ケネス・エリクソン

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ケネス・エリクソン
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき  スウェーデン
生年月日せいねんがっぴ (1956-05-13) 1956ねん5月13にち(67さい
WRCでの経歴けいれき
活動かつどう時期じき 1980 - 2002
所属しょぞくチーム スバル三菱みつびしヒュンダイシュコダ
チャンピオン回数かいすう 0
優勝ゆうしょう回数かいすう 6
表彰台ひょうしょうだい回数かいすう 21
ステージ勝利しょうりすう 214
通算つうさん獲得かくとくポイント 489
初戦しょせん 1980 ラリー・スウェーデン
はつ勝利しょうり 1987 ラリー・コートジボワール
最終さいしゅう勝利しょうり 1997 ラリー・ニュージーランド
最終さいしゅうせん 2002 ラリー・グレートブリテン
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ケネス・エリクソンKenneth Eriksson1956ねん5月13にち - )は、スウェーデンヴァンスブロ出身しゅっしんもとラリードライバーである。 同姓どうせいミカエル・エリクソンとは無関係むかんけいである[注釈ちゅうしゃく 1]

おも経歴けいれき[編集へんしゅう]

1980ねんラリー・スウェーデン世界せかいラリー選手権せんしゅけん(WRC)にサーブ・96でデビュー。 1986ねんフォルクスワーゲン加入かにゅうゴルフGTIり、グループAのチャンピオンにかがやいた。 1987ねんには、コートジボワール(Rallye Côte d'Ivoire )でWRCはつ勝利しょうりかざった。

1988ねん-1989ねんトヨタ・チーム・ヨーロッパ加入かにゅうセリカGT-FOUR参戦さんせん

1990ねん-1995ねん三菱みつびしラリーアート・ヨーロッパに加入かにゅうギャランVR-4ランサーエボリューションI-IIIり、ギャランで1991ねんのラリー・スウェーデン、ランサーで1995ねんのラリー・スウェーデンとラリー・オーストラリアで優勝ゆうしょうした。

1996ねん-1997ねんスバル加入かにゅうインプレッサり、1997ねんのラリー・スウェーデンとラリー・ニュージーランドで優勝ゆうしょうした。 なお三菱みつびし・スバル時代じだいの1995ねん - 1997ねんにはアジアパシフィックラリー選手権せんしゅけん(APRC)で3連覇れんぱかざっている。

1998ねん-2001ねんまでヒュンダイのエースドライバーをつとめ、2000ねんシーズンは、総合そうごうランキング11かがやくなどの貢献こうけんたした。 2002ねんのシーズンをもってWRCを引退いんたいしたが、その翌年よくねんには、シュコダのテストドライバーをつとめた。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

ドライビングスタイル[編集へんしゅう]

けっして派手はで目立めだつドライバーではないが、チームをささえ、確実かくじつ仕事しごとをこなす職人しょくにんはだのベテランドライバー。

シングルハンドドライバーの一人ひとりしゃであり、左手ひだりてはステアリングをにぎり、右手みぎてはシフトノブをにぎるという場面ばめんがオンボードカメラから確認かくにん出来できる。このスタイルはかれがかつてスタントドライバーであったことからている。またスタントドライバー時代じだいにはかた走行そうこう走行そうこう距離きょりのギネスホルダーでもあった。

三菱みつびし時代じだい、スバル時代じだいともにトミ・マキネンコリン・マクレーとかつてのトップドライバーとチームをみ、かれらを確実かくじつにサポートしながらも、自分じぶん自身じしん勝利しょうりねらってける希有けう存在そんざいである。 また、スバルの不調ふちょうかれがいなかったからとわれたのも、かれのその能力のうりょくひょうしてのことである。 ちなみにトヨタ、ヒュンダイでチームメイトだった、ユハ・カンクネンとも親交しんこうふかかった。

4WDターボ使づかいのイメージがつよいが、グループAがトップカテゴリーとなった1987ねんサファリラリーでは前輪ぜんりん駆動くどうしゃフォルクスワーゲン・ゴルフ一時いちじ2はしっており(結果けっかてきにトラブルでリタイアしたが)、駆動くどう方式ほうしきに捉われないドライバーである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ケネスはせいつづりが”Eriksson"であるのにたいしミカエルは”Ericsson”である。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]