オラデア (Oradea (ルーマニア語 ご ), ハンガリー語 ご : ナジヴァーラド Nagyvárad , ドイツ語 ご : グロースヴァールダイン Großwardein )は、ルーマニア 西部 せいぶ トランシルヴァニア 地方 ちほう (クリシャナ 地方 ちほう )の都市 とし 。ビホル県 けん の県 けん 都 と である。
2002年 ねん の国勢調査 こくせいちょうさ によれば総 そう 人口 じんこう は206,527人 にん 。これには近郊 きんこう の自治体 じちたい の人口 じんこう は含 ふく まれていない。近郊 きんこう を含 ふく むとオラデア一帯 いったい には220,000人 にん が住 す んでいる。オラデアは温泉 おんせん で有名 ゆうめい である。その産出 さんしゅつ 量 りょう は季 き 節 ぶし によって変 か わる。
クリシュル・レペデ川 がわ (早 はや いクリシュ〈ケレシュ〉川 かわ )の谷 たに がクリシャナ平原 へいげん に向 む かって開 ひら いている地点 ちてん に位置 いち する。ハンガリー との国境 こっきょう からは13キロメートル。居住 きょじゅう 地 ち の主要 しゅよう 部 ぶ は氾濫 はんらん 原 ばら の上 うえ に位置 いち し、クリシュル・レペデ川 がわ の壇 だん 地 ち にある。クリシュル・レペデ川 がわ は町 まち の中心 ちゅうしん を横断 おうだん している。
オラデアが最初 さいしょ にラテン語 らてんご 文献 ぶんけん に現 あらわ れるのは1113年 ねん であり、このときはヴァラディヌム(Varadinum)という名 な で言及 げんきゅう された。現在 げんざい は廃墟 はいきょ として残 のこ っているオラデア城砦 じょうさい は、1241年 ねん にモンゴル帝国 ていこく の来襲 らいしゅう に備 そな えるため修復 しゅうふく と強化 きょうか が始 はじ まったという記事 きじ が最古 さいこ の記録 きろく である。
オラデア(ヴァラディヌム)の地図 ちず (1617年 ねん )
14世紀 せいき 、ハンガリー王 おう カーロイ1世 せい とその息子 むすこ ラヨシュ1世 せい の時代 じだい には、オラデアはカトリック教会 きょうかい の司教 しきょう 座 ざ 所在地 しょざいち となった。16世紀 せいき 、トランシルヴァニアはオスマン帝国 ていこく 宗主 そうしゅ 下 か の自治 じち 権 けん を持 も つ半 はん 独立 どくりつ 国家 こっか トランシルヴァニア公国 こうこく となり、その範囲 はんい の中 なか にはオラデアのあるビホル地方 ちほう も含 ふく まれた。1598年 ねん に要塞 ようさい はオスマン帝国 ていこく 軍 ぐん によって包囲 ほうい され、1660年 ねん 、オスマンはオラデアを占拠 せんきょ し、ハプスブルク帝国 ていこく 軍 ぐん が侵攻 しんこう して来 く る1692年 ねん 9月 がつ まで支配 しはい 下 か に置 お いた。
1703年 ねん には、ラーコーツィ・フェレンツ2世 せい に率 ひき いられた反 はん ハプスブルク運動 うんどう が起 お こり、オラデア要塞 ようさい の周囲 しゅうい の市場 いちば も、砦 とりで の中 なか の帝国 ていこく の駐屯 ちゅうとん 部隊 ぶたい とラーコーツィの反乱 はんらん 軍 ぐん との戦場 せんじょう になった。その時 とき の帝国 ていこく の駐屯 ちゅうとん 部隊 ぶたい の支援 しえん においてのオラデア市民 しみん たちの功績 こうせき は、1712年 ねん 11月27日 にち に、神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい カール6世 せい によって公式 こうしき に認 みと められている。またそのころ、オラデア市民 しみん たちの経済 けいざい 的 てき 生活 せいかつ においては、手工業 しゅこうぎょう と商業 しょうぎょう が盛 さか んになった事 こと が特徴 とくちょう として挙 あ げられる。
18世紀 せいき にはウィーン 出身 しゅっしん の技術 ぎじゅつ 者 しゃ フランツ・アントン・ヒルデブラント がバロック様式 ようしき による都市 とし 計画 けいかく を行 おこな い、1752年 ねん に市 し の大 だい 規模 きぼ な改造 かいぞう に着手 ちゃくしゅ した。ローマ・カトリック教会 きょうかい の大 だい 聖堂 せいどう 、大司教 だいしきょう 宮殿 きゅうでん 、クリシュの国 くに 博物館 はくぶつかん など、現在 げんざい 残 のこ る多 おお くの建造 けんぞう 物 ぶつ がこのときに建 た てられた。
1918年 ねん 10月、ルーマニア国民党 こくみんとう (en:Romanian National Party )のアウレル・ラザル の家 いえ で、トランシルヴァニアのルーマニア人 じん の自治 じち 権 けん の宣言 せんげん 文書 ぶんしょ であるオラデア宣言 せんげん が編集 へんしゅう された。
1925年 ねん 、元 もと の市民 しみん 自治体 じちたい が解散 かいさん し、新 あら たに自治体 じちたい の地位 ちい がオラデアに与 あた えられた。この条例 じょうれい に従 したが い、名前 なまえ もオラデア・マーレ (大 おお きなオラデア)からオラデア へと変更 へんこう された。
ホテルやレストランなどの入 はい る黒 くろ 鷲 わし 宮殿 きゅうでん
オラデアはハンガリーとの国境 こっきょう に位置 いち し、ルーマニアの西 にし ヨーロッパへの玄関 げんかん 口 こう となっており、そのためにルーマニアでも有数 ゆうすう の繁栄 はんえい した都市 とし である。1989年 ねん 以降 いこう 、オラデアは多 おお くの経済 けいざい 的 てき 刷新 さっしん に直面 ちょくめん している。これは工業 こうぎょう 部門 ぶもん だけでなくサービス産業 さんぎょう にも渡 わた り、後者 こうしゃ の刷新 さっしん はオラデアが消費 しょうひ 活動 かつどう の重要 じゅうよう な拠点 きょてん であることによる。
オラデアの失業 しつぎょう 率 りつ は6.0%で、ルーマニア全国 ぜんこく の失業 しつぎょう 率 りつ に比 くら べればやや低 ひく いが、ビホル県 けん 全体 ぜんたい の失業 しつぎょう 率 りつ 約 やく 2%に比 くら べれば非常 ひじょう に高 たか い。
オラデア市 し はビホル県 けん の人口 じんこう のおよそ34.5%を占 し める一方 いっぽう 、県 けん の工業 こうぎょう 生産 せいさん のおよそ63%を生産 せいさん している。その主要 しゅよう な産業 さんぎょう は、家具 かぐ 、織物 おりもの と衣類 いるい 、履 は き物 もの 、食品 しょくひん である。
歴史 れきし 的 てき 民族 みんぞく 別 べつ 人口 じんこう 動態 どうたい [ 編集 へんしゅう ]
1910年 ねん :69,000人 にん (ルーマニア 人 ひと (R): 5.6%, ハンガリー 人 ひと (H): 91.10%)
1920年 ねん :72,000人 にん (R: 5%, H: 92%)
1930年 ねん :90,000人 にん (R: 25%, H: 67%)
1966年 ねん :122,634人 にん (R: 46%, H: 52%)
1977年 ねん :170,531人 にん (R: 53%, H: 45%)
1992年 ねん :222,741人 にん (R: 64%, H: 34%)
2002年 ねん の国勢調査 こくせいちょうさ によれば、総 そう 人口 じんこう に占 し めるそれぞれの民族 みんぞく の人口 じんこう と割合 わりあい は次 つぎ のとおりである。
1848年 ねん 以前 いぜん 、オラデアはオラデア・ノウア(Oradea Nouă )、オロシグ(Olosig)、ヴェレンツァ(Velenţa )、スブチェターテ(Subcetate)の4つに分 わ かれた町 まち で形成 けいせい されていた。それぞれの区画 くかく はVicus Venetia、Villa Latinorum、Vicus Bolognia、Vicus Padua などとも呼 よ ばれており、その名前 なまえ は、18世紀 せいき にこの地 ち に定住 ていじゅう していたフランス人 じん 、ワロン人 じん 、イタリア人 じん などの住民 じゅうみん に関係 かんけい している。
現在 げんざい 、オラデアは更 さら に多 おお くの地区 ちく (ルーマニア語 ご :cartiere カルティエーレ )に分 わ けられ、以前 いぜん の市 し の中心 ちゅうしん 区 く であるチェントルル・チヴィク(Centrul Civic)の周囲 しゅうい に環状 かんじょう に配置 はいち されている。
カンテミール Cantemir
チェントルル・チヴィク Centrul Civic
カルティエール・デチェバル Cartier Decebal
カルティエルル・ロジェリウス Cartierul Rogerius
エピスコピア・ビホルルイ Episcopia Bihorului
ヨルガ Iorga
ヨシア Ioşia
ヨシア・ノルド Ioşia-Nord
ヌファルル Nufărul
ヌファルル・ドイ Nufărul 2
オロシグ Olosig
オンチェア Oncea
オラシュル・ノウ Oraşul Nou
ロジェリウス Rogerius
サルカ Salca
セレウシュ Seleuş
スブ・チェターテ Sub Cetate
ヴェレンツァ Velenţa
トカイ Tokai
ポドゴリア Podgoria
エウロパ Europa
プリマ Prima
ルチャーファルル Luceafarul
ソアレルイ Soarelui
ドラゴス・ヴォダ Dragos Voda
エピスコピア Episcopia
市内 しない の公共 こうきょう 交通 こうつう 機関 きかん のネットワークは、市 し の機関 きかん であるOradea Transport Local (OTL)によって運行 うんこう (オラデア市電 しでん )される、3本 ほん の路面 ろめん 電車 でんしゃ 線 せん (1R、1N、2、3R、3N)と、いくつかのバス路線 ろせん から成 な る。CFR(ルーマニア鉄道 てつどう )の駅 えき は、中央 ちゅうおう 駅 えき 、西 にし 駅 えき 、東駅 ひがしえき 、エピスコピア・ビホル駅 えき の4つがある。西 にし 駅 えき はヨシア地区 ちく に位置 いち し、中央 ちゅうおう 駅 えき (単 たん にオラデアと呼 よ ばれる)は市 し の中心 ちゅうしん 街 がい の側 がわ にある。また、東駅 ひがしえき はヴェレンツァに位置 いち する。
また、オラデア国際 こくさい 空港 くうこう があり、タロム航空 こうくう が毎日 まいにち 国内 こくない 便 びん を、カルパトエア (en:Carpatair )がドイツ、イタリア、フランス、ギリシャなどの都市 とし への定期 ていき 便 びん をそれぞれ運航 うんこう している[1] 。
オラデア・バロック宮殿 きゅうでん
オラデアの観光 かんこう 名所 めいしょ は以下 いか の通 とお り。
オラデア・バロック宮殿 きゅうでん (Palatul Baroc din Oradea、en:Baroque Palace of Oradea ) - 現在 げんざい は「クリシュの国 くに 博物館 はくぶつかん 」(Muzeul Ţării Crişurilor )となっている、1年 ねん の日 ひ にちになぞらえた365の窓 まど のあるバロック建築 けんちく の宮殿 きゅうでん 。1945年 ねん まではローマ・カトリック教会 きょうかい の司教 しきょう 館 かん であったが、共産 きょうさん 政権 せいけん によって国有 こくゆう の建物 たてもの となり、1971年 ねん に博物館 はくぶつかん となった。2003年 ねん にローマ・カトリック教会 きょうかい に戻 もど されたが、今後 こんご の交渉 こうしょう がなされるまで、現在 げんざい のところ博物館 はくぶつかん として使 つか われている。収蔵 しゅうぞう 品 ひん は、主 おも に歴史 れきし と考古学 こうこがく 、民族 みんぞく 学 がく 、美術 びじゅつ 、博物学 はくぶつがく の4つの分野 ぶんや に分 わ けられている。
バロック大 だい 聖堂 せいどう (Catedrala barocă ) - ルーマニアで最 もっと も大 おお きい、バロック様式 ようしき の大 だい 聖堂 せいどう 。
オラデア要塞 ようさい (Cetatea Oradea ) - 今 いま も残 のこ る、五角形 ごかっけい の要塞 ようさい 。現在 げんざい 、敷地 しきち 内 ない にはオラデア大学 だいがく の視覚 しかく 芸術 げいじゅつ 学部 がくぶ がある。オラデア大 だい 城塞 じょうさい ともいう[2] 。
月 つき の教会 きょうかい (Biserica cu Lună ) - 月 つき の満 み ち欠 か けを表示 ひょうじ する一種 いっしゅ の天文 てんもん 時計 とけい がある、ヨーロッパで唯一 ゆいいつ の教会 きょうかい 。
黒 くろ 鷲 わし 宮殿 きゅうでん (Palatul Vulturul Negru ) - 1907年 ねん から1908年 ねん にかけてウィーン分離 ぶんり 派 は のスタイルで建 た てられた、ホテルや映画 えいが 館 かん 、レストラン、クラブなどが入 はい っている複 ふく 合 あい 商業 しょうぎょう 施設 しせつ 。2つの棟 むね の間 あいだ に、建物 たてもの 全体 ぜんたい の象徴 しょうちょう である黒 くろ い鷲 わし のステンドグラスのあるガラス屋根 やね の通路 つうろ がある。
アディ・エンドレ 博物館 はくぶつかん (Muzeul Memorial Ady Endre) - ハンガリーの偉大 いだい な詩人 しじん 、アディ・エンドレの専門 せんもん 博物館 はくぶつかん 。
オラデア州 しゅう 劇場 げきじょう (Teatrul de Stat)
共和 きょうわ 国 こく 通 どお り(Str. Republicii) - 多数 たすう のアールヌーヴォー 建築 けんちく のある街路 がいろ 。(2006年 ねん 時点 じてん では修復 しゅうふく 中 ちゅう )
オラデアには、3つのシナゴーグ (そのうち1つだけはまだ使用 しよう されていると思 おも われる)と東 ひがし ヨーロッパで最大 さいだい のバプテスト の教会 きょうかい を含 ふく む、異 こと なる信仰 しんこう のおよそ100の教会 きょうかい がある。
また、郊外 こうがい にはバイレ・フェリックス(Băile Felix 、「フェリックス温泉 おんせん 」の意 い )スパリゾートがあり、バスで行 い く事 こと ができる。
オラデアゆかりの人々 ひとびと [ 編集 へんしゅう ]
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