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オテル・ド・ブルゴーニュ

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ブルゴーニュ役者やくしゃたち
みぎから3にん:グロ=ギヨーム
4にん:ゴーチエ=ガルギーユ
5にん:チュルリュパン

オテル・ド・ブルゴーニュふつ: Théâtre de l'Hôtel de Bourgogne)は、フランスにおいて、17世紀せいきまで存在そんざいした劇場げきじょう、ならびにそこを拠点きょてんとする劇団げきだんパリ最初さいしょ常設じょうせつ劇団げきだんであり、コメディ・フランセーズ前身ぜんしんでもある。1548ねんから存在そんざいする劇場げきじょうであったが、1629ねんルイ13せいから認可にんかけて正式せいしき王立おうりつ劇場げきじょう劇団げきだんとなった。

17世紀せいき初頭しょとう公演こうえん事情じじょう[編集へんしゅう]

ブルゴーニュ観劇かんげき料金りょうきんは、平土間ひらどませきなら5ソル桟敷さじきせきなら10ソルとまっていた。天井てんじょう桟敷さじき階段かいだんせきなどもあって、すべてをわせればおよそ1500にんほど収容しゅうよう可能かのうであったが、そのほとんどは平土間ひらどませきであった[1]

ところが、料金りょうきんをまともにはらわず平気へいき無料むりょう入場にゅうじょうをするような連中れんちゅう数多かずおおくいた。平土間ひらどませき学生がくせい職人しょくにん小姓こしょう従僕じゅうぼく軍人ぐんじんなど、いずれも行儀ぎょうぎのよくない面倒めんどう連中れんちゅうばかりで占領せんりょうされており、スリついぎ、泥棒どろぼう娼婦しょうふなどが相手あいてさがしてうろついている有様ありさまだった。この連中れんちゅうはあちこちで博打ばくちつし、勝手かってものっているものもいれば、おおきなこえ怒鳴どならしたり、喧嘩けんか決闘けっとうころはじめるものもいる。とにかく厄介やっかい連中れんちゅうであった。この時代じだい照明しょうめいえばオイルランプ、ろうそく程度ていどのもので、しかもこれらは結構けっこう値段ねだんるためにかなりひかえめに使つかわれていた。そのため劇場げきじょうないはとにかくくらく、まえせきにいなければ満足まんぞく役者やくしゃ姿すがたさえられない。照明しょうめいがこのような状況じょうきょうだから、スリや泥棒どろぼうだい活躍かつやくしたのであった[1]

桟敷さじきせきおも貴族きぞく中心ちゅうしんとなってすわっていたせきであったが、ランブイエ侯爵こうしゃく夫人ふじん宮廷きゅうていのあまりのしなわるさに失望しつぼうして、そこからサロンまれたことからもわかるように、当時とうじ貴族きぞく大変たいへんしなわる連中れんちゅうで、こちらも平土間ひらどませきおなじようなものだった。品行ひんこうめんでは市民しみんわらないくせに、かれらは貴族きぞくという特権とっけんりかざし、「料金りょうきんはらうのはしも賤のやからのすること」などとかんがえていたので、こちらも料金りょうきんなどはらうつもりは最初さいしょからないのであった。このような悪習あくしゅう根強ねづよのこっていたようで、17世紀せいき後半こうはん、1684ねんになっても「資格しかく身分みぶんわず、無料むりょう劇場げきじょう入場にゅうじょうすることを厳禁げんきんする」むね勅命ちょくめいされており、こののちかえはっせられている。1684ねんえば、ルイ14せいによって絶対ぜったい王政おうせい完成かんせいされてひさしいころだが、それでもこのような常識じょうしきてき勅命ちょくめいくだされているところをると、ユグノー戦争せんそう傷跡きずあと生々なまなましくのこっていた17世紀せいき初頭しょとうのフランス混乱こんらん人々ひとびと風俗ふうぞく品行ひんこうなどしてるべしである[2][3]

観客かんきゃく品行ひんこう下劣げれつなら、その舞台ぶたい役者やくしゃたちもおなじようなもので、世間せけんけっして好意こういてきではなかった。タルマン・デ・レオーによるこの時代じだい俳優はいゆうかんするひょうのこっているが、それによればこの時代じだい役者やくしゃはほとんど素行そこうわるく、夫妻ふさいそろって性的せいてき放縦ほうしょうであり、とくおんなたちはおとこなら誰彼だれかれかまわず相手あいてにして、劇団げきだん役者やくしゃとさえ関係かんけいつことさえあったという。もちろんこの時代じだいにも、ゴーチエ=ガルギーユのようにまじめな生活せいかつおくった役者やくしゃたにはちがいないが、しかし宮廷きゅうてい貴族きぞく先述せんじゅつしたように品行ひんこう下劣げれつであったのだから、なにみだっていたのは役者やくしゃたちだけではなかった[4]

このようにろくでもない連中れんちゅうばかりがあつまる場所ばしょであったのだから、オテル・ド・ブルゴーニュ劇場げきじょうが「あく巣窟そうくつ」などとわれたのも無理むりもないことであった。こうした評判ひょうばん影響えいきょうされて、芝居しばい興味きょうみのない人々ひとびとが、役者やくしゃきびしいけるようになるなど、悪循環あくじゅんかんはままりんでいたのである[5]

歴史れきし[編集へんしゅう]

1548ねん中世ちゅうせい宗教しゅうきょうげき上演じょうえん団体だんたいである受難じゅなんげき組合くみあい( Confréres de la Passion )によって設立せつりつされた。ブルゴーニュていという貴族きぞく邸宅ていたくにあったことが、その名前なまえ由来ゆらいである。この劇場げきじょうではもっぱ受難じゅなんげき組合くみあいせい史劇しげき(聖書せいしょ題材だいざいとしたげき)を上演じょうえんしていたが、その公演こうえん内容ないようがあまりに低俗ていぞくであるという理由りゆうで、設立せつりつおなねん上演じょうえんきんじられてしまった。受難じゅなんげき組合くみあいはパリでの興行こうぎょうけん独占どくせんしていたので、劇場げきじょうまで自身じしん所有しょゆうすることでさらにその立場たちば絶対ぜったいてきなものとなるはずであったが、この上演じょうえん禁止きんしでさっそく出鼻でばなをくじかれてしまった。上演じょうえんする演目えんもくこまった組合くみあいは、興行こうぎょう成績せいせきちていったこともあって、この劇場げきじょう賃貸ちんたいしてなんとか糊口ここうをしのぐことにしたのであった[6][7]

ヴァルラン・ル・コント[編集へんしゅう]

17世紀せいき初頭しょとうになっても、パリの常設じょうせつ劇場げきじょうはブルゴーニュ劇場げきじょうだけであった。そのため、パリで演劇えんげき上演じょうえんしたければ、ブルゴーニュ劇場げきじょうりるほか選択肢せんたくし存在そんざいしなかった。とくにブルゴーニュ劇場げきじょう頻繁ひんぱん利用りようしていた劇団げきだんが、ヴァルラン・ル・コント(Troupe de Valleran Le Conte)である。この劇団げきだん当時とうじ有名ゆうめいではあったが、どこからも庇護ひごけておらず、経済けいざいてきにも余裕よゆうがある劇団げきだんではなかったので、ブルゴーニュ劇場げきじょうりるほか仕方しかたがなかったのだとおもわれる[8]

この劇団げきだん座長ざちょうであるヴァルラン・ル・コントという役者やくしゃについてはよくわからないが、1592ねんころにはすでに役者やくしゃとして地方ちほう巡業じゅんぎょうおこなっていたようである。1598ねん座長ざちょうとなり、ブルゴーニュ劇場げきじょうアレクサンドル・アルディなどの悲劇ひげき上演じょうえんこころみるも、無残むざん失敗しっぱいしてしまった。このころ観客かんきゃくたちは先述せんじゅつしたように品性ひんせい下劣げれつで、「悲劇ひげき」などという高尚こうしょうなものは理解りかいできず、もっぱら笑劇しょうげき刺激しげきてき場面ばめんもとめていたからである。ふたた地方ちほう巡業じゅんぎょうもどり、1606ねんにパリにもどってきて、ブルゴーニュ劇場げきじょう公演こうえんおこなっている。1607ねんにヴァルランはあらたな劇団げきだんげたようだが、そのなかにラシェル・トレポー(Rachel Trepèau)なる女優じょゆうがいた。この時代じだいは「女優じょゆう」などというものは存在そんざいせず、女性じょせいやくでも男優だんゆうえんじるのが普通ふつうであったから、このトレポーなる女性じょせいはフランスの女優じょゆう草分くさわてき存在そんざいである[9][5]

このあらたに組織そしきされた劇団げきだんは、1609ねんから10ねんにかけて、ブルゴーニュ劇場げきじょう公演こうえんしたとの記録きろくのこっている。このさい契約けいやくしょには、のちに「王立おうりつ劇団げきだん」で大人気おとなげはくすことになるゴーチエ=ガルギーユやグロ=ギヨームの名前なまえられるが、かれらの名前なまえは1611ねん9がつにはえてしまう。そのわりにアレクサンドル・アルディてくるのだが、これらからわかるように、当時とうじ劇団げきだん役者やくしゃはほとんどたんねん契約けいやくむすんでおり、人材じんざい流動りゅうどうせいきわめてはげしいものであった。劇団げきだんあいだ競争きょうそうもこのあたりから激化げきかしていったようだが、ヴァルラン・ル・コント相変あいかわらず経済けいざいてき困窮こんきゅうしており、1611ねんにはブルゴーニュ劇場げきじょう一部いちぶ又貸またがししている。おなじころ、一座いちざは「王立おうりつ劇団げきだん(Troupe royale des comédiens)」としょうはじめた[10]

オテル・ド・ブルゴーニュ王立おうりつ劇団げきだん[編集へんしゅう]

上記じょうきの「王立おうりつ劇団げきだん」が、1629ねん正式せいしき国王こくおう支援しえんけて「オテル・ド・ブルゴーニュ王立おうりつ劇団げきだん」と名乗なのることをゆるされ、ブルゴーニュ劇場げきじょう恒常こうじょうてき使用しようできる契約けいやく締結ていけつした。1635ねんにグロ=ギヨームがくなったのちは、ベルローズひきいる一座いちざ王立おうりつ劇団げきだんぎ、1647ねんにはマレーからかれてきたフロリドールが座長ざちょうとなって、1680ねんコメディ・フランセーズ結成けっせいいたるまで、王立おうりつ劇団げきだん名乗なのつづけた。この劇団げきだん国王こくおうから強力きょうりょく庇護ひご獲得かくとくしたうえに、かなりの金額きんがく年金ねんきんけており、この劇団げきだんだけが公式こうしき王立おうりつ劇場げきじょう劇団げきだんえる状況じょうきょうにあった[11]

国立こくりつ劇場げきじょうコメディ・フランセーズ創設そうせつ[編集へんしゅう]

1670年代ねんだいになると、劇団げきだん劇場げきじょうはパリに2つしか存在そんざいしなかった。オテル・ド・ブルゴーニュ劇場げきじょうと、モリエール劇団げきだんながれをむゲネゴーである。ゲネゴー人気にんきのある劇団げきだんで、次第しだいにオテル・ド・ブルゴーニュ王立おうりつ劇団げきだん圧迫あっぱくはじめたため、1680ねん10がつ国王こくおう命令めいれいによって正式せいしきにこれら2つの劇団げきだん合併がっぺいし、国立こくりつ劇場げきじょうコメディ・フランセーズが誕生たんじょうした。以後いごコメディ・フランセーズは「フランスじん俳優はいゆう協会きょうかい」という組織そしきとなり、各々おのおの役者やくしゃ配当はいとう利益りえきはこれまでとはくらものにならないほどにえ、年金ねんきん制度せいど確立かくりつされるなど、国立こくりつ劇場げきじょうとしての基本きほん組織そしきととのったが、同時どうじに1680ねん以後いごされたおうれいによって、劇団げきだん俳優はいゆうたちはそれまでにっていた自由じゆううしなった。毎日まいにちちがった演目えんもく公演こうえんひらかなければならなくなり、演目えんもく基本きほんはフランスじん作家さっかとすることが義務付ぎむづけられた[12]

おも劇団げきだんいん[編集へんしゅう]

芸名げいめい 本名ほんみょう 在籍ざいせき期間きかん 備考びこう
座長ざちょう
グロ=ギヨーム
Robert Guèrin 1629-1635ねん ゆきだるまのようにはら白装束しろしょうぞく姿すがた特徴とくちょうてき役者やくしゃである。かおしろって舞台ぶたいっていたが、これは中世ちゅうせい以来いらい伝統でんとうのっとっているとも、コンメディア・デッラルテ影響えいきょうけているともかんがえられる。ブルゴーニュ劇場げきじょう公演こうえんおこなったイタリアじん役者やくしゃだん名簿めいぼなかに、コンメディア・デッラルテに登場とうじょうする鈍重どんじゅう下僕げぼくで、ピエロ原型げんけいかんがえられているペドロリーノの名前なまえられるので、グロ=ギヨームの姿すがたもそれに影響えいきょうけている可能かのうせいがある。下僕げぼくだけでなく、女形おんながたえんじて下僕げぼくつまえんじることもあったらしいが、それらのやくつうそこする特徴とくちょうは「鈍重どんじゅう」である。鈍重どんじゅう貴族きぞくえんじて、アンリ4せい爆笑ばくしょうさせたこともあるという。役者やくしゃとしては優秀ゆうしゅうであったが、人物じんぶつてきにはきわめて問題もんだいのある人物じんぶつだったらしい。えずさけびるほどんでおり、機嫌きげんいのはさけんでいるときだけ、しゃべかた乱暴らんぼうで、そのしん低劣ていれつ卑屈ひくつであったとつたえられている。ゴーチエ=ガルギーユ、チュルリュパンとともに笑劇しょうげきトリオとして有名ゆうめいであった[13]
ベルローズ
Pierre Le Messier 1635-1647ねん 役者やくしゃとしてのデビューは、ヴァルラン・ル・コントで、どう劇団げきだんでしばらく修業しゅうぎょうんだらしい。ヴァルラン・ル・コントの死後しご一座いちざ座長ざちょう昇格しょうかくし、1620ねんにはアレクサンドル・アルディ座付ざつ作家さっかとする契約けいやくわしている。1622ねんにはグロ=ギヨームが座長ざちょうつとめるオテル・ド・ブルゴーニュ王立おうりつ劇団げきだん正式せいしき加入かにゅうし、かれ死後しご、こちらでも座長ざちょうとなった。かれ座長ざちょうとしての能力のうりょく卓越たくえつしており、アルディ、ジャン・ロトルージャン・メレ新進しんしん作家さっからの作品さくひん上演じょうえんできるように仕向しむけ、見事みごと成功せいこうしている。1647ねんにマレーから移籍いせきしてきたフロリドールに座長ざちょうしょくゆずったが、ぬまでこの劇団げきだん在籍ざいせきつづけた。同年どうねん、ベルローズの努力どりょくむすび、劇団げきだんコルネイユ作品さくひん上演じょうえんけん獲得かくとくした。かれ自身じしんもコルネイユの悲劇ひげき主役しゅやくえんじ、その優雅ゆうが姿すがた人気にんき獲得かくとくして、フランス最初さいしょ偉大いだい悲劇ひげき役者やくしゃとまでわれるようになった。こうしたげき作家さっかたちの悲劇ひげきえんじた経験けいけんが、後々あとあとラシーヌの悲劇ひげき上演じょうえんするさいにもきることとなった。オテル・ド・ブルゴーニュ悲劇ひげき得意とくいとししたのはかれ座長ざちょうであったころからだが、これはベルローズがかなりの策士さくしで、悲劇ひげき上演じょうえんけん次々つぎつぎ獲得かくとくしていったからかもしれないし、たん悲劇ひげき役者やくしゃあつめる才能さいのうけていたからかもしれない[14]
フロリドール
Josias de Soulas 1647-1671ねん 牧師ぼくし息子むすこで、正当せいとう貴族きぞくいえそだった。はじめ軍人ぐんじんであったが、やがて役者やくしゃてんじた。1638ねんはじめにマレーはいり、同時どうじ一座いちざ加入かにゅうし、のち座長ざちょうとなった。コルネイユ作品さくひん重要じゅうようやくえんじて人気にんき獲得かくとくし、中心ちゅうしんてき存在そんざい役者やくしゃにまでなった。1647ねん、その人気にんきにあやかろうとしたのか、おうれいによるものであったともわれるが、マレーからかれてコルネイユの作品さくひん上演じょうえんけんきでオテル・ド・ブルゴーニュ移籍いせきし、座長ざちょう就任しゅうにんした。ブルゴーニュではコルネイユはもちろん、ラシーヌ悲劇ひげき大役たいやくえんじるなど、生涯しょうがい舞台ぶたいった役者やくしゃであったが、1671ねん公演こうえんえて数日すうじつ逝去せいきょした。堂々どうどうとして魅力みりょくてきなその姿すがた才能さいのう演技えんぎ観客かんきゃく注目ちゅうもくあつつづけた。17世紀せいき当時とうじ、もっとも尊敬そんけいされた役者やくしゃであり、2つの劇団げきだん運営うんえいにトップとしてかかわり、両方りょうほうとも成功せいこうさせていることから、座長ざちょうとしての能力のうりょく当代とうだい随一ずいいちであったとわれる。国王こくおうかれしみない寵愛ちょうあいそそいでおり、役者やくしゃ身分みぶんであっても貴族きぞく特権とっけんうしなわないとする裁決さいけつ例外れいがいてき承認しょうにんしているほどであった[15]
団員だんいん
ブリュスカンビル
? 1609ねんごろ 本名ほんみょうなま没年ぼつねんもわからないが、ブリュスカンビルの名前なまえ前口上まえこうじょうをいくつもいていたので、名前なまえのこっている。笑劇しょうげき役者やくしゃであったが、喜劇きげきめいとしてデローリエ(Deslauriers)なる名前なまえっていたようだ[16]
ゴーチエ=ガルギーユ
Hugues Guèru ?-1633ねん 1620年代ねんだいにオテル・ド・ブルゴーニュで、笑劇しょうげきトリオとしてグロ=ギヨーム、チュルリュパンとともに人気にんきをとった老人ろうじんやく得意とくいとした俳優はいゆうであったが、下僕げぼくやく博士はかせやく教師きょうしやくなど幅広はばひろえんじたという。非常ひじょうやくづくりに熱心ねっしん役者やくしゃで、当時とうじきわめて放縦ほうしょう俳優はいゆうたちとはちがって、まじめに規律きりつただしい生活せいかつおくったという。以下いかどう時代じだいじんによるひょうである[17]:
かれ全身ぜんしんわらいをさそった。古今ここん役者やくしゃでこのおとこほど無造作むぞうさえて完成かんせいされたものはいなかった。(中略ちゅうりゃく)小唄こうたうたいだすや、普通ふつううたならなんのとりえのないものでも、かれくちにかかれば別物べつものになってしまう。かれ実力じつりょく以上いじょうげい発揮はっきしたとっても過言かごんではなかろう。かれ小唄こうた滑稽こっけい至極しごく節回ふしまわしをつけてうたったので、大勢おおぜいきゃくかれだけを目当めあてにオテル・ド・ブルゴーニュあしはこんだのである。
ギヨ=ゴルジュ
Bertran Hardouin de Saint-Jacques 1634-1642ねん 父親ちちおやはパリの慈善じぜん病院びょういん医者いしゃ。1634ねんにゴーチエ=ガルギーユの後釜あとがまとして加入かにゅうした。滑稽こっけい医者いしゃやく得意とくいとしたという。1642ねんにオテル・ド・ブルゴーニュ引退いんたいしたのち、1648ねんくなった。どう時代じだいじんひょうがある[18]:
かれ大男おおおとこいろくろ、ひどくみにく容貌ようぼうだった。おおきなかつらをかぶり、くぼみ、だい酒飲さけのみのはなだった。さるかおってもいいくらいで、舞台ぶたいじょう仮面かめんなどける必要ひつようはなかったが、それでもえず仮面かめんけてえんじていたのである。
ジョドレ
Julien Bedeau 1635-1641ねん マレー創設そうせつメンバーであったが、すぐにオテル・ド・ブルゴーニュ移籍いせきした。1641ねんには同座どうざはなれ、ふたたびマレー移籍いせきして中心ちゅうしん役者やくしゃとして活躍かつやくしている。1659ねんにはモリエール劇団げきだん加入かにゅうし、『才女さいじょ気取きど』で重要じゅうようやくえんじている[19]
ボーシャトーじょう
Madeleine Du Pouget 1632~35、1642~1674ねん 1632ねんから所属しょぞくしていたが、おっとのボーシャトーとともにマレーうつり、コルネイユの『ル・シッド』に出演しゅつえんした。1642ねんからふたた復帰ふっきし、劇界げきかい引退いんたいまで在籍ざいせきしていた。
チュルリュパン
Henri Legrand ?-1637ねん 老人ろうじんやく得意とくいとしたゴーチエ=ガルギーユ、しろりの道化どうけやく得意とくいとしたグロ=ギヨームとならんで、笑劇しょうげきトリオとして人気にんきはくしたうちの一人ひとりかれ下僕げぼくやく得意とくいとしたようだが、かれらが共演きょうえんした笑劇しょうげき作品さくひん現存げんそんしていないので、はっきりとは確定かくていしていない。現存げんそんする作品さくひんから推定すいていするに、なく狡猾こうかつ下僕げぼく若者わかものこいをもたすけるが当然とうぜん自分じぶんにも利益りえきになるようにまわ策士さくしというのが、かれえんじる下僕げぼく特徴とくちょうであるとおもわれる[20]:
赤毛あかげであったがなかなかの美男びなんで、スタイルもよく、顔色かおいろはつややかだった。(中略ちゅうりゃく)チュルリュパンほど笑劇しょうげきたくみにたてて、えんじ、あざやかにまわものはいなかった。その奇抜きばつ警句けいく数々かずかずは、才気さいきいきおい、判断はんだんりょくちていた。一言ひとことうと、少々しょうしょう無邪気むじゃきさにけたところはあるにしても、かれ比肩ひけんすべき存在そんざいにいなかったのである。
モンフルーリ
Zacharie Jacob 1638-1667ねん 役者やくしゃ息子むすこまれ。1638ねんごろオテル・ド・ブルゴーニュ加入かにゅうした。堂々どうどうとした体躯たいく、よくとおこえ特徴とくちょうてきで、すうじゅうぎょうにもわたちょう台詞せりふをよどみなく披露ひろうし、熱烈ねつれつうたいあげるのが得意とくいであったという。その容姿ようし演技えんぎはモリエールの戯曲ぎきょくヴェルサイユ即興そっきょうげき』、エドモン・ロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』では揶揄やゆ対象たいしょうとなっている。このように、生前せいぜんから様々さまざま攻撃こうげきけていたようだが、宰相さいしょうリシュリューかれたか評価ひょうかしていたし、どう時代じだいじんによる以下いかのようなひょうがある:
喜劇きげき悲劇ひげきとあらゆる人物じんぶつ表現ひょうげんにおいて、かれほどすぐれた役者やくしゃることはまれである。演劇えんげきがこれほどかがやかしいものになったのは、ひとえにモンフルーリのおかげである。
このように、たか評価ひょうか獲得かくとくしていた役者やくしゃであった。英雄えいゆう国王こくおうなど、激情げきじょうられて行動こうどうする人物じんぶつえんじることがおおく、それで人気にんき獲得かくとくしていた。ラシーヌの悲劇ひげき『アンドロマック』をえんじている最中さいちゅうに、やくはいみすぎて、そのまま舞台ぶたいたおれてくなったという。げき作家さっかとしても活動かつどうした形跡けいせきがある[21]
バロンちち
André Boyron 1641-1655ねん 1635ねんからマレー所属しょぞくし、1641ねん加入かにゅうした。事故死じこししたようである[22]。モリエールの愛弟子まなでしげき作家さっかとして有名ゆうめいミシェル・バロンちち
フィリパン
通称つうしょうド・ヴィリエ
Claude Deschamps 1642-1670ねん 1624ねん、マレー前身ぜんしん劇団げきだんから役者やくしゃ生活せいかつをスタートさせた。1634ねんのマレー創設そうせつ同座どうざ所属しょぞくしていたが、1642ねんにオテル・ド・ブルゴーニュ移籍いせき、1670ねん引退いんたいするまで所属しょぞくつづけた。役者やくしゃだけでなく、げき作家さっかとしても活動かつどうしていたようで、モリエールの戯曲ぎきょくドン・ジュアン』に影響えいきょうあたえた作品さくひん制作せいさくしている。滑稽こっけい侯爵こうしゃくんだくれ、えらぶったおとこなどをえんじさせればみぎものはいなかったとのひょうのこっており、小柄こがらで、滑稽こっけい脇役わきやくえんじることを得意とくいとしていたようだ。んだかろやかなこえぬしで、ささやかな演技えんぎりょくぬしであったという[23]
デズィエじょう
Alix Faviot 1658-1670ねん ピエール・コルネイユの悲劇ひげき『ソフォニスプ』では主役しゅやくえんじ、ラシーヌの『アンドロマック』、『ブリタニキュス』の配役はいやくひょうにも名前なまええる。美人びじんうほどではなかったが、感情かんじょう表現ひょうげん気取きどったところがなく、すぐれていたという[24]
レーモン・ポワッソン
通称つうしょうベルロッシュ
Raymond Poisson dit Belleroche 1660-1685ねん まずしい数学すうがくしゃとしてまれたが、1654ねんごろ役者やくしゃとして活動かつどうはじめた。はじめはみなみフランス巡業じゅんぎょうちゅう劇団げきだん加入かにゅうし、1659ねんにボルドー滞在たいざいちゅう国王こくおうルイ14せいまえ御前ごぜん公演こうえんおこなってみとめられ、1660ねん4がつにオテル・ド・ブルゴーニュ入団にゅうだんした。ちょうどパリではモリエール劇団げきだんちからはじめており、ブルゴーニュ脅威きょういとなっていたころであったので、かれ加入かにゅう歓迎かんげいされたようである。モリエール死後しごのフランス演劇えんげきかい背負せおってつほどの存在そんざいであり、1685ねんまで役者やくしゃげき作家さっかとして活躍かつやくした。コメディ・フランセーズ席次せきじ20ばんかれえんじたクリスパン(Crispin)はスペインに起源きげん下僕げぼくのタイプであることから、はじめは臆病おくびょうだいいという特徴とくちょうゆうしていたようだが、フランスにおいて次第しだいにスペインぶつ人気にんきうしなうにつれて、狡猾こうかつ策士さくしへと変貌へんぼうげていった。1685ねん引退いんたいするまで、このクリスパンをえんつづけたという[25]。その一族いちぞくによってがれ、よん世代せだいわたって1753ねんまでえんじられた。おおきなくちからはっせられる意味いみ不明ふめいかつ滑稽こっけい早口はやくち言葉ことば、モゴモゴしゃべるのがかれのお家芸いえげいであったという。このげいによってしばしば、観客かんきゃくたちははらかかえて大笑おおわらいしたというが、役者やくしゃなにってるのかわからなくともわらいがまれたというのは、姿すがたがたうごきで十分じゅうぶん面白おもしろいということであり、かれ喜劇きげき役者やくしゃとしての能力のうりょくたかさをしめしている。かれ喜劇きげきかい重要じゅうよう位置いちめていたことは、どう時代じだいじん証言しょうげんがある[26]:
モリエールはポワッソンをおそれるべきライバルと做していたが、かれけられる称賛しょうさんこえすすんでみみかたむけないほど狭量きょうりょう人物じんぶつではなかった。わたしかくか、モリエールがこんなことをうのをいたおぼえがある。それはモリエールが、リュリしゃべっていたときにポワッソンをひょうして、あの偉大いだい喜劇きげき役者やくしゃ自然しぜん演技えんぎりょくけられるなら、こののいかなるものとえてもいというような表現ひょうげんであった。
マルキーズ・デュ・パルク
Marquise-Thérèse de Gorla 1667-1668ねん 元々もともとモリエール劇団げきだん看板かんばん女優じょゆうであり、モリエールと苦楽くらくともにしてきた役者やくしゃ一人ひとりでもある。きわめてはなやかな美貌びぼうぬしであり、モリエールをはじめ、コルネイユ、ラシーヌなど、古典こてん主義しゅぎさんだい作家さっかのこころをきつけたようである。『アレクサンドル大王だいおう』の上演じょうえんめぐって、ラシーヌがモリエールを裏切うらぎったことにともなって、彼女かのじょもオテル・ド・ブルゴーニュ移籍いせきした。ラシーヌと恋人こいびと関係かんけいにあり、自分じぶん作品さくひんやくえんじさせるためにラシーヌが彼女かのじょいたのである。ラシーヌのつぎさく『アンドロマック』では主役しゅやくえんじ、だい成功せいこうおさめた。ラシーヌは彼女かのじょのためにアンドロマックやくつくったといわれている。役者やくしゃとしての絶頂ぜっちょうむかえながらも、その翌年よくねん急死きゅうしした。堕胎だたい失敗しっぱいによる失血死しっけつしであったという。ラシーヌは彼女かのじょ葬儀そうぎでは「なかんだ状態じょうたいであった」という。死後しご11ねん経過けいかした1679ねんふたた世間せけん人々ひとびと彼女かのじょおもすこととなった。同年どうねん発生はっせいしたくろミサ事件じけん中心ちゅうしん人物じんぶつとして逮捕たいほされたラ・ヴォワザンが「マルキーズはラシーヌによって毒殺どくさつされた」と、とんでもない供述きょうじゅつをしはじめたからである。当時とうじ政府せいふ当局とうきょくしゃたちがこの証言しょうげん重大じゅうだいしたおかげで、すでに演劇えんげきかいから引退いんたいしていたラシーヌは裁判所さいばんしょ召喚しょうかんされ、特別とくべつ審問しんもんされるなど、逮捕たいほ寸前すんぜんにまでめられた。どのように逮捕たいほ回避かいひしたかはつたわっていないが、おそらくルイ14せい直接ちょくせつうったえたものとおもわれる。結局けっきょく、この「毒殺どくさつ嫌疑けんぎ事件じけん」は解決かいけつされないまま迷宮めいきゅうりとなった[27]
デンヌボーじょう
Françoise Jacob 1670-1684ねん モンフルーリのむすめ役者やくしゃであるデンヌボーと結婚けっこんし、マレー修業しゅうぎょうんだのちに、1670ねん加入かにゅうした。1684ねんにコメディ・フランセーズからされて、翌年よくねん引退いんたいした[28]
シャンメレじょう
Marie Desmares 1670-1679ねん マルキーズ・デュ・パルクのあなめるべく、主役しゅやくつとめる女優じょゆうとして加入かにゅうしたのが彼女かのじょである。17世紀せいきにおけるもっと有名ゆうめい女優じょゆう一人ひとり。1666ねん故郷こきょうルーアンで、シャンメレと結婚けっこんし、地方ちほう劇団げきだんやマレー修業しゅうぎょうんだのちにオテル・ド・ブルゴーニュ加入かにゅうした。『アンドロマック』再演さいえんさいの、彼女かのじょ演技えんぎとくこえ魅力みりょくにラシーヌはかれたらしく、それ以後いごのラシーヌの悲劇ひげき作品さくひんではすべ主役しゅやくつとめ、だい成功せいこうおさめている。デュ・パルクのときと同様どうようにラシーヌが仔細しさいわたって演技えんぎ指導しどう彼女かのじょにしたらしいが、女優じょゆうとしての評価ひょうかは、どう時代じだいじん証言しょうげんちがっているためによくわからない。ラシーヌが劇壇げきだんから引退いんたいすると、彼女かのじょ二流にりゅうげき作家さっか作品さくひん出演しゅつえんしなければならなくなり、彼女かのじょあじえてしまった。1679ねんにゲネゴーうつったが、ゲネゴーとオテル・ド・ブルゴーニュ合併がっぺいによって1680ねんにコメディ・フランセーズが創設そうせつされた。コメディ・フランセーズのこけらとし演目えんもくでは、主役しゅやくえんじている。すうげつまえまで華々はなばなしく活躍かつやくしたという[29]
ミシェル・バロン
Michel Baron 1673-1722ねん 1670ねんに、まだ未成年みせいねんであったがモリエール劇団げきだん加入かにゅうした。1673ねん2がつのモリエール死去しきょさいには、かれ介抱かいほうしたとつたわっている。モリエールの死後しごすぐにオテル・ド・ブルゴーニュ移籍いせきし、1680ねんからはコメディ・フランセーズに所属しょぞく重要じゅうようやくえんじてだい評判ひょうばんをとったという。一時いちじ引退いんたいするが、1720ねんふたた復帰ふっきし、主役しゅやくえんじている[30][31]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 戸口とぐち, みん也 (1976), 芝居しばいとその観客かんきゃく : 17世紀せいき初期しょきのパリにおける,フランス文学ぶんがく論集ろんしゅう (11), 8-15, 日本にっぽんフランスフランス文学ぶんがくかい 
  • 研究けんきゅうかい, 「じゅうなな世紀せいき演劇えんげきむ」へん (2011), フランスじゅうなな世紀せいきげき作家さっかたち (中央大学ちゅうおうだいがく人文じんぶん科学かがく研究所けんきゅうじょ研究けんきゅう叢書そうしょ 52), 中央大学ちゅうおうだいがく出版しゅっぱん 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 戸口とぐち 1976, §8、10.
  2. ^ 戸口とぐち 1976, §10.
  3. ^ ヨーロッパの社交しゃこうかんする考察こうさつ -社交しゃこうてき事象じしょう場所ばしょろん1-,たに充利みつとし,P.54
  4. ^ 戸口とぐち 1976, §9.
  5. ^ a b 戸口とぐち 1976, §11.
  6. ^ コトバンク「ブルゴーニュ
  7. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §6,30-1.
  8. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §27.
  9. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §27-8.
  10. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §6,28.
  11. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §6,31.
  12. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §50.
  13. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §57-9.
  14. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §34-5.
  15. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §45-6.
  16. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §34.
  17. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §56-7、引用いんようP.56から.
  18. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §62-3、引用いんようP.63から.
  19. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §46.
  20. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §59-60、引用いんようどうページから.
  21. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §35-6、引用いんようP.36から.
  22. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §44.
  23. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §67-8.
  24. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §38.
  25. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §78.
  26. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §75-6、引用いんようP.76-7から.
  27. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §37-8.
  28. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §39.
  29. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §39-40.
  30. ^ 研究けんきゅうかい 2011, §47.
  31. ^ 世界せかい古典こてん文学ぶんがく全集ぜんしゅう47 モリエール,P.462,鈴木すずき力衛りきえ,筑摩書房ちくましょぼう,1965ねん刊行かんこう