ブルゴーニュ座 ざ の役者 やくしゃ たち右 みぎ から3人 にん 目 め :グロ=ギヨーム 4人 にん 目 め :ゴーチエ=ガルギーユ 5人 にん 目 め :チュルリュパン
オテル・ド・ブルゴーニュ座 ざ (仏 ふつ : Théâtre de l'Hôtel de Bourgogne )は、フランス において、17世紀 せいき まで存在 そんざい した劇場 げきじょう 、ならびにそこを拠点 きょてん とする劇団 げきだん 。パリ で最初 さいしょ の常設 じょうせつ 劇団 げきだん であり、コメディ・フランセーズ の前身 ぜんしん でもある。1548年 ねん から存在 そんざい する劇場 げきじょう であったが、1629年 ねん にルイ13世 せい から認可 にんか を受 う けて正式 せいしき に王立 おうりつ 劇場 げきじょう 、劇団 げきだん となった。
17世紀 せいき 初頭 しょとう の公演 こうえん 事情 じじょう [ 編集 へんしゅう ]
ブルゴーニュ座 ざ の観劇 かんげき 料金 りょうきん は、平土間 ひらどま 席 せき なら5ソル 、桟敷 さじき 席 せき なら10ソルと決 き まっていた。天井 てんじょう 桟敷 さじき や階段 かいだん 席 せき などもあって、全 すべ てを合 あ わせればおよそ1500人 にん ほど収容 しゅうよう が可能 かのう であったが、そのほとんどは平土間 ひらどま 席 せき であった。
ところが、料金 りょうきん をまともに払 はら わず平気 へいき で無料 むりょう 入場 にゅうじょう をするような連中 れんちゅう も数多 かずおお くいた。平土間 ひらどま 席 せき は学生 がくせい 、職人 しょくにん 、小姓 こしょう 、従僕 じゅうぼく 、軍人 ぐんじん など、いずれも行儀 ぎょうぎ のよくない面倒 めんどう な連中 れんちゅう ばかりで占領 せんりょう されており、スリ や追 つい 剥 へ ぎ、泥棒 どろぼう 、娼婦 しょうふ などが相手 あいて を探 さが してうろついている有様 ありさま だった。この連中 れんちゅう はあちこちで博打 ばくち を打 う つし、勝手 かって に物 もの を食 く っている者 もの もいれば、大 おお きな声 こえ で怒鳴 どな り散 ち らしたり、喧嘩 けんか 、決闘 けっとう 、殺 ころ し合 あ い を始 はじ める者 もの もいる。とにかく厄介 やっかい な連中 れんちゅう であった。この時代 じだい の照明 しょうめい と言 い えばオイルランプ、ろうそく程度 ていど のもので、しかもこれらは結構 けっこう 値段 ねだん が張 は るためにかなり控 ひか えめに使 つか われていた。そのため劇場 げきじょう 内 ない はとにかく暗 くら く、前 まえ の席 せき にいなければ満足 まんぞく に役者 やくしゃ の姿 すがた さえ見 み られない。照明 しょうめい がこのような状況 じょうきょう だから、スリや泥棒 どろぼう が大 だい 活躍 かつやく したのであった。
桟敷 さじき 席 せき は主 おも に貴族 きぞく が中心 ちゅうしん となって座 すわ っていた席 せき であったが、ランブイエ侯爵 こうしゃく 夫人 ふじん が宮廷 きゅうてい のあまりの品 しな の悪 わる さに失望 しつぼう して、そこからサロン が生 う まれたことからもわかるように、当時 とうじ の貴族 きぞく は大変 たいへん に品 しな の悪 わる い連中 れんちゅう で、こちらも平土間 ひらどま 席 せき と同 おな じようなものだった。品行 ひんこう の面 めん では市民 しみん と変 か わらないくせに、彼 かれ らは貴族 きぞく という特権 とっけん を振 ふ りかざし、「料金 りょうきん を払 はら うのは下 しも 賤の輩 やから のすること」などと考 かんが えていたので、こちらも料金 りょうきん など払 はら うつもりは最初 さいしょ からないのであった。このような悪習 あくしゅう は根強 ねづよ く残 のこ っていたようで、17世紀 せいき 後半 こうはん 、1684年 ねん になっても「資格 しかく 身分 みぶん を問 と わず、無料 むりょう で劇場 げきじょう に入場 にゅうじょう することを厳禁 げんきん する」旨 むね の勅命 ちょくめい が出 だ されており、この後 のち も繰 く り返 かえ し発 はっ せられている。1684年 ねん と言 い えば、ルイ14世 せい によって絶対 ぜったい 王政 おうせい が完成 かんせい されて久 ひさ しい頃 ころ だが、それでもこのような常識 じょうしき 的 てき な勅命 ちょくめい が下 くだ されているところを見 み ると、ユグノー戦争 せんそう の傷跡 きずあと が生々 なまなま しく残 のこ っていた17世紀 せいき 初頭 しょとう のフランス混乱 こんらん 期 き の人々 ひとびと の風俗 ふうぞく 、品行 ひんこう など推 お して知 し るべしである[3] 。
観客 かんきゃく が品行 ひんこう 下劣 げれつ なら、その舞台 ぶたい に立 た つ役者 やくしゃ たちも同 おな じようなもので、世間 せけん の目 め は決 けっ して好意 こうい 的 てき ではなかった。タルマン・デ・レオーによるこの時代 じだい の俳優 はいゆう に関 かん する評 ひょう が残 のこ っているが、それによればこの時代 じだい の役者 やくしゃ はほとんど素行 そこう は悪 わる く、夫妻 ふさい 揃 そろ って性的 せいてき に放縦 ほうしょう であり、特 とく に女 おんな たちは男 おとこ なら誰彼 だれかれ 構 かま わず相手 あいて にして、他 た の劇団 げきだん の役者 やくしゃ とさえ関係 かんけい を持 も つことさえあったという。もちろんこの時代 じだい にも、ゴーチエ=ガルギーユのようにまじめな生活 せいかつ を送 おく った役者 やくしゃ も居 い たには違 ちが いないが、しかし宮廷 きゅうてい や貴族 きぞく も先述 せんじゅつ したように品行 ひんこう 下劣 げれつ であったのだから、何 なに も乱 みだ れ切 き っていたのは役者 やくしゃ たちだけではなかった。
このように碌 ろく でもない連中 れんちゅう ばかりが集 あつ まる場所 ばしょ であったのだから、オテル・ド・ブルゴーニュ劇場 げきじょう が「悪 あく の巣窟 そうくつ 」などと言 い われたのも無理 むり もないことであった。こうした評判 ひょうばん に影響 えいきょう されて、芝居 しばい に興味 きょうみ のない人々 ひとびと が、役者 やくしゃ に厳 きび しい目 め を向 む けるようになるなど、悪循環 あくじゅんかん に嵌 はま まり込 こ んでいたのである。
1548年 ねん 、中世 ちゅうせい 宗教 しゅうきょう 劇 げき の上演 じょうえん 団体 だんたい である受難 じゅなん 劇 げき 組合 くみあい ( Confréres de la Passion )によって設立 せつりつ された。ブルゴーニュ邸 てい という貴族 きぞく の邸宅 ていたく にあったことが、その名前 なまえ の由来 ゆらい である。この劇場 げきじょう では専 もっぱ ら受難 じゅなん 劇 げき 組合 くみあい が聖 せい 史劇 しげき (聖書 せいしょ を題材 だいざい とした劇 げき )を上演 じょうえん していたが、その公演 こうえん 内容 ないよう があまりに低俗 ていぞく であるという理由 りゆう で、設立 せつりつ と同 おな じ年 ねん に上演 じょうえん を禁 きん じられてしまった。受難 じゅなん 劇 げき 組合 くみあい はパリでの興行 こうぎょう 権 けん を独占 どくせん していたので、劇場 げきじょう まで自身 じしん で所有 しょゆう することでさらにその立場 たちば は絶対 ぜったい 的 てき なものとなるはずであったが、この上演 じょうえん 禁止 きんし でさっそく出鼻 でばな をくじかれてしまった。上演 じょうえん する演目 えんもく に困 こま った組合 くみあい は、興行 こうぎょう 成績 せいせき が落 お ちていったこともあって、この劇場 げきじょう を賃貸 ちんたい に出 だ してなんとか糊口 ここう をしのぐことにしたのであった[6] 。
ヴァルラン・ル・コント座 ざ [ 編集 へんしゅう ]
17世紀 せいき 初頭 しょとう になっても、パリの常設 じょうせつ 劇場 げきじょう はブルゴーニュ劇場 げきじょう だけであった。そのため、パリで演劇 えんげき を上演 じょうえん したければ、ブルゴーニュ劇場 げきじょう を借 か りるほか選択肢 せんたくし が存在 そんざい しなかった。特 とく にブルゴーニュ劇場 げきじょう を頻繁 ひんぱん に利用 りよう していた劇団 げきだん が、ヴァルラン・ル・コント座 ざ (Troupe de Valleran Le Conte )である。この劇団 げきだん は当時 とうじ 有名 ゆうめい ではあったが、どこからも庇護 ひご を受 う けておらず、経済 けいざい 的 てき にも余裕 よゆう がある劇団 げきだん ではなかったので、ブルゴーニュ劇場 げきじょう を借 か りるほか仕方 しかた がなかったのだと思 おも われる。
この劇団 げきだん の座長 ざちょう であるヴァルラン・ル・コントという役者 やくしゃ についてはよくわからないが、1592年 ねん ころにはすでに役者 やくしゃ として地方 ちほう 巡業 じゅんぎょう を行 おこな っていたようである。1598年 ねん に座長 ざちょう となり、ブルゴーニュ劇場 げきじょう でアレクサンドル・アルディ などの悲劇 ひげき の上演 じょうえん を試 こころ みるも、無残 むざん に失敗 しっぱい してしまった。この頃 ころ の観客 かんきゃく たちは先述 せんじゅつ したように品性 ひんせい 下劣 げれつ で、「悲劇 ひげき 」などという高尚 こうしょう なものは理解 りかい できず、もっぱら笑劇 しょうげき や刺激 しげき 的 てき な場面 ばめん を求 もと めていたからである。再 ふたた び地方 ちほう 巡業 じゅんぎょう に戻 もど り、1606年 ねん にパリに戻 もど ってきて、ブルゴーニュ劇場 げきじょう で公演 こうえん を行 おこな っている。1607年 ねん にヴァルランは新 あら たな劇団 げきだん を立 た ち上 あ げたようだが、その中 なか にラシェル・トレポー(Rachel Trepèau )なる女優 じょゆう がいた。この時代 じだい は「女優 じょゆう 」などというものは存在 そんざい せず、女性 じょせい 役 やく でも男優 だんゆう が演 えん じるのが普通 ふつう であったから、このトレポーなる女性 じょせい はフランスの女優 じょゆう の草分 くさわ け的 てき 存在 そんざい である。
この新 あら たに組織 そしき された劇団 げきだん は、1609年 ねん から10年 ねん にかけて、ブルゴーニュ劇場 げきじょう で公演 こうえん したとの記録 きろく が残 のこ っている。この際 さい の契約 けいやく 書 しょ には、後 のち に「王立 おうりつ 劇団 げきだん 」で大人気 おとなげ を博 はく すことになるゴーチエ=ガルギーユやグロ=ギヨームの名前 なまえ が見 み られるが、彼 かれ らの名前 なまえ は1611年 ねん 9月 がつ には消 き えてしまう。その代 か わりにアレクサンドル・アルディ が出 で てくるのだが、これらからわかるように、当時 とうじ は劇団 げきだん と役者 やくしゃ はほとんど単 たん 年 ねん 契約 けいやく を結 むす んでおり、人材 じんざい の流動 りゅうどう 性 せい は極 きわ めて激 はげ しいものであった。劇団 げきだん 間 あいだ の競争 きょうそう もこのあたりから激化 げきか していったようだが、ヴァルラン・ル・コント座 ざ は相変 あいか わらず経済 けいざい 的 てき に困窮 こんきゅう しており、1611年 ねん にはブルゴーニュ劇場 げきじょう の一部 いちぶ を又貸 またが ししている。同 おな じころ、一座 いちざ は「王立 おうりつ 劇団 げきだん (Troupe royale des comédiens )」と称 しょう し始 はじ めた。
オテル・ド・ブルゴーニュ座 ざ 王立 おうりつ 劇団 げきだん [ 編集 へんしゅう ]
上記 じょうき の「王立 おうりつ 劇団 げきだん 」が、1629年 ねん に正式 せいしき に国王 こくおう の支援 しえん を受 う けて「オテル・ド・ブルゴーニュ座 ざ 王立 おうりつ 劇団 げきだん 」と名乗 なの ることを許 ゆる され、ブルゴーニュ劇場 げきじょう を恒常 こうじょう 的 てき に使用 しよう できる契約 けいやく を締結 ていけつ した。1635年 ねん にグロ=ギヨームが亡 な くなった後 のち は、ベルローズ率 ひき いる一座 いちざ が王立 おうりつ 劇団 げきだん を受 う け継 つ ぎ、1647年 ねん にはマレー座 ざ から引 ひ き抜 ぬ かれてきたフロリドールが座長 ざちょう となって、1680年 ねん のコメディ・フランセーズ 結成 けっせい に至 いた るまで、王立 おうりつ 劇団 げきだん と名乗 なの り続 つづ けた。この劇団 げきだん は国王 こくおう から強力 きょうりょく な庇護 ひご を獲得 かくとく した上 うえ に、かなりの金額 きんがく の年金 ねんきん も受 う けており、この劇団 げきだん だけが公式 こうしき の王立 おうりつ 劇場 げきじょう 、劇団 げきだん と言 い える状況 じょうきょう にあった。
国立 こくりつ 劇場 げきじょう コメディ・フランセーズ創設 そうせつ [ 編集 へんしゅう ]
1670年代 ねんだい になると、劇団 げきだん 、劇場 げきじょう はパリに2つしか存在 そんざい しなかった。オテル・ド・ブルゴーニュ劇場 げきじょう と、モリエール 劇団 げきだん の流 なが れを汲 く むゲネゴー座 ざ である。ゲネゴー座 ざ も人気 にんき のある劇団 げきだん で、次第 しだい にオテル・ド・ブルゴーニュ座 ざ 王立 おうりつ 劇団 げきだん を圧迫 あっぱく し始 はじ めたため、1680年 ねん 10月 がつ 、国王 こくおう の命令 めいれい によって正式 せいしき にこれら2つの劇団 げきだん は合併 がっぺい し、国立 こくりつ 劇場 げきじょう コメディ・フランセーズが誕生 たんじょう した。以後 いご コメディ・フランセーズは「フランス人 じん 俳優 はいゆう 協会 きょうかい 」という組織 そしき となり、各々 おのおの の役者 やくしゃ の受 う け取 と る配当 はいとう 利益 りえき はこれまでとは比 くら べ物 もの にならないほどに増 ふ え、年金 ねんきん 制度 せいど が確立 かくりつ されるなど、国立 こくりつ 劇場 げきじょう としての基本 きほん 組織 そしき は整 ととの ったが、同時 どうじ に1680年 ねん 以後 いご に出 だ された王 おう 令 れい によって、劇団 げきだん や俳優 はいゆう たちはそれまでに持 も っていた自由 じゆう を失 うしな った。毎日 まいにち 違 ちが った演目 えんもく で公演 こうえん を開 ひら かなければならなくなり、演目 えんもく の基本 きほん はフランス人 じん 作家 さっか とすることが義務付 ぎむづ けられた。
主 おも な劇団 げきだん 員 いん [ 編集 へんしゅう ]
芸名 げいめい
本名 ほんみょう
在籍 ざいせき 期間 きかん
備考 びこう
座長 ざちょう
グロ=ギヨーム
Robert Guèrin
1629-1635年 ねん
雪 ゆき だるまのように腹 はら の出 で た白装束 しろしょうぞく 姿 すがた が特徴 とくちょう 的 てき な役者 やくしゃ である。顔 かお を白 しろ く塗 ぬ って舞台 ぶたい に立 た っていたが、これは中世 ちゅうせい 以来 いらい の伝統 でんとう に則 のっと っているとも、コンメディア・デッラルテ に影響 えいきょう を受 う けているとも考 かんが えられる。ブルゴーニュ劇場 げきじょう で公演 こうえん を行 おこな ったイタリア人 じん 役者 やくしゃ 団 だん の名簿 めいぼ の中 なか に、コンメディア・デッラルテに登場 とうじょう する鈍重 どんじゅう な下僕 げぼく で、ピエロ の原型 げんけい と考 かんが えられているペドロリーノの名前 なまえ が見 み られるので、グロ=ギヨームの姿 すがた もそれに影響 えいきょう を受 う けている可能 かのう 性 せい がある。下僕 げぼく だけでなく、女形 おんながた を演 えん じて下僕 げぼく の妻 つま を演 えん じることもあったらしいが、それらの役 やく に通 つう 底 そこ する特徴 とくちょう は「鈍重 どんじゅう 」である。鈍重 どんじゅう な貴族 きぞく を演 えん じて、アンリ4世 せい を爆笑 ばくしょう させたこともあるという。役者 やくしゃ としては優秀 ゆうしゅう であったが、人物 じんぶつ 的 てき には極 きわ めて問題 もんだい のある人物 じんぶつ だったらしい。絶 た えず酒 さけ を浴 あ びるほど飲 の んでおり、機嫌 きげん が良 よ いのは酒 さけ を飲 の んでいる時 とき だけ、喋 しゃべ り方 かた は乱暴 らんぼう で、その心 しん は低劣 ていれつ で卑屈 ひくつ であったと伝 つた えられている。ゴーチエ=ガルギーユ、チュルリュパンとともに笑劇 しょうげき トリオとして有名 ゆうめい であった。
ベルローズ
Pierre Le Messier
1635-1647年 ねん
役者 やくしゃ としてのデビューは、ヴァルラン・ル・コント座 ざ で、同 どう 劇団 げきだん でしばらく修業 しゅうぎょう を積 つ んだらしい。ヴァルラン・ル・コントの死後 しご 、一座 いちざ の座長 ざちょう に昇格 しょうかく し、1620年 ねん にはアレクサンドル・アルディ を座付 ざつ き作家 さっか とする契約 けいやく を交 か わしている。1622年 ねん にはグロ=ギヨームが座長 ざちょう を務 つと めるオテル・ド・ブルゴーニュ座 ざ 王立 おうりつ 劇団 げきだん に正式 せいしき に加入 かにゅう し、彼 かれ の死後 しご 、こちらでも座長 ざちょう となった。彼 かれ の座長 ざちょう としての能力 のうりょく は卓越 たくえつ しており、アルディ、ジャン・ロトルー 、ジャン・メレ ら新進 しんしん 作家 さっか らの作品 さくひん を上演 じょうえん できるように仕向 しむ け、見事 みごと に成功 せいこう している。1647年 ねん にマレー座 ざ から移籍 いせき してきたフロリドールに座長 ざちょう 職 しょく を譲 ゆず ったが、死 し ぬまでこの劇団 げきだん に在籍 ざいせき し続 つづ けた。同年 どうねん 、ベルローズの努力 どりょく が実 み を結 むす び、劇団 げきだん はコルネイユ の作品 さくひん の上演 じょうえん 権 けん を獲得 かくとく した。彼 かれ 自身 じしん もコルネイユの悲劇 ひげき で主役 しゅやく を演 えん じ、その優雅 ゆうが な姿 すがた で人気 にんき を獲得 かくとく して、フランス最初 さいしょ の偉大 いだい な悲劇 ひげき 役者 やくしゃ とまで言 い われるようになった。こうした劇 げき 作家 さっか たちの悲劇 ひげき を演 えん じた経験 けいけん が、後々 あとあと ラシーヌの悲劇 ひげき を上演 じょうえん する際 さい にも活 い きることとなった。オテル・ド・ブルゴーニュ座 ざ が悲劇 ひげき を得意 とくい とし出 だ したのは彼 かれ が座長 ざちょう であった頃 ころ からだが、これはベルローズがかなりの策士 さくし で、悲劇 ひげき の上演 じょうえん 権 けん を次々 つぎつぎ と獲得 かくとく していったからかもしれないし、単 たん に悲劇 ひげき 役者 やくしゃ を集 あつ める才能 さいのう に長 た けていたからかもしれない。
フロリドール
Josias de Soulas
1647-1671年 ねん
牧師 ぼくし の息子 むすこ で、正当 せいとう な貴族 きぞく の家 いえ に育 そだ った。はじめ軍人 ぐんじん であったが、やがて役者 やくしゃ に転 てん じた。1638年 ねん 初 はじ めにマレー座 ざ に入 はい り、同時 どうじ に一座 いちざ に加入 かにゅう し、後 のち に座長 ざちょう となった。コルネイユ作品 さくひん で重要 じゅうよう な役 やく を演 えん じて人気 にんき を獲得 かくとく し、中心 ちゅうしん 的 てき な存在 そんざい の役者 やくしゃ にまでなった。1647年 ねん 、その人気 にんき にあやかろうとしたのか、王 おう 令 れい によるものであったとも言 い われるが、マレー座 ざ から引 ひ き抜 ぬ かれてコルネイユの作品 さくひん 上演 じょうえん 権 けん 付 つ きでオテル・ド・ブルゴーニュ座 ざ へ移籍 いせき し、座長 ざちょう に就任 しゅうにん した。ブルゴーニュ座 ざ ではコルネイユはもちろん、ラシーヌ 悲劇 ひげき の大役 たいやく も演 えん じるなど、生涯 しょうがい 舞台 ぶたい に立 た った役者 やくしゃ であったが、1671年 ねん に公演 こうえん を終 お えて数日 すうじつ 後 ご に逝去 せいきょ した。堂々 どうどう として魅力 みりょく 的 てき なその姿 すがた 、才能 さいのう 、演技 えんぎ で観客 かんきゃく の注目 ちゅうもく を集 あつ め続 つづ けた。17世紀 せいき 当時 とうじ 、もっとも尊敬 そんけい された役者 やくしゃ であり、2つの劇団 げきだん の運営 うんえい にトップとして関 かか わり、両方 りょうほう とも成功 せいこう させていることから、座長 ざちょう としての能力 のうりょく も当代 とうだい 随一 ずいいち であったと言 い われる。国王 こくおう も彼 かれ に惜 お しみない寵愛 ちょうあい を注 そそ いでおり、役者 やくしゃ の身分 みぶん であっても貴族 きぞく の特権 とっけん を失 うしな わないとする裁決 さいけつ を例外 れいがい 的 てき に承認 しょうにん しているほどであった。
団員 だんいん
ブリュスカンビル
?
1609年 ねん 頃 ごろ
本名 ほんみょう も生 なま 没年 ぼつねん もわからないが、ブリュスカンビルの名前 なまえ で前口上 まえこうじょう をいくつも書 か いていたので、名前 なまえ が残 のこ っている。笑劇 しょうげき 役者 やくしゃ であったが、喜劇 きげき 名 めい としてデローリエ(Deslauriers )なる名前 なまえ も持 も っていたようだ。
ゴーチエ=ガルギーユ
Hugues Guèru
?-1633年 ねん
1620年代 ねんだい にオテル・ド・ブルゴーニュ座 ざ で、笑劇 しょうげき トリオとしてグロ=ギヨーム、チュルリュパンとともに人気 にんき をとった老人 ろうじん 役 やく を得意 とくい とした俳優 はいゆう であったが、下僕 げぼく 役 やく 、博士 はかせ 役 やく 、教師 きょうし 役 やく など幅広 はばひろ く演 えん じたという。非常 ひじょう に役 やく 作 づく りに熱心 ねっしん な役者 やくしゃ で、当時 とうじ の極 きわ めて放縦 ほうしょう な俳優 はいゆう たちとは違 ちが って、まじめに規律 きりつ 正 ただ しい生活 せいかつ を送 おく ったという。以下 いか は同 どう 時代 じだい 人 じん による評 ひょう である:彼 かれ は全身 ぜんしん で笑 わら いを誘 さそ った。古今 ここん の役者 やくしゃ でこの男 おとこ ほど無造作 むぞうさ に見 み えて完成 かんせい された者 もの はいなかった。(中略 ちゅうりゃく )小唄 こうた を歌 うた いだすや、普通 ふつう の唄 うた なら何 なん のとりえのない物 もの でも、彼 かれ の口 くち にかかれば別物 べつもの になってしまう。彼 かれ は実力 じつりょく 以上 いじょう の芸 げい を発揮 はっき したと言 い っても過言 かごん ではなかろう。彼 かれ は小唄 こうた に滑稽 こっけい 至極 しごく な節回 ふしまわ しをつけて歌 うた ったので、大勢 おおぜい の客 きゃく は彼 かれ だけを目当 めあ てにオテル・ド・ブルゴーニュ座 ざ に足 あし を運 はこ んだのである。
ギヨ=ゴルジュ
Bertran Hardouin de Saint-Jacques
1634-1642年 ねん
父親 ちちおや はパリの慈善 じぜん 病院 びょういん の医者 いしゃ 。1634年 ねん にゴーチエ=ガルギーユの後釜 あとがま として加入 かにゅう した。滑稽 こっけい な医者 いしゃ の役 やく を得意 とくい としたという。1642年 ねん にオテル・ド・ブルゴーニュ座 ざ を引退 いんたい した後 のち 、1648年 ねん に亡 な くなった。同 どう 時代 じだい 人 じん の評 ひょう がある:彼 かれ は
大男 おおおとこ で
色 いろ 黒 くろ 、ひどく
醜 みにく い
容貌 ようぼう だった。
大 おお きなかつらをかぶり、
目 め は
落 お ち
窪 くぼ み、
大 だい 酒飲 さけの みの
鼻 はな だった。
猿 さる に
似 に た
顔 かお と
言 い ってもいいくらいで、
舞台 ぶたい 上 じょう で
仮面 かめん など
付 つ ける
必要 ひつよう はなかったが、それでも
絶 た えず
仮面 かめん を
付 つ けて
演 えん じていたのである。
ジョドレ
Julien Bedeau
1635-1641年 ねん
マレー座 ざ の創設 そうせつ メンバーであったが、すぐにオテル・ド・ブルゴーニュ座 ざ に移籍 いせき した。1641年 ねん には同座 どうざ を離 はな れ、再 ふたた びマレー座 ざ に移籍 いせき して中心 ちゅうしん 役者 やくしゃ として活躍 かつやく している。1659年 ねん にはモリエール劇団 げきだん に加入 かにゅう し、『才女 さいじょ 気取 きど り 』で重要 じゅうよう な役 やく を演 えん じている。
ボーシャトー嬢 じょう
Madeleine Du Pouget
1632~35、1642~1674年 ねん
1632年 ねん から所属 しょぞく していたが、夫 おっと のボーシャトーとともにマレー座 ざ に移 うつ り、コルネイユの『ル・シッド』に出演 しゅつえん した。1642年 ねん から再 ふたた び復帰 ふっき し、劇界 げきかい 引退 いんたい まで在籍 ざいせき していた。
チュルリュパン
Henri Legrand
?-1637年 ねん
老人 ろうじん 役 やく を得意 とくい としたゴーチエ=ガルギーユ、白 しろ 塗 ぬ りの道化 どうけ 役 やく を得意 とくい としたグロ=ギヨームと並 なら んで、笑劇 しょうげき トリオとして人気 にんき を博 はく したうちの一人 ひとり 。彼 かれ は下僕 げぼく 役 やく を得意 とくい としたようだが、彼 かれ らが共演 きょうえん した笑劇 しょうげき 作品 さくひん は現存 げんそん していないので、はっきりとは確定 かくてい していない。現存 げんそん する作品 さくひん から推定 すいてい するに、抜 ぬ け目 め なく狡猾 こうかつ な下僕 げぼく 、若者 わかもの の恋 こい をも助 たす けるが当然 とうぜん 、自分 じぶん にも利益 りえき になるように立 た ち回 まわ る策士 さくし というのが、彼 かれ の演 えん じる下僕 げぼく の特徴 とくちょう であると思 おも われる:赤毛 あかげ であったがなかなかの美男 びなん で、スタイルもよく、顔色 かおいろ はつややかだった。(中略 ちゅうりゃく )チュルリュパンほど笑劇 しょうげき を巧 たく みに組 く み立 たて て、演 えん じ、鮮 あざ やかに切 き り回 まわ す者 もの はいなかった。その奇抜 きばつ な警句 けいく の数々 かずかず は、才気 さいき 、勢 いきお い、判断 はんだん 力 りょく に満 み ちていた。一言 ひとこと で言 い うと、少々 しょうしょう 無邪気 むじゃき さに欠 か けたところはあるにしても、彼 かれ に比肩 ひけん すべき存在 そんざい は他 た にいなかったのである。
モンフルーリ
Zacharie Jacob
1638-1667年 ねん
役者 やくしゃ の息子 むすこ に生 う まれ。1638年 ねん 頃 ごろ オテル・ド・ブルゴーニュ座 ざ に加入 かにゅう した。堂々 どうどう とした体躯 たいく 、よく通 とお る声 こえ が特徴 とくちょう 的 てき で、数 すう 十 じゅう 行 ぎょう にも渡 わた る長 ちょう 台詞 せりふ をよどみなく披露 ひろう し、熱烈 ねつれつ に歌 うた いあげるのが得意 とくい であったという。その容姿 ようし や演技 えんぎ はモリエールの戯曲 ぎきょく 『ヴェルサイユ即興 そっきょう 劇 げき 』、エドモン・ロスタン の『シラノ・ド・ベルジュラック 』では揶揄 やゆ の対象 たいしょう となっている。このように、生前 せいぜん から様々 さまざま な攻撃 こうげき を受 う けていたようだが、宰相 さいしょう リシュリュー は彼 かれ を高 たか く評価 ひょうか していたし、同 どう 時代 じだい 人 じん による以下 いか のような評 ひょう がある:
喜劇 きげき と悲劇 ひげき とあらゆる人物 じんぶつ 表現 ひょうげん において、彼 かれ ほど優 すぐ れた役者 やくしゃ を見 み ることは稀 まれ である。演劇 えんげき がこれほど輝 かがや かしいものになったのは、ひとえにモンフルーリのおかげである。
このように、高 たか い評価 ひょうか を獲得 かくとく していた役者 やくしゃ であった。英雄 えいゆう や国王 こくおう など、激情 げきじょう に駆 か られて行動 こうどう する人物 じんぶつ を演 えん じることが多 おお く、それで人気 にんき を獲得 かくとく していた。ラシーヌの悲劇 ひげき 『アンドロマック』を演 えん じている最中 さいちゅう に、役 やく に入 はい り込 こ みすぎて、そのまま舞台 ぶたい に倒 たお れて亡 な くなったという。劇 げき 作家 さっか としても活動 かつどう した形跡 けいせき がある。
バロン父 ちち
André Boyron
1641-1655年 ねん
1635年 ねん からマレー座 ざ に所属 しょぞく し、1641年 ねん に加入 かにゅう した。事故死 じこし したようである。モリエールの愛弟子 まなでし 、劇 げき 作家 さっか として有名 ゆうめい なミシェル・バロン の父 ちち 。
フィリパン 通称 つうしょう ド・ヴィリエ
Claude Deschamps
1642-1670年 ねん
1624年 ねん 、マレー座 ざ の前身 ぜんしん の劇団 げきだん から役者 やくしゃ 生活 せいかつ をスタートさせた。1634年 ねん のマレー座 ざ 創設 そうせつ 後 ご も同座 どうざ に所属 しょぞく していたが、1642年 ねん にオテル・ド・ブルゴーニュ座 ざ に移籍 いせき 、1670年 ねん に引退 いんたい するまで所属 しょぞく し続 つづ けた。役者 やくしゃ だけでなく、劇 げき 作家 さっか としても活動 かつどう していたようで、モリエールの戯曲 ぎきょく 『ドン・ジュアン 』に影響 えいきょう を与 あた えた作品 さくひん を制作 せいさく している。滑稽 こっけい な侯爵 こうしゃく や飲 の んだくれ、偉 えら ぶった男 おとこ などを演 えん じさせれば右 みぎ に出 で る者 もの はいなかったとの評 ひょう が残 のこ っており、小柄 こがら で、滑稽 こっけい な脇役 わきやく を演 えん じることを得意 とくい としていたようだ。済 す んだ軽 かろ やかな声 こえ の持 も ち主 ぬし で、細 ささ やかな演技 えんぎ 力 りょく の持 も ち主 ぬし であったという。
デズィエ嬢 じょう
Alix Faviot
1658-1670年 ねん
ピエール・コルネイユの悲劇 ひげき 『ソフォニスプ』では主役 しゅやく を演 えん じ、ラシーヌの『アンドロマック』、『ブリタニキュス』の配役 はいやく 表 ひょう にも名前 なまえ が見 み える。美人 びじん と言 い うほどではなかったが、感情 かんじょう の表現 ひょうげん に気取 きど ったところがなく、優 すぐ れていたという。
レーモン・ポワッソン 通称 つうしょう ベルロッシュ
Raymond Poisson dit Belleroche
1660-1685年 ねん
貧 まず しい数学 すうがく 者 しゃ の子 こ として生 う まれたが、1654年 ねん 頃 ごろ 、役者 やくしゃ として活動 かつどう し始 はじ めた。はじめは南 みなみ フランス巡業 じゅんぎょう 中 ちゅう の劇団 げきだん に加入 かにゅう し、1659年 ねん にボルドー滞在 たいざい 中 ちゅう の国王 こくおう ルイ14世 せい の前 まえ で御前 ごぜん 公演 こうえん を行 おこな って認 みと められ、1660年 ねん 4月 がつ にオテル・ド・ブルゴーニュ座 ざ に入団 にゅうだん した。ちょうどパリではモリエール劇団 げきだん が力 ちから を付 つ け始 はじ めており、ブルゴーニュ座 ざ の脅威 きょうい となっていた頃 ころ であったので、彼 かれ の加入 かにゅう は歓迎 かんげい されたようである。モリエール死後 しご のフランス演劇 えんげき 界 かい を背負 せお って立 た つほどの存在 そんざい であり、1685年 ねん まで役者 やくしゃ 、劇 げき 作家 さっか として活躍 かつやく した。コメディ・フランセーズ席次 せきじ 20番 ばん 。
彼 かれ が演 えん じたクリスパン(Crispin )はスペインに起源 きげん を持 も つ下僕 げぼく のタイプであることから、初 はじ めは臆病 おくびょう で大 だい 食 ぐ いという特徴 とくちょう を有 ゆう していたようだが、フランスにおいて次第 しだい にスペイン物 ぶつ が人気 にんき を失 うしな うにつれて、狡猾 こうかつ な策士 さくし へと変貌 へんぼう を遂 と げていった。1685年 ねん に引退 いんたい するまで、このクリスパンを演 えん じ続 つづ けたという。その後 ご も一族 いちぞく によって受 う け継 つ がれ、四 よん 世代 せだい に渡 わた って1753年 ねん まで演 えん じられた。大 おお きな口 くち から発 はっ せられる意味 いみ 不明 ふめい かつ滑稽 こっけい な早口 はやくち 言葉 ことば 、モゴモゴ喋 しゃべ るのが彼 かれ のお家芸 いえげい であったという。この芸 げい によってしばしば、観客 かんきゃく たちは腹 はら を抱 かか えて大笑 おおわら いしたというが、役者 やくしゃ が何 なに を言 い ってるのかわからなくとも笑 わら いが生 う まれたというのは、姿 すがた 形 がた や動 うご きで十分 じゅうぶん 面白 おもしろ いということであり、彼 かれ の喜劇 きげき 役者 やくしゃ としての能力 のうりょく の高 たか さを示 しめ している。彼 かれ が喜劇 きげき 界 かい で重要 じゅうよう な位置 いち を占 し めていたことは、同 どう 時代 じだい 人 じん の証言 しょうげん がある:モリエールはポワッソンを
恐 おそれ るべきライバルと
見 み 做していたが、
彼 かれ に
向 む けられる
称賛 しょうさん の
声 こえ に
進 すす んで
耳 みみ を
傾 かたむ けないほど
狭量 きょうりょう な
人物 じんぶつ ではなかった。
私 わたし は
確 かく か、モリエールがこんなことを
言 い うのを
聞 き いた
覚 おぼ えがある。それはモリエールが、
リュリ と
喋 しゃべ っていた
時 とき にポワッソンを
評 ひょう して、あの
偉大 いだい な
喜劇 きげき 役者 やくしゃ の
自然 しぜん な
演技 えんぎ 力 りょく を
身 み に
着 つ けられるなら、この
世 よ のいかなるものと
引 ひ き
換 か えても
良 よ いというような
表現 ひょうげん であった。
マルキーズ・デュ・パルク
Marquise-Thérèse de Gorla
1667-1668年 ねん
元々 もともと モリエール劇団 げきだん の看板 かんばん 女優 じょゆう であり、モリエールと苦楽 くらく を共 とも にしてきた役者 やくしゃ の一人 ひとり でもある。極 きわ めて華 はな やかな美貌 びぼう の持 も ち主 ぬし であり、モリエールをはじめ、コルネイユ、ラシーヌなど、古典 こてん 主義 しゅぎ の三 さん 大 だい 作家 さっか のこころを惹 ひ きつけたようである。『アレクサンドル大王 だいおう 』の上演 じょうえん を巡 めぐ って、ラシーヌがモリエールを裏切 うらぎ ったことに伴 ともな って、彼女 かのじょ もオテル・ド・ブルゴーニュ座 ざ に移籍 いせき した。ラシーヌと恋人 こいびと 関係 かんけい にあり、自分 じぶん の作品 さくひん で役 やく を演 えん じさせるためにラシーヌが彼女 かのじょ を引 ひ き抜 ぬ いたのである。ラシーヌの次 つぎ 作 さく 『アンドロマック』では主役 しゅやく を演 えん じ、大 だい 成功 せいこう を収 おさ めた。ラシーヌは彼女 かのじょ のためにアンドロマック役 やく を作 つく ったといわれている。役者 やくしゃ としての絶頂 ぜっちょう を迎 むか えながらも、その翌年 よくねん に急死 きゅうし した。堕胎 だたい 失敗 しっぱい による失血死 しっけつし であったという。ラシーヌは彼女 かのじょ の葬儀 そうぎ では「半 なか ば死 し んだ状態 じょうたい であった」という。死後 しご 11年 ねん が経過 けいか した1679年 ねん に再 ふたた び世間 せけん の人々 ひとびと は彼女 かのじょ を思 おも い出 だ すこととなった。同年 どうねん に発生 はっせい した黒 くろ ミサ事件 じけん の中心 ちゅうしん 人物 じんぶつ として逮捕 たいほ されたラ・ヴォワザン が「マルキーズはラシーヌによって毒殺 どくさつ された」と、とんでもない供述 きょうじゅつ をし始 はじ めたからである。当時 とうじ の政府 せいふ 当局 とうきょく 者 しゃ たちがこの証言 しょうげん を重大 じゅうだい 視 し したおかげで、すでに演劇 えんげき 界 かい から引退 いんたい していたラシーヌは裁判所 さいばんしょ に召喚 しょうかん され、特別 とくべつ 審問 しんもん に付 ふ されるなど、逮捕 たいほ 寸前 すんぜん にまで追 お い詰 つ められた。どのように逮捕 たいほ を回避 かいひ したかは伝 つた わっていないが、おそらくルイ14世 せい に直接 ちょくせつ 訴 うった えたものと思 おも われる。結局 けっきょく 、この「毒殺 どくさつ 嫌疑 けんぎ 事件 じけん 」は解決 かいけつ されないまま迷宮 めいきゅう 入 い りとなった。
デンヌボー嬢 じょう
Françoise Jacob
1670-1684年 ねん
モンフルーリの娘 むすめ 。役者 やくしゃ であるデンヌボーと結婚 けっこん し、マレー座 ざ で修業 しゅうぎょう を積 つ んだ後 のち に、1670年 ねん に加入 かにゅう した。1684年 ねん にコメディ・フランセーズから追 お い出 だ されて、翌年 よくねん 引退 いんたい した。
シャンメレ嬢 じょう
Marie Desmares
1670-1679年 ねん
マルキーズ・デュ・パルクの穴 あな を埋 う めるべく、主役 しゅやく を務 つと める女優 じょゆう として加入 かにゅう したのが彼女 かのじょ である。17世紀 せいき における最 もっと も有名 ゆうめい な女優 じょゆう の一人 ひとり 。1666年 ねん に故郷 こきょう ルーアンで、シャンメレと結婚 けっこん し、地方 ちほう 劇団 げきだん やマレー座 ざ で修業 しゅうぎょう を積 つ んだ後 のち にオテル・ド・ブルゴーニュ座 ざ に加入 かにゅう した。『アンドロマック』再演 さいえん の際 さい の、彼女 かのじょ の演技 えんぎ 、特 とく に声 こえ の魅力 みりょく にラシーヌは惹 ひ かれたらしく、それ以後 いご のラシーヌの悲劇 ひげき 作品 さくひん では全 すべ て主役 しゅやく を務 つと め、大 だい 成功 せいこう を収 おさ めている。デュ・パルクのときと同様 どうよう にラシーヌが仔細 しさい に亘 わた って演技 えんぎ 指導 しどう を彼女 かのじょ にしたらしいが、女優 じょゆう としての評価 ひょうか は、同 どう 時代 じだい 人 じん の証言 しょうげん が食 く い違 ちが っているためによくわからない。ラシーヌが劇壇 げきだん から引退 いんたい すると、彼女 かのじょ は二流 にりゅう 劇 げき 作家 さっか の作品 さくひん に出演 しゅつえん しなければならなくなり、彼女 かのじょ の持 も ち味 あじ も消 き えてしまった。1679年 ねん にゲネゴー座 ざ に移 うつ ったが、ゲネゴー座 ざ とオテル・ド・ブルゴーニュ座 ざ の合併 がっぺい によって1680年 ねん にコメディ・フランセーズが創設 そうせつ された。コメディ・フランセーズのこけら落 お とし演目 えんもく では、主役 しゅやく を演 えん じている。死 し の数 すう か月 げつ 前 まえ まで華々 はなばな しく活躍 かつやく したという。
ミシェル・バロン
Michel Baron
1673-1722年 ねん
1670年 ねん に、まだ未成年 みせいねん であったがモリエール劇団 げきだん に加入 かにゅう した。1673年 ねん 2月 がつ のモリエール死去 しきょ の際 さい には、彼 かれ を介抱 かいほう したと伝 つた わっている。モリエールの死後 しご すぐにオテル・ド・ブルゴーニュ座 ざ に移籍 いせき し、1680年 ねん からはコメディ・フランセーズに所属 しょぞく 、重要 じゅうよう な役 やく を演 えん じて大 だい 評判 ひょうばん をとったという。一時 いちじ 引退 いんたい するが、1720年 ねん に再 ふたた び復帰 ふっき し、主役 しゅやく を演 えん じている[31] 。
戸口 とぐち , 民 みん 也 (1976), 芝居 しばい とその観客 かんきゃく : 17世紀 せいき 初期 しょき のパリにおける,フランス文学 ぶんがく 論集 ろんしゅう (11), 8-15 , 日本 にっぽん フランス語 ご フランス文学 ぶんがく 会 かい
研究 けんきゅう 会 かい , 「十 じゅう 七 なな 世紀 せいき 演劇 えんげき を読 よ む」編 へん (2011), フランス十 じゅう 七 なな 世紀 せいき の劇 げき 作家 さっか たち (中央大学 ちゅうおうだいがく 人文 じんぶん 科学 かがく 研究所 けんきゅうじょ 研究 けんきゅう 叢書 そうしょ 52) , 中央大学 ちゅうおうだいがく 出版 しゅっぱん 部 ぶ
^ ヨーロッパの社交 しゃこう に関 かん する考察 こうさつ -社交 しゃこう 的 てき 事象 じしょう の場所 ばしょ 論 ろん 1-,呉 ご 谷 たに 充利 みつとし ,P.54
^ コトバンク「ブルゴーニュ座 ざ 」
^ 世界 せかい 古典 こてん 文学 ぶんがく 全集 ぜんしゅう 47 モリエール,P.462,鈴木 すずき 力衛 りきえ ,筑摩書房 ちくましょぼう ,1965年 ねん 刊行 かんこう