イタリア社会しゃかい運動うんどう

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イタリアの旗 イタリア政党せいとう
イタリア社会しゃかい運動うんどう
イタリア社会しゃかい運動うんどう国民こくみん右翼うよく
イタリア社会しゃかい運動うんどう国民同盟こくみんどうめい
Movimento Sociale Italiano(MSI)/
Movimento Sociale Italiano - Destra Nazionale(MSI-DN)/
Movimento Sociale Italiano - Alleanza Nazionale(MSI-AN)
イタリア国旗こっきおなさんしょくほのお
創始そうししゃ ジョルジョ・アルミランテ
幹部かんぶ党員とういん アウグスト・デ・マルサニック
アルトゥーロ・ミケリーニ
ジャンフランコ・フィーニ
成立せいりつ年月日ねんがっぴ 1946ねん12月26にち
解散かいさん年月日ねんがっぴ 1995ねん1がつ27にち
解散かいさん理由りゆう 新党しんとう結成けっせい
後継こうけい政党せいとう イタリア国民同盟こくみんどうめい
本部ほんぶ所在地しょざいち ラツィオしゅうローマ
代議だいぎいん議席ぎせきすう
34 / 630   (5%)
(1992ねん
元老げんろういん議席ぎせきすう
16 / 315   (5%)
(1992ねん
党員とういんとうともすう
党員とういん:202,715めい
(1993ねん
政治せいじてき思想しそう立場たちば ネオ・ファシズム
保守ほしゅ主義しゅぎ
民族みんぞく主義しゅぎ
イタリア・ナショナリズム
機関きかん Secolo d'Italia(セコロ・ディタリア)
国際こくさい組織そしき 欧州おうしゅう社会しゃかい運動うんどう
欧州おうしゅうしん秩序ちつじょ
欧州おうしゅう民族みんぞく主義しゅぎ協会きょうかい
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イタリア社会しゃかい運動うんどうイタリア社会しゃかい運動うんどう国民こくみん右翼うよくイタリア: Movimento Sociale Italiano, Movimento Sociale Italiano Destra Nazionale略称りゃくしょうMSIMSI-DN)は、かつて存在そんざいしたイタリア政治せいじ結社けっしゃファシスト・イタリアとくイタリア社会しゃかい共和きょうわこくRSI)とふか関連かんれんこと民族みんぞく主義しゅぎ国家こっか主義しゅぎ標榜ひょうぼうすることから一般いっぱん極右きょくう政党せいとうられている。

だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつ直後ちょくご1946ねん結党けっとうされ、だい5だい党首とうしゅジャンフランコ・フィーニによる党内とうない改革かいかくイタリア社会しゃかい運動うんどう国民同盟こくみんどうめいMSI-AN)への党名とうめい変更へんこうて、国民同盟こくみんどうめい結成けっせいともな1995ねん解散かいさんされた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

ジョルジョ・アルミランテ

ファシストとう系譜けいふ(1946–1954)[編集へんしゅう]

イタリア社会しゃかい運動うんどうは、イタリア社会しゃかい共和きょうわこくRepubblica Sociale ItalianaRSI)の関係かんけいしゃ支持しじしゃ結成けっせいした組織そしきであることひろられている。事実じじつとう幹部かんぶはRSI政府せいふ大臣だいじん補佐ほさかんつとめたジョルジョ・アルミランテ英語えいごばん、ムッソリーニ政権せいけん情報じょうほう次官じかんいていたアウグスト・デ・マルサニック英語えいごばんもとファシスト党員とういんだったアルトゥーロ・ミケリーニ英語えいごばんといった具合ぐあいに、一様いちようにファシスト政権せいけん時代じだいとのかかわりをっていた。またロドルフォ・グラツィアーニユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼなどRSIぐんがわいた将官しょうかん顧問こもんえることもあった。党員とういん支援しえん団体だんたいだい多数たすうがファシズム政権せいけん時代じだい好意こういてき勢力せいりょくめられ、MSIMussolini sei immortaleムッソリーニ統帥とうすい貴方あなた不滅ふめつ)のバクロニムだとうわさされた。

ファシスト政権せいけん対立たいりつしていた勢力せいりょくによる戦後せんごイタリア政界せいかい当然とうぜんながらかれらに脅威きょういおぼえ、議会ぎかい非合法ひごうほう政治せいじ集団しゅうだんとして政治せいじ参加さんかきびしい制約せいやくした。したがって初期しょきかれらの国内こくない活動かつどうきゅうファシストとうした制服せいふく示威じい行動こうどうなどをおこなしょう政党せいとうあまんじざるをなかったが、それでも1948ねんそう選挙せんきょかろうじてすう議席ぎせき獲得かくとくしている。国際こくさいめんではひろしヨーロッパ主義しゅぎ観点かんてんから政治せいじ連合れんごう欧州おうしゅう右翼うよく」に参加さんかした。

党内とうない対立たいりつ勢力せいりょく確立かくりつ(1954–1969)[編集へんしゅう]

一口ひとくち右翼うよく定義ていぎされやすいファシズムだが、実際じっさいには成立せいりつ過程かてい社会しゃかい主義しゅぎ修正しゅうせいマルクス主義まるくすしゅぎ影響えいきょう多分たぶん存在そんざいしている。一方いっぽう民族みんぞく主義しゅぎ帝国ていこく主義しゅぎ部分ぶぶんから君主くんしゅ主義しゅぎ資本しほん主義しゅぎとの親和しんわせい存在そんざいし(イタリア・ファシズムの場合ばあい政権せいけん獲得かくとく過程かていでイタリア王家おうけ接近せっきんしている)、おう党派とうは党員とういんかかえるなどその事情じじょう複雑ふくざつである。このながれは党内とうない対立たいりつとしてがれ、党内とうない左派さは社会しゃかい主義しゅぎてき政策せいさくち、またファシズムは共和きょうわせい実現じつげんされるべきというスタンスをった。党内とうない右派うは右派うは勢力せいりょくとの連合れんごう反共はんきょう主義しゅぎとなえ、一部いちぶ王政おうせい復古ふっこすら主張しゅちょうしていた。

創始そうししゃにして初代しょだい書記しょきちょうのジョルジョ・アルミランテは王家おうけはいしたRSI時代じだいがファシズムの完成かんせいかんがえる党内とうない左派さはぞくしており、貧困ひんこんそう救済きゅうさいがファシストにとってのさい重要じゅうよう課題かだいであるともかんがえていた。アルミランテ体制たいせいでMSIはのネオ・ファシスト勢力せいりょく一線いっせんいた合法ごうほう路線ろせんすすめ、確実かくじつ得票とくひょうばして1953ねんには全国ぜんこくで150まんひょうあつめてすうじゅう議席ぎせき獲得かくとくした。だが党内とうない対立たいりつ激化げきか一途いっと辿たどりアルミランテは退任たいにんあらたにアウグスト・デ・マルサニックが書記しょきちょうになったが短期間たんきかん辞職じしょくした。

アルトゥーロ・ミケリーニ

アルミランテ、デ・マルサニックがつづけに辞任じにんしたのち、1954ねんあらたな指導しどうしゃアルトゥーロ・ミケリーニが選出せんしゅつされた。ミケリーニは前述ぜんじゅつ二人ふたりことなってきゅう政権せいけん時代じだい重職じゅうしょくいた経験けいけんがない、一介いっかいのファシスト党員とういんぎなかったが、かれおこなった大胆だいたん路線ろせん転換てんかんがMSIや後身こうしん国民同盟こくみんどうめい政治せいじ路線ろせん決定けっていけた。ミケリーニはそれまでの路線ろせん右派うは路線ろせんおおきく転換てんかんし、自由じゆう主義しゅぎキリスト教きりすときょう民主みんしゅ主義しゅぎ資本しほん主義しゅぎなどかく右派うはイデオロギー政党せいとう政治せいじ同盟どうめいむすび、与党よとう政策せいさく全面ぜんめんてき協力きょうりょくすること決定けっていした。1955ねんきゅう敵国てきこくアメリカ指導しどうするNATOへの加盟かめい賛同さんどうする運動うんどう展開てんかいしたのがそのさいたるものであった。

ミケリーニの死後しごの1969ねん一旦いったんおもて舞台ぶたいから退しりぞいていたアルミランテが書記しょきちょう復帰ふっきして右派うは路線ろせんかたむきすぎた方針ほうしん是正ぜせいすすめた。1970ねんファシストとう時代じだいからつづくマークを除外じょがいして直接的ちょくせつてき関連かんれんせい強調きょうちょうすることけた。つづいて1972ねんには党内とうない右派うは最右翼さいうよくともうべきおう党派とうはグループを説得せっとくして「共和きょうわせい支持しじ」をとうとして宣言せんげん戦後せんごイタリアへの合流ごうりゅうをアピールした。バランスのれた中道ちゅうどう路線ろせんしめしたことこうそうし、同年どうねんそう選挙せんきょでMSIは結党けっとう以来いらい最大さいだい得票とくひょうとなるやく300まんひょう躍進やくしん両院りょういんわせて82議席ぎせき全体ぜんたい議席ぎせきの1わりちかくに相当そうとうする)をめる中堅ちゅうけん政党せいとうとなった。

党勢とうせいおとろえ(1969–1987)[編集へんしゅう]

リーチオ・ジェッリ(中央ちゅうおう)とジュリオ・アンドレオッティ首相しゅしょうひだり

だが、1970年代ねんだいから1980年代ねんだい期間きかん同時どうじ冷戦れいせんもっと加熱かねつした時期じきであり、またイタリア共産党きょうさんとう勢力せいりょくつよめたことから、これに対抗たいこうしてネオ・ファシストけい団体だんたいもまたさかんに非合法ひごうほう活動かつどうひろげた時代じだいでもあった。

成立せいりつ経緯けいいから距離きょりっていたとはいえ、国内外こくないがいのファシスト勢力せいりょく基盤きばんとするMSIはしばしばそれらの事件じけんとの関与かんよ指摘してきされた。1980ねんには戦後せんごイタリア最悪さいあく爆破ばくはテロ事件じけんともわれるボローニャえき爆破ばくはテロ事件じけん発生はっせい、ネオ・ファシストけいテロ組織そしきNARen:Nuclei Armati Rivoluzionari)やSISMI(イタリア政府せいふ諜報ちょうほう機関きかん)の高官こうかん逮捕たいほされたが、この事件じけんにMSI幹部かんぶでかつ非合法ひごうほう組織そしきの「ロッジP2」の代表だいひょうつとめていたリーチオ・ジェッリふくまれていたこと世間せけんおおきな批判ひはんせられた。

このような事件じけんやスキャンダルをけて急速きゅうそく党勢とうせいおとろえたことから、アルミランテはとう抜本ばっぽんてき改革かいかく必要ひつようだとかんじるようになった。すで老齢ろうれいになっていたアルミランテはとう青年せいねんだんわか前進ぜんしん」の全国ぜんこく指導しどうしゃつとめるなど、みずからの政治せいじてき後継こうけいとしてけていたジャンフランコ・フィーニ白羽しらはてた。

若手わかて指導しどうしゃ改革かいかく(1987–1995)[編集へんしゅう]

かくして35さいというわかさで書記しょきちょう抜擢ばってきされたジャンフランコ・フィーニは、期待きたいどお強力きょうりょくなリーダーシップを発揮はっきしてMSIの穏健おんけんけた改革かいかくすすめた。みずからもムッソリーニを「もっと偉大いだい先人せんじん」とひょうするなど熱心ねっしんファシストではあったが、世相せそうわせてファシスト路線ろせんよわめる方向ほうこうとううごかした。とう穏健おんけん一環いっかんとして党名とうめいイタリア社会しゃかい運動うんどう国民こくみん右翼うよくからイタリア社会しゃかい運動うんどう国民同盟こくみんどうめい変更へんこうされた。とう若返わかがえりと穏健おんけん民衆みんしゅうから前向まえむきにられ1994ねんそう選挙せんきょでは全体ぜんたい得票とくひょうで13%だい獲得かくとくした。しかし古参こさん党員とういん反対はんたいもあり、やはり極右きょくう政党せいとうという旧来きゅうらいのイメージからの完全かんぜん脱却だっきゃくむずかしかった。

フィーニはMSIのさらなる改革かいかく目指めざし、きゅうMSI議員ぎいん中核ちゅうかくとしたうえ複数ふくすう政党せいとうんで新党しんとう結成けっせいすること模索もさくはじめた。国内こくないられた(しかし極右きょくう勢力せいりょくとは距離きょりっていた)イタリア国内こくない著名ちょめい保守ほしゅけい議員ぎいんや、イタリア共和党きょうわとうイタリア自由党じゆうとうなど旧来きゅうらい右派うは政党せいとう会談かいだんかえして新党しんとう結成けっせいへの調整ちょうせい奔走ほんそうした。

1995ねん、フィーニの入念にゅうねん根回ねまわしのすえかく勢力せいりょくはMSIを中心ちゅうしんとするしん政党せいとうへの合流ごうりゅう同意どういして新党しんとう国民同盟こくみんどうめいAlleanza Nazionale)が結成けっせいされた。党首とうしゅ就任しゅうにんしたフィーニは「国民こくみん右翼うよく」をスローガンに、あらたな右翼うよく政党せいとう民族みんぞく主義しゅぎ堅持けんじしつつも人種じんしゅ主義しゅぎ排外はいがい主義しゅぎとは明確めいかく対立たいりつすると宣言せんげんみずからのイスラエル訪問ほうもんさいには「ファシスト・イタリアはまったくのあく」と発言はつげんした。これはアレッサンドラ・ムッソリーニらMSI時代じだい強硬きょうこうぞくした議員ぎいん離反りはんまねいたが、おおくのMSIけい議員ぎいん国民こくみん中道右派ちゅうどううは極右きょくうあいだ補完ほかんする勢力せいりょくとしての改革かいかく歓迎かんげいした。

以降いこう国民同盟こくみんどうめい右翼うよく連合れんごう一角いっかくめるグループとして政権せいけん参加さんかなどもおこなうようになったが、独立どくりつ政党せいとうとしてのMSIには終止符しゅうしふたれたことになる。

歴代れきだい党首とうしゅ[編集へんしゅう]

  • ジョルジョ・アルミランテ(初代しょだい書記しょきちょう
  • アウグスト・デ・マルサニック(だい2だい書記しょきちょう
  • アルトゥーロ・ミケリーニ(だい3だい書記しょきちょう
  • ジョルジョ・アルミランテ(だい4だい書記しょきちょう
  • ジャンフランコ・フィーニだい5だい書記しょきちょう
  • ピーノ・ラウッチ(だい6だい書記しょきちょう
  • ジャンフランコ・フィーニ(だい7だい書記しょきちょう

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]