オトマー・フライヘル・フォン・フェアシューアー (Otmar Freiherr von Verschuer、1896年 ねん 7月 がつ 16日 にち - 1969年 ねん 8月 がつ 8日 にち )は、ドイツ の優生 ゆうせい 学 がく 者 もの 、人類 じんるい 遺伝 いでん 学者 がくしゃ (人類 じんるい 生物 せいぶつ 学者 がくしゃ )。
ナチス の科学 かがく 者 しゃ であり[1] 、ナチスによるユダヤ人 じん 大量 たいりょう 殺害 さつがい 政策 せいさく に協力 きょうりょく した科学 かがく 者 しゃ である[2] 。
フェアシュアーは1930年代 ねんだい から1950年代 ねんだい にかけてのドイツを代表 だいひょう する遺伝 いでん 病理 びょうり 学者 がくしゃ であり[3] 、ナチスの人種 じんしゅ 政策 せいさく の重要 じゅうよう な提唱 ていしょう 者 しゃ であった[3] 。当時 とうじ 彼 かれ の説 せつ は人々 ひとびと から " 科学 かがく 的 てき に有効 ゆうこう " と信 しん じられ、ナチスの政策 せいさく にも影響 えいきょう を与 あた えた[3] が、現在 げんざい の水準 すいじゅん で彼 かれ の学説 がくせつ を詳細 しょうさい に科学 かがく 的 てき に検討 けんとう すると、彼 かれ の唱 とな えた内容 ないよう は病的 びょうてき に間違 まちが った学問 がくもん であることが判明 はんめい している[3] 。
ドイツのゾルツ でオランダ貴族 きぞく の " フェアシュアー 家 か "(de:Verschuer も参照 さんしょう 可 か )に生 う まれた[4] 。大学 だいがく に進学 しんがく すると、当時 とうじ 先端 せんたん の科学 かがく として世界 せかい 的 てき に流行 りゅうこう していた優生 ゆうせい 学 がく を学 まな び、その専門 せんもん 家 か となった。優生 ゆうせい 学 がく は、民族 みんぞく を集団 しゅうだん としてとらえて集団 しゅうだん レベルでの遺伝 いでん 的 てき な健康 けんこう を目指 めざ すため、優 すぐ れた遺伝子 いでんし を残 のこ し、劣 おと った遺伝子 いでんし を残 のこ さないことで「優秀 ゆうしゅう な人間 にんげん によるユートピア」を目指 めざ すと当時 とうじ は考 かんが えられており[5] 、人間 にんげん を選別 せんべつ して障害 しょうがい 者 しゃ や病人 びょうにん と見 み なした人々 ひとびと が子孫 しそん を残 のこ せないように断種 だんしゅ (不 ふ 妊 にん 手術 しゅじゅつ 。輸卵管 ゆらんかん や輸精管 かん を切断 せつだん するような手術 しゅじゅつ )を推進 すいしん する学問 がくもん であった[6] [7] 。
1931年 ねん にフェアシュアーは障害 しょうがい 者 しゃ に対 たい して不 ふ 妊 にん 手術 しゅじゅつ を行 おこな うべきだと主張 しゅちょう した[8] 。当時 とうじ ドイツは第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の敗戦 はいせん によって課 か せられた賠償金 ばいしょうきん や世界 せかい 恐慌 きょうこう のため国民 こくみん の生活 せいかつ は困窮 こんきゅう を極 きわ め、政府 せいふ の財政 ざいせい は危機 きき 的 てき 状況 じょうきょう であり[9] 、「障害 しょうがい 者 しゃ にまわす予算 よさん を健常 けんじょう 者 しゃ のために役立 やくだ てるべき」「多 おお くのドイツ民族 みんぞく を救 すく うためには、小 ちい さな犠牲 ぎせい はしかたない」と考 かんが え[9] 、「本人 ほんにん が同意 どうい があれば、不 ふ 妊 にん 手術 しゅじゅつ を認 みと める」とする州 しゅう レベルの法案 ほうあん を提案 ていあん した[9] 。当時 とうじ のドイツの国 くに レベルの法律 ほうりつ では断種 だんしゅ は違法 いほう であったためこの法案 ほうあん は実現 じつげん しなかったが[10] 、その後 ご アドルフ・ヒトラー 率 ひき いるナチス が与党 よとう となり[11] 本人 ほんにん の同意 どうい なしに国 くに が強制 きょうせい 的 てき に不 ふ 妊 にん 手術 しゅじゅつ をするような法律 ほうりつ である「断種 だんしゅ 法 ほう 」を1933年 ねん に可決 かけつ 、成立 せいりつ させた
[12] 。これは優生 ゆうせい 学者 がくしゃ にとっては非常 ひじょう に都合 つごう の良 よ いものだった。フェアシュアーはナチスの政策 せいさく を医学 いがく 界 かい に広 ひろ めるために、みずから主宰 しゅさい して医学 いがく 雑誌 ざっし を創刊 そうかん し[12] 、そこでヒトラーのことで「優生 ゆうせい 学 がく を国家 こっか の主要 しゅよう 原則 げんそく とした初 はつ の政治 せいじ 家 か 」と高 たか く評価 ひょうか した[12] 。そしてナチスのほうもフェアシュアーのことを「ナチスに対 たい して完全 かんぜん な忠誠 ちゅうせい 心 しん を持 も っており、政治 せいじ 的 てき 宣伝 せんでん の面 めん でも意義 いぎ がある」と高 たか く評価 ひょうか した[13] 。
1935年 ねん から1942年 ねん まで遺伝 いでん 生物 せいぶつ 学 がく ・人種 じんしゅ 衛生 えいせい 学 がく 研究所 けんきゅうじょ 所長 しょちょう となり、1942年 ねん から1948年 ねん までカイザー・ヴィルヘルム人類 じんるい 学 がく ・人類 じんるい 遺伝 いでん 学 がく ・優生 ゆうせい 学 がく 研究所 けんきゅうじょ 所長 しょちょう を務 つと めた。フェアシュアーはその立場 たちば を利用 りよう して、断種 だんしゅ する人々 ひとびと をあぶりだすために、フランクフルト市民 しみん の病気 びょうき の履歴 りれき などを調 しら べさせ、市民 しみん の約 やく 半数 はんすう の25万 まん 人 にん もの遺伝 いでん 情報 じょうほう を得 え た[13] 。研究所 けんきゅうじょ に保健所 ほけんじょ の資格 しかく を取得 しゅとく させ、その資格 しかく を利用 りよう して住民 じゅうみん を直接 ちょくせつ に診断 しんだん し、遺伝 いでん 的 てき に健康 けんこう と判断 はんだん したカップルに「結婚 けっこん 適正 てきせい 証明 しょうめい 書 しょ 」を発行 はっこう し、遺伝 いでん 的 てき に問題 もんだい があると判断 はんだん した場合 ばあい 、断種 だんしゅ を強制 きょうせい 的 てき に進 すす めるための書類 しょるい を「優生 ゆうせい 裁判所 さいばんしょ 」なる裁判所 さいばんしょ つまりナチスが断種 だんしゅ のために新 あら たに設立 せつりつ した裁判所 さいばんしょ に提出 ていしゅつ した[14] 。この裁判所 さいばんしょ では一 いち 件 けん あたり10分 ふん もかけずに、強制 きょうせい 的 てき に不 ふ 妊 にん 手術 しゅじゅつ を行 おこな うような判決 はんけつ を下 くだ し、フェアシュアーの率 ひき いる研究所 けんきゅうじょ のせいで、つぎつぎと多 おお くの人々 ひとびと が強制 きょうせい 的 てき に断種 だんしゅ 手術 しゅじゅつ をされてしまい、1945年 ねん までにおよそ40万 まん 人 にん が強制 きょうせい 的 てき に断種 だんしゅ されてしまったといい[15] 、これは「当時 とうじ のドイツ国民 こくみん のおよそ200人 にん にひとり」という数字 すうじ だという[16] 。
こうしてフェアシュアーとナチスは病人 びょうにん や障害 しょうがい 者 しゃ を徹底 てってい して排斥 はいせき したが、次 つぎ にナチスはユダヤ人 じん のことも「劣 おと った人種 じんしゅ 」などとして徹底 てってい して排斥 はいせき しはじめたわけで、この動 うご きに、フェアシュアーは科学 かがく 者 しゃ の立場 たちば で協力 きょうりょく した[17] 。ナチスにとっては誰 だれ がユダヤ人 じん で誰 だれ がユダヤ人 じん でないか選別 せんべつ する方法 ほうほう がはっきりしないことが問題 もんだい となっていたので、フェアシュアーはユダヤ人 じん を判別 はんべつ する方法 ほうほう を探 さぐ る役割 やくわり を担当 たんとう したが、フェアシュアーは「ユダヤ人 じん は他 た の民族 みんぞく と比較 ひかく して糖尿 とうにょう 病 びょう などの発病 はつびょう をしたり、聾 ろう や難聴 なんちょう などの障害 しょうがい が起 お きる頻度 ひんど が高 たか い」などと主張 しゅちょう し(フェアシュアー「ユダヤ人 じん の人種 じんしゅ 生物 せいぶつ 学 がく 」)、「ドイツ民族 みんぞく の特徴 とくちょう の保存 ほぞん が脅 おびや かされたりしないように、ユダヤ人 じん を完全 かんぜん に隔離 かくり することが必要 ひつよう である」と主張 しゅちょう した[17] 。
フェアシュアーは血液 けつえき に含 ふく まれるたんぱく質 しつ の診断 しんだん によってユダヤ人 じん を簡単 かんたん に判別 はんべつ できないか、と考 かんが えた[18] 。研究所 けんきゅうじょ にヨーゼフ・メンゲレ という新人 しんじん が赴任 ふにん してきて、二人 ふたり は師弟 してい 関係 かんけい となった[19] 。フェアシュアーは弟子 でし のメンゲレを使 つか い、アウシュビッツ強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ でユダヤ人 じん を中心 ちゅうしん としてさまざまな人種 じんしゅ の血液 けつえき を大量 たいりょう に集 あつ めさせ、自身 じしん のもとに大量 たいりょう の血液 けつえき 標本 ひょうほん を届 とど けさせた[20] 。弟子 でし のメンゲレは、師 し のフェアシュアーを喜 よろこ ばせようと眼球 がんきゅう ・骨 ほね なども届 とど けようとし、それらを収容 しゅうよう 者 しゃ の身体 しんたい から解剖 かいぼう して取 と り出 だ すために、収容 しゅうよう されている人々 ひとびと を殺害 さつがい しはじめた[21] 。
1945年 ねん 5月 がつ 7日 にち にドイツが無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく し敗戦 はいせん すると、フェアシュアーは自身 じしん がナチスに協力 きょうりょく していた証拠 しょうこ を焼却 しょうきゃく するなどして証拠 しょうこ 隠滅 いんめつ を実行 じっこう した[22] 。また戦後 せんご に逮捕 たいほ され尋問 じんもん されても、「アウシュビッツのことは知 し らなかった」と証言 しょうげん し、責任 せきにん を回避 かいひ し、日本円 にほんえん で45万 まん 円 えん 相当 そうとう の罰金 ばっきん できりぬけた[23] 。戦後 せんご にはドイツの科学 かがく 界 かい に復帰 ふっき し[24] 、戦後 せんご になって、自 みずか らを「遺伝 いでん 学者 がくしゃ 」と再 さい 定義 ていぎ した。
1950年代 ねんだい から1960年代 ねんだい の間 あいだ は人体 じんたい に対 たい する核 かく 放射線 ほうしゃせん の影響 えいきょう についての研究 けんきゅう と遺伝子 いでんし 工学 こうがく によって「科学 かがく 的 てき な改良 かいりょう をされた」人間 にんげん を作製 さくせい する可能 かのう 性 せい に対 たい しての警告 けいこく で注目 ちゅうもく された。
1951年 ねん ミュンスタ みゅんすた ー大学 だいがく に迎 むか え入 い れられ、1952年 ねん には、ドイツ人類 じんるい 学 がく 協会 きょうかい の会長 かいちょう に昇 のぼ りつめ、学会 がっかい トップの座 ざ に居座 いすわ り続 つづ けた[24] 。1951年 ねん から1965年 ねん の間 あいだ 、ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学 だいがく の人類 じんるい 遺伝 いでん 学 がく の教授 きょうじゅ を務 つと め、医学部 いがくぶ の学部 がくぶ 長 ちょう も兼任 けんにん した。
ミュンスターで西 にし ドイツ最大 さいだい 級 きゅう の遺伝 いでん 学 がく 研究 けんきゅう センターを設立 せつりつ し、自身 じしん の死 し まで世界 せかい で最 もっと も影響 えいきょう 力 りょく のある遺伝 いでん 学者 がくしゃ の一人 ひとり でいた。1952年 ねん にはドイツ人類 じんるい 学 がく 協会 きょうかい の会長 かいちょう に選出 せんしゅつ された。息子 むすこ に欧州 おうしゅう 委員 いいん 会 かい の高級 こうきゅう 官僚 かんりょう であるヘルムート・フォン・フェアシューアー がいる。
ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学 だいがく で1965年 ねん に退職 たいしょく するまで人類 じんるい 遺伝 いでん 学 がく の教授 きょうじゅ を務 つと めた。
黒 くろ い過去 かこ は人々 ひとびと には知 し られず、「遺伝 いでん 学 がく 研究 けんきゅう や遺伝 いでん 疾患 しっかん と遺伝 いでん 異常 いじょう についての研究 けんきゅう における双生児 そうせいじ 研究 けんきゅう (英語 えいご 版 ばん ) の先駆 せんく 者 しゃ [25] 」として生 い きた。
1968年 ねん 、故郷 こきょう ゾルツで家族 かぞく と休暇 きゅうか を過 す ごした帰 かえ り道 みち に交通 こうつう 事故 じこ に遭 あ い、11ヶ月 かげつ 間 あいだ 昏睡 こんすい 状態 じょうたい となり、翌 よく 1969年 ねん に死去 しきょ [26] 。
追悼 ついとう 記事 きじ には「オトマール・フォン・フェアシュアー教授 きょうじゅ は信仰 しんこう 心 しん が篤 あつ く、模範 もはん 的 てき な人物 じんぶつ であった」などと書 か かれた[27] 。つまりナチスに協力 きょうりょく していた黒 くろ い過去 かこ のことは人々 ひとびと に気 き づかれないまま人生 じんせい を終 お えた[2] 。フェアシュアーの黒 くろ い過去 かこ が明 あき らかにされたのは、彼 かれ の死後 しご のことである[2] 。
Eric Ehrenreich, "Otmar von Verschuer and the 'Scientific' Legitimization of Nazi Anti-Jewish Policy," Holocaust and Genocide Studies 2007 21(1):55–72 [2]
Westermann, Stefanie; Kühl, Richard; Gross, Dominik, eds. (2009), Medizin und Nationalsozialismus vol. 1: Medizin im Dienst der "Erbgesundheit": Beiträge zur Geschichte der Eugenik und "Rassenhygiene" (English: Medicine and National Socialism , Vol. 1: Medicine at work, the "hereditary health": Contribution to history of Eugenics and "race hygiene" ), LIT Verlag Münster, ISBN 978-3643104786 , https://books.google.com/books?id=h54Gsl6JBT8C&pg=PA78
NHK「フランケンシュタインの誘惑 ゆうわく 」制作 せいさく 班 はん 『闇 やみ に魅入 みい られた科学 かがく 者 しゃ たち―人体 じんたい 実験 じっけん は何 なに を生 う んだのか』NHK出版 しゅっぱん 、2018年 ねん 。ISBN 978-4140817353 。
Sheila Faith Weiss: After the Fall. Political Whitewashing, Professional Posturing, and personal Refashioning in the Postwar Career of Otmar Freiherr von Verschuer. Isis, Vol. 101 (2010), 722–758.
Peter Degen, "Racial Hygienist Otmar von Verschuer, the Confessing Church, and comparative reflections on postwar rehabilitation," pp. 155–65 in Jing Bao Nie, Japan´s Medical Wartime Atrocities (London: Routledge&Kegan, 2010)
Robert N. Proctor, Racial Hygiene: Medicine under the Nazis , Cambridge, MA: Harvard University Press, 1988.
Paul Weindling, "'Tales from Nuremberg': The Kaiser Wilhelm Institute for Anthropology and Allied medical war crimes policy," in Geschichte der Kaiser-Wilhelm-Gesellschaft im Nationalsozialismus: Bestandaufnahme und Perspektiven der Forschung , ed. Doris Kaufmann, v.2 (Goettingen: Wallstein, 2000), 635–652.
Katrin Weigmann: "In the name of science. The role of biologists in Nazi atrocities: lessons for today's scientists" in EMBO Reports v.2 #10 (2001), 871–875.
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