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エルヴィル・ラコヴィッチ ’(ボスニア語 ご :Elvir Laković 、1969年 ねん 3月15日 にち - )、通称 つうしょう ラカ (Laka)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ のロック 歌手 かしゅ である。
ユーゴスラビア社会 しゃかい 主義 しゅぎ 連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく ・ボスニア・ヘルツェゴビナ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく の東部 とうぶ ゴラジュデ (Goražde )に生 う まれ、音楽 おんがく 学校 がっこう に通 かよ ってギターを習 なら っていたが、学校 がっこう での教 おし え方 かた や音楽 おんがく に対 たい する見方 みかた が気 き に入 い らずに辞 や めた。また、セルビア のニシュ にて保健 ほけん 大学 だいがく に2年間 ねんかん 通 かよ っていたが、卒業 そつぎょう していない[ 1] 。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 ふんそう の間 あいだ 、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和 きょうわ 国軍 こくぐん に動員 どういん されていた。終戦 しゅうせん 後 ご は6年間 ねんかん にわたり、複数 ふくすう の国際 こくさい 的 てき な機関 きかん の下 した で働 はたら く。両親 りょうしん は故郷 こきょう のゴラジュデ に住 す んでおり、父親 ちちおや は法律 ほうりつ 家 か 、母親 ははおや は通信 つうしん 会社 かいしゃ に勤 つと めている[ 1] 。
音楽 おんがく 活動 かつどう を始 はじ めた頃 ころ 、ボスニアの有名 ゆうめい な民謡 みんよう をカフェなどで歌 うた っていたが、知名度 ちめいど は高 たか くなかった。1998年 ねん に最初 さいしょ の楽曲 がっきょく 「Malo sam se razočar'o」を録音 ろくおん して大 おお きな成功 せいこう を収 おさ め、それ以降 いこう 芸能 げいのう 界 かい での活動 かつどう を本格 ほんかく 的 てき に始 はじ めた。以降 いこう 、「Vještica」、「Mor'o」、「Piškila」など多 おお くの楽曲 がっきょく をリリースし、ボスニアでの人気 にんき を高 たか めていった。2003年 ねん 、楽曲 がっきょく 「Ja sam mor'o」がボスニアのダヴォリン音楽 おんがく 賞 しょう (Davorin)の年間 ねんかん 最優秀 さいゆうしゅう ロック曲 きょく を受賞 じゅしょう した。
2004年 ねん 、ラカはバンドを始 はじ めるためにアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のニューヨーク に移 うつ ったが、2年 ねん 半 はん の時 とき を費 つい やした後 のち 、成功 せいこう せず失意 しつい のうちにボスニアに帰国 きこく した。しかし、2007年 ねん にはボスニアでソロ・アルバム『Zec 』をリリースした。アルバム『Zec』はメナルト・レコーズ によって隣国 りんごく のクロアチア でもリリースされた。
ラカは、14歳 さい 年下 としした の妹 いもうと ミレナ(Mirela)とともに、2008年 ねん にベオグラード で行 おこな われたユーロビジョン・ソング・コンテスト の2008年 ねん 大会 たいかい にボスニア・ヘルツェゴビナ代表 だいひょう として出場 しゅつじょう し、「Pokušaj 」を歌 うた い、準決勝 じゅんけっしょう を通過 つうか し決勝 けっしょう 10位 い となった。また、同 どう 2009年 ねん 大会 たいかい では、ボスニア・ヘルツェゴビナの視聴 しちょう 者 しゃ 投票 とうひょう の結果 けっか をモスクワ の会場 かいじょう に伝 つた えるスポークスパーソンを務 つと めた。
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