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エリオット・フィッチ・シェパード

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
エリオット・フィッチ・シェパード
Elliott Fitch Shepard
An old man with grey hair and a beard, wearing a suit and overcoat
シェパードのハッチングによる肖像しょうぞう、1890ねんにエドワード・ビーアシュタットが撮影さつえいしたセラチン・シルバー・プリントをもとにしている
生誕せいたん (1833-07-25) 1833ねん7がつ25にち
ニューヨークしゅうジェームズタウン
死没しぼつ 1893ねん3月24にち(1893-03-24)(59さいぼつ
ニューヨークしゅうニューヨーク
死因しいん はい水腫すいしゅ
墓地ぼち スタテンとうモラビア墓地ぼち
北緯ほくい4035ふん03びょう 西経せいけい7407ふん18びょう / 北緯ほくい40.584266 西経せいけい74.121613 / 40.584266; -74.121613 (initial)
住居じゅうきょ ニューヨークブライアクリフマナー
民族みんぞく イギリス
教育きょういく ニューヨーク市立しりつ大学だいがく
政党せいとう 共和党きょうわとう
宗教しゅうきょう 長老ちょうろう教会きょうかい
配偶はいぐうしゃ
子供こども
おや
  • フィッチ・シェパード
  • デリア・マリア・デニス
親戚しんせき
  • エリオット・シェパード・シーフェリン(まご)
署名しょめい
Elliott Fitch Shepard's signature
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エリオット・フィッチ・シェパードえい: Elliott Fitch Shepard[nb 1]、1833ねん7がつ25にち - 1893ねん3がつ24にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくニューヨークしゅうまれの弁護士べんごし銀行ぎんこうであり、新聞しんぶん「メイル・アンド・イクスプレス」オーナー、ニューヨーク法曹ほうそう協会きょうかい設立せつりつしゃかつ会長かいちょうだった。シェパードはマーガレット・ルイザ・ヴァンダービルト結婚けっこんした。マーガレットは、慈善じぜん事業じぎょう実業じつぎょうかい大立者おおだてもの、ヴァンダービルト家長かちょうであるコーネリアス・ヴァンダービルト孫娘まごむすめだった。ブライアクリフマナーにあるシェパードの住居じゅうきょウッドリーと、そのちかくにてたスカボロー長老ちょうろう教会きょうかいは、スカボロー歴史れきし地区ちく寄付きふされた資産しさんである。

シェパードはニューヨークしゅうジェームズタウンまれた。紙幣しへい印刷いんさつする会社かいしゃ社長しゃちょうの、3にん息子むすこ1人ひとりだった。ニューヨーク市立しりつ大学だいがくまなび、やく25年間ねんかん法律ほうりつ実務じつむおこなった。南北戦争なんぼくせんそうのとき、きたぐん徴兵ちょうへい担当たんとうとなり大佐たいさになった。のちにはいくつかの機関きかん銀行ぎんこう設立せつりつしゃかつ寄付きふしゃとなった。スカボロー・オン・ハドソンのブライアクリフマナーにしたとき、スカボロー長老ちょうろう教会きょうかい設立せつりつし、ウッドリーを建設けんせつした。このいえ土地とち現在げんざいスリーピーホロー・カントリークラブの一部いちぶになっている。

初期しょき経歴けいれき[編集へんしゅう]

Portrait of an old man
エリオット・フィッチ・シェパードのちち、フィッチ・シェパード

エリオット・フィッチ・シェパードは1833ねん7がつ25にちニューヨークしゅうシャトークアぐんジェームズタウンまれた。ちちはフィッチ・シェパード、はははマリア・デニスで、その3にん兄弟きょうだいの2番目ばんめであった。あにはブリット・ハミルトン、おとうとはオーガスタス・デニスである[1]ちちのフィッチ・シェパードはナショナル・バンクノートしゃのちアメリカン・バンクノートしゃとコンティネンタル・バンクノートしゃ統合とうごう)の社長しゃちょうであり、おとうとのオーガスタスはのちにアメリカン・バンクノートしゃ社長しゃちょうとなった[2]父方ちちかた祖父そふはノア・シェパードであり、ピューリタン牧師ぼくしトマス・シェパード(1605ねん-1649ねん)や、ジェイムズ・フィッチ(ウェリアム・ブラドフォード(1624ねん-1703ねん)の義理ぎり息子むすこ)の子孫しそんであった。ははのデリア・マリア・デニスは、1635ねんイングランドから移住いじゅうしてきたロバート・デニスの子孫しそんである[1]。1897ねんた『ニューヨークの著名ちょめい家族かぞく』のなかで、エリオットは「まれと先祖せんぞ著名ちょめいであり、またその性格せいかくでも有名ゆうめいである」とかれていた[3]。ジェームズタウンの公立こうりつ学校がっこうからユニバーシティ・グラマースクール・カレッジ予備校よびこう当時とうじニューヨーク市立しりつ大学だいがく建物たてものはいっていた)でまな[4]、1855ねん大学だいがく卒業そつぎょうした[5]エドワーズ・ピアポントアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく司法しほう長官ちょうかん)のした法律ほうりつまなはじめ、1858ねんにはブルックリン法廷ほうてい弁護士べんごしとしてみとめられた[6]

南北戦争なんぼくせんそうでの従軍じゅうぐん[編集へんしゅう]

Portrait of a bearded Caucasian uniformed man
南北戦争なんぼくせんそうのときのシェパード、ジョージ・G・ロックウッドの撮影さつえい

南北戦争なんぼくせんそうはじまると、シェパードはきたぐんエドウィン・D・モーガン将軍しょうぐん副官ふっかんとなり、大佐たいさ任官にんかんされた。シェパードが戦場せんじょうくことはかったが、志願しがんへい徴募ちょうぼ担当たんとうした[5]。1862ねん、ジェームズタウンにってシャトークア連隊れんたいのための制服せいふく検査けんさし、ととのえ、供給きょうきゅうした。12さいのときにジェームズタウンをはなれてからひさしぶりの訪問ほうもんであり[1][6]著名ちょめい市民しみん集団しゅうだん歓迎かんげいされた[1]。シェパードはニューヨークだい51志願しがんへい連隊れんたい徴募ちょうぼして組織そしきしたので、その功績こうせきとなえてシェパード・ライフルたい名付なづけられた[7]詩人しじんウォルト・ホイットマン兄弟きょうだいであり、この連隊れんたい隊員たいいんだったジョージ・W・ホイットマンが、シェパードから昇進しょうしん告知こくちされた。その1865ねん少佐しょうさ昇進しょうしんしたときも、シェパードが影響えいきょうおよぼした可能かのうせいがある。さらにシェパードはウォルト・ホイットマンと文通ぶんつうもしていた[8][9]

シェパードはニューヨークしゅうエルマイラ徴兵ちょうへいしょ担当たんとうとなり、周辺しゅうへん地域ちいきから47,000にん徴兵ちょうへいした[2]エイブラハム・リンカーン大統領だいとうりょうはシェパードになぞらえしょうへの昇進しょうしん提案ていあんしたが、戦場せんじょうている士官しかんへの遠慮えんりょから辞退じたいした[6]

事業じぎょう[編集へんしゅう]

1864ねん、シェパードはニューヨーク都市としけんさいのために市外しがいからの寄付きふ委員いいんかい委員いいん議長ぎちょうになった。1866ねんメインしゅうポートランド大火たいかや、1871ねんシカゴ大火たいかのち災害さいがい復興ふっこうのための弁護士べんごし委員いいんかい委員いいんちょうつとめ、1889ねんペンシルベニアしゅうジョンズタウンだい洪水こうずいでは犠牲ぎせいしゃのための市民しみん委員いいんかい委員いいんとなった[7]

1867ねん、シェパードはモーガン知事ちじのレセプションでマーガレット・ルイザ・ヴァンダービルト紹介しょうかいされた[5]二人ふたり交際こうさい[2]マーガレットのちちウィリアム・ヘンリー・ヴァンダービルト反対はんたいされた[10]。1ねんの1868ねん2がつ18にち二人ふたりはニューヨークのチャーチ・オブ・インカーネーションで結婚けっこんした[5][11]。このとしトルコメルスィンけんタルススたびしたのちで、とし5,000ドルを寄付きふし、基金ききんとして10まんドル($339まん 現在げんざい価値かち[12])でをくことに合意ごういして、タルスス・アメリカン・カレッジ[13]設立せつりつ貢献こうけんした[14][15]。シェパードはカレッジの信託しんたく委員いいん評議ひょうぎかいふく議長ぎちょうになった[4]

Three ornate three-story square mansions
ニューヨークにあったシェパードのタウンハウス(みぎ)、ヴァンダービルトのトリプル・パレス一部いちぶ

1868ねん、シェパードはセロン・R・ストロング判事はんじ共同きょうどうでストロング・アンド・シェパードをこし、ストロングの死後しごもその事業じぎょうつづけた[6][16]。そのの25年間ねんかん法律ほうりつ実務じつむつづ[5]、1876ねんにはニューヨーク法曹ほうそう協会きょうかい設立せつりつ貢献こうけんし、1884ねんにはそのだい5だい会長かいちょうになった[17][18]。1875ねん、ニューヨーク商工しょうこう会議かいぎしょのために、仲裁ちゅうさい裁判所さいばんしょ設立せつりつする改正かいせいあん起草きそうし、翌年よくねんにはその5にん委員いいんによる実行じっこう委員いいんかい委員いいんになった[19]。1880ねんニューヨーク市議会しぎかいが、地方ちほう条例じょうれい改定かいていして整理せいりし、ニューヨーク法典ほうてんとするために、シェパードとエベネザー・B・シェイファーを指名しめいした。最新さいしん改定かいていは1859ねんおこなわれたままだった[6][20]

1880年代ねんだい、アメリカ貯蓄ちょちく銀行ぎんこう都市としけん銀行ぎんこう、コロンビアン国定こくてい銀行ぎんこう設立せつりつ貢献こうけんした[21](p154)。1888ねん3がつ20日はつか、サイラス・W・フィールドから、42まん5せんドル($1441まん 現在げんざい価値かち[12])で新聞しんぶん「メイル・アンド・イクスプレス」を買収ばいしゅうした[2][5]同紙どうしは1836ねん創刊そうかんであり、推計すいけい20まんドル($678まん 現在げんざい価値かち[12])の価値かちがあった[6][22]。シェパードは信仰しんこうあつく、かくはん論説ろんせつページの冒頭ぼうとうには聖書せいしょ言葉ことばれた。そのときまで新聞しんぶんしゃ社長しゃちょうとして重要じゅうよう決定けってい政策せいさくすべてを承認しょうにんした[23]同年どうねん、5ばんがいステージしゃ支配しはい株主かぶぬしとなり、日曜日にちようび(キリストきょう安息日あんそくび)には労働ろうどうめるように仕向しむけた[5][24]

1885ねん、マーガレットのちちぬと、彼女かのじょは1,200まんドル($4.07おく 現在げんざい価値かち[12])を相続そうぞくした[5]。シェパードマンハッタン52丁目ちょうめ西にし2にんだ[25]。それは1880年代ねんだいにウィリアム・ヘンリー・ヴァンダービルトとその2人ふたりむすめのためにてられた、ヴァンダービルト・トリプル・パレス3けんの1つだった。エリオットの死後しごは、マーガレットが姉妹しまい家族かぞくいえにして、2けんを1つにした[26]。これらのいえ最終さいしゅうてき解体かいたいされた。1928ねん、そこに9かいてのデ・ピナ・ビルが建設けんせつされ、1969ねんには解体かいたいされた[27]。5ばんがい650がその建物たてもの場所ばしょである。

シェパードとその家族かぞくは1884ねんから1887ねんまで世界中せかいじゅうたび[21](p154)、アジア、アフリカ、ヨーロッパさらにアラスカをまわった[6]。ニューヨークからアラスカのたびを『The Riva.: ニューヨークとアラスカ』に文書ぶんしょした。このたびにはシェパードとつまむすめ一族いちぞくいん6にん、メイド、シェフ、執事しつじ、ポーター、案内あんないじんれてった。シェパードにれば、いちぎょうは26の鉄道てつどうで14,085マイル (22,668 km) を移動いどうし、5かげつ間近まぢかくで38かしょのホテルにまった[28][29]。1884ねん旅行りょこうのち、アラスカにおける布教ふきょう活動かつどう機会きかいがあることに気付きづき、つまとも伝道でんどうしょ設立せつりつし、としやく2まんドル($678,200 現在げんざい価値かち[12])を維持いじてた。シェパードはジョン・ホールのしたで5ばんがい長老ちょうろう教会きょうかい礼拝れいはいなん参加さんかしており[2]長老ちょうろう教会きょうかいニューヨーク同名どうめいふく会長かいちょうつとめていた[30]。5年間ねんかんはアメリカ安息日あんそくび同名どうめい会長かいちょうつとめた[7]安息日あんそくびまも特別とくべつ委員いいんかい議長ぎちょうつとめたこともあった[31]

ブライアクリフマナーの開発かいはつ[編集へんしゅう]

A stone church entranceway and steeple
A three-story beige Renaissance Revival mansion
シェパードのスカボロー長老ちょうろう教会きょうかいひだり)と、ブライアクリフマナーの住居じゅうきょ

1890年代ねんだい初期しょき、シェパードは現在げんざいのブライアクリフマナーにあるスカボロー・オン・ハドソンに移動いどう[21](p158)J・バトラー・ライトからヴィクトリア様式ようしき家屋かおく購入こうにゅうした。その家屋かおくみなみハドソンがわめんして邸宅ていたく建設けんせつさせ(ライトの家屋かおくにちなんでウッドリーと名付なづけた)[32]土地とち改良かいりょうした。邸宅ていたく建設けんせつは1892ねんはじまり[33]、3ねん完成かんせいした[21](p153)。シェパードは1893ねんんでおり、マーガレットにその完成かんせい監督かんとくさせることになった[21](pp159–60)完成かんせいした邸宅ていたくゆか面積めんせき65,000から70,000平方へいほうフィート (6,000 - 6,500 m2) のあいだであり、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく最大さいだいきゅう個人こじん所有しょゆう家屋かおくとなった[21](p163)[34][35]

シェパードの死後しご、マーガレットははるあきにそこで生活せいかつしたが[21](p165)次第しだいおとずれる回数かいすうっていった。1900ねんまでに資産しさんをフランク・A・ヴァンダーリップとウィリアム・ロックフェラーにはじめ、1910ねんには家屋かおくかれらにった。ヴァンダーリップとロックフェラーはカントリークラブを創設そうせつする取締役とりしまりやくかいあつめ、最初さいしょ会合かいごうウォうぉル街るがい55ばんのヴァンダーリップの所有しょゆうする国定こくていシティ銀行ぎんこうビルの事務所じむしょおこなわれた(ヴァンダーリップが当時とうじ銀行ぎんこう社長しゃちょうだった)。スリーピーホロー・カントリークラブが設立せつりつされ、ウッドリーがクラブハウスに、J・バトラー・ライトの家屋かおくがゴルフハウスになった[21](p169)

シェパードはそのブライアクリフマナー敷地しきちうえちいさな礼拝れいはいしょつくり、1892ねんにはスカボロー長老ちょうろう教会きょうかいてた[36]教会きょうかいとその牧師ぼくしかんは、シェパードの死後しごに、マーガレットが寄付きふした。教会きょうかいはオーガスタス・ヘイデル(スタンフォード・ホワイトのおい)とオーガスト・D・シェパード・ジュニア(エリオット・シェパードとウィリアム・ラザフォード・ミードのおい)が設計せっけいした[21]。1895ねん5がつ11にち教会きょうかいがシェパードのおものために落成らくせいした[21](p165)一時期いちじきはシェパード記念きねん教会きょうかいばれていた[37]

家族かぞく個人こじんてき生活せいかつ[編集へんしゅう]

Painting of formally-dressed people in a room
オペラへ (1874ねん)、シーモア・ジョセフ・ガイ、ヴァンダービルトえがいている。マーガレットが中央ちゅうおうあおドレス、そのみぎにエリオットがいる

シェパードとマーガレットのあいだにはむすめが5にん息子むすこが1にんまれた。フローレンス(1869ねん–1869ねん)、マリア・ルイーズ (1870ねん–1948ねん)、エディス (1872ねん–1954ねん)、マルグリット (1873ねん–1895ねん)、アリス (1874ねん–1950ねん)、エリオット・シェパード・ジュニア (1877ねん–1927ねん)だった。この子供こどもたちは日曜にちよう学校がっこう教会きょうかい出席しゅっせきし、家庭かてい教師きょうし教育きょういくけた。シェパードは家族かぞくのためのシェフをやとっていた[38]。シェパードは厳格げんかくちちであり、息子むすこたたいたとわれる。その息子むすこちちおなじくらいワイルドで、厳格げんかくであり、道徳どうとくおもんじたとわれている[38]

シェパードはたかく、快活かいかつ表現ひょうげんりょく作法さほうがあり[7]、「ニューヨーク・タイムズ」にれば、「そだちの倶楽部くらぶ会員かいいん完全かんぜんなタイプ」とばれていた。かみおおく、つめにはマニキュアをほどこし、きちんとそろえられたあごひげ運動うんどう選手せんしゅのような体格たいかくだった[21](p154)はんユダヤ主義しゅぎ反対はんたいし、ロシアけいユダヤじん苦境くきょうおおやけらせるばんさんかい出席しゅっせきし、ものけるユダヤきょう宗教しゅうきょう社会しゃかい組織そしき定期ていきてき出席しゅっせきした。おおくのニューヨークの教会きょうかい信者しんじゃせきりており、おおくの伝道でんどうしょ支援しえんし、病院びょういん慈善じぜん団体だんたいから寛大かんだい寄付きふしゃわれた。シェパードは政治せいじてき大望たいぼうがあり、権力けんりょく影響えいきょうりょく象徴しょうちょうとしてウッドリーを建設けんせつした[21](p157)。シェパードはうま馬車ばしゃ所有しょゆうし、それに公園こうえん家族かぞくせ、また自身じしん乗馬じょうばきなことをほこっていた[38]

シェパードは共和党きょうわとう支持しじしゃであり、1888ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう選挙せんきょ運動うんどうには75,000ドル($254まん 現在げんざい価値かち[12])を寄付きふし、しゅう選出せんしゅつアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいん議員ぎいんのファセットの選挙せんきょ運動うんどうにはしゅう委員いいんかいに10,000ドル($339,100 現在げんざい価値かち[12])を寄付きふした。ニューヨークの6ばんがいと57丁目ちょうめにシェパード・ホールをつくり、共和党きょうわとう倶楽部くらぶ無料むりょうした[2]。シェパードはおおくの組織そしき会員かいいんだった。ニューヨークしゅう法曹ほうそう協会きょうかい、アメリカ自然しぜん博物館はくぶつかん、ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン、アメリカ独立どくりつ戦争せんそう息子むすこたち、ニューヨーク・ヨットクラブ、ニューヨーク・アスレティッククラブ、ニューヨーク・プレスクラブ、ローヤーズクラブ・オブ・ニューヨーク、共和党きょうわとう倶楽部くらぶ、マンハッタン・アスレティッククラブ、乗馬じょうばクラブ、トワイライト・クラブ、ユニオンリーグ・クラブ・オブ・ニューヨーク、ニューヨーク・ニューイングランド協会きょうかい、アディロンダック・リーグ、ユニオンリーグ・クラブ・オブ・ブルックリンなどだった[6]

晩年ばんねん遺産いさん[編集へんしゅう]

Line drawing of bespectacled, mustached man in a derby hat
シェパードをえがいた1892ねんのスケッチ

1892ねん、ニューヨーク市立しりつ大学だいがくがシェパードに法学ほうがく修士しゅうしごうおくり、オマハ大学だいがく法学ほうがく博士はかせごうおくった[39]。1893ねん1がつ11にちシカゴ万国博覧会ばんこくはくらんかい下院かいん委員いいんかいで、日曜日にちようびすなわち安息日あんそくび博覧はくらんかいひらかないよう、委員いいん説得せっとくするための演説えんぜつおこなった[40]。1891ねん9がつ7にち、シェパード自身じしん博覧はくらんかいあいだの6かげつあいだ、オーディトリアム・ホテルで委員いいんかいのために16しつ予約よやくするために25,000ドル($84.8まん 現在げんざい価値かち[12])をった[41]

シェパードは1893ねん3がつ24にち午後ごごにマンハッタンの自宅じたくおもいがけなくんだ。2人ふたり医師いしがシェパードから膀胱ぼうこう結石けっせきのぞこうとしていた。午後ごご1245ふんエーテル処方しょほうした。すう分間ふんかん、シェパードは反応はんのうしないようにえた。そのまもなく顔色かおいろわりはじめ、呼吸こきゅうみゃくおとろえた。エーテルの投与とうよめられたが、手術しゅじゅつ継続けいぞくするために十分じゅうぶんなエーテルがまだあたえられていなかった。シェパードの容体ようだい再度さいど悪化あっかはじめた。医師いしたちは食物しょくもつしゃぶつ気管きかんあるいは気管支きかんし閉塞へいそくさせているのではないかとうたがった。医師いしたちはつづいて酸素さんそ投与とうよして、一時いちじてきくなったが、午後ごご4みゃく着実ちゃくじつよわくなり、意識いしきうしない、午後ごご410ふんんだ。死因しいんはい水腫すいしゅであり、はいのうっけつだった。エーテルの投与とうよ死因しいん不明ふめいだった[2][4]。シェパードはモラビア墓地ぼち一族いちぞくびょう埋葬まいそうされた最初さいしょのヴァンダービルト一族いちぞくだった。1894ねん11月17にちむすめ一人ひとりつま、その兄弟きょうだいであるジョージ・ヴァンダービルトが、シェパードとむすめのフローレンスの遺骸いがいあたらしいシェパードはかうつりそうするのを監督かんとくした[42]

An ornate mausoleum built into a hillside
ヴァンダービルトびょう、シェパードが最初さいしょ埋葬まいそうされたところ

シェパードの財産ざいさんには10まんドルのタルスス・アメリカン・カレッジ基金ききん不動産ふどうさん85まんドルと動産どうさん50まんドルがあり、合計ごうけい135まんドルだった($4578まん 現在げんざい価値かち[12])。その遺志いしによりかね土地とちつま子供こどもたち、おとうとのオーガスタス、宗教しゅうきょう組織そしきけられた[43]。ニューヨーク市立しりつ大学だいがくニューヨーク大学だいがくのエリオット・F・シェパード奨学しょうがくきんなどおおくの奨学しょうがくきん懸賞けんしょう資金しきんのこ[6]弁護士べんごしアーロン・J・ヴァンダーポールの図書館としょかんからニューヨーク大学だいがくほう学校がっこう膨大ぼうだいりょう蔵書ぞうしょ寄付きふした[44]

シカゴの出版しゅっぱんしゃホレス・オドノヒューのつまが、シェパードの訃報ふほうを4にちんでかせたとき、オドノヒューは剃刀かみそりげてのどった[45]。その自殺じさつ当初とうしょ衝動しょうどうによるものとかんがえられたが、のちにオドノヒューがシカゴの出版しゅっぱんしゃおおきな負債ふさいっていたのが理由りゆうらしいとかった[46]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • Shepard, Elliott Fitch; Shafer, Ebenezer B. (1881). Ordinances of the Mayor, Aldermen and Commonalty of the City of New York: In Force January 1, 1881. New York, New York. OCLC 680539530. https://books.google.co.jp/books?id=IAFAAAAAYAAJ&redir_esc=y&hl=ja 
  • Shepard, Elliott Fitch (1886). Labor and Capital are One (10th ed.). New York, New York: American Bank Note Company. OCLC 43539083. https://books.google.co.jp/books?id=8SwoAAAAYAAJ&redir_esc=y&hl=ja 

原註げんちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ファーストネームは "Eliot" あるいは "Elliot" とつづることもあった。せいには "Shepherd" も使つかわれた。息子むすこ区別くべつするために「シニア」をつけてばれることもある

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d Young, Andrew W. (1875). History of Chautauqua County. Buffalo, New York: Printing house of Matthews & Warren. p. 370. LCCN 01-14073. OCLC 27643135. https://books.google.co.jp/books?id=4xItpINmJmgC&redir_esc=y&hl=ja 
  2. ^ a b c d e f g “Elliott F. Shepard Dead”. The New York Times. (1893ねん3がつ25にち). http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9507E2D91731E033A25756C2A9659C94629ED7CF 2014ねん8がつ5にち閲覧えつらん 
  3. ^ Weeks, Lyman Horace (1898). Prominent Families of New York. New York, New York: The Historical Company. p. 504. OCLC 4604610. https://archive.org/details/cu31924093597304 
  4. ^ a b c “The Doctors' Statement”. New-York Tribune 52 (16,934). (1893ねん3がつ27にち). http://fultonhistory.com/Newspapers%206/New%20York%20NY%20Tribune/New%20York%20NY%20Tribune%201893%20Mar%20-%20Apr%20Grayscale/New%20York%20NY%20Tribune%201893%20Mar%20-%20Apr%20Grayscale%20-%200373.pdf 2015ねん5がつ26にち閲覧えつらん 
  5. ^ a b c d e f g h The Illustrated American. 13. Chicago, Illinois: The Illustrated American Publishing Company. (April 8, 1893). p. 427. https://books.google.co.jp/books?id=VSMgAQAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja 
  6. ^ a b c d e f g h i Homans, James E., ed (1918). The Cyclopedia of American Biography. The Press Association Compilers. pp. 299–300. https://books.google.com/books?id=gMEOs4na_yAC 
  7. ^ a b c d Proceedings of the New York State Bar Association. 17. Albany, New York: The New York State Bar Association. (1894). pp. 212–3. https://books.google.co.jp/books?id=Hk8dAQAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja 
  8. ^ Life & Letters”. The Walt Whitman Archive. 2014ねん8がつ7にち閲覧えつらん
  9. ^ Life & Letters”. The Walt Whitman Archive. 2014ねん8がつ7にち閲覧えつらん
  10. ^ “Death of Col. Elliot F. Shephard”. Reading Times. (1893ねん3がつ25にち). http://www.newspapers.com/clip/1464988/obituary_of_elliott_shephard/ 2014ねん12月27にち閲覧えつらん 
  11. ^ NYC Marriage & Death Notices 1857–1868”. The New York Society Library. 2014ねん8がつ5にち閲覧えつらん
  12. ^ a b c d e f g h i Federal Reserve Bank of Minneapolis Community Development Project. "Consumer Price Index (estimate) 1800–" (英語えいご). Federal Reserve Bank of Minneapolis. 2019ねん1がつ2にち閲覧えつらん
  13. ^ Page, Walter H., ed (1908). The World's Work. 15. New York, New York: Doubleday, Page & Company. p. 9870. OCLC 1770207. https://books.google.co.jp/books?id=qKA6AQAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja 
  14. ^ Tejirian, Eleanor H.; Simon, Reeva Spector (2012). Conflict, Conquest, and Conversion. New York, New York: Columbia University Press. pp. 147–8. ISBN 978-0-231-13864-2 
  15. ^ Jernazian, Ephraim K. (1990). Judgement Unto Truth: Witnessing the Armenian Genocide. New Brunswick, New Jersey: Transaction Publishers. p. 22. ISBN 978-1-4128-2702-7. LCCN 89-20662. https://books.google.co.jp/books?id=DkauYZWvbb8C&redir_esc=y&hl=ja 
  16. ^ Ulman, H. Charles (1872). Lawyers' Record and Official Register of the United States. New York, New York: A. S. Barnes & Co.. p. 766. https://books.google.com/books?id=54wzAQAAMAAJ 
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]