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オチャーコフ攻囲こういせん (1788ねん)

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オチャーコフ攻囲こういせん (1788ねん)

「オチャーコフの勝利しょうり」(ヤヌアルィ・スホドルスキ、1853ねん
戦争せんそうだい戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1788ねん
場所ばしょオジオスマン帝国ていこくげんオチャーコフウクライナ
結果けっか:ロシア帝国ていこく勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ていこく オスマン帝国の旗 オスマン帝国ていこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
ロシア帝国の旗 グリゴリー・ポチョムキン

ロシア帝国の旗 アレクサンドル・スヴォーロフ

オスマン帝国の旗 ジェザイルリ・ガーズィ・ハサン・パシャ捕虜ほりょ
戦力せんりょく
不明ふめい 不明ふめい
損害そんがい
戦死せんし 956
戦傷せんしょう 1,829[1]
戦死せんし 30,000以上いじょう[2][3]
捕虜ほりょ 4,000以上いじょう,[1]

だい2オチャーコフ攻囲こういせん (オチャーコフこういせん、: Штурм Очакова) は、だい戦争せんそうなか重要じゅうよう戦闘せんとうひとつ。 トルコではオジのたたか: Özi Kuşatması)としてられる。

経過けいか[編集へんしゅう]

1788ねんグリゴリー・ポチョムキン公爵こうしゃくアレクサンドル・スヴォーロフ元帥げんすいひきいるロシア帝国ていこくぐんオスマン帝国ていこく提督ていとくジェザイルリ・ガーズィ・ハサン・パシャまもオチャーコフ侵攻しんこう。スヴォーロフはオチャーコフ急襲きゅうしゅう主張しゅちょうしたが、ポチョムキンはこれをれずまち包囲ほうい砲撃ほうげきくわえつつまちへの補給ほきゅうっていった。 さらにポチョムキンは兵力へいりょく温存おんぞんするため直接的ちょくせつてき戦闘せんとうけ、死傷ししょうしゃ最小限さいしょうげんさえようとしたが、これが臆病者おくびょうものとして告発こくはつされることになり、この攻囲こういせんつうじてロシアぐん司令しれいないでは急襲きゅうしゅうさくをめぐる議論ぎろんえなかった。

トルコぐん包囲ほうい突破とっぱなんこころみた。7月27にちイェニチェリ軍団ぐんだんコサック軍団ぐんだん攻撃こうげきして後退こうたいさせることに成功せいこうした。これにたいしスヴォーロフがみずか増援ぞうえん部隊ぶたいひきいイェニチェリをオチャーコフの城門じょうもんまでかえしたが、かれ自身じしん負傷ふしょうした。

ハサン・パシャはリマン集結しゅうけつしているトルコぐんからの援軍えんぐん期待きたいしていたが、この軍団ぐんだんドミトリー・セニャービン元帥げんすいロシア艦隊かんたいによる攻撃こうげきけたのち、オチャーコフへの援軍えんぐん派遣はけん中断ちゅうだんしてしまった。

オチャーコフの海戦かいせん[編集へんしゅう]

6月6にち帆船はんせん艦隊かんたい指揮しきゆだねられたジョン・ポール・ジョーンズは、砲艦ほうかん艦隊かんたいひきいてきたカール・ハインリヒ・フォン・ナッサウ・ジーゲンともにポチョムキンの指揮しきはいった。このとき陸軍りくぐん指揮しきはスヴォーロフにまかされていた。一方いっぽう、オチャーコフ港内こうないにはだい提督ていとくハサン・パシャのだい規模きぼ混成こんせい艦隊かんたいのこっていた。この艦隊かんたい編成へんせい正確せいかく記録きろくのこっていないが、ほとんどは40ちょうほどの鉄砲てっぽうといくらかの大砲たいほうせた武装ぶそう商船しょうせんであった。資料しりょうによりかんすう記録きろくもまちまちだが、イスタンブール4がつ8にち記録きろくされたものによれば、12せき戦艦せんかん、13せきフリゲート、2せきばくだんせん、2せきガレーせん、10せき砲艦ほうかん、6せきせん構成こうせいされていたという。30ちょう以上いじょう鉄砲てっぽうはいしたジーベックすくなからずあったとおもわれるが、おそらくこれはフリゲートとして計算けいさんされている。

経過けいか[編集へんしゅう]

3月19にち、ロシア艦隊かんたいヘルソンからスタニスラフみさき移動いどう4がつ21にち、ナッサウ・ジーゲンが戦艦せんかんフロティラとともヘルソン到着とうちゃく、24にちリマン移動いどう5月27にち、ロシアのコント・ヴォイノビッチセヴァストポリ艦隊かんたい出港しゅっこうするものの、悪天候あくてんこうにより帰投きとう。もし予定よていどお航行こうこうしていれば、はやいうちにオスマン艦隊かんたい遭遇そうぐうしていた可能かのうせいがある。 5月30にち、ジョン・ポール・ジョーンズ到着とうちゃくキンバン(オチャーコフにめんするみなみ海岸かいがん砂嘴さし)でのスヴォーロフによるしん砲台ほうだい完成かんせいいわうため6月6にちまで戦線せんせんはなれる。このあいだ、5月31にちにオスマン艦隊かんたい到着とうちゃくする。退却たいきゃく手間取てまどったロシアのナッサウ・ジーゲン艦隊かんたいぞくかんひとつが捕捉ほそくされ、艦長かんちょうのソーケンが自爆じばくしててた。

6月17にちすう小競こぜいののち、6月18にち午前ごぜん730ふん、オスマン艦隊かんたいの5せきのガレーせんと36せき小型こがたせん海岸かいがんのロシア艦隊かんたい攻撃こうげき当初とうしょロシアがわはガレーせん6せき、4せきはしけ、4せき小型こがた帆船はんせんしかいなかった。午前ごぜん10ごろ、オスマン帝国ていこくのハサン・パシャが参戦さんせん、しかしナッサウ・ジーゲンとジョーンズがぜん艦船かんせんみさきけてうごかし、反撃はんげきはじめた。午前ごぜん1030ふんになるとオスマン艦隊かんたいは2,3の艦船かんせん炎上えんじょうもしくは爆破ばくはされたため後退こうたいはじめた。午前ごぜん11ごろ戦闘せんとう停止ていし。ここでナッサウ・ジーゲン艦隊かんたい戦線せんせん復帰ふっきする。

6月27にち正午しょうご、オスマン艦隊かんたい風上かざかみ針路しんろりロシア艦隊かんたい背後はいごをとろうとしたが、午後ごご2旗艦きかん座礁ざしょう艦隊かんたい混乱こんらんおちいった。ロシア艦隊かんたいきた北西ほくせい針路しんろをとったが逆風ぎゃくふうのためよく6月28にち午前ごぜん2まで足止あしどめされた。トルコ艦隊かんたい座礁ざしょうせんげに成功せいこう隊列たいれつなおそうとこころみた。ロシア艦隊かんたいはこのすきき、午前ごぜん515ふん攻撃こうげき仕掛しかけた。トルコ艦隊かんたいだい旗艦きかん座礁ざしょうし、ロシア軍艦ぐんかんマリ・アレクサンドルもばくだんせんしずめられた。午前ごぜん930ふん、オスマン艦隊かんたい撤退てったい開始かいし。ハサン・パシャは軍艦ぐんかん完全かんぜん撤退てったいさせることをめたが、途中とちゅうで9せきものかんがキンバンの砂嘴さし座礁ざしょう翌朝よくあさ、ロシアの小型こがた艦隊かんたいがこれをかこみ、54ポンドほう搭載とうさい戦艦せんかん鹵獲ろかくしたほかは殲滅せんめつした。

トルコ艦隊かんたいは6がつ28にちまでに2せき戦艦せんかんうしない885にん捕虜ほりょとなったが、おそらく翌日よくじつまでにはさらに6せき戦艦せんかん、2せきのフリゲート、1せきばくだんかん、1せきのガレーせん、1せき輸送ゆそうせんおよび788にんとりことなった。ロシアがわ被害ひがい死者ししゃ18にん負傷ふしょうしゃ67にんかん喪失そうしつはわずかな帆船はんせんのみだった。

7がつ1にち、オチャーコフの艦隊かんたい救出きゅうしゅつするべく新手あらてのトルコ艦隊かんたいがベレザーニとう付近ふきんあらわれた。しかしこの艦隊かんたい城砦じょうさいちかづこうとはせず、7がつ9にちにフィドニシのたたかいから転戦てんせんしてたセヴァストポリ艦隊かんたい遭遇そうぐうした。

この、オチャーコフでもロシア陸軍りくぐん攻撃こうげきおこなわれ、ロシア艦隊かんたいもトルコ艦隊かんたい砲撃ほうげき仕掛しかけた。このときのロシア艦隊かんたいは7せきのガレーせん、7せき帆船はんせん、7つのうわ砲台ほうだい、7そうの「装甲そうこうボート」、22せき小型こがた砲艦ほうかんだった。トルコ艦隊かんたいは2せきの20ポンドほうジーベックもしくはフリゲート、5せきのガレーせん、1せきのキランギッチ(ガレーせんによく戦闘せんとうせん)、1せきの16ポンドほうブリガンティン、1せきばくだんせん、2せき小型こがた砲艦ほうかんだった。

午前ごぜん315ふん砲戦ほうせん開始かいし。トルコ艦隊かんたいの2せき砲艦ほうかんと1せきのガレーせん拿捕だほされ、のこりは炎上えんじょう沈没ちんぼつした。戦闘せんとうは930ふんには終了しゅうりょうし、ロシアがわ被害ひがいは24にん死者ししゃと80にん負傷ふしょうしゃのみだった。

終局しゅうきょく[編集へんしゅう]

疫病えきびょうさむさにより、りょうぐんともに状況じょうきょう悪化あっかしていた。結局けっきょく、ポチョムキンはスヴォーロフの強襲きょうしゅう作戦さくせん採用さいようした。12月6にちグレゴリウスれき12月17にち)、ロシアぐん夜襲やしゅうをかけハサン・パシャの宮殿きゅうでん占拠せんきょ、オチャーコフのまち開城かいじょうさせた。ハサン・パシャをふくむ4,000にん以上いじょうのトルコへい捕虜ほりょとなったが、こののち掃討そうとうせん市街しがい守備しゅびたいやく2まんにんころされた。この作戦さくせんにおけるロシアがわ死者ししゃは956にん戦傷せんしょうしゃは1,829にんだった。n.

ガヴリーラ・デルジャーヴィンはこの勝利しょうり祝福しゅくふくするを、ジュゼッペ・サルティ聖歌せいかいている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b Duffy C. Russia's Military Way to the West: Origins and Nature of Russian Military Power 1700-1800. Routledge & Kegan Paul Books Ltd. 1985. P. 187
  2. ^ うちやく20,000は決着けっちゃく市街しがい掃討そうとうせん死亡しぼう
  3. ^ Jaques T. Dictionary of Battles and Sieges: F-O. Greenwood Publishing Group. 2007. P. 746

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]