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ウィリー・ウェルズ
Willie Wells基本情報 |
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国籍 |
アメリカ合衆国 |
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出身地 |
アメリカ合衆国 テキサス州オースティン |
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生年月日 |
1905年8月10日 |
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没年月日 |
(1989-01-22) 1989年1月22日(83歳没) |
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身長 体重 |
5' 8" =約172.7 cm 160 lb =約72.6 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
右投右打 |
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ポジション |
内野手 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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- サンアントニオ・ブラックエース(1923)
- セントルイス・スターズ(1924 - 1931)
- デトロイト・ウルヴス(1932)
- ホームステッド・グレイズ(1932)
- カンザスシティ・モナークス(1932,1934)
- コールズ・アメリカン・ジャイアンツ(1933 - 1935)
- ニューアーク・イーグルス(1936 - 1939,1942,1945)
- シカゴ・アメリカン・ジャイアンツ(1944)
- ニューヨーク・ブラック・ヤンキース(1945 - 1946)
- ボルチモア・エリート・ジャイアンツ(1946)
- インディアナポリス・クラウンズ(1947)
- メンフィス・レッドソックス(1944,1948)
- バーミンガム・ブラックバロンズ(1954)
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選出年 |
1997年 |
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選出方法 |
ベテランズ委員会選出 |
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ウィリー・ウェルズ(Willie Wells)ことウィリアム・ジェームズ・ウェルズ(William James Wells、1905年8月10日 - 1989年1月22日)は、アメリカ合衆国テキサス州オースティン出身の野球選手(遊撃手)。右投げ右打ち。愛称は"El Diablo"(エル・ディアブロ:悪魔)。
1920~1940年代にニグロリーグで活動していた。
高校時代に野球とフットボールを得意にしていたウェルズは、1923年にニグロリーグのマイナー組織で活動していた地元のオースチンの球団に入団し、プロ野球選手となった。翌年にはニグロ・ナショナル・リーグのセントルイス・スターズに所属、1931年まで8年在籍した。特にウェルズの活躍が知られているのは1920年代の後半に、セントルイス・スターズが1928年、1930年、1931年と3度リーグを制していた時期で、特にウェルズは勝負強い打者として恐れられていた。1926年に当時のニグロリーグの1シーズン最多記録となる27本塁打を打ち、また1929年と1930年には、それぞれ.368と.404の打率を記録して2年続けてのリーグ首位打者にもなった。打撃面で全盛期を迎えていたウェルズは、相手投手からも頻繁にビーンボールを投げられるようになっていた。しかし彼はそれに対抗し、建設現場で使うヘルメットを被って打席に立っていた(余談だが、ヘルメットをかぶって打席に立つようになったのは、メジャーリーグを含め彼が最初だといわれている)。
1931年シーズン後に所属リーグの破綻でチームが消滅してしまった後、いくつかの球団を渡り歩くようになる。1930年代後半にニューアーク・イーグルスに在籍していた頃は、攻撃だけでなくその守備力が相手チームの脅威となっていた。同じ時期、ウェルズはニグロリーグだけでなく、ラテンアメリカ各国の野球リーグにも参加するようになっていた。ニックネームの「エル・ディアブロ」は、ウェルズが1940年にメキシコリーグに参加した際に、現地のファンがつけたものである。またキューバリーグには7シーズン参加し、リーグ最優秀選手に二度輝いている。
ニグロリーグでは1948年頃まで現役を続け、1950年にはカナダ西部の野球リーグで選手兼任監督を務めていた。1954年には再びアメリカに戻り、バーミンガム・ブラックバロンズの監督を務めている。
1989年に生まれ故郷のオースチンで死去。当時は「殿堂入りしていない選手の中で最も偉大な選手」などと言われたこともあったが、1997年にベテランズ委員会がアメリカ野球殿堂入り選手に選出した。
詳細情報[編集]
記録・表彰等[編集]
- 通算成績:出場945試合、通算打率.328、126本塁打
- キューバリーグでの成績:通算打率.320、最多本塁打2回、最優秀選手賞2回
- メジャーリーグとの交流試合:通算打率.410