才女さいじょ気取きど

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
モローによるどう版画はんが

才女さいじょ気取きど』(仏語ふつご原題げんだい Les Précieuses ridicules )は、モリエール戯曲ぎきょく1659ねん発表はっぴょう。プチ・ブルボン劇場げきじょうにて同年どうねん11がつ18にち初演しょえん

ほんさく序文じょぶんにおいてモリエールは「完璧かんぺきなものをあやまって模倣もほうすると、むかしからいつも喜劇きげき題材だいざいとなってきた」とべているように、プレシューズ真似まねをする田舎いなかむすめたちを揶揄やゆした戯曲ぎきょくである[1]。モリエール晩年ばんねん作品さくひんおんな学者がくしゃ」のぜん段階だんかいてき作品さくひん[2]

登場とうじょう人物じんぶつ[編集へんしゅう]

  • ラ・グランジュ…られたおとこ
  • デュ・クロワジー…同上どうじょう
  • ゴルジビュス…善良ぜんりょう町人ちょうにん
  • マドロン…ゴルジビュスのむすめ才女さいじょ気取きどり。
  • カトス…ゴルジビュスのめい才女さいじょ気取きどり。
  • マロット…才女さいじょ気取きどりたちの小間使こまづかい。
  • アルマンゾール…才女さいじょ気取きどりの下男げなん
  • マスカリーユ…ラ・グランジュの下男げなん
  • ジョドレ…デュ・クロワジーの下男げなん
  • リュシール…近所きんじょおんなたち
  • セリメーヌ…近所きんじょおんなたち

あらすじ[編集へんしゅう]

舞台ぶたいパリ。ゴルジビュスのいえから。ラ・グランジュとデュ・クロワジーはゴルジビュスのむすめたちにかるくあしらわれ、ひどいられかたをしてしまった。2人ふたりはラ・グランジュの下男げなんであるマスカリーユを使つかって、復讐ふくしゅうをしようとたくらむ。善良ぜんりょう町人ちょうにんであるゴルジビュスはかれらを婿むことするつもりであったが、かれらがいえからおこってってしまったので、事情じじょう確認かくにんするためにマドロンとカトスをびつけた。早速さっそくあこがれのプレシューズの猿真似さるまねをして、衒学げんがくてき姿勢しせいをとってゴルジビュスをおこらせる「才女さいじょ気取きどり」たち。かれはさっさと結婚けっこんするように2人ふたりにいいのこし、ってしまった。

そこへ貴族きぞくのふりをしたマスカリーユが登場とうじょうかれ貴族きぞくぶるのがきなおとこで、詩作しさくやお洒落しゃれなど身分みぶんにふさわしくない趣味しゅみっているため「才女さいじょ気取きどり」たちとははなしがとてもはずむ。そこにデュ・クロワジーの下男げなんであるジョドレ(こちらは子爵ししゃくのふりをしている)もくわえ、一同いちどう知識ちしきをひけらかしあって会話かいわたのしんでいた。そのうちにマスカリーユはくして、(ラ・グランジュのかねで)楽士がくしたちをんでおどはじめた。するとそこへ、ラ・グランジュが闖入ちんにゅうし、ってきたぼうでマスカリーユをぶんなぐはじめる。どういうことかわからず才女さいじょ気取きどりたちは戸惑とまどうが、まえ貴族きぞくだとおもっていたおとこたちがただの下男げなんだとって、おどろくやしがる。彼女かのじょたちは貴族きぞくでもなんでもないただの下男げなん相手あいてに、いいになっていたのであった。このようなとんでもない侮辱ぶじょくけても、自分じぶんむすめのせいなので、なみだんでえるしかないゴルジビュス。こうなったのはすべておまえたちのからさびであり、だのソネットだのとくだらん馬鹿ばかばなしはすっこんでろと、激怒げきどし、幕切まくぎれ。

成立せいりつ過程かてい[編集へんしゅう]

プレシューズ」の登場とうじょうについて[編集へんしゅう]

17世紀せいき前半ぜんはんから中盤ちゅうばんのフランスは、長年ながねんわた内乱ないらん宗教しゅうきょう戦争せんそうがようやくいたころで、戦乱せんらん時代じだい荒々あらあらしい雰囲気ふんいきいたところのこっていた。アンリ4せい時代じだいになって王権おうけんがようやく確立かくりつされ、国王こくおう屈服くっぷくした貴族きぞくたちがのべしんとしてパリにまり、かれらは宮廷きゅうてい貴婦人きふじんたちとともに社交しゃこうかい形作かたちづくるようになった。かれらは一切いっさい行為こうい思想しそうにおいて、つね社交しゃこうかい念頭ねんとうかねばならなくなり、自分じぶんうつくしいかたちひとせようという意識いしきまれた。とりわけ婦人ふじんたちにたいしては、優雅ゆうが態度たいどをもってせっしようとするうごきがるのは当然とうぜんであり、かくして「ギャラントリー (Galanterie)」がまれたのであった[3]

これとときおなじくして、カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌが、ランブイエ侯爵こうしゃく結婚けっこんして侯爵こうしゃく夫人ふじんとなり、アンリ4せい宮廷きゅうていまねれられた。彼女かのじょ父親ちちおやはローマ駐在ちゅうざいのフランス大使たいしであり、どう時期じきのイタリアではルネサンス円熟えんじゅくむかえていた。そのため、文明ぶんめい空気くうき存分ぞんぶん吸収きゅうしゅうして彼女かのじょそだったわけであり、そのような彼女かのじょにとってフランス王宮おうきゅうみなぎ粗野そや雰囲気ふんいき到底とうていえられるものではなく、失望しつぼうし、宮廷きゅうてい生活せいかつ見切みきりをつけて、自宅じたくにサロンをひらいたのであった[4]

彼女かのじょはこのサロンに国王こくおうをはじめとする名門めいもん貴族きぞく文化ぶんかじんたちをまねいて、文学ぶんがく作品さくひん朗読ろうどくかいおこなったり、討論とうろんかいおこなったりするなど、高度こうど知的ちてき快楽かいらく追及ついきゅうしていた。このサロンにはおおくのひとあつまることとなり、そうしてこれまでの社会しゃかい通用つうようしていた道徳どうとくとはまたちがった、社交しゃこうかいのしきたりがまれた。他人たにん不快ふかいあたえないよう、態度たいど服装ふくそうなどに注意ちゅういし、一切いっさい過激かげきさを排除はいじょする。こうしてオネット・オム (honnête homme) とばれる社交しゃこうじん典型てんけいまれたのであった。『人間にんげんぎら』のフィラントなどはそのかりやすい好例こうれいである[4]

ランブイエ侯爵こうしゃく夫人ふじんのサロンが、言語げんご服装ふくそう美化びか風俗ふうぞく是正ぜせいたした役割やくわりきわめておおきく、サロンがひとつの流行りゅうこうとなり、これを真似まねたサロンがいくつもひらかれた。彼女かのじょのサロンに出入でいりする才媛さいえんをプレシューズ(Précieuses)、男性だんせいならプレシュー(Précieux)とんだ。プレシューズという言葉ことばが、ほんさくにおいて攻撃こうげき対象たいしょうとなったように、「衒学げんがくてきで、おたかくとまっているおんな」といった意味いみびたのは1650年代ねんだいになってからである。ランブイエ侯爵こうしゃく夫人ふじんがサロンをひらいた当時とうじ、つまり1620年代ねんだい段階だんかいでは、侮蔑ぶべつてき意味いみっておらず、彼女かのじょたちをプレシューズとぶとき、その意味いみ解釈かいしゃくするのはあやまりであり、たんに「教養きょうようのある女性じょせい」くらいにとらえるべきである[5][6]

プレシューズの意味いみとともに、その主張しゅちょう風潮ふうちょうあらわ言葉ことばプレシオジテ(Préciosité)」の意味いみ変遷へんせんしていった。プレシオジテは1680年代ねんだいごろわりをむかえるが、その期間きかん大別たいべつして2けることができる。ランブイエ侯爵こうしゃく夫人ふじんのサロンを中心ちゅうしんとしていた前期ぜんき(1620~1648ねん)とマドレーヌ・ド・スキュデリーのサロン「土曜会どようかい」を中心ちゅうしんとする後期こうき(1650~80ねん)である。元々もともとプレシオジテは「粗野そや殺伐さつばつとした風潮ふうちょう一掃いっそうする」ことに目的もくてきがあったが、次第しだい先鋭せんえいし、愚劣ぐれつ滑稽こっけいなものへとてんじていった。モリエールがほんさく公開こうかいしたころには、流行りゅうこう批判ひはんれ、一流いちりゅう才媛さいえんたちを真似まねしてよろこんでいる無知むち蒙昧もうまい田舎いなかむすめたちまでもがプレッシューズを名乗なのるようになり、その滑稽こっけいさはいよいよとんでもないものになっていたのである[5][7]

プレシオジテはたしかに滑稽こっけいめんもあったものの、フランス文学ぶんがく社会しゃかいたした貢献こうけんけっしてすくないものではない。プレシオジテによって、風俗ふうぞく浄化じょうかされ、フランス語ふらんすごうつくしく洗練せんれんされた言語げんごへと進化しんかした。現代げんだいフランス語ふらんすごにおいても、彼女かのじょたちの創案そうあんによる語句ごく表現ひょうげんおおのこっている。このように、プレシオジテはフランスじん精神せいしんふかくかかわりをっているものであり、この風潮ふうちょうにランブイエ侯爵こうしゃく夫人ふじん多大ただい影響えいきょうあたえた[7]

公開こうかい[編集へんしゅう]

ルイ14せい御前ごぜん演劇えんげきだい成功せいこうをさせたモリエールは、国王こくおうとそののべしんたちにられ、プチ・ブルボン劇場げきじょう使用しようする許可きょか獲得かくとくした。はじめは悲劇ひげきばかりを上演じょうえんにかけていたが、観客かんきゃく評判ひょうばんくなかった。モリエールは喜劇きげきには才能さいのうがあっても、悲劇ひげきには才能さいのうがなく、劇団げきだん喜劇きげききの役者やくしゃぞろいであったからである。こうしてかれ劇団げきだん経済けいざいてきかなくなったとき、1655ねんはじめて執筆しっぴつした喜劇きげき粗忽そこつしゃ」を上演じょうえんしてみると、おもいのほか成功せいこうおさめた。そのながれにって公開こうかいされたのが、ほんさくである[8]

ランブイエ侯爵こうしゃく夫人ふじんマドレーヌ・ド・スキュデリーはじめとする本来ほんらいの「プレシューズ」たちもほんさく観劇かんげきしたようだが、とくはらてなかったようである。はらてたのは当然とうぜん彼女かのじょたちに追随ついずいする二流にりゅう三流さんりゅうものたちであった。かれらのなかには復讐ふくしゅうちかうものもすくなくなく、このようにしてモリエールのてきえていった。1673ねんにこのるまで、かれらの攻撃こうげきくるしめられることとなった。「女房にょうぼう学校がっこう」の成功せいこう起因きいんする「喜劇きげき戦争せんそう」や「タルチュフ上演じょうえん禁止きんし問題もんだいなどは、その代表だいひょうれいである[9]

ほんさく初演しょえんには、国王こくおうルイ14せいはピレネーに遠征えんせいちゅうであったが、マリー・テレーズ・ドートリッシュとの婚約こんやくめてパリにもどってくると、1660ねん7がつ29にちヴァンセンヌじょう劇団げきだんせて上演じょうえんさせた。よほどったのか、10月21にちにはルーヴル宮殿きゅうでんで、26にちにはジュール・マザラン邸宅ていたくにおいて上演じょうえんさせたという記録きろくのこっている[10]

ほんさくはパリ市民しみん好評こうひょうはくし、だい成功せいこうおさめたが、1660ねん10がつ、モリエールはそのだい成功せいこうねたむブルゴーニュ劇場げきじょう、マレー劇場げきじょうなどの策略さくりゃくによって、拠点きょてんとしていたプチ・ブルボン劇場げきじょううしなってしまった。国王こくおう請願せいがんしたところ、パレ・ロワイヤル使用しようけん獲得かくとく、この劇場げきじょう生涯しょうがいとおしての本拠地ほんきょちとすることとなったのである。[11][12]

エピソード[編集へんしゅう]

  • 公開こうかい翌年よくねんの1660ねんに、無断むだんほんさく出版しゅっぱんされ、その書店しょてん相手取あいてどって裁判さいばんこしている。このけんについての説明せつめいを、モリエールは序文じょぶんとしてくわえている[13]
  • 当時とうじ「プレッシューズ」たちのあいだで、ギリシャふう名前なまえ名乗なのることが流行りゅうこうした。ランブイエ侯爵こうしゃく夫人ふじんは「アルテミス」、スキュデリーは「サッフォー」としょうしていた。ほんさくにおいても、だい4けいにおいてゴルジビュスにギリシャふう名前なまえぶようにたのむカトスとマドロンのセリフがられる。ちなみにそれぞれ、ポリクセーヌとアマントだった[14]
  • プレシューズたちは、卑俗ひぞくないいまわしを軽蔑けいべつし、そのわりにまがげんほうこのんで使用しようした。当時とうじすでに彼女かのじょたちの言葉ことばをまとめた辞典じてん刊行かんこうされており、それによってどのようないいまわしをしていたのかをくわしくることができる。それによれば、つきを「沈黙ちんもくのたいまつ」、かがみを「忠告ちゅうこくしゃ」などとんでいたようである。ほんさくにもそれが随所ずいしょられる[5]
  • だい9けいにてマドロンがくちにしている「詞華集しかしゅう」とは、どの書籍しょせきしているのか確実かくじつにはわかっていないが、1653ねん刊行かんこうされたセルシー( Charles de Sercy )のによる「セルシー詞華集しかしゅう」とするせつ根強ねづよい。当時とうじの錚々たる詩人しじんによる作品さくひんあつめられた書物しょもつであり、マドロンは「かれらがいえることになっている」と虚勢きょせいるのに利用りようしたのであった[15]

日本語にほんごやく[編集へんしゅう]

  • 而非才女さいじょ井上いのうえいさむわけ、(古典こてんげき大系たいけい だいななかん 佛蘭西ふらんすへん(1) 所収しょしゅう)、近代きんだいしゃ、1924ねん
  • 而非才女さいじょ井上いのうえいさむ やく、(世界せかい戯曲ぎきょく全集ぜんしゅう だいいちかん佛蘭西ふらんすへん(いち) 所収しょしゅう)、近代きんだいしゃ、1928ねん
  • 才女さいじょ氣取きどり』奥村おくむらみのるわけ、(モリエール全集ぜんしゅう だいさんかん 所収しょしゅう)、中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1934ねん
  • 才女さいじょどり』鈴木すずき力衛りきえわけ、(モリエール笑劇しょうげきしゅう 所収しょしゅう)、白水しろみずしゃ、1959ねん
  • 才女さいじょ気取きどり』鈴木すずき力衛りきえ やく、(世界せかい古典こてん文学ぶんがく全集ぜんしゅう 47 モリエールへん 所収しょしゅう)、筑摩書房ちくましょぼう、1965ねん
  • 才女さいじょ気取きどり』鈴木すずき力衛りきえ やく、(モリエール全集ぜんしゅう 4 所収しょしゅう)、中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1973ねん
  • 滑稽こっけい才女さいじょたち』秋山あきやま伸子のぶこやく、(モリエール全集ぜんしゅう 2 所収しょしゅう)、臨川りんせん書店しょてん、2000ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  • 白水しろみずしゃ」は「モリエール名作めいさくしゅう 1963ねん刊行かんこうばん」、「河出かわで書房しょぼう」は「世界せかい古典こてん文学ぶんがく全集ぜんしゅう3-6 モリエール 1978ねん刊行かんこうばん」、「筑摩書房ちくましょぼう」は「世界せかい古典こてん文学ぶんがく全集ぜんしゅう47 モリエール 1965ねん刊行かんこうばん」。
  1. ^ 筑摩書房ちくましょぼう P.16,440
  2. ^ 筑摩書房ちくましょぼう P.461
  3. ^ 筑摩書房ちくましょぼう P.459
  4. ^ a b 筑摩書房ちくましょぼう P.460
  5. ^ a b c 筑摩書房ちくましょぼう P.460,1
  6. ^ フランス文学ぶんがく辞典じてん,日本にっぽんフランスフランスぶん学会がっかいへん,白水しろみずしゃ,1979ねん刊行かんこう,P.816
  7. ^ a b フランス文学ぶんがく辞典じてん,日本にっぽんフランスフランスぶん学会がっかいへん,白水しろみずしゃ,1979ねん刊行かんこう,P.642-3
  8. ^ 筑摩書房ちくましょぼう P.440
  9. ^ 白水しろみずしゃ P.588
  10. ^ 白水しろみずしゃ P.588,9
  11. ^ 白水しろみずしゃ P.589
  12. ^ 筑摩書房ちくましょぼう P.467
  13. ^ 筑摩書房ちくましょぼう P.467
  14. ^ 筑摩書房ちくましょぼう P.20,1
  15. ^ コルネイユとマルキーズ・デュ・パルク:Pierre Corneille et Marquise Du Parc,村瀬むらせのべ哉,広島大学ひろしまだいがく総合科学部そうごうかがくぶ紀要きよう. III, 人間にんげん文化ぶんか研究けんきゅう Vol.10 P.126