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カール・ルッツ

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カール・ルッツ

Carl Lutz
1944ねん
生誕せいたん 1895ねん3月30にち
スイスの旗 スイス ヴァルツェンハウゼン
死没しぼつ (1975-02-12) 1975ねん2がつ12にち(79さいぼつ
スイスの旗 スイス ベルン
出身しゅっしんこう ジョージ・ワシントン大学だいがく
セントラル・ウェスレアン・カレッジ
職業しょくぎょう 外交がいこうかん
受賞じゅしょう しょ国民こくみんなか正義せいぎひと
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カール・ルッツ(Carl Lutz, 1895ねん3月30にち - 1975ねん2がつ12にち)は、スイス外交がいこうかんだい世界せかい大戦たいせんなか1942ねんから終戦しゅうせんまでハンガリー首都しゅとブダペストふく領事りょうじとしてはたらき、6まん2せんにん以上いじょうユダヤじんすくった[1][2]

かれ行動こうどうによりブダペストにむユダヤじんのおよそ半数はんすうのこり、絶滅ぜつめつ収容しゅうようしょきをまぬかれた。その功績こうせきにより、ヤド・ヴァシェムから「しょ国民こくみんなか正義せいぎひと」の称号しょうごうあたえられており、「スイスのシンドラー[3]」とばれることもある。

ち・学歴がくれき

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1895ねんスイスアッペンツェル・アウサーローデンじゅんしゅうヴァルツェンハウゼンドイツばんまれ。1909ねん、14さいのときに結核けっかくははうしな[1]。15さい織物おりもの工場こうじょう徒弟とていとなる[4]

1913ねん、18さいときアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく移住いじゅう大学だいがく進学しんがく費用ひよう捻出ねんしゅつするため1918ねんまでイリノイしゅうグラナイト・シティ英語えいごばんはたらき、同年どうねんミズーリしゅうウォーレントン英語えいごばんにあるセントラル・ウェスレアン・カレッジ英語えいごばん入学にゅうがくした[5][6]

1920ねんにカレッジを卒業そつぎょうしたルッツはワシントンD.C.にあるスイス公使館こうしかん仕事しごとつけ、はたらはじめた[4]。そしてはたらきながらジョージ・ワシントン大学だいがくかよい、1924ねん卒業そつぎょうした[7]。ワシントンD.C.ではデュポン・サークル英語えいごばんんでおり、大学だいがく卒業そつぎょうもスイス公使館こうしかんはたらつづけた。ルッツはメソジストキリスト教徒きりすときょうとであった[8]

外交がいこうかんとして

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1926ねん、ルッツはペンシルベニアしゅうフィラデルフィアにあるスイス領事館りょうじかん赴任ふにんし、そのミズーリしゅうセントルイス領事館りょうじかん異動いどうとなった。

1934ねんかれ最初さいしょつまとなる女性じょせいゲルトルート・ファンクハウザードイツばん出会であい、翌年よくねん1がつ結婚けっこんした[5]おな時期じきパレスチナ当時とうじイギリス委任いにん統治とうちりょうパレスチナ)のヤッファにあるスイス総領事館そうりょうじかんふく領事りょうじ任命にんめいされ、20ねん以上いじょうごした米国べいこくをあとにした。そしてそこで、夫妻ふさい武装ぶそうのユダヤじんがアラブじん群衆ぐんしゅうにリンチされている様子ようす自宅じたくから目撃もくげきした[1]。ヤッファでは1942ねんまではたらいた。

1938ねん、イギリスりょうパレスチナのヤッファにおいてカール・ルッツが発行はっこうしたビザ

だい世界せかい大戦たいせんちゅうはたら

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1944ねん、ルッツが発行はっこうした通行つうこう許可きょかしょう。スイス・ユダヤじん博物館はくぶつかん所蔵しょぞう

1942ねんハンガリー首都しゅとブダペストにあるスイス総領事館そうりょうじかんふく領事りょうじとして赴任ふにん赴任ふにんしてすぐにユダヤ機関きかん英語えいごばんとの協力きょうりょくはじめ、スイスのセーフ・コンダクト発行はっこうしておよそ1まんにんのユダヤじん子供こどもたちの亡命ぼうめいたすけ、6まん2せんにん以上いじょうのユダヤじんいのちすくった[1]

1944ねん、ブダペストにある「ガラスのいえ」のまえれつならぶユダヤじんたち。カール・ルッツのむすめアグネスが撮影さつえい

1944ねんナチスがブダペストを占領せんりょうしてからは、ユダヤじん絶滅ぜつめつ収容しゅうようしょへの強制きょうせい収容しゅうようはじまった。ルッツはハンガリー政府せいふ、ナチスと特別とくべつ取引とりひきをし、ハンガリーのユダヤじんパレスチナかうための通行つうこう許可きょかしょう8せんつう発行はっこうした[9]

ルッツは8せんつう以上いじょう許可きょかしょう個人こじんではなく家族かぞくけに発行はっこうし、1から8000までのとお番号ばんごうはいった許可きょかしょうすうまんつう発行はっこうした。また、76のセーフハウスをブダペスト近郊きんこう用意よういし、これらをスイス領事館りょうじかん付属ふぞく施設しせつとしたことでハンガリーぐんやナチスへい介入かいにゅうふせいだ。そのなかには、現代げんだいにおいてもられている「ガラスのいえ英語えいごばん」もあり、「ガラスのいえ」とその近隣きんりん施設しせつでおよそ3せんにんのユダヤけいハンガリーじんなんのがれた。

あるじゅうとういん民兵みんぺいがユダヤじんをつけたとき、ルッツはドナウがわんでながしたユダヤじん女性じょせい救出きゅうしゅつした。ルッツはスーツのままかわはいり、女性じょせい救出きゅうしゅつしたのちハンガリーじん将校しょうこうはなしをした。ルッツはこの女性じょせいをスイス政府せいふ保護ほごする外国がいこく市民しみんであると宣言せんげんし、唖然あぜんとする兵隊へいたいたちをのちしずかにった。現代げんだいにおいて、この場所ばしょにはルッツの名前なまえがつけられている[2]

ブダペストにあるラウル・ワレンバーグ記念きねん。ルッツのきざまれている。

スウェーデン外交がいこうかんラウル・ワレンバーグなど、おおくの中立ちゅうりつこく外交がいこうかんともに、ルッツは数カ月すうかげつあいだにわたってすうおおくの人々ひとびとをナチスの集団しゅうだん虐殺ぎゃくさつから救出きゅうしゅつした。またみずからの外交がいこうスキルを駆使くしし、ルッツはハンガリー政府せいふやナチスの高官こうかんアドルフ・アイヒマンふくむ)を説得せっとくし、すくなくとも部分ぶぶんてきにはユダヤけいハンガリーじん公的こうてき保護ほごった。ホロコーストに対抗たいこうするルッツの努力どりょく非常ひじょう強力きょうりょくだったため、1944ねん11月、ドイツの高官こうかんだったエトムント・フェーゼンマイヤーはルッツの暗殺あんさつ許可きょか本国ほんごく打診だしんしたが、本国ほんごくからの回答かいとうはなかった。

スイス政府せいふ大臣だいじんマクシミリアン・ジャガーは、1944ねんにソビエトぐんがハンガリーにちかづき、本国ほんごくから帰還きかん命令めいれいされるまでルッツをささえた[10]。さらに赤軍せきぐんがブダペストを占領せんりょうするすう週間しゅうかんまえ、ジャガーののちまかされたヘラルド・フェラーによってルッツは救出きゅうしゅつされた[10]。ルッツのつまゲルトルートはブダペスト滞在たいざいちゅうつねにルッツをささえていた。

だい世界せかい大戦たいせん

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1945ねん1がつ、ルッツはスイスにもどり、その翌年よくねん離婚りこんした。1949ねんにマグダ・ツァニイと再婚さいこんした。1961ねん退職たいしょくした[10]。1945ねんから1954ねん、ルッツはベルンチューリッヒ外務省がいむしょう職員しょくいんとしてはたらき、1952ねんから1961ねんまではオーストリアブレゲンツ総領事館そうりょうじかん総領事そうりょうじとして勤務きんむした[5]

1975ねん、スイスの首都しゅとベルンで死去しきょ[11]

記念きねん栄典えいてん

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ルッツはすうまんにん人々ひとびとすくったが、戦後せんごすぐにその業績ぎょうせき評価ひょうかされたわけではなかった。むしろ、戦後せんごすぐは中立ちゅうりつ原則げんそく危険きけんにさらす越権えっけん行為こういであると非難ひなんされた[10]戦後せんご10ねん以上いじょうった1958ねん、スイスにおいて戦争せんそうがえりがおこなわれたさいに、ルッツの業績ぎょうせきさい評価ひょうかされ、すうおおくの勲章くんしょう栄典えいてんあたえられた[10]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d Grunwald-Spier, Agnes; Gilbert, Martin (26 December 2010). Other Schindlers: Why Some People Chose to Save Jews in the Holocaust. History Press. pp. 26–27. ISBN 978-0-7524-6243-1. https://books.google.com/books?id=fo4TDQAAQBAJ&pg=PP27 
  2. ^ a b Tschuy, Theo. Dangerous Diplomacy: The Story of Carl Lutz, Rescuer of 62,000 Hungarian Jews, 2000. Grand Rapids: Eerdmans. ISBN 0-8028-3905-3
  3. ^ a b 'Swiss Schindler' honoured with room in Federal Palace”. The Local. 15 February 2018閲覧えつらん
  4. ^ a b c Wagner, Meir; Meisels, Moshe (2001). The Righteous of Switzerland: Heroes of the Holocaust. KTAV Publishing House, Inc.. pp. 188–189. ISBN 978-0-88125-698-7. https://books.google.com/books?id=-MtaXNRtrB0C&pg=PA189 
  5. ^ a b c Chronology of Rescue by Charles "Carl" Lutz, Switzerland”. Holocaustrescue.org. 2024ねん4がつ23にち閲覧えつらん
  6. ^ Paldiel, Mordecai (2007). Diplomat Heroes of the Holocaust. KTAV Publishing House, Inc.. pp. 122–. ISBN 978-0-88125-909-4. https://books.google.com/books?id=RXLzYuVrvwAC&pg=PA122 
  7. ^ Schelbert, Leo「Lutz, Carl Robert」『Historical Dictionary of Switzerland』Rowman & Littlefield Publishers、21 May 2014、232–ぺーじISBN 978-1-4422-3352-2https://books.google.com/books?id=XRevAwAAQBAJ&pg=PA232 
  8. ^ Blakemore, Erin. “The Diplomat Who Fought the Nazis and Saved Thousands of Jews During the Holocaust” (英語えいご). HISTORY. 16 January 2021閲覧えつらん
  9. ^ Braham, Randolph L.; Scott Miller (1998). The Nazis' Last Victims: The Holocaust in Hungary. Wayne State University Press. pp. 143–144. ISBN 0-8143-3095-9. https://books.google.com/books?id=X3lrJHcsY9sC&q=glass+house+budapest&pg=PA144 
  10. ^ a b c d e Bartrop, Paul R.; Dickerman, Michael (15 September 2017). The Holocaust: An Encyclopedia and Document Collection [4 volumes]. ABC-CLIO. pp. 414–. ISBN 978-1-4408-4084-5. https://books.google.com/books?id=u4I2DwAAQBAJ&pg=PA414 
  11. ^ Los Angeles Museum of The Holocaust: Carl Lutz”. ロサンゼルスホロコースト博物館はくぶつかん. 21 March 2016てんのオリジナルよりアーカイブ。4 January 2018閲覧えつらん
  12. ^ Lutz, Carl” (pdf). ヤド・ヴァシェム. 2024ねん4がつ23にち閲覧えつらん
  13. ^ Swiss honor diplomat who saved thousands of Jews”. Jewish Telegraphic Agency (15 February 2018). 15 February 2018閲覧えつらん