アンニア・ガレリア・ファウスティナ・ミノル

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しょうファウスティナ
Faustina Minor
ローマ皇后こうごう
しょうファウスティナの胸像きょうぞうルーヴル美術館びじゅつかんくら
在位ざいい 161ねん3月7にち175ねん

ぜん Annia Galeria Faustina
アンニア・ガレリア・ファウスティナ
出生しゅっしょう 125ねん2がつ12にち/130ねん9月21にち
マ帝国まていこくローマ
死去しきょ 175ねん
マ帝国まていこくカッパドキア
埋葬まいそう ハドリアヌスびょう
配偶はいぐうしゃ マルクス・アウレリウス・アントニヌス
子女しじょ ルキッラ英語えいごばん
コンモドゥス・アントニヌス ほか
家名かめい ネルウァ=アントニヌス
父親ちちおや アントニヌス・ピウス
母親ははおや だいファウスティナ
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しょうファウスティナの銅像どうぞう

アンニア・ガレリア・ファウスティナ・ミノルラテン語らてんご: Annia Galeria Faustina Minor, 125ねんまたは130ねん - 175ねん)は、だい15だいローマ皇帝こうていアントニヌス・ピウス在位ざいい138ねん - 161ねん)とすめらぎファウスティナ・マイヨルだいファウスティナ)の長女ちょうじょはは同名どうめいであることからファウスティナ・ミノルしょうファウスティナ)とばれた。

ちちいのちにより従兄じゅうけいであるだい16だい皇帝こうていマルクス・アウレリウス・アントニヌス結婚けっこん皇女おうじょルキッラと皇太子こうたいしコンモドゥスあねおとうとほか多数たすうもうけた。

歴史れきしたちからは、ローマにおける理想りそうてき女性じょせいぞうとのちがいから否定ひていてき記述きじゅつされる場合ばあいおおい。しかしくにようである軍団ぐんだんへいあいだでは絶大ぜつだい人気にんきがあり、ちちアントニヌスやおっとアウレリウスからもふかあいされ、死後しご神殿しんでん女神めがみとしてまつられた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

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けんみかどの4にんであるアントニヌス・ピウスみかど次女じじょとしてまれる。ははだいファウスティナも執政しっせいかんつとめただい貴族きぞくマルクス・アンニウス・ウェルスむすめで、トラヤヌスみかどあねマティルダのまごでもあった。

また、母方ははかたウェルスおっと皇帝こうていマルクス・アウレリウスアンニウス・ウェルス)の出身しゅっしん一族いちぞくであり、アントニウスのちちマルクス・リボ・ウェルスだいファウスティナは兄妹きょうだいであった。

複雑ふくざつ婚約こんやく[編集へんしゅう]

先帝せんていハドリアヌス政治せいじてき後継こうけいしゃであった養子ようしルキウス・アエリウスを後続こうぞく皇帝こうていにすること目論もくろみつつ、アエリウスの息子むすこルキウス・ウェルスつまに、もう一人ひとり側近そっきんであるアントニヌス・ピウスのむすめむかえることをかんがえていた。13さいしょうファウスティナはルキウスと婚約こんやくむすんだが、アエリウスの急死きゅうし政治せいじてきバランスがくずれると、ハドリアヌスはちちアントニヌス・ピウスをあらたな後継こうけいしゃ指名しめいした。

ただし、アントニヌスは帝位ていい継承けいしょう条件じょうけんとして、ルキウスと、若手わかて貴族きぞくとして頭角とうかくあらわしていたおいのアンニウスを養子ようしにするよう約束やくそくさせられていた。実際じっさい、アントニヌスには4にん子供こどもがいたが、いずれも早世そうせいしたために成人せいじんできたのは女子じょしであるしょうファウスティナいちにんだった。

アントニヌスは約束やくそくまもって2人ふたり青年せいねん皇太子こうたいしとしたが、帝位ていい継承けいしょうむすめ婚姻こんいんについては反故ほごにしてしまった。ルキウスと婚約こんやく破棄はきしたしょうファウスティナは、従兄じゅうけいいもうととして血縁けつえん関係かんけいにあるアンニウスと婚約こんやくむすなおした(従兄じゅうけいいもうとこん)。ちちによってアウレリウスとあらためたアンニウスがルキウス・ウェルスの共同きょうどう皇帝こうていとして即位そくいしょうファウスティナはアウグスタ(すめらぎ陛下へいか)の尊称そんしょうた。アントニウスとのあいだ出来でき長女ちょうじょルキッラはルキウスのつまとなり、2人ふたり共同きょうどう皇帝こうていむすびつける役割やくわりになった。

皇后こうごうとして[編集へんしゅう]

ルキウス・ウェルスが病没びょうぼつしてアウレリウスが単独たんどく皇帝こうていとなり、しょうファウスティナの皇后こうごうとしての地位ちいおおきくたかまった。しかしこの時代じだい彼女かのじょについてのくわしいうごきは、文献ぶんけん散逸さんいつしているためにさだかではない。ゆえにその逸話いつわどう時代じだいおおくの人物じんぶつおなじく、信憑しんぴょうせいうすい『ローマ皇帝こうていぐんぞう』によるところおおきい。出典しゅってん中立ちゅうりつせいうたがわしい同書どうしょは、しょうファウスティナを奔放ほんぽう女性じょせいであったとき、おおくの愛人あいじんかたわらにしたがえたと主張しゅちょうしている。

より中立ちゅうりつてきであるとかんがえられるカッシウス・ディオけんみかど時代じだい目撃もくげきした証人しょうにんであったが、その著作ちょさくおおくはうしなわれている)の記述きじゅつ性的せいてき問題もんだいについては言及げんきゅうしていない。しかし野心やしんたかく、暗殺あんさつ毒殺どくさつによる政敵せいてき抹殺まっさつをしばしばったと記述きじゅつしている。

こうした否定ひていてき評価ひょうか一方いっぽうで、先帝せんていであるちちアントニヌスからは溺愛できあいされ、おっとアウレリウスともなかむつまじい夫婦ふうふであったとも記述きじゅつされている。彼女かのじょ危険きけん蛮族ばんぞくとの戦争せんそうおっととも出向でむいて、兵士へいしたちを激励げきれいするろうしまなかった。「カルヌントゥム庇護ひごしゃ」と渾名あだなされた彼女かのじょは、前線ぜんせんたたか軍団ぐんだんレギオ)からふか敬愛けいあい獲得かくとくして、軍事ぐんじ能力のうりょくけるおっとぐんでの人気にんきささえていた。

彼女かのじょも、宿営しゅくえいでの閲兵えっぺいかう最中さいちゅう事故じこまれ、そのきずもとびょうせったすえのことであった。皇帝こうていアウレリウスはあらゆる心無こころな中傷ちゅうしょうから擁護ようごして、さら彼女かのじょ女神めがみとして神殿しんでんまつるなど、そのなげかなしんだ。のち身寄みよりのない女児じょじ孤児こじいん建設けんせつしたとき、アウレリウスは孤児こじを「ファウスティナのむすめたち」とんだという。

子女しじょ[編集へんしゅう]

30ねん結婚けっこん生活せいかつで13にん子供こどももうけたが、そのほとんどはしょうファウスティナの家族かぞくがそうであったように、病弱びょうじゃく長生ながいきしなかった。それでもははであるだいファウスティナとはちがい、男児だんじのこすことが出来できた。コンモドゥス誕生たんじょう血縁けつえんしゃめぐまれない傾向けいこうにある歴代れきだいローマ皇帝こうていなかで、アウレリウスに継承けいしょうしゃたせる結果けっかつくした。これで養子ようし必然ひつぜんせいがなくなり、けんみかどあいだつづいた養子ようしによる帝位ていい継承けいしょう自然しぜん消滅しょうめつした。