女 おんな 真 しん (女 おんな 眞 しん 、じょしん、満 まん 洲 しゅう 語 ご : ᠵᡠᡧᡝᠨ 転写 てんしゃ :jušen)は、女 おんな 直 じき (じょちょく)ともいい、満 まん 洲 しゅう の松 まつ 花江 はなえ 一帯 いったい から外 そと 興 きょう 安 やす 嶺 みね (スタノヴォイ山脈 さんみゃく )以南 いなん の外 そと 満 まん 洲 しゅう にかけて居住 きょじゅう していたツングース系 けい 民族 みんぞく 。民族 みんぞく の聖地 せいち を長 ちょう 白山 はくさん とする。10世紀 せいき ごろから記録 きろく に現 あらわ れ、17世紀 せいき に「満 まん 洲 しゅう 」(「マンジュ」と発音 はつおん )と改称 かいしょう した。「女 おんな 真 しん 」の漢字 かんじ は女 おんな 真 しん 語 ご の民族 みんぞく 名 めい 「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当 あ て字 じ である。
「女 おんな 直 じき 」は遼 りょう 王朝 おうちょう の興 きょう 宗 むね の諱 いみな (耶律宗 そう 真 しん )に含 ふく まれる「真 しん 」の字 じ を避 さ けた(避諱 )ため用 もち いられるようになったといわれる[2] 。12世紀 せいき 、女 おんな 真 しん 族 ぞく は中国 ちゅうごく 東北 とうほく 部 ぶ に金 きむ 王朝 おうちょう を建 た てたが、金 かね を滅 ほろ ぼしたモンゴル帝国 ていこく および元朝 がんちょう 時代 じだい の漢文 かんぶん 資料 しりょう では「女 おんな 直 じき 」の表記 ひょうき が多 おお く見受 みう けられ、同 おな じくモンゴル帝国 ていこく 時代 じだい に編纂 へんさん されたペルシア語 ご の歴史 れきし 書 しょ 『集 しゅう 史 し 』などでも金 きむ 朝 ちょう や女 おんな 真人 しんじん に言及 げんきゅう する場合 ばあい 、「女 おんな 直 じき 」の音 おと 写 うつし である جورچه jūrcha が使用 しよう されている。
中国 ちゅうごく 東北 とうほく 地方 ちほう の諸 しょ 民族 みんぞく については周 しゅう 代 だい より記録 きろく があり、それによれば、そのころ「粛慎 (しゅくしん)」と称 しょう される狩猟 しゅりょう 民 みん が毛皮 けがわ や青石 あおいし 製 せい の石鏃 せきぞく 、あるいは楛矢(こし)といった物産 ぶっさん を中原 なかはら の諸 しょ 王朝 おうちょう に献上 けんじょう していた[3] [4] 。貊 (はく)という民族 みんぞく もあったが[4] 、戦国 せんごく 時代 じだい から漢 かん 代 だい にかけての漢 かん 民族 みんぞく の進出 しんしゅつ と楽 らく 浪 なみ 郡 ぐん (前 ぜん 108年 ねん 設置 せっち )以下 いか 4郡 ぐん の設置 せっち という動 うご きのなかで、貊のなかから夫 おっと 余 あまり (ふよ)が起 お こり[4] 、紀元 きげん 前後 ぜんこう 以降 いこう は、夫 おっと 余 あまり 、挹婁 (ゆうろう)、勿吉 (もっきつ)、靺鞨 (まっかつ)といった諸 しょ 民族 みんぞく が興亡 こうぼう したことが知 し られている[3] [4] 。
夫 おっと 余 あまり 、勿吉、靺鞨などの集団 しゅうだん は、狩猟 しゅりょう ・牧畜 ぼくちく を生業 せいぎょう としながらも、かなり早 はや い段階 だんかい から農耕 のうこう を生活 せいかつ にとりいれていた[5] 。靺鞨は、農業 のうぎょう を主 おも な生業 せいぎょう とする粟 あわ 末 まつ 靺鞨 ・白山 はくさん 靺鞨 の2靺鞨と、純 じゅん ツングース系 けい で狩猟 しゅりょう に多 おお くを依存 いぞん する安 やす 車 しゃ 骨 こつ 靺鞨 ・伯 はく 咄靺鞨 ・払 はらい 涅靺鞨 ・号 ごう 室 しつ 靺鞨 ・黒水 くろみず 靺鞨 の5靺鞨が有力 ゆうりょく であった[6] 。高句麗 こうくり を建国 けんこく したのも韓 かん 族 ぞく ではなく、ツングース系 けい の貊族であった[5] 。粟 あわ 末 まつ と白山 はくさん の両 りょう 靺鞨は、高句麗 こうくり に従属 じゅうぞく したが、他 た はこれと対立 たいりつ した[6] 。7世紀 せいき 後半 こうはん 、高句麗 こうくり が滅 ほろ び、7世紀 せいき 末葉 まつよう には粟 あわ 末 まつ 靺鞨 に高句麗 こうくり の遺 のこ 民 みん を加 くわ え、南 みなみ 満 まん 洲 しゅう から現在 げんざい の朝鮮半島 ちょうせんはんとう 北部 ほくぶ にかけての地 ち に、「海 うみ 東 ひがし の盛 もり 国 こく 」と称 しょう された渤海 が建国 けんこく された[3] [4] 。渤海国 こく に対 たい しては、七 なな 靺鞨のうち黒水 くろみず 靺鞨以外 いがい の諸 しょ 靺鞨が従 したが った[2] 。渤海はまた、日本 にっぽん に一時 いちじ 朝貢 ちょうこう し、渤海使 し を派遣 はけん した。以上 いじょう のうち、貊、夫 おっと 余 あまり 、勿吉、靺鞨はツングース系 けい の民族 みんぞく と考 かんが えられている[5] [3] 。なお、靺鞨族 ぞく の文化 ぶんか については、考古学 こうこがく 的 てき 研究 けんきゅう によってその多 おお くが解明 かいめい されてきている[7] 。
「女 おんな 真 しん 」は本来 ほんらい 、「黒水 くろみず 靺鞨」と呼 よ ばれた集団 しゅうだん による自称 じしょう であるといわれ、唐 とう の時代 じだい に入朝 にゅうちょう した靺鞨人 じん の名乗 なの りが「女 おんな 真 しん 」の初 はつ 見 み であると記録 きろく されている。モンゴル系 けい 契 ちぎり 丹 に 人 じん の建 た てた遼 りょう の時代 じだい に入 はい ると、松 まつ 花江 はなえ ・豆満江 とうまんこう 流域 りゅういき 、朝鮮半島 ちょうせんはんとう 北部 ほくぶ の咸鏡南道 みなみどう ・咸鏡北道 ほくどう 方面 ほうめん に居住 きょじゅう 域 いき を広 ひろ げ、遼 りょう と高 こう 麗 うらら に朝貢 ちょうこう し、「黒水 くろみず 女 おんな 真 しん 」「東 ひがし 女 おんな 真 しん 」と称 しょう された[2] 。女 おんな 真 しん 族 ぞく は、主 しゅ として農耕 のうこう ・漁撈 ぎょろう ・牧畜 ぼくちく ・狩猟 しゅりょう に従事 じゅうじ し、中国 ちゅうごく 内地 ないち との間 あいだ で朝鮮人参 ちょうせんにんじん (オタネニンジン)や獣 しし の毛皮 けがわ を交易 こうえき していた[8] [9] [10] 。馬 うま や金 かね の産地 さんち でもあり、上記 じょうき のものも含 ふく め高 だか 麗 うらら や契 ちぎり 丹 に と交易 こうえき し、武器 ぶき などを得 え た[5] 。
10世紀 せいき 後半 こうはん から11世紀 せいき にかけて、西南 せいなん 日本 にっぽん では長 ちょう 徳 いさお の入寇 にゅうこう など高 こう 麗人 れいじん の入寇 にゅうこう もあったが、1019年 ねん の刀 かたな 伊 い の入寇 にゅうこう において対馬 つしま と九州 きゅうしゅう の大宰府 だざいふ を襲 おそ った「刀 かたな 伊 い (とい)」という海賊 かいぞく 集団 しゅうだん は、女 おんな 真 しん 系 けい の一部 いちぶ 族 ぞく が主体 しゅたい だったと考 かんが えられている[11] 。刀 かたな 伊 い とは、「東夷 あずまえびす 」の意味 いみ であるとも、朝鮮 ちょうせん 語 ご で「外様 とざま 」を意味 いみ するともいわれる。また、「刀 かたな 伊 い 」の構成 こうせい 員 いん については高 こう 麗人 れいじん や契 ちぎり 丹 に 人 じん なども混 ま じっていたといわれるが詳細 しょうさい は不明 ふめい である。
契 ちぎり 丹 に 人 じん 王朝 おうちょう の支配 しはい が中国 ちゅうごく 東北 とうほく 部 ぶ におよぶと、黒水 くろみず 靺鞨を起源 きげん とする女 おんな 真 しん は、ツングース本来 ほんらい の漁撈 ぎょろう や農耕 のうこう 、養豚 ようとん 、狩猟 しゅりょう を生業 せいぎょう としていた生 なま 女 おんな 真 しん と、遼 りょう にしたがい、その領土 りょうど 内 ない に移 うつ されて遼 りょう の戸籍 こせき につけられていた熟 じゅく 女 おんな 真 しん に大別 たいべつ された[2] [5] 。渤海は建国 けんこく 当初 とうしょ から唐 とう の文化 ぶんか を導入 どうにゅう しており、遼 りょう もまた中国 ちゅうごく 内地 ないち への進出 しんしゅつ とともに政治 せいじ ・文化 ぶんか の漢 かん 化 か が進行 しんこう したので熟 じゅく 女 おんな 真 しん の方 ほう がより漢 かん 化 か の度合 どあ いが大 おお きかった。
「海 うみ 東 ひがし の盛 もり 国 こく 」渤海国 こく は10世紀 せいき に滅亡 めつぼう するが、11世紀 せいき には満 まん 洲 しゅう 族 ぞく の直接 ちょくせつ の祖先 そせん の一 ひと つと考 かんが えられる半 はん 農 のう 半 はん 猟 りょう の女 おんな 真 しん (女 おんな 直 じき )が文献 ぶんけん に登場 とうじょう する。12世紀 せいき のはじめ、生 なま 女 おんな 真 しん の完 かん 顔 がお 氏 し (ワンヤン氏 し )から阿 おもね 骨 ほね 打 だ (アクダ)が出 で て女 じょ 真 しん の統一 とういつ を進 すす め、1115年 ねん には契 ちぎり 丹 に 族 ぞく による遊牧民 ゆうぼくみん 王朝 おうちょう 、遼 りょう から自立 じりつ して金 きむ を建国 けんこく した[2] [3] [5] [12] 。完 かん 顔 がお 氏 し は現在 げんざい の黒竜江 こくりゅうこう 省 しょう ハルビン市 し 阿 おもね 城 ぐすく 区 く を中心 ちゅうしん として周辺 しゅうへん の諸 しょ 部 ぶ をまとめ、次第 しだい に南北 なんぼく に勢力 せいりょく を拡大 かくだい して満 まん 洲 しゅう 東部 とうぶ の女 おんな 真 しん 族 ぞく を統一 とういつ した[5] 。金 きむ 王朝 おうちょう の首府 しゅふ は、最初 さいしょ 上京 じょうきょう 会 かい 寧 やすし 府 ふ (ハルビン市 し 阿 おもね 城 ぐすく 区 く )に置 お かれた[5] 。
遼 りょう 代 だい の女 おんな 真 しん 族 ぞく のなかでもさほど有力 ゆうりょく とはいえない完 かん 顔 がお 部 ぶ が金 かね 王朝 おうちょう を樹立 じゅりつ させるにいたった原因 げんいん は、砂金 さきん を産 さん する河川 かせん 流域 りゅういき を支配 しはい 地 ち に収 おさ めたことによると考 かんが えられる[12] 。金 かね は、遼 りょう を滅 ほろ ぼし、さらに1126年 ねん 、漢 かん 民族 みんぞく 王朝 おうちょう の宋 そう の徽宗 ・欽宗 のニ帝 みかど および皇族 こうぞく ・重臣 じゅうしん らを捕 と らえて中国 ちゅうごく 北半 きたはん を支配 しはい して宋朝 そうちょう を南 みなみ に追 お いやり[3] [13] [14] 、より漢 かん 化 か を進 すす めようとしたワンヤン・テクナイ(海 うみ 陵 りょう 王 おう )は1153年 ねん に燕 つばめ 京 きょう (いまの北京 ぺきん 市 し )に都 と を移 うつ した[3] [13] [14] 。金 かね は、漢字 かんじ をもとにして女 おんな 真 ま 文字 もじ という独特 どくとく の文字 もじ 体系 たいけい を整備 せいび し、政府 せいふ 組織 そしき を中央 ちゅうおう 、地方 ちほう ともに中国 ちゅうごく 風 ふう にして支配 しはい 体制 たいせい を整 ととの えたが、軍事 ぐんじ 権力 けんりょく を強 つよ く握 にぎ って独占 どくせん したのは女 おんな 真 しん 族 ぞく であり、政府 せいふ 首脳 しゅのう もまた女 じょ 真 しん 族 ぞく によって占 し められた[3] [13] 。女 おんな 真人 しんじん には行政 ぎょうせい と軍事 ぐんじ を兼 か ねた猛 もう 安 やす ・謀 はかりごと 克 かつ の制度 せいど など独自 どくじ の統治 とうち 体制 たいせい がとられて特別 とくべつ の保護 ほご を受 う け、漢 かん 化 か を防 ふせ いだ[3] [13] 。東北 とうほく 部 ぶ (満 まん 洲 しゅう )にあっては大 だい 部分 ぶぶん が猛 もう 安 やす ・謀 はかりごと 克 かつ 制 せい によって統治 とうち されたが、他 た 民族 みんぞく の住 す む西部 せいぶ や南部 なんぶ では州 しゅう 県 けん 制 せい による支配 しはい がつづいた[13] [15] 。
金 きむ はしかし、1206年 ねん にチンギス・カン によって成立 せいりつ したモンゴル帝国 ていこく の猛攻 もうこう を受 う けて劣勢 れっせい に立 た ち、都 と を開封 かいふう に移 うつ したものの1232年 ねん にはその開封 かいふう が包囲 ほうい された[16] 。そして、1234年 ねん 、オゴデイ らの進撃 しんげき で逃走 とうそう していた哀 あい 宗 むね が自殺 じさつ して金 かね は滅 ほろ んだ[3] [13] [16] 。一方 いっぽう 、これに先立 さきだ ち、契 ちぎり 丹 に の反乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ を称 しょう して挙兵 きょへい していた金 きむ 王朝 おうちょう の将領 しょうりょう 蒲 かば 鮮万 まん 奴 やつ は、1215年 ねん に金 かね より自立 じりつ して「天王 てんのう 」を名乗 なの り、東 ひがし 夏 なつ 国 こく (大 だい 真 しん 国 こく )を建国 けんこく した[16] 。モンゴルに服属 ふくぞく したり自立 じりつ したりを繰 く り返 かえ していたが、この国 くに もまた、1233年 ねん 、オゴデイ の子 こ グユク によって滅 ほろ ぼされた[13] [16] 。
女 おんな 真 しん 族 ぞく は、金 きむ がモンゴル帝国 ていこく に滅 ほろ ぼされてからのちは、モンゴル帝国 ていこく 、大元 おおもと 、大明 だいめい の支配 しはい 下 か に置 お かれた[13] [8] 。その間 あいだ 、金 かね の時代 じだい に創始 そうし した女 おんな 真 ま 文字 もじ もしだいに失 うしな って金 かね 建国 けんこく 以前 いぜん の部族 ぶぞく 集団 しゅうだん に後退 こうたい した[8] 。女 おんな 真 しん 族 ぞく の家族 かぞく は当時 とうじ 、主人 しゅじん と奴婢 ぬひ に完全 かんぜん に二分 にぶん されており、主人 しゅじん は狩猟 しゅりょう や採集 さいしゅう 、交易 こうえき 、戦争 せんそう などの外 そと 仕事 しごと 、奴婢 ぬひ は農耕 のうこう やブタ の飼養 しよう など食糧 しょくりょう 生産 せいさん を担当 たんとう するという分業 ぶんぎょう 体制 たいせい が確立 かくりつ しており、その役割 やくわり は世襲 せしゅう されていったが、起居 ききょ や食事 しょくじ を代々 だいだい ともにし、双方 そうほう の物産 ぶっさん ・物資 ぶっし は分 わ け隔 へだ てなく均等 きんとう に分配 ぶんぱい されたから、両者 りょうしゃ の結 むす びつきはきわめて緊密 きんみつ であった[9] 。
元 もと ・明代 あきよ の女 おんな 真 しん 族 ぞく [ 編集 へんしゅう ]
元 もと 代 だい から明代 あきよ にかけての女 おんな 真人 しんじん は、
の3種族 しゅぞく に大別 たいべつ されて、モンゴル族 ぞく や漢 かん 族 ぞく の支配 しはい 下 か にあった[3] [13] [18] 。
東北 とうほく 部 ぶ に残留 ざんりゅう した女 おんな 真 しん (女 おんな 直 じき )は、元 もと 代 だい には遼 りょう 陽 ひ 等 とう 処 しょ 行 ゆき 中書 ちゅうしょ 省 しょう の管轄 かんかつ 下 か に入 はい ったが、その統制 とうせい はゆるやかなもので、ほぼ完全 かんぜん な自治 じち がゆるされていた[19] 。元 もと 代 だい の女 おんな 真 しん は中国 ちゅうごく 東北 とうほく 部 ぶ から朝鮮半島 ちょうせんはんとう 北部 ほくぶ にかけて居住 きょじゅう して元 もと の支配 しはい を受 う けており、元 もと の日本 にっぽん 侵攻 しんこう (元 もと 寇 )にも女 おんな 真 しん 兵 へい が加 くわ わっている。元 もと の滅亡 めつぼう 後 ご 、女 おんな 真 しん はモンゴルから離 はな れ、小 しょう 集団 しゅうだん ごとに明 あきら に服属 ふくぞく した。明 あかり 帝国 ていこく は、対 たい モンゴル政策 せいさく の一環 いっかん として女 おんな 真 しん 族 ぞく を利用 りよう する政策 せいさく を採用 さいよう し、女 おんな 真 しん を部族 ぶぞく ごとに衛 まもる 所 しょ 制 せい によって編成 へんせい し、部族 ぶぞく 長 ちょう に官職 かんしょく を授 さづ け、それを示 しめ す勅書 ちょくしょ ・印璽 いんじ をあたえて間接 かんせつ 統治 とうち を行 おこな った[8] 。そのうえで部族 ぶぞく 長 ちょう に対 たい し、朝貢 ちょうこう ・馬市 うまいち にかかわる特権 とっけん の付与 ふよ に便宜 べんぎ を図 はか ったのであったが、これは、自給自足 じきゅうじそく の難 むずか しい女 おんな 真 しん 族 ぞく の社会 しゃかい に権威 けんい と利権 りけん をめぐる熾烈 しれつ な争奪 そうだつ 抗 こう 争 そう を生 う むこととなって、結果 けっか 的 てき に女 おんな 真 しん 族 ぞく 内 ない に覇権 はけん 闘争 とうそう を生 う んだ[8] [18] [注釈 ちゅうしゃく 2] 。
宣 せん 徳 とく 9年 ねん (1434年 ねん )、明 あかり の支配 しはい 下 か にあった東北 とうほく 部 ぶ の女 おんな 真 しん 族 ぞく は飢饉 ききん に見舞 みま われ、娘 むすめ たちを奴隷 どれい として売 う ることを余儀 よぎ なくされ、遼東 りゃおとん に移 うつ って明王 みょうおう 朝 ちょう 政府 せいふ に援助 えんじょ と救済 きゅうさい を求 もと めた[20] [21] 。
一方 いっぽう 、朝鮮半島 ちょうせんはんとう では高 こう 麗 うらら に代 か わって登場 とうじょう した李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん が世 よ 宗 むね の時代 じだい に北部 ほくぶ の女 おんな 真 ま 居住 きょじゅう 地域 ちいき に進出 しんしゅつ した。1437年 ねん には東北 とうほく 六 ろく 鎮(中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 、1443年 ねん には西北 せいほく 四 よん 郡 ぐん (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) が置 お かれ、それぞれ咸鏡道 どう や平安 へいあん 道 どう に組 く み込 こ まれた。朝鮮半島 ちょうせんはんとう 北部 ほくぶ からは女 おんな 真人 しんじん の姿 すがた は失 うしな われていったが、15世紀 せいき から16世紀 せいき にかけて、鴨 かも 緑 みどり 江 こう や豆満江 とうまんこう 流域 りゅういき の女 おんな 真人 しんじん たちは、たびたび李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん に反撃 はんげき して住 じゅう 地 ち の奪還 だっかん を図 はか ったため、豆満江 とうまんこう 南岸 なんがん 地域 ちいき は争奪 そうだつ の繰 く り返 かえ される地 ち となった。
元 もと ・明代 あきよ の女 おんな 真 ま 関連 かんれん 画像 がぞう
14世紀 せいき の女 おんな 真 しん 族 ぞく
馬上 もうえ の女 おんな 真人 しんじん (15世紀 せいき 、絹本 けんぽん 著 ちょ 色 しょく )
1583年 ねん (
万 まん 暦 れき 11
年 ねん )、ヌルハチのトゥーロン(
図 ず 倫 りん )での
挙兵 きょへい (『
満 まん 洲 しゅう 実録 じつろく 』)
『満 まん 洲 しゅう 実録 じつろく 』に描 えが かれた長 ちょう 白山 はくさん
『満 まん 洲 しゅう 実録 じつろく 』に描 えが かれた天女 てんにょ の三 さん 姉妹 しまい
満 まん 洲 しゅう への改称 かいしょう [ 編集 へんしゅう ]
後金 あときん の太 ふとし 祖 そ ヌルハチ
16世紀 せいき 末葉 まつよう 、豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし による朝鮮 ちょうせん 出兵 しゅっぺい (文禄・慶長 ぶんろくけいちょう の役 えき )によって明朝 みょうちょう の女 おんな 真 しん に対 たい する統制 とうせい がゆるみ[2] 、建 けん 州 しゅう 女 おんな 直 じき のスクスフ部 ぶ から出 で た愛 あい 新 しん 覚 さとし 羅 ら 氏 し のヌルハチ が台頭 たいとう 、1588年 ねん には建 けん 州 しゅう 女 おんな 真 しん を統一 とういつ した[22] 。その後 ご 、建 けん 州 しゅう ・海 うみ 西 にし 女 おんな 真 しん に野人 やじん 女 おんな 真 しん の一部 いちぶ を加 くわ えた女 おんな 真 しん 族 ぞく をほぼ統一 とういつ し、1616年 ねん に後金 あときん 王朝 おうちょう を建 た てた[3] [13] 。1627年 ねん 、後金 あときん は親 おや 明 あかり 的 てき な政策 せいさく をとっていた朝鮮 ちょうせん に侵入 しんにゅう ・制圧 せいあつ し(丁 ちょう 卯 しげる 胡乱 うろん )、後金 あときん を兄 あに 、朝鮮 ちょうせん を弟 おとうと とすることなどを定 さだ めた和議 わぎ を結 むす んだ[23] 。
1635年 ねん にヌルハチの子息 しそく ホンタイジ がモンゴル のチャハル 部 ぶ を下 くだ して元 もと の玉 たま 璽 を入手 にゅうしゅ すると、漢字 かんじ としては蔑称 べっしょう のニュアンスを含 ふく むうえ、モンゴル高原 こうげん の契 ちぎり 丹 に 人 じん に支配 しはい されていた当時 とうじ の「女 おんな 真 しん 」の民族 みんぞく 名 めい を嫌 きら い、1635年 ねん 11月22日 にち (天 てん 聡 さとし 9年 ねん 十 じゅう 月 がつ 庚 かのえ 寅 とら )に民族 みんぞく 名 めい を満 まん 洲 しゅう 族 ぞく に改 あらた めさせた[3] [24] 。また、それまでは女 おんな 真 しん 族 ぞく 王朝 おうちょう である金 かね の後裔 こうえい を名乗 なの っていたが、1636年 ねん には国号 こくごう も「清 きよし 」に改 あらた めた[3] [24] 。1636年 ねん 、ホンタイジは朝鮮 ちょうせん に対 たい して臣従 しんじゅう するよう要求 ようきゅう したが、朝鮮 ちょうせん の朝廷 ちょうてい では斥和論 ろん (主戦 しゅせん 論 ろん )が大勢 おおぜい を占 し め、仁 じん 祖 そ は清 きよし を「蛮夷 ばんい 」と呼 よ んで自尊心 じそんしん と名分 めいぶん を掲 かか げ、臣従 しんじゅう を拒絶 きょぜつ した[23] 。清朝 せいちょう は謝罪 しゃざい がなければ攻撃 こうげき すると威嚇 いかく したが、朝鮮 ちょうせん 側 がわ はこれを黙殺 もくさつ したためホンタイジは朝鮮 ちょうせん 侵攻 しんこう を決意 けつい して丙 へい 子 こ 胡乱 うろん が起 お こり、1637年 ねん 、朝鮮 ちょうせん は三田 みた 渡 わたる の盟約 めいやく を結 むす ばされて清 きよし の属国 ぞっこく となった[23] 。2度 ど にわたる胡乱 うろん で、現在 げんざい の北朝鮮 きたちょうせん 北部 ほくぶ に居 い た女 おんな 真人 しんじん は新 あら たに入植 にゅうしょく していた朝鮮 ちょうせん 人 じん とともに清 しん 領 りょう に連行 れんこう された。当地 とうち は無人 むじん の地 ち となったが、跡地 あとち には朝鮮 ちょうせん 人 じん が入植 にゅうしょく した。
1644年 ねん 、フリン (順治 じゅんじ 帝 みかど ) 即位 そくい 後 ご の清 きよし は山海 さんかい 関 せき を越 こ えて万里 ばんり の長城 ちょうじょう 以南 いなん に進出 しんしゅつ し、李 り 自 じ 成 なり の乱 らん で滅亡 めつぼう した明 あかり にかわって北京 ぺきん に入城 にゅうじょう 、以後 いご 、1911年 ねん の辛 からし 亥 い 革命 かくめい に至 いた るまで中国 ちゅうごく 大陸 たいりく に君臨 くんりん した[3] 。清 きよし 帝国 ていこく は、中国 ちゅうごく の伝統 でんとう 的 てき な統治 とうち 機構 きこう を踏襲 とうしゅう する一方 いっぽう で、満 まん 洲 しゅう 族 ぞく 独自 どくじ の軍事 ぐんじ ・行政 ぎょうせい ・生産 せいさん 機構 きこう である八 はち 旗 はた 制度 せいど を制定 せいてい し、自 みずか らのヘアスタイル である辮髪 べんぱつ を漢 かん 族 ぞく にも強要 きょうよう し、東北 とうほく 地方 ちほう への入植 にゅうしょく を禁 きん ずるなどの非 ひ 漢 かん 化 か 政策 せいさく を採用 さいよう した[3] 。明 あかり 滅亡 めつぼう 後 ご は、明 あかり の旧領 きゅうりょう を征服 せいふく し、八 はち 旗 はた を北京 ぺきん に集団 しゅうだん 移住 いじゅう させて漢人 かんど の土地 とち を満 まん 洲 しゅう 人 じん が支配 しはい する体制 たいせい をき上 ずきあ げた[25] 。
宗教 しゅうきょう ・精神 せいしん 文化 ぶんか [ 編集 へんしゅう ]
長 ちょう 白 しろ 山頂 さんちょう の天池 あまいけ
女 おんな 真 しん 族 ぞく の宗教 しゅうきょう は、婚姻 こんいん 儀礼 ぎれい や葬送 そうそう 儀礼 ぎれい などにおいて民族 みんぞく 独自 どくじ のシャーマニズム や祖先 そせん 崇拝 すうはい の要素 ようそ が含 ふく まれていた。自然 しぜん 崇拝 すうはい においては、火 ひ 神 しん ・星 ほし 神 しん および神山 かみやま ・神石 じんせき を尊崇 そんすう し、とりわけ星 ほし 神 しん に対 たい する信仰 しんこう は最 もっと も普遍 ふへん 的 てき なものであった[26] 。『吉林 きつりん 通 どおり 志 こころざし 』にも「祭祀 さいし 典礼 てんれい は、満 まん 洲 しゅう の最 もっと も重 おも んずるは、一 いち に祭 まつり 星 ぼし 、二 に に祭 まつり 祖 そ 」とある[26] 。星 ほし 神 しん とは、具体 ぐたい 的 てき には北斗七星 ほくとしちせい であり、満 まん 洲 しゅう 語 ご では「ナダン(七 なな つ)ウシハ(星 ほし )」と称 しょう する[26] 。記録 きろく によれば、満 まん 洲 しゅう 族 ぞく (女 おんな 真 しん 族 ぞく )の祭 まつり 星 ぼし は、多 おお くは月 つき が沈 しず む後 のち に行 おこな う背 せ 灯 とう 祭 さい で、そこでは灯火 ともしび がかき消 け され静寂 せいじゃく のなかで執 と り行 おこな われ、通常 つうじょう は占 うらない 卜 ぼく や祟 たた り祓 ばら い、病 やまい 祓 ばら いなどの巫術 ふじゅつ と結 むす びついた除 じょ 災 わざわい の祭 まつ りである[26] 。同 おな じツングース系 けい のホジェン族 ぞく (赫哲族 ぞく 、ロシアでは「ナナイ 」と称 しょう する)もまた、七 なな 星 ほし を除 じょ 災 わざわい の神 かみ とみなし、「吉 よし 星 ほし 神 しん 」と呼称 こしょう する[26] 。
聖地 せいち 長 ちょう 白山 はくさん [ 編集 へんしゅう ]
長 ちょう 白山 はくさん (朝鮮 ちょうせん の呼称 こしょう では「白頭山 はくとうさん 」)周辺 しゅうへん は、もともと濊 ・貊・粛慎 が居住 きょじゅう しており、彼 かれ らの聖地 せいち だった[要 よう 出典 しゅってん ] 。その後 ご この地 ち における濊貊 の勢 いきお いが衰 おとろ え、粛慎の流 なが れを汲 く む女 おんな 真 しん がこの山 やま を聖地 せいち とした[27] 。金 きむ は、1172年 ねん には山 やま に住 す む神 かみ に「興国 こうこく 霊 れい 応 おう 王 おう 」の称号 しょうごう を贈 おく り、1193年 ねん には「開 ひらき 天 てん 宏 ひろし 聖帝 せいてい 」と改 あらた めている[要 よう 出典 しゅってん ] 。
神話 しんわ ・伝承 でんしょう [ 編集 へんしゅう ]
『満 まん 文 ぶん 老 ろう 檔』天命 てんめい 6年 ねん (1621年 ねん )条 じょう や満 まん 文 ぶん 『内国 ないこく 史 し 院 いん 檔』天 てん 聰 さと 8年 ねん (1634年 ねん )条 じょう には、当時 とうじ の女 おんな 真 しん 族 ぞく (満 まん 洲 しゅう 族 ぞく )が日食 にっしょく や月食 げっしょく という天文 てんもん 現象 げんしょう を「天界 てんかい の犬 いぬ が太陽 たいよう ・月 つき を食 た べること」であると考 かんが えていたことを示唆 しさ する記述 きじゅつ が収載 しゅうさい されており、こうした伝承 でんしょう は他 た のツングース系 けい の諸 しょ 民族 みんぞく や朝鮮 ちょうせん 民族 みんぞく 、テュルク系 けい 民族 みんぞく 、また、パレオアジア語 ご 系 けい とみられるニヴフ (ギリヤーク)にもみられる[28] 。
また、『満 まん 洲 しゅう 実録 じつろく 』や『満 まん 文 ぶん 老 ろう 檔』には、天命 てんめい 元年 がんねん (1616年 ねん )、ヌルハチがダルハン・ヒヤとションコロ・バトゥルに命 めい じてサハリヤン部 ぶ を討伐 とうばつ させたとき、アムール川 がわ (黒竜江 こくりゅうこう )の渡河 とか に際 さい して、往還 おうかん ともに時 とき ならぬ奇跡 きせき 的 てき な結氷 けっぴょう に助 たす けられて討伐 とうばつ を成功 せいこう させたことが史実 しじつ として記 しる されている[28] 。これに似 に た説話 せつわ として、イチェ・マンジュ(伊 い 徹 てっ 満 まん 洲 しゅう ice manju/ 新 しん 満 まん 洲 しゅう )人 にん の伝承 でんしょう として、1.背後 はいご に敵 てき 軍 ぐん が迫 せま り、2.行 ゆ く手 て を大河 たいが が遮 さえぎ り滅亡 めつぼう の危機 きき を迎 むか えるが、3.大河 たいが に魚 さかな の浮 うわ き橋 きょう ができて難 なん を逃 のが れ、4.滅亡 めつぼう を免 まぬか れる(新天地 しんてんち へ移住 いじゅう する)という4つのモチーフ をともなう説話 せつわ も伝 つた わっている[28] 。この4モチーフは、夫 おっと 余 あまり ・高句麗 こうくり の開国 かいこく 説話 せつわ (東 ひがし 明王 みょうおう ・朱蒙 チュモン 伝説 でんせつ )にも共通 きょうつう し、オロチョン族 ぞく やナナイ族 ぞく などツングース系 けい 民族 みんぞく の説話 せつわ にもみられる[28] [注釈 ちゅうしゃく 3] 。
氏族 しぞく 制 せい と社会 しゃかい 文化 ぶんか [ 編集 へんしゅう ]
女 おんな 真 しん 族 ぞく の社会 しゃかい には強 つよ い父系 ふけい 原理 げんり が働 はたら いており、「ハラ(hala)」または「ムクン(mukūn)」と呼 よ ばれる父系 ふけい 氏族 しぞく が主要 しゅよう な社会 しゃかい 組織 そしき であり、父系 ふけい 拡大 かくだい 家族 かぞく が主要 しゅよう な経済 けいざい 単位 たんい となった[3] [29] 。ムクンはハラより派生 はせい したと考 かんが えられ、清 しん 代 だい にあっては、ハラはすでに実体 じったい をともなった血縁 けつえん 組織 そしき とはみられず、ムクンだけがのこったが、野人 やじん 女 おんな 直 ひた と呼 よ ばれた人 ひと びととその末裔 まつえい にあってはハラ組織 そしき が濃厚 のうこう に残存 ざんそん した[29] 。1個 いっこ のハラは複数 ふくすう のムクンを包含 ほうがん しているのに対 たい し、1個 いっこ のムクンはただ1つのハラに帰属 きぞく しており、当初 とうしょ はハラが族 ぞく 外 がい 婚 こん の単位 たんい であると同時 どうじ に族 ぞく 内 ない への受 う け入 い れ機能 きのう を有 ゆう し、血 ち 讐の義務 ぎむ をともない、また、精神 せいしん 生活 せいかつ の単位 たんい でもあった[29] 。それに対 たい し、ムクンはハラの瓦解 がかい を受 う けて不断 ふだん に分節 ぶんせつ 化 か し、発展 はってん していったものであり[30] 、のちには同 どう 一 いち ハラであっても異 こと なるムクンであれば、通 つう 婚 こん が可能 かのう となった[30] 。
女 おんな 真 しん 族 ぞく (満 まん 洲 しゅう 族 ぞく )の伝統 でんとう 的 てき な婚姻 こんいん は、族 ぞく 外 がい 婚 こん によって特徴 とくちょう づけられる[31] [32] 。族 ぞく 外 がい 婚 こん 規制 きせい は、同 おな じ氏族 しぞく 同士 どうし は結婚 けっこん しないという原則 げんそく である。上述 じょうじゅつ した「ハラ(旧 きゅう 氏族 しぞく )」は当初 とうしょ 、族 ぞく 外 がい 婚 こん の単位 たんい であったが、その分節 ぶんせつ 化 か によって生 しょう じた「ムクン(新 しん 氏族 しぞく )」が現代 げんだい における族 ぞく 外 がい 婚 こん 単位 たんい となっている[29] [30] 。女 おんな 真 しん 族 ぞく は古 ふる くは、子 こ が継母 けいぼ を娶 めと ったり、弟 おとうと が嫂 あによめ を娶 めと ったりする収 おさむ 継 つぎ 婚 こん も多 おお かったが、ホンタイジの時代 じだい に入 はい ると漢人 かんど 的 てき な観念 かんねん が浸透 しんとう して旧 きゅう 俗 ぞく 矯正 きょうせい が図 はか られ、収 おさむ 継 つぎ 婚 こん が禁止 きんし された[32] 。
葬送 そうそう と殉死 じゅんし の風習 ふうしゅう [ 編集 へんしゅう ]
女 おんな 真 しん 族 ぞく の旧 きゅう 俗 ぞく では、火葬 かそう が行 おこな われていた[33] 。ヌルハチもホンタイジも火葬 かそう され、清朝 せいちょう 3代 だい フリン(順治 じゅんじ 帝 みかど )は火葬 かそう 制度 せいど を詳細 しょうさい に定 さだ め、彼 かれ 自身 じしん も火葬 かそう された[33] 。女 おんな 真 しん の人 ひと びとはまた、死者 ししゃ の葬送 そうそう のために牛 うし ・馬 うま を殺 ころ してこれを死者 ししゃ に捧 ささ げ、その肉 にく を食 しょく すという旧 きゅう 俗 ぞく をもっていた[33] 。このような習俗 しゅうぞく は康 かん 熙帝 の頃 ころ まではつづいたが、やがて漢 かん 民族 みんぞく の習俗 しゅうぞく を取 と り入 い れ、紙 かみ 馬 ば をもって祭礼 さいれい をおこなうようになった[33] 。殉死 じゅんし の風習 ふうしゅう も広 ひろ く行 おこな われ、ヌルハチの妻 つま の死去 しきょ の際 さい には4人 にん の奴婢 ぬひ が、ヌルハチ自身 じしん の死去 しきょ の際 さい にも2人 ふたり の側室 そくしつ が殉死 じゅんし した[33] 。ホンタイジは殉死 じゅんし の強制 きょうせい を禁止 きんし したが、禁止 きんし されたのは強制 きょうせい 行為 こうい のみであって殉死 じゅんし そのものは否定 ひてい されず、ホンタイジの死去 しきょ の際 さい には近侍 きんじ 2名 めい が殉死 じゅんし した[33] 。殉死 じゅんし の旧 きゅう 俗 ぞく が満 まん 洲 しゅう 族 ぞく と改名 かいめい してのちも続 つづ けられたのは、奴婢 ぬひ の制度 せいど と無関係 むかんけい ではないと考 かんが えられる[33] 。康 かん 熙帝が在位 ざいい 中 ちゅう に殉死 じゅんし の禁止 きんし を諭 さと す命令 めいれい を発 はっ し、以降 いこう は紙 かみ 人 じん を焼 や くことで死者 ししゃ の霊魂 れいこん を祭 まつ ることとなった[33] 。
313年 ねん 楽 らく 浪 なみ 郡 ぐん が高句麗 こうくり によって滅 ほろ ぼされる。
427年 ねん 高句麗 こうくり の平壌 ぴょんやん 遷都 せんと 。
668年 ねん 高句麗 こうくり が唐 とう によって滅 ほろ ぼされる。
698年 ねん 渤海 の建国 けんこく 。
918年 ねん 高 だか 麗 うらら の建国 けんこく 。
926年 ねん 渤海の滅亡 めつぼう 。
994年 ねん 高 だか 麗 うらら が女 じょ 真 しん を侵略 しんりゃく し、江東 こうとう 六 ろく 州 しゅう を占領 せんりょう 。
1019年 ねん 刀 かたな 伊 い の入寇 にゅうこう
1107年 ねん 高 だか 麗 うらら の尹 いん 瓘 が女 じょ 真 しん を侵略 しんりゃく し、東北 とうほく 9城 しろ を築 きず く。
1109年 ねん 高 だか 麗 うらら が女 おんな 真 しん に大敗 たいはい し、講和 こうわ 。
1113年 ねん 女 おんな 真 しん の阿 おもね 骨 ほね 打 だ (アクダ)が完 かん 顔 がお 部 ぶ の長 ちょう となる。
1114年 ねん 阿 おもね 骨 ほね 打 だ が遼 りょう に反 はん し、猛 もう 安 やす ・謀 はかりごと 克 かつ (ミンガン・ムクン)制 せい を整 ととの える。
1115年 ねん 女 おんな 真 しん が金 きむ を建国 けんこく 。
1116年 ねん 金 きん が遼東 りゃおとん 地域 ちいき を領有 りょうゆう 。
1118年 ねん 遼 りょう 、金 かね に和平 わへい を申 もう し出 で る。
1119年 ねん 金 きん 、女 おんな 真 ま 文字 もじ を作成 さくせい する。
1122年 ねん 金 きん が遼 りょう の中京 ちゅうきょう ・西京 にしぎょう ・南京 なんきん (燕 つばめ 京 きょう )を占領 せんりょう 。
1125年 ねん 金 きん が遼 りょう を滅 ほろ ぼす。
1126年 ねん 金 きん 軍 ぐん が大挙 たいきょ して開封 かいふう を占領 せんりょう 。高麗 こうらい が金 かね に服属 ふくぞく する。
1127年 ねん 靖 やすし 康 やすし の変 へん 。金 かね が北 きた 宋 そう を滅 ほろ ぼす。
1131年 ねん 金 きん 、陝西 せんせい 省 しょう 方面 ほうめん を征服 せいふく して斉 ひとし 国 くに にあたえる。
1135年 ねん 金 きん で熙宗 が即位 そくい 。ボギレ制 せい を廃 はい して三省 みつよし の制度 せいど を制定 せいてい 。
1137年 ねん 金 きん が斉 ひとし 国 こく を廃止 はいし し、華北 かほく の直接 ちょくせつ 統治 とうち 開始 かいし 。
1153年 ねん 金 きん の海 うみ 陵 りょう 王 おう が燕 つばめ 京 きょう に遷都 せんと して中 ちゅう 都 と とする。
1181年 ねん 金 きん 、貧窮 ひんきゅう 女 おんな 真人 しんじん の救済 きゅうさい 策 さく をとる。
1207年 ねん 宋 そう ・金 かね の和 わ 約 やく 。
1215年 ねん モンゴル軍 ぐん 、金 かね の中 なか 都 と を陥落 かんらく させる。蒲 がま 鮮万 まん 奴 やつ が金 かね より自立 じりつ して大 だい 真 しん 国 こく を建国 けんこく 。
1225年 ねん 金 きん ・西 にし 夏 なつ の和議 わぎ 成立 せいりつ 。
1227年 ねん モンゴル、金 かね に侵攻 しんこう 。西 にし 夏 なつ を滅 ほろ ぼす。
1233年 ねん 大 だい 真 しん 国 こく 滅亡 めつぼう 。
1234年 ねん モンゴルが金 かね を滅 ほろ ぼす。
1267年 ねん 元朝 がんちょう 、女 おんな 真人 しんじん を徴発 ちょうはつ 。
1271年 ねん 元朝 がんちょう 、女 おんな 真人 しんじん を徴発 ちょうはつ 。
1274年 ねん 元 もと 軍 ぐん の日本 にっぽん 遠征 えんせい (文 ぶん 永 なが の役 やく )に女 おんな 真 しん 軍 ぐん 参加 さんか 。
1281年 ねん 元 もと 軍 ぐん の日本 にっぽん 遠征 えんせい (弘安 ひろやす の役 やく )に女 おんな 真 しん 軍 ぐん 参加 さんか 。
1346年 ねん 海 うみ 西 にし 女 おんな 直 じき が元 もと に叛く。
1371年 ねん 明 あかり が遼 りょう 陽 ひ に定 てい 遼 りょう 都 みやこ 衛 まもる 指揮 しき 使 し 司 し を開設 かいせつ 。
1384年 ねん 野人 やじん 女 おんな 直 じき のウェジ が明 あかり に来朝 らいちょう 。
1411年 ねん 永楽 えいらく 帝 みかど が海 うみ 西 にし 女 おんな 直 じき 出身 しゅっしん の宦官 かんがん イシハ に命 めい じてアムール川 がわ 河口 かこう のヌルガン を遠征 えんせい 。
1413年 ねん ヌルガンに永 えい 寧 やすし 寺 てら を建立 こんりゅう 。
1437年 ねん 李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん が女 じょ 真 しん を侵略 しんりゃく し、東北 とうほく 六 ろく 鎮(中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) を置 お く。
1443年 ねん 李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん が女 じょ 真 しん を侵略 しんりゃく し、西北 せいほく 四 よん 郡 ぐん (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) を置 お く。
1583年 ねん ヌルハチ が明 あかり より勅書 ちょくしょ を得 え て自立 じりつ 。
1588年 ねん ヌルハチが建 けん 州 しゅう 女 おんな 直 じき を統一 とういつ 。
1601年 ねん ヌルハチが八 はち 旗 はた 制度 せいど を創設 そうせつ 。
1616年 ねん ヌルハチがヘトゥアラでハン位 い に就 つ き、後金 あときん を建国 けんこく 。
1618年 ねん ヌルハチが明 あかり に侵攻 しんこう し、撫 なで 順 じゅん 城 じょう を攻略 こうりゃく 。
1619年 ねん サルフの戦 たたか い 。ヌルハチが明 あきら ・朝鮮 ちょうせん 連合 れんごう 軍 ぐん を撃破 げきは 。
1626年 ねん ホンタイジ 即位 そくい 。
1634年 ねん 後金 あときん 軍 ぐん 、モンゴルの一大 いちだい 拠点 きょてん フフホト を占領 せんりょう 。
1635年 ねん ドルゴン がモンゴル帝国 ていこく 最後 さいご の君主 くんしゅ エジェイ・ハーン を降伏 ごうぶく させる。エジェイが大 だい 元 もと 伝 つて 国 こく の璽をたずさえ、ホンタイジに献上 けんじょう 。
1636年 ねん 後金 あときん が清 きよし に改名 かいめい 。民族 みんぞく 名 めい も「女 おんな 真 しん 」の使用 しよう を禁 きん じ「満 まん 洲 しゅう (マンジュ)に改 あらた める。
女 おんな 真 しん の出自 しゅつじ をめぐる論争 ろんそう [ 編集 へんしゅう ]
『松 まつ 漠 ばく 紀 き 聞 』『満 まん 洲 しゅう 源流 げんりゅう 考 こう 』などのいくつかの中国 ちゅうごく 史料 しりょう には、女 おんな 真 しん 完 かん 顔 がお 部 ぶ の先祖 せんぞ であり、金 かね 朝 あさ の始祖 しそ とされる函 はこ 普 ひろし が「新 しん 羅 ら 人 じん 」あるいは「高 こう 麗 うらら より来 き た」と記録 きろく されている。これを根拠 こんきょ に韓国 かんこく ・北朝鮮 きたちょうせん では女 じょ 真 しん のルーツ は朝鮮 ちょうせん 民族 みんぞく であり、金 きむ ・清 きよし の歴史 れきし を韓国 かんこく ・朝鮮 ちょうせん の歴史 れきし に含 ふく めるべきだという主張 しゅちょう がある[34] [35] [36] [37] [38] 。しかしながら、史料 しりょう 解釈 かいしゃく に問題 もんだい があり、中国 ちゅうごく ・日本 にっぽん などの専門 せんもん 家 か からは信憑 しんぴょう 性 せい が疑 うたが われている。
^ 現在 げんざい 、ロシア連邦 れんぽう の沿海州 えんかいしゅう に住 す み、狩猟 しゅりょう を主 おも な生業 せいぎょう としてきた少数 しょうすう 民族 みんぞく ウデヘ は、このうちの野人 やじん 女 おんな 直 じき の一派 いっぱ 、ウェジの末裔 まつえい と考 かんが えられる[17] 。
^ 明朝 みょうちょう の政策 せいさく の根底 こんてい には女 おんな 真 しん 族 ぞく 分断 ぶんだん の意図 いと もあったが、ヌルハチはこうした覇権 はけん 闘争 とうそう を勝 か ち抜 ぬ いたうえで明 あかり の対抗 たいこう 勢力 せいりょく となるまでに勢力 せいりょく を拡大 かくだい させたのであるから、長期 ちょうき 的 てき に考 かんが えれば明 あかり にとって皮肉 ひにく な結果 けっか だったといえる[8] [18] 。
^ 浮 うわ き橋 きょう のモチーフは、説話 せつわ によっては、魚 さかな ではなくカメ によってつくられる場合 ばあい もある[28] 。