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ウィリアム・ウィルソン・ハンター

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サー・ウィリアム・ウィルソン・ハンター(William Wilson Hunter、1840ねん7がつ15にち - 1900ねん2がつ6にち)は、スコットランド出身しゅっしんインド高等こうとう文官ぶんかん歴史れきし学者がくしゃ。『インド帝国ていこく地誌ちし』(1881)の編纂へんさんられる。

生涯しょうがい業績ぎょうせき

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ハンターはグラスゴーまれそだち、1860ねんグラスゴー大学だいがく卒業そつぎょうした[1]。そのパリボンサンスクリットまなんだ。1862ねんインド高等こうとう文官ぶんかんとして赴任ふにんした。

1868ねん古記こきろくをもとにイギリス統治とうちベンガル辺境へんきょう地方ちほう歴史れきしあらわした。アーリア民族みんぞく、とくにサンタルじんサンタルについてくわしくしるしている。

1872ねん続編ぞくへんの『オリッサ』(2さつ)を出版しゅっぱんした。

1868ねんアーリアしょ言語げんご分類ぶんるい単語たんごしゅう出版しゅっぱんした。ブライアン・ホートン・ホジソンおもになって収集しゅうしゅうした語彙ごいしゅうなどをもとにしている。辞書じしょ附属ふぞくする論文ろんぶんでハンターはアーリアしょ言語げんごインドヨーロッパ語族ごぞく到来とうらい以前いぜんからインドにんでいる原住民げんじゅうみん言語げんごであると主張しゅちょうした。

1869ねんインド総督そうとくメイヨー伯爵はくしゃくは、ハンターをインド全国ぜんこく地誌ちし編纂へんさん責任せきにんしゃ任命にんめいした[1]。1871ねん、ハンターはインド政府せいふ統計とうけい長官ちょうかん就任しゅうにんした[1]。ハンターはみずからベンガル・アッサム地方ちほう調査ちょうさ主導しゅどうし、『ベンガル統計とうけい報告ほうこく』(Statistical Account of Bengal、1875-1877、ぜん20さつ)、『アッサム統計とうけい報告ほうこく』(Statistical Account of Assam、1879、2さつ)を編纂へんさんした。地域ちいき報告ほうこくしょをあわせると全部ぜんぶで128さつ、6まんページになった[1]

インド帝国ていこく地誌ちしだい3はん

これらの報告ほうこくしょをもとに、ハンターは1881ねんに『インド帝国ていこく地誌ちし』(The Imperial Gazetteer of India)を出版しゅっぱんした。初版しょはんは9さつからなり、地名ちめいのアルファベットじゅん配列はいれつされている。だい2はんは1885ねんから1887ねんにかけて出版しゅっぱんされ、14さつからなる。ハンターぼつの1908ねんには26さつえた新版しんぱんだい3はん)が出版しゅっぱんされた。

『インド帝国ていこく地誌ちしちゅうの「India」の項目こうもくかんするハンターの記事きじは、のちに独立どくりつしたインドの概説がいせつしょとして出版しゅっぱんされた。

ハンターは1880ねん学校がっこうようのインドの歴史れきし教科書きょうかしょ編纂へんさんした。この教科書きょうかしょはんかさね、1907ねんに24はんたっした。

ハンターは1881ねんから6年間ねんかんインド議会ぎかいのメンバーをつとめ、またカルカッタ大学だいがくふく総長そうちょうをつとめた[1]

1887ねん退任たいにんして帰国きこくし、オックスフォードんだ。オックスフォードでは複数ふくすう著者ちょしゃによる『インドの統治とうちしゃたち』シリーズ(The Rulers of India, ぜん28さつ)を編纂へんさんした。ハンター自身じしんダルハウジー侯爵こうしゃくとメイヨー伯爵はくしゃく時代じだいについて執筆しっぴつした。ほかにこの時期じき出版しゅっぱんした著書ちょしょには以下いかのものがある。

1898ねんから1899ねんにかけて、病気びょうき息子むすこ見舞みまいのためにバクー旅行りょこうした。帰国きこくインフルエンザ発病はつびょうし、1900ねんぼっした[1]

さい晩年ばんねんイギリスりょうインド帝国ていこく歴史れきしいた。ぜん5かんになる予定よていだったが、生前せいぜん出版しゅっぱんされたのは1さつのみだった。没後ぼつごだい2かん出版しゅっぱんされた。

栄誉えいよ

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1869ねんグラスゴー大学だいがく法学ほうがく博士はかせ(LLD)、1889ねんオックスフォおっくすふぉド大学どだいがく修士しゅうし、1887ねんケンブリッジ大学けんぶりっじだいがく名誉めいよ法学ほうがく博士はかせ学位がくいおくられた。

1878ねんインド帝国ていこく勲章くんしょうのコンパニオン(CIE)、1884ねんインドのほし勲章くんしょうのコンパニオン(CSI)、1887ねんにナイト・コマンダー(KCSI)を受章じゅしょうした。

ハンターは王立おうりつアジア協会きょうかいふく会長かいちょうであったほか、国内外こくないがい多数たすう学術がくじゅつ団体だんたい会員かいいんだった。

ハンターしき

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ハンターはインドの固有名詞こゆうめいしをつづるために独自どくじこぼし方式ほうしき開発かいはつした。この方式ほうしきはやく1869ねん7がつにできていたが[2]、『インド帝国ていこく地誌ちし』でこの方式ほうしき使用しようすることが1870ねん承認しょうにんされ、1871ねんに『インド固有名詞こゆうめいし正書法せいしょほうガイド』として出版しゅっぱんされた[3]

  • Guide to the Orthography of Indian Proper Names. Calcutta: Government of India. (1871) 

ハンターによると、当時とうじおこなわれていたこぼし方式ほうしきでは母音ぼいんのつづりかたかんして3種類しゅるいことなる方式ほうしきおこなわれていた[4]

  1. 英語えいご母音ぼいんのつづりをそのままちこむ方式ほうしき
  2. みじか母音ぼいんを u i oo、なが母音ぼいんを a ee oo としる方式ほうしきジョン・ギルクリスト使用しよう
  3. みじか母音ぼいんを a i u、なが母音ぼいんを á í ú としる方式ほうしき

このうち最後さいご方式ほうしき(ハンターは「ウィリアム・ジョーンズしき」とぶ)を採用さいようした。しかしこの方式ほうしきダイアクリティカルマークおおすぎる問題もんだいがあった。ハンターは「50あるサンスクリットの文字もじを26しかないラテン文字もじ正確せいかく表記ひょうきするのは無理むりである」とし[5]子音しいんについてはダイアクリティカルマークを使つかわず、対象たいしょうである英語えいごけん読者どくしゃ説明せつめいなしでんでも近似きんじてき発音はつおんられるように設計せっけいした。これによってことなる音声おんせいおなじつづりになることがあった(歯音しおんそりしたおん区別くべつがなされないなど)。

大都市だいとしめいなど、すでに固定こていしたつづりが存在そんざいする地名ちめいはそのまま変更へんこうしない。

このこぼし方式ほうしきはのちにハンターしき(Hunterian system)とばれるようになり、その多少たしょう変更へんこうくわえられたが(たとえばちょう母音ぼいんあらわアキュートアクセントは『インド帝国ていこく地誌ちし』3はんではマクロンえられている)、インドにおけるマ字まじ表記ひょうき標準ひょうじゅんとして使つかわれている[6]ミゾ正書法せいしょほうもハンターしきをもとにしている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f 英国えいこく人名じんめい事典じてん
  2. ^ Skrine (1901) p.164
  3. ^ Hunter (1873) p.3
  4. ^ Hunter (1873) pp.13-16
  5. ^ Hunter (1873) p.14
  6. ^ Hindi (version 4.0), United Nations Group of Experts on Geographical Names (UNGEGN) Working Group on Romanization System, (2016), p. 3, http://www.eki.ee/wgrs/rom1_hi.pdf 

参考さんこう文献ぶんけん

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