ココ・テムル

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ココ・テムル(Köke Temür、? - 1375ねん)は、もと北元きたもと将軍しょうぐん漢字かんじ表記ひょうきは擴廓じょうであるが、「おうたもつ」という中国ちゅうごくめいゆうしていた。

概要がいよう[編集へんしゅう]

ココ・テムルの遠祖えんそおさなころチンギス・カンいのちたすける功績こうせきのあったバヤウトソルカンであり、ソルカンの曾孫そうそんのサイン・チダクとナイマン部族ぶぞくチャガン・テムルいもうととのあいだにココ・テムルはまれた。『あかり』にはウカアト・カアン(トゴン・テムル)より「擴廓じょう」というたまわったとの記述きじゅつがあり、「おうたもつ」という中国ちゅうごくめいこそが本名ほんみょうであるというせつ有力ゆうりょくであったが、1990ねん発見はっけんされた「さいいんあかこたえゆるがせ墓誌ぼし」の記述きじゅつによって現在げんざいでは「ココ・テムル Kökö Temür」こそが本名ほんみょうであるとかんがえられている[1]

ココ・テムルの実父じっぷであるサイン・チダクの墓誌ぼし(「さいいんあかこたえゆるがせ墓誌ぼし」)によると、まれながらに聡明そうめいであったがおさなころ病弱びょうじゃくであり、これを心配しんぱいした母方ははかた伯父おじのチャガン・テムルはのようにいつくしみ、やがて養子ようしにしたという。

チャガン・テムルはもとまつ騒乱そうらん河南かなん軍閥ぐんばつ形成けいせいしていたが、いたりただし22ねん1362ねん)に山東さんとうべにはばとうとのたたかいでいのちとすと、ココ・テムルはその軍閥ぐんばつ官職かんしょくぎ、山東さんとう征伐せいばつ叔父おじおとらないぐんざいしめした。

しかしその直後ちょくご叔父おじ生前せいぜんから敵対てきたい関係かんけいにあった山西さんせい大同だいどう本拠地ほんきょちとする軍閥ぐんばつボロト・テムル将軍しょうぐんとの敵対てきたいふかまり、山西さんせい南部なんぶふとしはらはいって大同だいどうのボロト・テムルと対峙たいじした。また、もと首都しゅとだいではウカアト・カアン(トゴン・テムル)側近そっきんたちと、皇帝こうてい実子じっし皇太子こうたいしアユルシリダラあいだ内紛ないふんこっていたが、ボロト・テムルははん皇太子こうたいし荷担かたんしたためアユルシリダラのがわについた。

この対立たいりついたりせい24ねん1364ねん)、皇太子こうたいしはん皇太子こうたいしおどかしたためにはん皇太子こうたいしのボロト・テムルが大同だいどうからへいだいすすめてカアンをみずからの掌中しょうちゅういて政権せいけん奪取だっしゅし、皇太子こうたいしアユルシリダラはのがれてふとしはらのココ・テムルのもとにびる事態じたいいたった。ここにいたってココ・テムルは皇太子こうたいし連合れんごうしてボロト・テムルとの決戦けっせんのぞみ、いたりせい25ねん1365ねん)にココ・テムルのぐんだいせまるとボロト・テムルはぐんちゅう内乱ないらんにあってほろんだ。ココ・テムルはだい入城にゅうじょうして皇太子こうたいし中央ちゅうおう政界せいかい復帰ふっきさせ、このこうによって中書ちゅうしょひだり丞相じょうしょう地位ちい河南かなんおう爵位しゃくいさづけられた。しかし、この内紛ないふんあいだ江南えなではしゅもとあきら勢力せいりょくかためつつあった。

ココ・テムルは皇太子こうたいし信任しんにんのもとにもとぐんそう司令しれいかんゆだねられ、はんもと運動うんどう討伐とうばつそう司令しれいかんとなるが、河南かなん軍閥ぐんばつ以来いらい漢人かんど将校しょうこうふく配下はいか将兵しょうへいらがココ・テムルに反抗はんこうせるようになりはじめ、反乱はんらんこった。また、いたりせい27ねん1367ねん)にはトゴン・テムルから政治せいじ軍事ぐんじ全権ぜんけん付与ふよされてほとんどカアン同然どうぜんとなっていたアユルシリダラは次第しだい権力けんりょく軍事ぐんじりょくつココ・テムルをうとはじめ、もとぐん間隙かんげきしょうじた。このためこれまでつよぜいほこってきたココ・テムルのぐんしゅもとあきらてたしん王朝おうちょうあきら軍勢ぐんぜいまえやぶれて河南かなんたいばらうしない、いたりせい28ねん1368ねん)にもとだいてて北方ほっぽううつることを余儀よぎなくされた。

ひろしたけ3ねん1370ねん)、トゴン・テムルがにアユルシリダラが皇帝こうてい即位そくいしたころふとしばらから甘粛かんせいのがれていたココ・テムルはモンゴル高原こうげんカラコルム方面ほうめんはいってアユルシリダラのぐん合流ごうりゅうし、カアンを補佐ほさしてもと追撃ついげきせんとするあかりぐんたいする防衛ぼうえいにあたった。ひろし5ねん1372ねん)には、モンゴル高原こうげん侵攻しんこうしてきたあかり将軍しょうぐんじょいたるひきいる15まん大軍たいぐんをわずかな手兵しゅへいやぶり、すうまんにんころしたといわれるというだい勝利しょうりげる。

そのもと中国ちゅうごく回復かいふく目指めざしてもとぐんひきいて南下なんかし、一時いちじ山西さんせい地方ちほうまで勢力せいりょくかえしたが、ひろし8ねん(1375ねん)に病死びょうしした。ココ・テムルと、その3ねんのアユルシリダラのさかい北元きたもと勢力せいりょく急速きゅうそく解体かいたいかい、もと中国ちゅうごく回復かいふくたされないままにわる。ココ・テムルのおとうとのトイン・テムルは北元きたもとの詹事いんどうつとめたが、ひろし21ねん1388ねん)にあいたまひきいるあかりぐん捕虜ほりょとなり、謀反むほんまれて殺害さつがいされた。

家系かけい[編集へんしゅう]

  • ソルカン
    • ジュルジ(往)
      • バヤウダイ(はくよう兀歹)
        • サイン・チダク(さいいんあかこたえゆるがせ
          • ココ・テムル(擴廓じょう
          • トイン・テムル(だついんじょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ モンゴルkököを漢字かんじ転写てんしゃするさいに擴廓という文字もじ使つかわれることはまれなため、「擴廓じょうというたまわった」とは特殊とくしゅ意味いみめられた漢字かんじあたえられたという意味いみではないかと推測すいそくされている(村岡むらおか2007,126ぺーじ)

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 村岡むらおかりん洛陽らくよう出土しゅつどさいいんあかこたえゆるがせ墓誌ぼし』より」『13、14世紀せいきひがしアジアしょ言語げんご史料しりょう総合そうごうてき研究けんきゅう』、2007ねん