ガイウス・フラミニウス (紀元前きげんぜん187ねん執政しっせいかん)

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ガイウス・フラミニウス
C. Flaminius C. f. C. nepos
出生しゅっしょう 不明ふめい
死没しぼつ 紀元前きげんぜん183ねん以降いこう
出身しゅっしん階級かいきゅう プレブス
氏族しぞく フラミニウス氏族しぞく
官職かんしょく 財務ざいむかん紀元前きげんぜん210ねん
按察かん紀元前きげんぜん196ねん
法務ほうむかん紀元前きげんぜん193ねん
執政しっせいかん紀元前きげんぜん187ねん
指揮しきした戦争せんそう ローマ・ガリア戦争せんそう
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ガイウス・フラミニウス(Gaius Flaminius、- 紀元前きげんぜん183ねん以降いこう)は、紀元前きげんぜん3世紀せいきわりから紀元前きげんぜん2世紀せいき初頭しょとうの、共和きょうわせいローマ政治せいじ軍人ぐんじん紀元前きげんぜん187ねん執政しっせいかん(コンスル)をつとめた。

出自しゅつじ[編集へんしゅう]

フラミニウスはプレブス平民へいみん)であるフラミニウス氏族しぞく出身しゅっしんである。同名どうめい父親ちちおや先祖せんぞ有力ゆうりょくしゃのいないノウス・ホモ新人しんじん)の一員いちいんとして台頭たいとう[1]かがやかしい出世しゅっせげた。紀元前きげんぜん223ねん紀元前きげんぜん217ねん執政しっせいかんつとめ、紀元前きげんぜん220ねんにはケンソル監察かんさつかん)に就任しゅうにんしているが[2]トラシメヌス湖畔こはんたたか戦死せんしした。フラミニウスの祖父そふもガイウスというプラエノーメンだいいちめい個人こじんめい)であることがかっている。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

フラミニウスが最初さいしょ記録きろく登場とうじょうするのは紀元前きげんぜん210ねんのことであり[3]ヒスパニアプブリウス・コルネリウス・スキピオのスキピオ・アフリカヌス)のクァエストル財務ざいむかん)をつとめた[4]。しかし、つぎ歴史れきし登場とうじょうするのは紀元前きげんぜん196ねんのことであり、アエディリス・クルリス上級じょうきゅう按察かん)に就任しゅうにんしている[5]。フラミニヌスはシキリアぞくしゅうからおくられてきた大量たいりょう小麦こむぎを、安価あんか民衆みんしゅう販売はんばいしたが、これはシキリアの住民じゅうみんかれちち記憶きおくとなえておくったものである[6]

紀元前きげんぜん193ねん、フラミニウスはプラエトル法務ほうむかん)の地位ちいき、抽選ちゅうせん結果けっかヒスパニア・キテリオル戦争せんそう担当たんとうすることとなった[7][8]前任ぜんにんしゃのセクストゥス・ディギトゥスは、原住民げんじゅうみんとのおおきな戦闘せんとうこさなかったが、それでもぐん半分はんぶんうしなってしまった。フラミニウスは現地げんち情勢じょうせい困難こんなんであり、援軍えんぐん必要ひつようであるとローマにうったえた。ウァレリウス・アンティアスによれば、フラミニウウスはシキリアぞくしゅうアフリカぞくしゅう兵士へいし募集ぼしゅうし、そのヒスパニアでも兵士へいし募集ぼしゅうしたという[9]。ヒスパニア到着とうちゃくしたフラミニウスは、オレタニのまち占領せんりょうし、ぐん冬営とうえいさせた。ふゆあいだすうおおくの小競こぜいがあり、ローマぐん軽微けいび損失そんしつこうむった。その元老げんろういんはフラミニウスのヒスパニア・キテリオルでの権限けんげんさん延長えんちょうした[3]

紀元前きげんぜん187ねん、フラミニウスはパトリキマルクス・アエミリウス・レピドゥスとともに執政しっせいかん就任しゅうにんした。レピドゥスはマルクス・フルウィウス・ノビリオル政敵せいてきであり、アエトリアのアンブラシアからの大使たいしがノビリオルがアエトリアとの戦争せんそうはじめたとのうったえを支持しじした。フラミニウスはノビリオルに味方みかたしたが、元老げんろういんはアンブラシアに有利ゆうり判決はんけつくだした。りょう執政しっせいかんはそのリグリアと戦争せんそうをしたが、フラミニウスは病気びょうきのために出征しゅっせいおくれた。そのとしわりにはローマにもど執政しっせいかん選挙せんきょ組織そしきし、紀元前きげんぜん186ねんはじめにはヒスパニア・キテリオル後任こうにんゆだねた[3]

執政しっせいかん就任しゅうにんちゅうに、フラミニスウはしょうフラミニア街道かいどう建設けんせつし、ボノニア(現在げんざいボローニャ)とアレティウム(現在げんざいアレッツォ)をむすんだ。また、紀元前きげんぜん183ねんから紀元前きげんぜん181ねんにかけて建設けんせつされた植民しょくみん都市としアクイレイアたずさわっている[3]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Flaminius 2, 1909 , s. 2496.
  2. ^ カピトリヌスのファスティ
  3. ^ a b c d Flaminius 3, 1909, s. 2502.
  4. ^ リウィウス『ローマ建国けんこく』、XXVI, 47, 8; 49, 10.
  5. ^ Broughton, 1951 , p. 335.
  6. ^ リウィウス『ローマ建国けんこく』、XXXIII, 42, 8.
  7. ^ リウィウス『ローマ建国けんこく』、XXXIV, 54, 2; 55, 6.
  8. ^ Broughton, 1951 , p. 347.
  9. ^ リウィウス『ローマ建国けんこく』、XXXV, 2.

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

古代こだい資料しりょう[編集へんしゅう]

研究けんきゅうしょ[編集へんしゅう]

  • Broughton R. Magistrates of the Roman Republic. - New York, 1951. - Vol. I. - P. 600.
  • Münzer F. Flaminius 2 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1909. - Bd. VI, 2. - Kol. 2496-2502.
  • Münzer F. Flaminius 3 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1909. - Bd. VI, 2. - Kol. 2502.

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
ガイウス・リウィウス・サリナトル
マルクス・ウァレリウス・メッサッラ
執政しっせいかん
同僚どうりょうマルクス・アエミリウス・レピドゥス
紀元前きげんぜん187ねん
次代じだい
スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌス
クィントゥス・マルキウス・ピリップス