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おんなしん

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おんなじきから転送てんそう
おんなしん
おんなしんこく」の人物じんぶつ:明代あきよ後期こうき木版もくはん
中国ちゅうごく
繁体字はんたいじ おんなしん
簡体字かんたいじ おんなしん
発音はつおん記号きごう
標準ひょうじゅん中国語ちゅうごくご
漢語かんご拼音Nǚzhēn
朝鮮ちょうせん
ハングル여진 (みなみ)/ 녀진 (きた)
発音はつおん記号きごう
RRしきYeojin / Nyeojin
MRしきYŏjin / Nyŏjin
モンゴル
モンゴルᠵᠥᠷᠴᡞᡨ Зүрчид (Jürchid)
おんなしん
おんなしん dʒu-ʃə[1]
ちぎり
ちぎりdʒuuldʒi (おんなじき) 
まんしゅう
まんしゅうᠵᡠᡧᡝᠨ jušen

おんなしんおんなしん、じょしん、まんしゅう: ᠵᡠᡧᡝᠨ 転写てんしゃ:jušen)は、おんなじき(じょちょく)ともいい、まんしゅうまつ花江はなえ一帯いったいからそときょうやすみね(スタノヴォイ山脈さんみゃく以南いなんそとまんしゅうにかけて居住きょじゅうしていたツングースけい民族みんぞく民族みんぞく聖地せいちちょう白山はくさんとする。10世紀せいきごろから記録きろくあらわれ、17世紀せいきに「まんしゅう」(「マンジュ」と発音はつおん)と改称かいしょうした。「おんなしん」の漢字かんじおんなしん民族みんぞくめい「ジュシェン」(または「ジュルチン」)のである。

おんなじき」はりょう王朝おうちょうきょうむねいみな(耶律そうしん)にふくまれる「しん」のけた(避諱)ためもちいられるようになったといわれる[2]12世紀せいきおんなしんぞく中国ちゅうごく東北とうほくきむ王朝おうちょうてたが、かねほろぼしたモンゴル帝国ていこくおよび元朝がんちょう時代じだい漢文かんぶん資料しりょうでは「おんなじき」の表記ひょうきおお見受みうけられ、おなじくモンゴル帝国ていこく時代じだい編纂へんさんされたペルシア歴史れきししょしゅう』などでもきむちょうおんな真人しんじん言及げんきゅうする場合ばあい、「おんなじき」のおとうつしである جورچه jūrcha が使用しようされている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

金代かなだい以前いぜん[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく東北とうほく地方ちほうしょ民族みんぞくについてはしゅうだいより記録きろくがあり、それによれば、そのころ「粛慎(しゅくしん)」としょうされる狩猟しゅりょうみん毛皮けがわ青石あおいしせい石鏃せきぞく、あるいは楛矢(こし)といった物産ぶっさん中原なかはらしょ王朝おうちょう献上けんじょうしていた[3][4](はく)という民族みんぞくもあったが[4]戦国せんごく時代じだいからかんだいにかけてのかん民族みんぞく進出しんしゅつらくなみぐんぜん108ねん設置せっち以下いか4ぐん設置せっちといううごきのなかで、貊のなかからおっとあまり(ふよ)がこり[4]紀元きげん前後ぜんこう以降いこうは、おっとあまり挹婁(ゆうろう)、勿吉(もっきつ)、靺鞨(まっかつ)といったしょ民族みんぞく興亡こうぼうしたことがられている[3][4]

おっとあまり、勿吉、靺鞨などの集団しゅうだんは、狩猟しゅりょう牧畜ぼくちく生業せいぎょうとしながらも、かなりはや段階だんかいから農耕のうこう生活せいかつにとりいれていた[5]。靺鞨は、農業のうぎょうおも生業せいぎょうとするあわまつ靺鞨白山はくさん靺鞨の2靺鞨と、じゅんツングースけい狩猟しゅりょうおおくを依存いぞんするやすしゃこつ靺鞨はく咄靺鞨はらい涅靺鞨ごうしつ靺鞨黒水くろみず靺鞨の5靺鞨が有力ゆうりょくであった[6]高句麗こうくり建国けんこくしたのもかんぞくではなく、ツングースけいの貊族であった[5]あわまつ白山はくさんりょう靺鞨は、高句麗こうくり従属じゅうぞくしたが、はこれと対立たいりつした[6]7世紀せいき後半こうはん高句麗こうくりほろび、7世紀せいき末葉まつようにはあわまつ靺鞨高句麗こうくりのこみんくわえ、みなみまんしゅうから現在げんざい朝鮮半島ちょうせんはんとう北部ほくぶにかけてのに、「うみひがしもりこく」としょうされた渤海建国けんこくされた[3][4]。渤海こくたいしては、なな靺鞨のうち黒水くろみず靺鞨以外いがいしょ靺鞨がしたがった[2]。渤海はまた、日本にっぽん一時いちじ朝貢ちょうこうし、渤海使派遣はけんした。以上いじょうのうち、貊、おっとあまり、勿吉、靺鞨はツングースけい民族みんぞくかんがえられている[5][3]。なお、靺鞨ぞく文化ぶんかについては、考古学こうこがくてき研究けんきゅうによってそのおおくが解明かいめいされてきている[7]

おんなしん」は本来ほんらい、「黒水くろみず靺鞨」とばれた集団しゅうだんによる自称じしょうであるといわれ、とう時代じだい入朝にゅうちょうした靺鞨じん名乗なのりが「おんなしん」のはつであると記録きろくされている。モンゴルけいちぎりじんてたりょう時代じだいはいると、まつ花江はなえ豆満江とうまんこう流域りゅういき朝鮮半島ちょうせんはんとう北部ほくぶ咸鏡南道みなみどう咸鏡北道ほくどう方面ほうめん居住きょじゅういきひろげ、りょうこううらら朝貢ちょうこうし、「黒水くろみずおんなしん」「ひがしおんなしん」としょうされた[2]おんなしんぞくは、しゅとして農耕のうこう漁撈ぎょろう牧畜ぼくちく狩猟しゅりょう従事じゅうじし、中国ちゅうごく内地ないちとのあいだ朝鮮人参ちょうせんにんじん(オタネニンジン)やしし毛皮けがわ交易こうえきしていた[8][9][10]うまかね産地さんちでもあり、上記じょうきのものもふくだかうららちぎり交易こうえきし、武器ぶきなどを[5]

きむ王朝おうちょう建国けんこくしたかんがおおもねほね
きむ上京じょうきょう歴史れきし博物館はくぶつかん(ハルビン)にあるおもねほねぞう

10世紀せいき後半こうはんから11世紀せいきにかけて、西南せいなん日本にっぽんではちょういさお入寇にゅうこうなどこう麗人れいじん入寇にゅうこうもあったが、1019ねんかたな入寇にゅうこうにおいて対馬つしま九州きゅうしゅう大宰府だざいふおそった「かたな(とい)」という海賊かいぞく集団しゅうだんは、おんなしんけい一部いちぶぞく主体しゅたいだったとかんがえられている[11]かたなとは、「東夷あずまえびす」の意味いみであるとも、朝鮮ちょうせんで「外様とざま」を意味いみするともいわれる。また、「かたな」の構成こうせいいんについてはこう麗人れいじんちぎりじんなどもじっていたといわれるが詳細しょうさい不明ふめいである。

ちぎりじん王朝おうちょう支配しはい中国ちゅうごく東北とうほくにおよぶと、黒水くろみず靺鞨を起源きげんとするおんなしんは、ツングース本来ほんらい漁撈ぎょろう農耕のうこう養豚ようとん狩猟しゅりょう生業せいぎょうとしていたなまおんなしんと、りょうにしたがい、その領土りょうどないうつされてりょう戸籍こせきにつけられていたじゅくおんなしん大別たいべつされた[2][5]。渤海は建国けんこく当初とうしょからとう文化ぶんか導入どうにゅうしており、りょうもまた中国ちゅうごく内地ないちへの進出しんしゅつとともに政治せいじ文化ぶんかかん進行しんこうしたのでじゅくおんなしんほうがよりかん度合どあいがおおきかった。

かね興亡こうぼう[編集へんしゅう]

1142ねんにおけるおんなしんぞく王朝おうちょうかね」と周辺しゅうへんしょ王朝おうちょう
そうみなみそう)はかん民族みんぞく王朝おうちょう西にしなつはチベットけいタングート王朝おうちょうだいはチベットけいペーぞく王朝おうちょう

うみひがしもりこく」渤海こく10世紀せいき滅亡めつぼうするが、11世紀せいきにはまんしゅうぞく直接ちょくせつ祖先そせんひとつとかんがえられるはんのうはんりょうおんなしんおんなじき)が文献ぶんけん登場とうじょうする。12世紀せいきのはじめ、なまおんなしんかんがお(ワンヤン)からおもねほね(アクダ)がじょしん統一とういつすすめ、1115ねんにはちぎりぞくによる遊牧民ゆうぼくみん王朝おうちょうりょうから自立じりつしてきむ建国けんこくした[2][3][5][12]かんがお現在げんざい黒竜江こくりゅうこうしょうハルビンおもねぐすく中心ちゅうしんとして周辺しゅうへんしょをまとめ、次第しだい南北なんぼく勢力せいりょく拡大かくだいしてまんしゅう東部とうぶおんなしんぞく統一とういつした[5]きむ王朝おうちょう首府しゅふは、最初さいしょ上京じょうきょうかいやすし(ハルビンおもねぐすく)にかれた[5]

りょうだいおんなしんぞくのなかでもさほど有力ゆうりょくとはいえないかんがおかね王朝おうちょう樹立じゅりつさせるにいたった原因げんいんは、砂金さきんさんする河川かせん流域りゅういき支配しはいおさめたことによるとかんがえられる[12]かねは、りょうほろぼし、さらに1126ねんかん民族みんぞく王朝おうちょうそう徽宗欽宗のニみかどおよび皇族こうぞく重臣じゅうしんらをらえて中国ちゅうごく北半きたはん支配しはいして宋朝そうちょうみなみいやり[3][13][14]、よりかんすすめようとしたワンヤン・テクナイ(うみりょうおう)は1153ねんつばめきょう(いまの北京ぺきん)にうつした[3][13][14]かねは、漢字かんじをもとにしておんな文字もじという独特どくとく文字もじ体系たいけい整備せいびし、政府せいふ組織そしき中央ちゅうおう地方ちほうともに中国ちゅうごくふうにして支配しはい体制たいせいととのえたが、軍事ぐんじ権力けんりょくつよにぎって独占どくせんしたのはおんなしんぞくであり、政府せいふ首脳しゅのうもまたじょしんぞくによってめられた[3][13]おんな真人しんじんには行政ぎょうせい軍事ぐんじねたもうやすはかりごとかつ制度せいどなど独自どくじ統治とうち体制たいせいがとられて特別とくべつ保護ほごけ、かんふせいだ[3][13]東北とうほくまんしゅう)にあってはだい部分ぶぶんもうやすはかりごとかつせいによって統治とうちされたが、民族みんぞく西部せいぶ南部なんぶではしゅうけんせいによる支配しはいがつづいた[13][15]

きむはしかし、1206ねんチンギス・カンによって成立せいりつしたモンゴル帝国ていこく猛攻もうこうけて劣勢れっせいち、開封かいふううつしたものの1232ねんにはその開封かいふう包囲ほういされた[16]。そして、1234ねんオゴデイらの進撃しんげき逃走とうそうしていたあいむね自殺じさつしてかねほろんだ[3][13][16]一方いっぽう、これに先立さきだち、ちぎり反乱はんらん鎮圧ちんあつしょうして挙兵きょへいしていたきむ王朝おうちょう将領しょうりょうかばまんやつは、1215ねんかねより自立じりつして「天王てんのう」を名乗なのり、ひがしなつこくだいしんこく)を建国けんこくした[16]。モンゴルに服属ふくぞくしたり自立じりつしたりをかえしていたが、このくにもまた、1233ねんオゴデイグユクによってほろぼされた[13][16]

おんなしんぞくは、きむがモンゴル帝国ていこくほろぼされてからのちは、モンゴル帝国ていこく大元おおもと大明だいめい支配しはいかれた[13][8]。そのあいだかね時代じだい創始そうししたおんな文字もじもしだいにうしなってかね建国けんこく以前いぜん部族ぶぞく集団しゅうだん後退こうたいした[8]おんなしんぞく家族かぞく当時とうじ主人しゅじん奴婢ぬひ完全かんぜん二分にぶんされており、主人しゅじん狩猟しゅりょう採集さいしゅう交易こうえき戦争せんそうなどのそと仕事しごと奴婢ぬひ農耕のうこうブタ飼養しようなど食糧しょくりょう生産せいさん担当たんとうするという分業ぶんぎょう体制たいせい確立かくりつしており、その役割やくわり世襲せしゅうされていったが、起居ききょ食事しょくじ代々だいだいともにし、双方そうほう物産ぶっさん物資ぶっしへだてなく均等きんとう分配ぶんぱいされたから、両者りょうしゃむすびつきはきわめて緊密きんみつであった[9]

もと明代あきよおんなしんぞく[編集へんしゅう]

もとだいから明代あきよにかけてのおんな真人しんじんは、

の3種族しゅぞく大別たいべつされて、モンゴルぞくかんぞく支配しはいにあった[3][13][18]

東北とうほく残留ざんりゅうしたおんなしんおんなじき)は、もとだいにはりょうとうしょゆき中書ちゅうしょしょう管轄かんかつはいったが、その統制とうせいはゆるやかなもので、ほぼ完全かんぜん自治じちがゆるされていた[19]もとだいおんなしん中国ちゅうごく東北とうほくから朝鮮半島ちょうせんはんとう北部ほくぶにかけて居住きょじゅうしてもと支配しはいけており、もと日本にっぽん侵攻しんこうもと)にもおんなしんへいくわわっている。もと滅亡めつぼうおんなしんはモンゴルからはなれ、しょう集団しゅうだんごとにあきら服属ふくぞくした。あかり帝国ていこくは、たいモンゴル政策せいさく一環いっかんとしておんなしんぞく利用りようする政策せいさく採用さいようし、おんなしん部族ぶぞくごとにまもるしょせいによって編成へんせいし、部族ぶぞくちょう官職かんしょくさづけ、それをしめ勅書ちょくしょ印璽いんじをあたえて間接かんせつ統治とうちおこなった[8]。そのうえで部族ぶぞくちょうたいし、朝貢ちょうこう馬市うまいちにかかわる特権とっけん付与ふよ便宜べんぎはかったのであったが、これは、自給自足じきゅうじそくむずかしいおんなしんぞく社会しゃかい権威けんい利権りけんをめぐる熾烈しれつ争奪そうだつこうそうむこととなって、結果けっかてきおんなしんぞくない覇権はけん闘争とうそうんだ[8][18][注釈ちゅうしゃく 2]

せんとく9ねん1434ねん)、あかり支配しはいにあった東北とうほくおんなしんぞく飢饉ききん見舞みまわれ、むすめたちを奴隷どれいとしてることを余儀よぎなくされ、遼東りゃおとんうつって明王みょうおうちょう政府せいふ援助えんじょ救済きゅうさいもとめた[20][21]

一方いっぽう朝鮮半島ちょうせんはんとうではこううららわって登場とうじょうした朝鮮ちょうせんむね時代じだい北部ほくぶおんな居住きょじゅう地域ちいき進出しんしゅつした。1437ねんには東北とうほくろく中国語ちゅうごくごばん1443ねんには西北せいほくよんぐん中国語ちゅうごくごばんかれ、それぞれ咸鏡どう平安へいあんどうまれた。朝鮮半島ちょうせんはんとう北部ほくぶからはおんな真人しんじん姿すがたうしなわれていったが、15世紀せいきから16世紀せいきにかけて、かもみどりこう豆満江とうまんこう流域りゅういきおんな真人しんじんたちは、たびたび朝鮮ちょうせん反撃はんげきしてじゅう奪還だっかんはかったため、豆満江とうまんこう南岸なんがん地域ちいき争奪そうだつかえされるとなった。

まんしゅうへの改称かいしょう[編集へんしゅう]

後金あときんふとしヌルハチ

16世紀せいき末葉まつよう豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき)によって明朝みょうちょうおんなしんたいする統制とうせいがゆるみ[2]けんしゅうおんなじきのスクスフからあいしんさとしヌルハチ台頭たいとう、1588ねんにはけんしゅうおんなしん統一とういつした[22]。そのけんしゅううみ西にしおんなしん野人やじんおんなしん一部いちぶくわえたおんなしんぞくをほぼ統一とういつし、1616ねん後金あときん王朝おうちょうてた[3][13]1627ねん後金あときんおやあかりてき政策せいさくをとっていた朝鮮ちょうせん侵入しんにゅう制圧せいあつし(ちょうしげる胡乱うろん)、後金あときんあに朝鮮ちょうせんおとうととすることなどをさだめた和議わぎむすんだ[23]

1635ねんにヌルハチの子息しそくホンタイジモンゴルチャハルくだしてもとたま入手にゅうしゅすると、漢字かんじとしては蔑称べっしょうのニュアンスをふくむうえ、モンゴル高原こうげんちぎりじん支配しはいされていた当時とうじの「おんなしん」の民族みんぞくめいきらい、1635ねん11月22にちてんさとし9ねんじゅうがつかのえとら)に民族みんぞくめいまんしゅうぞくあらためさせた[3][24]。また、それまではおんなしんぞく王朝おうちょうであるかね後裔こうえい名乗なのっていたが、1636ねんには国号こくごうも「きよし」にあらためた[3][24]1636ねん、ホンタイジは朝鮮ちょうせんたいして臣従しんじゅうするよう要求ようきゅうしたが、朝鮮ちょうせん朝廷ちょうていでは斥和ろん主戦しゅせんろん)が大勢おおぜいめ、じんきよしを「蛮夷ばんい」とんで自尊心じそんしん名分めいぶんかかげ、臣従しんじゅう拒絶きょぜつした[23]清朝せいちょう謝罪しゃざいがなければ攻撃こうげきすると威嚇いかくしたが、朝鮮ちょうせんがわはこれを黙殺もくさつしたためホンタイジは朝鮮ちょうせん侵攻しんこう決意けついしてへい胡乱うろんこり、1637ねん朝鮮ちょうせん三田みたわたる盟約めいやくむすばされてきよし属国ぞっこくとなった[23]。2にわたる胡乱うろんで、現在げんざい北朝鮮きたちょうせん北部ほくぶおんな真人しんじんあらたに入植にゅうしょくしていた朝鮮ちょうせんじんとともにしんりょう連行れんこうされた。当地とうち無人むじんとなったが、跡地あとちには朝鮮ちょうせんじん入植にゅうしょくした。

1644ねん、フリン (順治じゅんじみかど) 即位そくいきよし山海さんかいせきえて万里ばんり長城ちょうじょう以南いなん進出しんしゅつし、なりらん滅亡めつぼうしたあかりにかわって北京ぺきん入城にゅうじょう以後いご1911ねんからし革命かくめいいたるまで中国ちゅうごく大陸たいりく君臨くんりんした[3]きよし帝国ていこくは、中国ちゅうごく伝統でんとうてき統治とうち機構きこう踏襲とうしゅうする一方いっぽうで、まんしゅうぞく独自どくじ軍事ぐんじ行政ぎょうせい生産せいさん機構きこうであるはちはた制度せいど制定せいていし、みずからのヘアスタイルである辮髪べんぱつかんぞくにも強要きょうようし、東北とうほく地方ちほうへの入植にゅうしょくきんずるなどのかん政策せいさく採用さいようした[3]あかり滅亡めつぼうは、あかり旧領きゅうりょう征服せいふくし、はちはた北京ぺきん集団しゅうだん移住いじゅうさせて漢人かんど土地とちまんしゅうじん支配しはいする体制たいせいをきずきあげた[25]

宗教しゅうきょう精神せいしん文化ぶんか[編集へんしゅう]

ちょうしろ山頂さんちょう天池あまいけ

おんなしんぞく宗教しゅうきょうは、婚姻こんいん儀礼ぎれい葬送そうそう儀礼ぎれいなどにおいて民族みんぞく独自どくじシャーマニズム祖先そせん崇拝すうはい要素ようそふくまれていた。自然しぜん崇拝すうはいにおいては、しんほししんおよび神山かみやま神石じんせき尊崇そんすうし、とりわけほししんたいする信仰しんこうもっと普遍ふへんてきなものであった[26]。『吉林きつりんどおりこころざし』にも「祭祀さいし典礼てんれいは、まんしゅうもっとおもんずるは、いちまつりぼしまつり」とある[26]ほししんとは、具体ぐたいてきには北斗七星ほくとしちせいであり、まんしゅうでは「ナダン(ななつ)ウシハ(ほし)」としょうする[26]記録きろくによれば、まんしゅうぞくおんなしんぞく)のまつりぼしは、おおくはつきしずのちおこなとうさいで、そこでは灯火ともしびがかきされ静寂せいじゃくのなかでおこなわれ、通常つうじょううらないぼくたたばらい、やまいばらいなどの巫術ふじゅつむすびついたじょわざわいまつりである[26]おなじツングースけいのホジェンぞく(赫哲ぞく、ロシアでは「ナナイ」としょうする)もまた、ななほしじょわざわいかみとみなし、「よしほししん」と呼称こしょうする[26]

聖地せいちちょう白山はくさん[編集へんしゅう]

ちょう白山はくさん朝鮮ちょうせん呼称こしょうでは「白頭山はくとうさん」)周辺しゅうへんは、もともと・貊・粛慎居住きょじゅうしており、かれらの聖地せいちだった[よう出典しゅってん]。そのこのにおける濊貊いきおいがおとろえ、粛慎のながれをおんなしんがこのやま聖地せいちとした[27]きむは、1172ねんにはやまかみに「興国こうこくれいおうおう」の称号しょうごうおくり、1193ねんには「ひらきてんひろし聖帝せいてい」とあらためている[よう出典しゅってん]

神話しんわ伝承でんしょう[編集へんしゅう]

まんぶんろう檔』天命てんめい6ねん1621ねんじょうまんぶん内国ないこくいん檔』てんさと8ねん1634ねんじょうには、当時とうじおんなしんぞくまんしゅうぞく)が日食にっしょく月食げっしょくという天文てんもん現象げんしょうを「天界てんかいいぬ太陽たいようつきべること」であるとかんがえていたことを示唆しさする記述きじゅつ収載しゅうさいされており、こうした伝承でんしょうのツングースけいしょ民族みんぞく朝鮮ちょうせん民族みんぞくテュルクけい民族みんぞく、また、パレオアジアけいとみられるニヴフ(ギリヤーク)にもみられる[28]

また、『まんしゅう実録じつろく』や『まんぶんろう檔』には、天命てんめい元年がんねん(1616ねん)、ヌルハチがダルハン・ヒヤとションコロ・バトゥルにめいじてサハリヤン討伐とうばつさせたとき、アムールがわ黒竜江こくりゅうこう)の渡河とかさいして、往還おうかんともにときならぬ奇跡きせきてき結氷けっぴょうたすけられて討伐とうばつ成功せいこうさせたことが史実しじつとしてしるされている[28]。これに説話せつわとして、イチェ・マンジュ(てっまんしゅう ice manju/ しんまんしゅうにん伝承でんしょうとして、1.背後はいごてきぐんせまり、2.大河たいがさえぎ滅亡めつぼう危機ききむかえるが、3.大河たいがさかなうわきょうができてなんのがれ、4.滅亡めつぼうまぬかれる(新天地しんてんち移住いじゅうする)という4つのモチーフをともなう説話せつわつたわっている[28]。この4モチーフは、おっとあまり高句麗こうくり開国かいこく説話せつわひがし明王みょうおう朱蒙チュモン伝説でんせつ)にも共通きょうつうし、オロチョンぞくナナイぞくなどツングースけい民族みんぞく説話せつわにもみられる[28][注釈ちゅうしゃく 3]

氏族しぞくせい社会しゃかい文化ぶんか[編集へんしゅう]

ムクンとハラ[編集へんしゅう]

おんなしんぞく社会しゃかいにはつよ父系ふけい原理げんりはたらいており、「ハラ(hala)」または「ムクン(mukūn)」とばれる父系ふけい氏族しぞく主要しゅよう社会しゃかい組織そしきであり、父系ふけい拡大かくだい家族かぞく主要しゅよう経済けいざい単位たんいとなった[3][29]。ムクンはハラより派生はせいしたとかんがえられ、しんだいにあっては、ハラはすでに実体じったいをともなった血縁けつえん組織そしきとはみられず、ムクンだけがのこったが、野人やじんおんなひたばれたひとびととその末裔まつえいにあってはハラ組織そしき濃厚のうこう残存ざんそんした[29]1個いっこのハラは複数ふくすうのムクンを包含ほうがんしているのにたいし、1個いっこのムクンはただ1つのハラに帰属きぞくしており、当初とうしょはハラがぞくがいこん単位たんいであると同時どうじぞくないへの機能きのうゆうし、讐の義務ぎむをともない、また、精神せいしん生活せいかつ単位たんいでもあった[29]。それにたいし、ムクンはハラの瓦解がかいけて不断ふだん分節ぶんせつし、発展はってんしていったものであり[30]、のちにはどういちハラであってもことなるムクンであれば、つうこん可能かのうとなった[30]

婚姻こんいん[編集へんしゅう]

おんなしんぞくまんしゅうぞく)の伝統でんとうてき婚姻こんいんは、ぞくがいこんによって特徴とくちょうづけられる[31][32]ぞくがいこん規制きせいは、おな氏族しぞく同士どうし結婚けっこんしないという原則げんそくである。上述じょうじゅつした「ハラ(きゅう氏族しぞく)」は当初とうしょぞくがいこん単位たんいであったが、その分節ぶんせつによってしょうじた「ムクン(しん氏族しぞく)」が現代げんだいにおけるぞくがいこん単位たんいとなっている[29][30]おんなしんぞくふるくは、継母けいぼめとったり、おとうとあによめめとったりするおさむつぎこんおおかったが、ホンタイジの時代じだいはいると漢人かんどてき観念かんねん浸透しんとうしてきゅうぞく矯正きょうせいはかられ、おさむつぎこん禁止きんしされた[32]

葬送そうそう殉死じゅんし風習ふうしゅう[編集へんしゅう]

おんなしんぞくきゅうぞくでは、火葬かそうおこなわれていた[33]。ヌルハチもホンタイジも火葬かそうされ、清朝せいちょう3だいフリン(順治じゅんじみかど)は火葬かそう制度せいど詳細しょうさいさだめ、かれ自身じしん火葬かそうされた[33]おんなしんひとびとはまた、死者ししゃ葬送そうそうのためにうしうまころしてこれを死者ししゃささげ、そのにくしょくすというきゅうぞくをもっていた[33]。このような習俗しゅうぞくかん熙帝ころまではつづいたが、やがてかん民族みんぞく習俗しゅうぞくれ、かみをもって祭礼さいれいをおこなうようになった[33]殉死じゅんし風習ふうしゅうひろおこなわれ、ヌルハチのつま死去しきょさいには4にん奴婢ぬひが、ヌルハチ自身じしん死去しきょさいにも2人ふたり側室そくしつ殉死じゅんしした[33]。ホンタイジは殉死じゅんし強制きょうせい禁止きんししたが、禁止きんしされたのは強制きょうせい行為こういのみであって殉死じゅんしそのものは否定ひていされず、ホンタイジの死去しきょさいには近侍きんじ2めい殉死じゅんしした[33]殉死じゅんしきゅうぞくまんしゅうぞく改名かいめいしてのちもつづけられたのは、奴婢ぬひ制度せいど無関係むかんけいではないとかんがえられる[33]かん熙帝が在位ざいいちゅう殉死じゅんし禁止きんしさと命令めいれいはっし、以降いこうかみじんくことで死者ししゃ霊魂れいこんまつることとなった[33]

年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

まんしゅう歴史れきし
朝鮮ちょうせん ひがしえびす 濊貊
沃沮
粛慎
つばめ りょう西郡にしごおり 遼東りゃおとんぐん
はた りょう西郡にしごおり 遼東りゃおとんぐん
前漢ぜんかん りょう西郡にしごおり 遼東りゃおとんぐん まもる朝鮮ちょうせん 匈奴きょうど
かんよんぐん おっとあまり
こうかん りょう西郡にしごおり がらす 鮮卑 挹婁
遼東りゃおとんぐん 高句麗こうくり
げんうさぎぐん
たかし あきらはじむぐん 公孫こうそん
遼東りゃおとんぐん
げんうさぎぐん
西にしすすむ たいらしゅう
慕容 宇文うぶん
ぜんつばめ たいらしゅう
ぜんはた たいらしゅう
こうつばめ たいらしゅう
きたつばめ
きたたかし 営州 ちぎり くら莫奚 しつ
あずまたかし 営州 勿吉
きたひとし 営州
きたあまね 営州
ずい 柳城やなしろぐん 靺鞨
つばめぐん
りょう西郡にしごおり
とう 営州 まつばくとく にょうらくとく しつ韋都とく 安東あんどうみやこまもる 渤海こく 黒水くろみずとく 靺鞨
だいじゅうこく 営州 ちぎり 渤海こく 靺鞨
りょう 上京じょうきょうどう   ひがし おんなしん
中京ちゅうきょうどう じょうやす
東京とうきょうどう
きむ 東京とうきょう
上京じょうきょう
あずまりょう だいしんこく
もと りょうぎょうしょう
あきら 遼東りゃおとん やつ指揮しき使
けんしゅうおんなしん うみ西にしおんなしん 野人やじんおんなしん
きよし まんしゅう
 

ひがしさんしょう
ロマノフあさ
沿海州えんかいしゅう/みどりウクライナ/江東こうとうろくじゅうよんたむろ
中華民国ちゅうかみんこく
ひがしさんしょう
極東きょくとう共和きょうわこく
ソ連それん
極東きょくとう
まんしゅうこく
ソ連それん占領せんりょうまんしゅう
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく
中国ちゅうごく東北とうほく
ロシア連邦れんぽう
極東きょくとう連邦れんぽう管区かんく/極東きょくとうロシア
北朝鮮きたちょうせん
たきぎとうぐん
中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん関係かんけい
Portal:中国ちゅうごく
  • 313ねん らくなみぐん高句麗こうくりによってほろぼされる。
  • 427ねん 高句麗こうくり平壌ぴょんやん遷都せんと
  • 668ねん 高句麗こうくりとうによってほろぼされる。
  • 698ねん 渤海建国けんこく
  • 918ねん だかうらら建国けんこく
  • 926ねん 渤海の滅亡めつぼう
  • 994ねん だかうららじょしん侵略しんりゃくし、江東こうとうろくしゅう占領せんりょう
  • 1019ねん かたな入寇にゅうこう
  • 1107ねん だかうららいんじょしん侵略しんりゃくし、東北とうほく9しろきずく。
  • 1109ねん だかうららおんなしん大敗たいはいし、講和こうわ
  • 1113ねん おんなしんおもねほね(アクダ)がかんがおちょうとなる。
  • 1114ねん おもねほねりょうはんし、もうやすはかりごとかつ(ミンガン・ムクン)せいととのえる。
  • 1115ねん おんなしんきむ建国けんこく
  • 1116ねん きん遼東りゃおとん地域ちいき領有りょうゆう
  • 1118ねん りょうかね和平わへいもうる。
  • 1119ねん きんおんな文字もじ作成さくせいする。
  • 1122ねん きんりょう中京ちゅうきょう西京にしぎょう南京なんきんつばめきょう)を占領せんりょう
  • 1125ねん きんりょうほろぼす。
  • 1126ねん きんぐん大挙たいきょして開封かいふう占領せんりょう高麗こうらいかね服属ふくぞくする。
  • 1127ねん やすしやすしへんかねきたそうほろぼす。
  • 1131ねん きん陝西せんせいしょう方面ほうめん征服せいふくしてひとしくににあたえる。
  • 1135ねん きん熙宗即位そくい。ボギレせいはいして三省みつよし制度せいど制定せいてい
  • 1137ねん きんひとしこく廃止はいしし、華北かほく直接ちょくせつ統治とうち開始かいし
  • 1153ねん きんうみりょうおうつばめきょう遷都せんとしてちゅうとする。
  • 1181ねん きん貧窮ひんきゅうおんな真人しんじん救済きゅうさいさくをとる。
  • 1207ねん そうかねやく
  • 1215ねん モンゴルぐんかねなか陥落かんらくさせる。がままんやつかねより自立じりつしてだいしんこく建国けんこく
  • 1225ねん きん西にしなつ和議わぎ成立せいりつ
  • 1227ねん モンゴル、かね侵攻しんこう西にしなつほろぼす。
  • 1233ねん だいしんこく滅亡めつぼう
  • 1234ねん モンゴルがかねほろぼす。
  • 1267ねん 元朝がんちょうおんな真人しんじん徴発ちょうはつ
  • 1271ねん 元朝がんちょうおんな真人しんじん徴発ちょうはつ
  • 1274ねん もとぐん日本にっぽん遠征えんせいぶんながやく)におんなしんぐん参加さんか
  • 1281ねん もとぐん日本にっぽん遠征えんせい弘安ひろやすやく)におんなしんぐん参加さんか
  • 1346ねん うみ西にしおんなじきもとに叛く。
  • 1371ねん あかりりょうていりょうみやこまもる指揮しき使開設かいせつ
  • 1384ねん 野人やじんおんなじきウェジあかり来朝らいちょう
  • 1411ねん 永楽えいらくみかどうみ西にしおんなじき出身しゅっしん宦官かんがんイシハめいじてアムールがわ河口かこうヌルガン遠征えんせい
  • 1413ねん ヌルガンにえいやすしてら建立こんりゅう
  • 1437ねん 朝鮮ちょうせんじょしん侵略しんりゃくし、東北とうほくろく中国語ちゅうごくごばんく。
  • 1443ねん 朝鮮ちょうせんじょしん侵略しんりゃくし、西北せいほくよんぐん中国語ちゅうごくごばんく。
  • 1583ねん ヌルハチあかりより勅書ちょくしょ自立じりつ
  • 1588ねん ヌルハチがけんしゅうおんなじき統一とういつ
  • 1601ねん ヌルハチがはちはた制度せいど創設そうせつ
  • 1616ねん ヌルハチがヘトゥアラでハンき、後金あときん建国けんこく
  • 1618ねん ヌルハチがあかり侵攻しんこうし、なでじゅんじょう攻略こうりゃく
  • 1619ねん サルフのたたか。ヌルハチがあきら朝鮮ちょうせん連合れんごうぐん撃破げきは
  • 1626ねん ホンタイジ即位そくい
  • 1634ねん 後金あときんぐん、モンゴルの一大いちだい拠点きょてんフフホト占領せんりょう
  • 1635ねん ドルゴンがモンゴル帝国ていこく最後さいご君主くんしゅエジェイ・ハーン降伏ごうぶくさせる。エジェイがだいもとつてこくの璽をたずさえ、ホンタイジに献上けんじょう
  • 1636ねん 後金あときんきよし改名かいめい民族みんぞくめいも「おんなしん」の使用しようきんじ「まんしゅう(マンジュ)にあらためる。

おんなしん出自しゅつじをめぐる論争ろんそう[編集へんしゅう]

まつばく』『まんしゅう源流げんりゅうこう』などのいくつかの中国ちゅうごく史料しりょうには、おんなしんかんがお先祖せんぞであり、かねあさ始祖しそとされるはこひろしが「しんじん」あるいは「こううららよりた」と記録きろくされている。これを根拠こんきょ韓国かんこく北朝鮮きたちょうせんではじょしんルーツ朝鮮ちょうせん民族みんぞくであり、きむきよし歴史れきし韓国かんこく朝鮮ちょうせん歴史れきしふくめるべきだという主張しゅちょうがある[34][35][36][37][38]。しかしながら、史料しりょう解釈かいしゃく問題もんだいがあり、中国ちゅうごく日本にっぽんなどの専門せんもんからは信憑しんぴょうせいうたがわれている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 現在げんざい、ロシア連邦れんぽう沿海州えんかいしゅうみ、狩猟しゅりょうおも生業せいぎょうとしてきた少数しょうすう民族みんぞくウデヘは、このうちの野人やじんおんなじき一派いっぱ、ウェジの末裔まつえいかんがえられる[17]
  2. ^ 明朝みょうちょう政策せいさく根底こんていにはおんなしんぞく分断ぶんだん意図いともあったが、ヌルハチはこうした覇権はけん闘争とうそういたうえであかり対抗たいこう勢力せいりょくとなるまでに勢力せいりょく拡大かくだいさせたのであるから、長期ちょうきてきかんがえればあかりにとって皮肉ひにく結果けっかだったといえる[8][18]
  3. ^ うわきょうのモチーフは、説話せつわによっては、さかなではなくカメによってつくられる場合ばあいもある[28]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  10. ^ 岸本きしもと(2008)pp.239-242
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  14. ^ a b 梅村うめむら(2008)pp.423-431
  15. ^ 梅村うめむら(2008)pp.421-423
  16. ^ a b c d 河内かわうち(1989)pp.235-237
  17. ^ 松浦まつうら(2006)
  18. ^ a b c 石橋いしばし(2000)pp.66-67
  19. ^ 松村まつむら(2006)pp.147-149
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  21. ^ またしつ哈八东洋”. Ifeng.com. (2014ねん7がつ8にち). オリジナルの2015ねん4がつ28にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150428053435/http://hlj.ifeng.com/culture/history/detail_2014_07/08/2559681_0.shtml 
  22. ^ 岸本きしもと(2008)pp.247-250
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  27. ^ 噴火ふんかつくした神秘しんぴなる聖山ひじりやまちょう白山はくさん(白頭山はくとうさん)(中国ちゅうごく北朝鮮きたちょうせん - VOYAGE-世界せかい見聞けんぶんろく
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  29. ^ a b c d ひろしあきらりゅうしょうもえ(1996)pp.138-148
  30. ^ a b c ひろしあきらりゅうしょうもえ(1996)pp.148-154
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  36. ^ “【寄稿きこう】「みず」で北京ぺきん東京とうきょう・ソウルの歴史れきし. 朝鮮日報ちょうせんにっぽう. (2016ねん1がつ24にち). オリジナルの2016ねん1がつ26にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160126045010/http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/01/23/2016012300446_2.html 
  37. ^ “「きむきよし韓国かんこく編入へんにゅうを」…東北とうほく工程こうてい対応たいおうさく提案ていあん. 中央日報ちゅうおうにっぽう. (2006ねん9がつ15にち). オリジナルの2013ねん10がつ5にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131005155738/http://japanese.joins.com/article/900/79900.html?sectcode=&servcode= 
  38. ^ “특별기획 만주대탐사 2부작 2부 금나라를 세운 아골타, 신라의 후예였다!”. 韓国かんこく放送ほうそう公社こうしゃ. (2009ねん9がつ5にち). オリジナルの2009ねん11月9にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091109220105/http://www.kbs.co.kr/1tv/sisa/historyspecial/view/vod/1605745_30885.html 

参考さんこう書籍しょせき[編集へんしゅう]

書籍しょせき[編集へんしゅう]

  • あいしんさとしあらわ江守えもり五夫いつお へんまんぞく家族かぞく社会しゃかいだいいち書房しょぼう、1996ねん4がつISBN 4-8042-0105-X 
    • がらすへいやす ちょかんさとし やくだい1だい1しょう まんぞく発祥はっしょう揺籃ようらん」『まんぞく家族かぞく社会しゃかいだいいち書房しょぼう、1996ねん 
    • ひろしあきらりゅうしょうもえ ちょ柳沢やなぎさわあきら やくだい2だい2しょう まんぞく社会しゃかい習俗しゅうぞく」『まんぞく家族かぞく社会しゃかいだいいち書房しょぼう、1996ねん 
  • 石橋いしばしたかしゆうだいきよし帝国ていこく講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ〉、2000ねん1がつISBN 4-06-258174-4 
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  • 岡田おかだ英弘ひでひろ神田かんだ信夫しのぶ松村まつむらじゅんむらさき禁城きんじょう栄光えいこう講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、2006ねん5がつISBN 4-06-159784-1 
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  • 岸本きしもと美緒みお宮嶋みやじま博史ひろふみ世界せかい歴史れきし12 あかりきよしちょう時代じだい中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、2008ねん9がつISBN 978-4-12-205054-9 
    • 岸本きしもと美緒みお宮嶋みやじま博史ひろふみ「5しょう はなえびす変態へんたい」『世界せかい歴史れきし12 あかりきよしちょう時代じだい中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2008ねん 
  • フランク・B・ギブニー へん『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん:しょう項目こうもく事典じてん6 ホエ-ワン』ティビーエス・ブリタニカ、1974ねん11月。 
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  • フランク・B・ギブニー へん『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん18 ペチ-ミツク』ティビーエス・ブリタニカ、1975ねん5がつ 
    • 三上みかみ次男つぐお満州まんしゅう」『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん18』ティビーエス・ブリタニカ、1975ねん 
  • 三上みかみ次男つぐお神田かんだ信夫しのぶ へん東北とうほくアジアの民族みんぞく歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ民族みんぞく世界せかい3〉、1989ねん9がつISBN 4-634-44030-X 
    • 荻原おぎわら眞子しんじ ちょだい1だいIIあきら 民族みんぞく文化ぶんか系譜けいふ」、三上みかみ神田かんだ へん東北とうほくアジアの民族みんぞく歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ民族みんぞく世界せかい3〉、1989ねん 
    • 河内かわうち良弘よしひろ ちょだい2だいIしょう2 ちぎりおんなしん」、三上みかみ神田かんだ へん東北とうほくアジアの民族みんぞく歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ民族みんぞく世界せかい3〉、1989ねん 
  • きむあきら しるきむあきらへん中国ちゅうごく)『おんなぶん辞典じてん文物ぶんぶつ出版しゅっぱんしゃ、1984ねん12月。 
  • はじめもり中国ちゅうごく)『滿まんしゅう開國かいこく上海しゃんはいせき出版しゅっぱんしゃ中華ちゅうか學術がくじゅつ叢書そうしょ〉、1992ねんISBN 7532512983 

雑誌ざっし論文ろんぶん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]