いぜんのこの地方ちほうは、5世紀せいきスエビぞく6世紀せいき西にしゴートぞく8世紀せいきから11世紀せいきにかけてはムーアじん支配しはいした。なが中世ちゅうせい前半ぜんはん部分ぶぶんでは、アルト・ドウロ地方ちほうでのワイン生産せいさんおこなわれてはおらず、原始げんしてき農業のうぎょう回帰かいきしたと推測すいそくされている。この地域ちいきでワイン生産せいさん再度さいど活発かっぱつとなったのは、12世紀せいきなかばになってからであり、様々さまざま修道院しゅうどういん組織そしきがワインはたけ再興さいこう貢献こうけんした。中世ちゅうせいわりになり、農業のうぎょう生産せいさん商業しょうぎょう活動かつどうび、人口じんこうえるにつれて、ミランダポルトといった城壁じょうへきそなわった都市とし流域りゅういき発達はったつした。

ポルトはヨーロッパ各地かくち海路かいろむすばれており、ドウロがわ流域りゅういき生産せいさんされたワインがドウロかわくだって下流かりゅうのポルトへとはこばれるという遠距離えんきょり交易こうえきさかんになった。また、無敵むてき艦隊かんたい供給きょうきゅうされるワインの需要じゅようたかまったこともあり、ドウロがわ流域りゅういきのワインはたけ拡張かくちょうされると同時どうじに、ワインの品質ひんしつたかさは、この地域ちいき有名ゆうめいにした。

16世紀せいきになると、こう品質ひんしつのワインの需要じゅようはいっそうたかまり、17世紀せいきにかけてワインはたけ拡張かくちょうつづいた。また、ワイン生産せいさんにおける技術ぎじゅつ革新かくしんおこなわれたのもこの時期じきであり、ますますこの地域ちいきのワインの商品しょうひん価値かちはヨーロッパにおいてたかまっていった。ポート・ワインについて、海外かいがい最初さいしょ言及げんきゅうされた記述きじゅつ1675ねんオランダつかっている。また、ポート・ワインの最大さいだい市場いちばイギリスであり、スペインフランスイタリアへの輸出ゆしゅつりょうをはるかにしのいだ。

1703ねん、ポルトガルとイギリスのあいだメシュエン条約じょうやく締結ていけつされるとポルトガルで生産せいさんされるワインはフランス・ワインよりもてい関税かんぜいでイギリスに輸出ゆしゅつされることとなった。その結果けっか、アルト・ドウロ地域ちいきのワインは、ますます、イギリスへの輸出ゆしゅつ依存いぞんするかたちとなった。1727ねんには、ポルトでイギリスの償還しょうかん建設けんせつされるとそのながれは、より顕著けんちょとなった。イギリスじんのワイン仲買人なかがいにんポルトガルじんのワイン業者ぎょうしゃあいだでは、衝突しょうとつこるようになった。ワイン業者ぎょうしゃは、えず、仲買人なかがいにんてい価格かかくとイギリスじん嗜好しこうにあったアルコールぶんつよく、なおかつあまいワインの生産せいさんいられるようになった。

19世紀せいきにヨーロッパを席巻せっけんしたフィロキセラ流行りゅうこう19世紀せいきフランスのフィロキセラ)はポルトガルも無縁むえんではなかった。フィロキセラで被害ひがいけたブドウはたけ再生さいせいさせるために有効ゆうこう手段しゅだんは、アメリカから台木だいぎ導入どうにゅうし、をすることであり、1876ねんに、この地域ちいきでもアメリカからの台木だいぎ導入どうにゅう実施じっしされている。その結果けっか、この地域ちいき景観けいかん回復かいふくすると同時どうじに、ポート・ワインの生産せいさん再開さいかいされるようになった。

世界せかい遺産いさん[編集へんしゅう]

登録とうろく基準きじゅん[編集へんしゅう]

この世界せかい遺産いさん世界せかい遺産いさん登録とうろく基準きじゅんのうち、以下いか条件じょうけんたし、登録とうろくされた(以下いか基準きじゅん世界せかい遺産いさんセンター公表こうひょう登録とうろく基準きじゅんからの翻訳ほんやく引用いんようである)。

  • (3) 現存げんそんするまたは消滅しょうめつした文化ぶんかてき伝統でんとうまたは文明ぶんめいの、唯一ゆいいつのまたはすくなくともまれ証拠しょうこ
  • (4) 人類じんるい歴史れきしじょう重要じゅうよう時代じだい例証れいしょうする建築けんちく様式ようしき建築けんちくぶつぐん技術ぎじゅつ集積しゅうせきまたは景観けいかんすぐれたれい
  • (5) ある文化ぶんか(または複数ふくすう文化ぶんか)を代表だいひょうする伝統でんとうてき集落しゅうらく、あるいは陸上りくじょうないし海上かいじょう利用りよう際立きわだったれい。もしくはとく可逆かぎゃくてき変化へんかなか存続そんぞくあやぶまれているひと環境かんきょうかかわりあいの際立きわだったれい

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Alto Douro Wine Region” (英語えいご). UNESCO World Heritage Centre. 2023ねん5がつ4にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]