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クルト・タンク

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クルト・ヴァルデマー・タンク

どく: Kurt Waldemar Tank
(1941ねん3がつ
生誕せいたん (1898-02-24) 1898ねん2がつ24にち
ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく
プロイセン王国おうこくブロンベルク
死没しぼつ (1983-06-05) 1983ねん6月5にち(85さいぼつ
西ドイツの旗 西にしドイツ
バイエルンしゅうミュンヘン
国籍こくせき 西ドイツの旗 西にしドイツ
教育きょういく ベルリン工業こうぎょう学校がっこう
業績ぎょうせき
専門せんもん分野ぶんや 航空こうくうエンジニアリング
所属しょぞく機関きかん アルゼンチン航空こうくう技術ぎじゅつ研究所けんきゅうじょ
勤務きんむさき ドイツ・ロールバッハしゃ
ドイツ・BMWしゃ
ドイツ・フォッケウルフしゃ
インドHALしゃ
西にしドイツ・MBBしゃ
設計せっけい Fw 200
Fw 190
Ta 152
プルキ II
HF-24 マルート
ほか
成果せいか 長距離ちょうきょり連絡れんらく飛行ひこう記録きろく
長距離ちょうきょり大型おおがた旅客機りょかくき実用じつよう
高々たかだかたび航空機こうくうき実用じつよう
後退こうたいつばさジェット機じぇっとき実用じつよう
ちょう音速おんそく実用じつよう
ほか
受賞じゅしょうれき ブラウンシュヴァイク技術ぎじゅつ学校がっこう名誉めいよ教授きょうじゅ
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クルト・ヴァルデマー・タンクドイツ:Kurt Waldemar Tank1898ねん2がつ24にち - 1983ねん6月5にち[1])は、創意そういんだドイツじん航空こうくうエンジニアテストパイロットであり、1931ねんから1945ねんまでフォッケウルフしゃ設計せっけい部門ぶもん指揮しきした。Fw 190戦闘せんとうをはじめ、だい世界せかい大戦たいせんにおける重要じゅうよう航空機こうくうき設計せっけいした。

経歴けいれき

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大学だいがく卒業そつぎょうまで

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帝政ていせいドイツプロイセン都市としブロンベルク(げんポーランドりょうブィドゴシュチュ)にまれる。17さい(16さいせつあり)のときだいいち世界せかい大戦たいせん出征しゅっせい父親ちちおや影響えいきょう騎兵きへいとなる。花形はながた航空こうくうたいはいらなかったのは、かれ才能さいのうしんだ連隊れんたいちょう転属てんぞく許可きょかしなかったためとわれている。また、前線ぜんせんでも物理ぶつり数学すうがく参考さんこうしょ手放てばなさず、ひまがあればんでいたといわれ、出征しゅっせいちゅう大学だいがく受験じゅけん資格しかく取得しゅとくしている。

だいいち大戦たいせんでは2負傷ふしょうえに勲章くんしょうを2もらったのち復員ふくいんした。復員ふくいん、タンクは日本にっぽん工科こうか大学だいがく相当そうとうするベルリン工業こうぎょう学校がっこう入学にゅうがくしたが、当初とうしょ専攻せんこう電気でんき工学こうがくであった。だいいち志望しぼう航空こうくう工学こうがく専攻せんこうしなかったのは、だいいち大戦たいせん敗戦はいせんによりドイツ国内こくない航空機こうくうき研究けんきゅう開発かいはつ生産せいさん禁止きんしされていた関係かんけいで、講義こうぎそのものが閉鎖へいさされていたためである。しかし、大学だいがく4ねんとき飛行ひこう力学りきがく講義こうぎ再開さいかいされ、ようやく念願ねんがんたすことができた。

在学ざいがくちゅう、タンクはグライダー研究けんきゅうかいで、みずか設計せっけい製作せいさく飛行ひこう体験たいけんしているが、その飛行機ひこうき操縦そうじゅうねつこうじて、ベルリン・シュターケンの民間みんかん飛行ひこう学校がっこう小型こがた免許めんきょ取得しゅとくしている。

最前線さいぜんせん兵士へいしとしての過酷かこく体験たいけん大学だいがく時代じだい専攻せんこうした電気でんき工学こうがく課外かがい活動かつどうとして熱中ねっちゅうしたグライダー製作せいさく、そしてパイロットというかれ特異とくい経歴けいれきは、のちフォッケウルフしゃFw190成功せいこうかされることになる。

大学だいがく卒業そつぎょう機械きかい力学りきがくのウェーバー教授きょうじゅ推薦すいせんにより、飛行ひこうていせんもんのメーカーのロールバッハ金属きんぞく飛行機ひこうき入社にゅうしゃした。ロールバッハしゃは、ぜん金属きんぞくせい飛行ひこうていでは当時とうじ最先端さいせんたんおこなっていた。

せんあいだ

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フォッケウルフ Fw 44

ロールバッハには4年間ねんかん在籍ざいせきしたが、やがて飛行ひこうてい将来しょうらい見切みきりをつけ、1929ねんに31さい退職たいしょくした。その1930ねんにバイエルン発動はつどう製造せいぞう株式会社かぶしきがいしゃBMW)へ転職てんしょくした。転職てんしょくさきのBMWで設計せっけい主任しゅにんとなるものの、同社どうしゃふく支配人しはいにんウィリー・メッサーシュミット設計せっけいした航空機こうくうき度重たびかさなる墜落ついらく事故じこによって1ねんはん倒産とうさんした。

1933ねん11月、33さいときフォッケウルフしゃ技術ぎじゅつ部長ぶちょうとして採用さいようされた。タンクは、ここで幾多いくたすことになる。

フォッケウルフは、ハインリヒ・フォッケゲオルク・ヴルフ英語えいごばん創業そうぎょうした中規模ちゅうきぼメーカーであったが、ヴルフはテスト飛行ひこうなか事故死じこしのこったフォッケはナチス政権せいけん干渉かんしょう嫌気いやけがさし、あらたにフォッケ・アハゲリス研究所けんきゅうじょつくってヘリコプター開発かいはつ熱中ねっちゅうしていたため、フォッケウルフしゃ航空機こうくうき開発かいはつは、自然しぜんとタンクの双肩そうけんにかかることになった。

1931ねんにナチスの企業きぎょう再編さいへん政策せいさくにより、フォッケウルフしゃアルバトロスしゃ合併がっぺいした。合併がっぺい、タンクは複葉ふくようスポーツFw 44 「シュティークリッツ」 (ゴシキヒワ)の設計せっけい着手ちゃくしゅした。ほん1934ねん飛行ひこうし、フォッケウルフしゃはじめて商業しょうぎょうてき成功せいこうした機体きたいとなった。この成功せいこうは、ナチス・ドイツ戦争せんそう準備じゅんび歩調ほちょうわせて会社かいしゃ急激きゅうげき成長せいちょうをもたらした。

フォッケウルフ FW 56

さらに、1933ねんには、パラソルつばさ単座たんざ高等こうとう練習れんしゅうであるFw 56 「シュテッサー 」(オオタカ)を開発かいはつした。Fw 56は、性能せいのうさをわれてドイツ空軍くうぐん採用さいようされた。

1933ねんドイツ空軍くうぐんは、次期じき主力しゅりょく戦闘せんとう競作きょうさく発表はっぴょうし、タンクひきいるフォッケウルフしゃは、Fw 56を母体ぼたいにしたFw 159応募おうぼした。Fw 159は、ぜん金属きんぞくせいモノコック構造こうぞうえきひやエンジンあし装備そうびではあったが、時代遅じだいおくれのパラソルつばさであったため最新さいしんていつばさ単葉たんようにかなうはずもなく、いち審査しんさ敗退はいたいしてしまった。

フォッケウルフ Fw 200

くるしくなった会社かいしゃ経営けいえいなおすため、タンクは1936ねんはるごろからFw200コンドル」4はつ旅客機りょかくき計画けいかくかった。Fw 200は、つばさはば33 m、つばさ面積めんせき118 m2全備ぜんび重量じゅうりょう17,250 kgで当時とうじとしては、画期的かっきてき大型おおがた高性能こうせいのうであった。練習れんしゅうしかつくっていないフォッケウルフしゃに、いきなり4はつつくらせることについては、発注はっちゅうもとルフトハンザなかからも異論いろんたが、タンクはそれを説得せっとくして開発かいはつけた。

1937ねん7がつ Fw 200ははつ飛行ひこう成功せいこうした。Fw 200開発かいはつちゅうに、タンクは4はつ機長きちょうのライセンスまで取得しゅとくしている。1938ねん11月28にち、ベルリンのテンペルホーフ空港くうこうったFw200(D-ACON)は、42あいだ18ふん日本にっぽん立川たちかわ飛行場ひこうじょう到着とうちゃくし、長距離ちょうきょり連絡れんらく飛行ひこう記録きろくてた。

フォッケウルフ Fw 189A-3

おなごろ、タンクは空軍くうぐんじききょう偵察ていさつ受注じゅちゅうめぐってブルーム・ウント・フォスあらそったが、ブルーム・ウント・フォスが左右さゆう非対称ひたいしょう異形いぎょうBV 141応募おうぼしたのにたいして、タンクはオーソドックスな機体きたい応募おうぼし、Fw 189 「ウーフー」 (ワシミミズク)が採用さいようされた。Fw 200とFw 189の成功せいこうにより、フォッケウルフしゃ経営けいえい軌道きどうることができた。

一方いっぽう、1936ねんふゆごろから開発かいはつ計画けいかくをスタートさせた双発そうはつじゅう戦闘せんとうFw 187 「ファルケ」(たか)」は、Fw 159の失敗しっぱいから、タンクが戦闘せんとう本質ほんしつまなった、Fw 190前身ぜんしんともいうべき機体きたいである。「速度そくど」、「上昇じょうしょうりょく」、「火力かりょく」にすぐれ、ライバルとなった双発そうはつ戦闘せんとうであるメッサーシュミット Bf 110はもちろん、単座たんざメッサーシュミット Bf 109をもしの高性能こうせいのうしめしたが、高価こうか双発そうはつよりも安価あんか単発たんぱつをそろえるという空軍くうぐんがわ方針ほうしん変更へんこうによって、量産りょうさんされないままわってしまった。

フォッケウルフ Fw 190A-8

1937ねんあき操縦そうじゅうむずかしく着陸ちゃくりく事故じこ多発たはつしていた主力しゅりょく戦闘せんとうのBf 109一本いっぽん戦争せんそう継続けいぞくすることに不安ふあんおぼえた空軍くうぐんしょうは、フォッケウルフしゃにバックアップ戦闘せんとう開発かいはつ打診だしんしてきた。このとき、タンクは39さい実戦じっせん経験けいけんった飛行機ひこうき設計せっけいしゃけんテストパイロットという特異とくい経歴けいれきが、このプロジェクトに結実けつじつすることになる。

だい世界せかい大戦たいせん

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ギュンター・シュペヒト(ひだり)とタンク(みぎ)(1944ねん)

1939ねんから1945ねんまで製造せいぞうされたFw190 「ヴュルガー(モズ)」は、だい世界せかい大戦たいせんちゅうつうじてドイツ空軍くうぐん主力しゅりょく単座たんざ戦闘せんとうであった[2]航空機こうくうき開発かいはつへの貢献こうけんみとめられ、1943ねん1がつにブラウンシュヴァイク技術ぎじゅつ学校がっこう名誉めいよ教授きょうじゅ校長こうちょうせきあたえられた。

また、フォッケウルフしゃ在籍ざいせきのまま、自分じぶん開発かいはつした飛行機ひこうきに、せい略号りゃくごうであるTaけることができるようになった。

フォッケウルフ Ta152H

その最初さいしょ作品さくひんが、えきひやエンジン搭載とうさいがたであるFw190Dをベースとして開発かいはつされたこう戦闘せんとうTa152である[3]Ta 152は、だいつばさめん荷重かじゅうだいアスペクトというタンクの持論じろん明確めいかくなデザインで表現ひょうげんされている[4]

タンクがベルリン南部なんぶコトブスひらかれる会議かいぎ出席しゅっせきするためにTa152をみずか操縦そうじゅうしているとき、2P-51マスタング」と遭遇そうぐうしたことがあった。民間みんかんじんとして自分じぶん飛行機ひこうきには武装ぶそうをしないことにしていたタンクは、みずメタノール噴射ふんしゃシステムを作動さどうさせてそのままスピードをげてったというエピソードがのこっている。[5]

だい世界せかい大戦たいせん

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IAe プルキ II

戦後せんごおおくのドイツじん技術ぎじゅつしゃ同様どうように、クルト・タンクは専門せんもんとしての活躍かつやくをラテン・アメリカにもとめた。アルゼンチン政府せいふから提供ていきょうされた仕事しごとけたかれは、1947ねん同僚どうりょうらとともにコルドバ航空こうくう技術ぎじゅつ研究所けんきゅうじょ (Instituto Aerotécnico) にうつった。航空こうくう技術ぎじゅつ研究所けんきゅうじょのち軍用ぐんよう製造せいぞう工廠こうしょう (the Fábrica Militar de Aviones) となった。ここでかれは、大戦たいせん終結しゅうけつ実物じつぶつだい模型もけい(モックアップ)製作せいさくまですすんでいたジェット戦闘せんとうTa183設計せっけいもとに、IAe プルキ II (IAe Pulqui II) を設計せっけいした。IAe プルキ II は、ロールスロイス・ニーン・エンジン装備そうびで、主翼しゅよくは40後退こうたいかくち、20 mm機関きかんほう4もん装備そうびという当時とうじでも一流いちりゅうのスペックをつジェット戦闘せんとうであり、1950ねん6がつ27にちはつ飛行ひこうした。IAe プルキ II は空中くうちゅうでの飛行ひこう特性とくせいかんしては期待きたいどおりの性能せいのう発揮はっきしたものの、離着陸りちゃくりく性能せいのう重大じゅうだい欠陥けっかんゆうしており、老練ろうれんなテストパイロットをして着陸ちゃくりくあし折損せっそんする事故じこすうこしている。これにおこったタンクは(このときタンクは52さいであった)2かい試験しけん飛行ひこうみずか操縦そうじゅう桿をにぎったものの、着陸ちゃくりく欠陥けっかんみとめざるをなかった。その改修かいしゅう時間じかんようしているうちにアルゼンチンの経済けいざい危機ききにより開発かいはつ1953ねんられた。フアン・ペロン大統領だいとうりょう権力けんりょくからりた1955ねん、かつてのフォッケウルフチームは離散りさんし、そのおおくはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくうつった。

HF-24

そのインドわたったタンクは、インドではじめて製造せいぞうされた軍用ぐんようとなるHF-24 マルート (Hindustan Marut) をヒンドスタン航空機こうくうき (Hindustan Aeronautics) のために設計せっけいした。原型げんけい1961ねん6月17にちはつ飛行ひこうした。エンジン出力しゅつりょく不足ふそくによって予定よていした性能せいのうたっしなかったものの、胴体どうたい設計せっけいエリアルールれ、エアインテークにはショック・コーンを付加ふかするなど、当時とうじのマッハ2きゅう戦闘せんとうくらべても遜色そんしょくない設計せっけいおこなっており、タンクが最新さいしん技術ぎじゅつ導入どうにゅうにも余念よねんがなかったことしめしている。ちなみにエリアルールをれた設計せっけいについては、工場こうじょう見学けんがくおとずれた当時とうじネルー首相しゅしょうが、機体きたいのくびれがになって質問しつもんしたところ、タンク自身じしんが「コカ・コーラかたともばれる最新さいしん設計せっけいです」と解説かいせつしたという逸話いつわがある。この機体きたい1985ねんだい一線いっせん退しりぞいた。

1970年代ねんだいにタンクはベルリンもどり、ドイツ本拠ほんきょとしてのこりの人生じんせいおくった。

日本にっぽん訪問ほうもん

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1959ねん昭和しょうわ34ねんごろ富士重工業ふじじゅうこうぎょう当時とうじ宇都宮うつのみや製作所せいさくしょ守衛しゅえいしょまえ突然とつぜんブリストルしゃ紹介しょうかいじょうった外国がいこくじんたずねてきた。当時とうじ量産りょうさんされていた航空こうくう自衛隊じえいたいのジェット練習れんしゅうT-1A装備そうびしていたブリストルせいオーフュースMk.805エンジン艤装ぎそう見学けんがくしたいとべ、ひかえめに「わたしはクルト・タンクともうします」と名乗なのった。当時とうじタンクはインドでT-1Aとおなじオーフュースエンジンを搭載とうさいするHF-24を開発かいはつしていて、富士重工ふじじゅうこうのエンジンまでみちびくダクトの形状けいじょう興味きょうみっていた、見学けんがく若手わかてエンジニアたちとディスカッションの機会きかいち、技術ぎじゅつめんでの持論じろん展開てんかいしてせたという[4]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Kurt Tank German aircraft designer and test pilot Encyclopædia Britannica
  2. ^ フォッケウルフ Fw190 - karen.saiin.net
  3. ^ 高々たかだかちょう高速こうそくちょう高性能こうせいのう戦闘せんとう、クルトタンク博士はかせのTa152 - デアゴスティーニ・ジャパン
  4. ^ a b フオッケウルフ Ta152H-0 だか高度こうど戦闘せんとう - Classic Airplane Museum
  5. ^ Jean-Bernard Frappé, Jean-Yves Lorant, 小野おの, よしのり『フォッケウルフFw190その開発かいはつ戦歴せんれきだい日本にっぽん絵画かいが、1999ねん8がつ1にち、9ぺーじISBN 978-4499226981 

外部がいぶリンク

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