イタリア社会 しゃかい 運動 うんどう 、イタリア社会 しゃかい 運動 うんどう ・国民 こくみん 右翼 うよく (イタリア語 ご : Movimento Sociale Italiano, Movimento Sociale Italiano Destra Nazionale 、略称 りゃくしょう :MSI 、MSI-DN )は、かつて存在 そんざい したイタリア の政治 せいじ 結社 けっしゃ 。ファシスト・イタリア 、特 とく にイタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国 こく (RSI )と深 ふか い関連 かんれん を持 も つ事 こと 、民族 みんぞく 主義 しゅぎ ・国家 こっか 主義 しゅぎ を標榜 ひょうぼう する事 こと から一般 いっぱん に極右 きょくう 政党 せいとう と見 み られている。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 終結 しゅうけつ 直後 ちょくご の1946年 ねん に結党 けっとう され、第 だい 5代 だい 党首 とうしゅ ジャンフランコ・フィーニによる党内 とうない 改革 かいかく でイタリア社会 しゃかい 運動 うんどう ・国民同盟 こくみんどうめい (MSI-AN )への党名 とうめい 変更 へんこう を経 へ て、国民同盟 こくみんどうめい の結成 けっせい に伴 ともな い1995年 ねん に解散 かいさん された。
ジョルジョ・アルミランテ
ファシスト党 とう の系譜 けいふ (1946–1954) [ 編集 へんしゅう ]
イタリア社会 しゃかい 運動 うんどう は、イタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国 こく (Repubblica Sociale Italiana 、RSI )の関係 かんけい 者 しゃ や支持 しじ 者 しゃ が結成 けっせい した組織 そしき である事 こと は広 ひろ く知 し られている。事実 じじつ 、党 とう 幹部 かんぶ はRSI政府 せいふ で大臣 だいじん 補佐 ほさ 官 かん を務 つと めたジョルジョ・アルミランテ (英語 えいご 版 ばん ) 、ムッソリーニ政権 せいけん で情報 じょうほう 次官 じかん に就 つ いていたアウグスト・デ・マルサニック (英語 えいご 版 ばん ) 、元 もと ファシスト党員 とういん だったアルトゥーロ・ミケリーニ (英語 えいご 版 ばん ) といった具合 ぐあい に、一様 いちよう にファシスト政権 せいけん 時代 じだい との関 かか わりを持 も っていた。またロドルフォ・グラツィアーニ やユニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ などRSI軍 ぐん 側 がわ に付 つ いた将官 しょうかん を顧問 こもん に据 す える事 こと もあった。党員 とういん も支援 しえん 団体 だんたい も大 だい 多数 たすう がファシズム政権 せいけん 時代 じだい に好意 こうい 的 てき な勢力 せいりょく で占 し められ、MSI はMussolini sei immortale (ムッソリーニ統帥 とうすい 、貴方 あなた は不滅 ふめつ だ )のバクロニム だと噂 うわさ された。
ファシスト政権 せいけん と対立 たいりつ していた勢力 せいりょく による戦後 せんご イタリア政界 せいかい は当然 とうぜん ながら彼 かれ らに脅威 きょうい を覚 おぼ え、議会 ぎかい は非合法 ひごうほう の政治 せいじ 集団 しゅうだん として政治 せいじ 参加 さんか に厳 きび しい制約 せいやく を課 か した。従 したが って初期 しょき の彼 かれ らの国内 こくない 活動 かつどう は旧 きゅう ファシスト党 とう を模 も した制服 せいふく で示威 じい 行動 こうどう などを行 おこな う小 しょう 政党 せいとう に甘 あま んじざるを得 え なかったが、それでも1948年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ で辛 かろ うじて数 すう 議席 ぎせき を獲得 かくとく している。国際 こくさい 面 めん では汎 ひろし ヨーロッパ主義 しゅぎ の観点 かんてん から政治 せいじ 連合 れんごう 「欧州 おうしゅう の右翼 うよく 」に参加 さんか した。
党内 とうない 対立 たいりつ と勢力 せいりょく 確立 かくりつ (1954–1969)[ 編集 へんしゅう ]
一口 ひとくち に右翼 うよく と定義 ていぎ されやすいファシズム だが、実際 じっさい には成立 せいりつ 過程 かてい に社会 しゃかい 主義 しゅぎ ・修正 しゅうせい マルクス主義 まるくすしゅぎ の影響 えいきょう が多分 たぶん に存在 そんざい している。一方 いっぽう で民族 みんぞく 主義 しゅぎ ・帝国 ていこく 主義 しゅぎ の部分 ぶぶん から君主 くんしゅ 主義 しゅぎ ・資本 しほん 主義 しゅぎ との親和 しんわ 性 せい も存在 そんざい し(イタリア・ファシズムの場合 ばあい は政権 せいけん 獲得 かくとく の過程 かてい でイタリア王家 おうけ と接近 せっきん している)、王 おう 党派 とうは の党員 とういん も抱 かか えるなどその事情 じじょう は複雑 ふくざつ である。この流 なが れは党内 とうない 対立 たいりつ として引 ひ き継 つ がれ、党内 とうない 左派 さは は社会 しゃかい 主義 しゅぎ 的 てき な政策 せいさく を持 も ち、またファシズムは共和 きょうわ 制 せい で実現 じつげん されるべきというスタンスを持 も った。党内 とうない 右派 うは は他 た の右派 うは 勢力 せいりょく との連合 れんごう や反共 はんきょう 主義 しゅぎ を唱 とな え、一部 いちぶ は王政 おうせい 復古 ふっこ すら主張 しゅちょう していた。
創始 そうし 者 しゃ にして初代 しょだい 書記 しょき 長 ちょう のジョルジョ・アルミランテは王家 おうけ を廃 はい したRSI時代 じだい がファシズムの完成 かんせい と考 かんが える党内 とうない 左派 さは に属 ぞく しており、貧困 ひんこん 層 そう の救済 きゅうさい がファシストにとっての最 さい 重要 じゅうよう 課題 かだい であるとも考 かんが えていた。アルミランテ体制 たいせい でMSIは他 た のネオ・ファシスト勢力 せいりょく と一線 いっせん を引 ひ いた合法 ごうほう 路線 ろせん を進 すす め、確実 かくじつ に得票 とくひょう を伸 の ばして1953年 ねん には全国 ぜんこく で150万 まん 票 ひょう を集 あつ めて数 すう 十 じゅう 議席 ぎせき を獲得 かくとく した。だが党内 とうない 対立 たいりつ は激化 げきか の一途 いっと を辿 たど りアルミランテは退任 たいにん 、新 あら たにアウグスト・デ・マルサニックが書記 しょき 長 ちょう になったが短期間 たんきかん で辞職 じしょく した。
アルトゥーロ・ミケリーニ
アルミランテ、デ・マルサニックが立 た て続 つづ けに辞任 じにん した後 のち 、1954年 ねん に新 あら たな指導 しどう 者 しゃ アルトゥーロ・ミケリーニが選出 せんしゅつ された。ミケリーニは前述 ぜんじゅつ の二人 ふたり と異 こと なって旧 きゅう 政権 せいけん 時代 じだい に重職 じゅうしょく に就 つ いた経験 けいけん がない、一介 いっかい のファシスト党員 とういん に過 す ぎなかったが、彼 かれ の行 おこな った大胆 だいたん な路線 ろせん 転換 てんかん がMSIや後身 こうしん の国民同盟 こくみんどうめい の政治 せいじ 路線 ろせん を決定 けってい 付 つ けた。ミケリーニはそれまでの路線 ろせん を右派 うは 路線 ろせん に大 おお きく転換 てんかん し、自由 じゆう 主義 しゅぎ ・キリスト教 きりすときょう 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ ・資本 しほん 主義 しゅぎ など各 かく 右派 うは イデオロギー の政党 せいとう と政治 せいじ 同盟 どうめい を結 むす び、与党 よとう の政策 せいさく に全面 ぜんめん 的 てき に協力 きょうりょく する事 こと を決定 けってい した。1955年 ねん に旧 きゅう 敵国 てきこく アメリカ が指導 しどう するNATO への加盟 かめい に賛同 さんどう する運動 うんどう を展開 てんかい したのがその最 さい たるものであった。
ミケリーニの死後 しご の1969年 ねん 、一旦 いったん は表 おもて 舞台 ぶたい から退 しりぞ いていたアルミランテが書記 しょき 長 ちょう に復帰 ふっき して右派 うは 路線 ろせん に傾 かたむ きすぎた方針 ほうしん の是正 ぜせい を進 すす めた。1970年 ねん にファシスト党 とう 時代 じだい から続 つづ くマークを除外 じょがい して直接的 ちょくせつてき な関連 かんれん 性 せい を強調 きょうちょう する事 こと を避 さ けた。続 つづ いて1972年 ねん には党内 とうない 右派 うは の最右翼 さいうよく とも言 い うべき王 おう 党派 とうは グループを説得 せっとく して「共和 きょうわ 制 せい の支持 しじ 」を党 とう として宣言 せんげん 、戦後 せんご イタリアへの合流 ごうりゅう をアピールした。バランスの取 と れた中道 ちゅうどう 路線 ろせん を示 しめ した事 こと が功 こう を奏 そう し、同年 どうねん の総 そう 選挙 せんきょ でMSIは結党 けっとう 以来 いらい の最大 さいだい 得票 とくひょう となる約 やく 300万 まん 票 ひょう を得 え て躍進 やくしん 、両院 りょういん 合 あ わせて82議席 ぎせき (全体 ぜんたい 議席 ぎせき の1割 わり 近 ちか くに相当 そうとう する)を占 し める中堅 ちゅうけん 政党 せいとう となった。
党勢 とうせい の衰 おとろ え(1969–1987)[ 編集 へんしゅう ]
リーチオ・ジェッリ(中央 ちゅうおう )とジュリオ・アンドレオッティ 首相 しゅしょう (左 ひだり )
だが、1970年代 ねんだい から1980年代 ねんだい の期間 きかん は同時 どうじ に冷戦 れいせん が最 もっと も加熱 かねつ した時期 じき であり、またイタリア共産党 きょうさんとう が勢力 せいりょく を強 つよ めたことから、これに対抗 たいこう してネオ・ファシスト系 けい の団体 だんたい もまた盛 さか んに非合法 ひごうほう 活動 かつどう を繰 く り広 ひろ げた時代 じだい でもあった。
成立 せいりつ 経緯 けいい から距離 きょり を取 と っていたとはいえ、国内外 こくないがい のファシスト勢力 せいりょく を基盤 きばん とするMSIはしばしばそれらの事件 じけん との関与 かんよ を指摘 してき された。1980年 ねん には戦後 せんご イタリア最悪 さいあく の爆破 ばくは テロ事件 じけん とも言 い われるボローニャ駅 えき 爆破 ばくは テロ事件 じけん が発生 はっせい 、ネオ・ファシスト系 けい テロ組織 そしき NAR (en:Nuclei Armati Rivoluzionari )やSISMI (イタリア政府 せいふ 諜報 ちょうほう 機関 きかん )の高官 こうかん が逮捕 たいほ されたが、この事件 じけん にMSI幹部 かんぶ でかつ非合法 ひごうほう 組織 そしき の「ロッジP2 」の代表 だいひょう を務 つと めていたリーチオ・ジェッリ が含 ふく まれていた事 こと に世間 せけん に大 おお きな批判 ひはん が寄 よ せられた。
このような事件 じけん やスキャンダルを受 う けて急速 きゅうそく に党勢 とうせい が衰 おとろ えたことから、アルミランテは党 とう の抜本 ばっぽん 的 てき な改革 かいかく が必要 ひつよう だと感 かん じる様 よう になった。既 すで に老齢 ろうれい になっていたアルミランテは党 とう 青年 せいねん 団 だん 「若 わか き前進 ぜんしん 」の全国 ぜんこく 指導 しどう 者 しゃ を務 つと めるなど、自 みずか らの政治 せいじ 的 てき 後継 こうけい として目 め を掛 か けていたジャンフランコ・フィーニ に白羽 しらは の矢 や を立 た てた。
若手 わかて 指導 しどう 者 しゃ の改革 かいかく (1987–1995)[ 編集 へんしゅう ]
かくして35歳 さい という若 わか さで書記 しょき 長 ちょう に抜擢 ばってき されたジャンフランコ・フィーニは、期待 きたい 通 どお り強力 きょうりょく なリーダーシップを発揮 はっき してMSIの穏健 おんけん 化 か に向 む けた改革 かいかく を推 お し進 すす めた。自 みずか らもムッソリーニを「最 もっと も偉大 いだい な先人 せんじん 」と評 ひょう するなど熱心 ねっしん なファシスト ではあったが、世相 せそう に合 あ わせてファシスト路線 ろせん を弱 よわ める方向 ほうこう に党 とう を動 うご かした。党 とう 穏健 おんけん 化 か の一環 いっかん として党名 とうめい もイタリア社会 しゃかい 運動 うんどう ・国民 こくみん 右翼 うよく からイタリア社会 しゃかい 運動 うんどう ・国民同盟 こくみんどうめい に変更 へんこう された。党 とう の若返 わかがえ りと穏健 おんけん 化 か は民衆 みんしゅう から前向 まえむ きに受 う け取 と られ1994年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ では全体 ぜんたい 得票 とくひょう で13%代 だい を獲得 かくとく した。しかし古参 こさん 党員 とういん の反対 はんたい もあり、やはり極右 きょくう 政党 せいとう という旧来 きゅうらい のイメージからの完全 かんぜん な脱却 だっきゃく は難 むずか しかった。
フィーニはMSIの更 さら なる改革 かいかく を目指 めざ し、旧 きゅう MSI議員 ぎいん を中核 ちゅうかく とした上 うえ で複数 ふくすう の政党 せいとう を取 と り込 こ んで新党 しんとう を結成 けっせい する事 こと を模索 もさく し始 はじ めた。国内 こくない の名 な の知 し られた(しかし極右 きょくう 勢力 せいりょく とは距離 きょり を取 と っていた)イタリア国内 こくない の著名 ちょめい な保守 ほしゅ 系 けい 議員 ぎいん や、イタリア共和党 きょうわとう ・イタリア自由党 じゆうとう など旧来 きゅうらい の右派 うは 政党 せいとう と会談 かいだん を繰 く り返 かえ して新党 しんとう 結成 けっせい への調整 ちょうせい へ奔走 ほんそう した。
1995年 ねん 、フィーニの入念 にゅうねん な根回 ねまわ しの末 すえ 、各 かく 勢力 せいりょく はMSIを中心 ちゅうしん とする新 しん 政党 せいとう への合流 ごうりゅう に同意 どうい して新党 しんとう ・国民同盟 こくみんどうめい (Alleanza Nazionale )が結成 けっせい された。党首 とうしゅ に就任 しゅうにん したフィーニは「国民 こくみん 右翼 うよく 」をスローガンに、新 あら たな右翼 うよく 政党 せいとう が民族 みんぞく 主義 しゅぎ を堅持 けんじ しつつも人種 じんしゅ 主義 しゅぎ ・排外 はいがい 主義 しゅぎ とは明確 めいかく に対立 たいりつ すると宣言 せんげん 、自 みずか らのイスラエル訪問 ほうもん の際 さい には「ファシスト・イタリアは全 まった くの悪 あく 」と発言 はつげん した。これはアレッサンドラ・ムッソリーニ らMSI時代 じだい に強硬 きょうこう 派 は に属 ぞく した議員 ぎいん の離反 りはん を招 まね いたが、多 おお くのMSI系 けい 議員 ぎいん と国民 こくみん は中道右派 ちゅうどううは と極右 きょくう の間 あいだ を補完 ほかん する勢力 せいりょく としての改革 かいかく を歓迎 かんげい した。
以降 いこう 国民同盟 こくみんどうめい は右翼 うよく 連合 れんごう の一角 いっかく を占 し めるグループとして政権 せいけん 参加 さんか なども行 おこな うようになったが、独立 どくりつ 政党 せいとう としてのMSIには終止符 しゅうしふ が打 う たれた事 こと になる。
ジョルジョ・アルミランテ(初代 しょだい 書記 しょき 長 ちょう )
アウグスト・デ・マルサニック(第 だい 2代 だい 書記 しょき 長 ちょう )
アルトゥーロ・ミケリーニ(第 だい 3代 だい 書記 しょき 長 ちょう )
ジョルジョ・アルミランテ(第 だい 4代 だい 書記 しょき 長 ちょう )
ジャンフランコ・フィーニ (第 だい 5代 だい 書記 しょき 長 ちょう )
ピーノ・ラウッチ(第 だい 6代 だい 書記 しょき 長 ちょう )
ジャンフランコ・フィーニ(第 だい 7代 だい 書記 しょき 長 ちょう )
政党 せいとう 連合 れんごう
主要 しゅよう 政党 せいとう
小規模 しょうきぼ 政党 せいとう
*2024年 ねん 時点 じてん で共和 きょうわ 国 こく 議会 ぎかい (下院 かいん ・上院 じょういん )及 およ び欧州 おうしゅう 議会 ぎかい に議席 ぎせき を保有 ほゆう しない政党 せいとう を除 のぞ く