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シャルル・デュラン

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シャルル・デュラン
Charles Dullin
本名ほんみょう シャルル・デュラン
Charles Dullin
生年月日せいねんがっぴ (1885-05-08) 1885ねん5月8にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1949-12-11) 1949ねん12月11にち(64さいぼつ
出生しゅっしょう サヴォワけん、イェンヌ
Yenne en Savoi
国籍こくせき フランスの旗 フランス
職業しょくぎょう 演出えんしゅつ俳優はいゆう劇團げきだんぬし
活動かつどう期間きかん 1911ねん - 1949ねん
活動かつどう内容ないよう 演劇えんげき映画えいが
配偶はいぐうしゃ シモーヌ・ジョリヴェ(愛人あいじん
Simone Jollivet
おも作品さくひん
『ヴォルポーヌ』(演劇えんげき
『マダム・ドクトゥール』(映画えいが
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シャルル・デュランCharles Dullin1885ねん5月8にち - 1949ねん12月11にち)は、フランス演出えんしゅつ劇団げきだん主宰しゅさいしゃ俳優はいゆうアントナン・アルトー、アンドレ・バルサック(André Barsacq)、ジャン=ルイ・バロー、ジャン・ヴィラール(Jean Vilar)、ジャン・マレーら、後進こうしんそだてた。アンリ=ジョルジュ・クルーゾー映画えいが犯罪はんざい河岸かわぎし』に出演しゅつえんしている。

経歴けいれき

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サヴォワけんイェンヌ(Yenne)にまれた。ちちまずしい判事はんじであった。神学校しんがっこうれられたが、宗教しゅうきょうきらって中退ちゅうたいし、リヨンはたらいたのち、1904ねんパリにのぼり、場末ばすえ芝居しばいたり、酒場さかば朗読ろうどくなどをした。

1906ねん 21さいオデオンはいったがず、1908ねん、アルベール・デュラック(ジェルメーヌ・デュラックおっと)と劇団げきだんつくったが挫折ざせつした。しかしそのえんで、1911ねん芸術げいじゅつ劇場げきじょうThéâtre des Arts)のジャック・ルーシェ(Jacques Rouché)が上演じょうえんした『カラマーゾフの兄弟きょうだい』(ジャック・コポー脚色きゃくしょく)のスメルジャコフやく起用きようされ、それが、劇界げきかい活躍かつやくする端緒たんしょとなった。

1913ねん、コポーが創立そうりつしたヴィユ・コロンビエ参加さんかした。1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせんには、ロレーヌ進攻しんこう作戦さくせん歩兵ほへいとして従軍じゅうぐんした。1917ねん軍務ぐんむ解除かいじょねがい、おりからニューヨーク公演こうえんちゅうのコポー一座いちざ合流ごうりゅうしたが、コポーにさからって1918ねん解雇かいこされて帰国きこくし、フィルマン・ジェミエ(Firmin Gémier)のコメディ・モンテーニュ(のコメディ・シャンゼリゼ(Théâtre des Champs-Élysées))の演劇えんげき学校がっこうむかえられた。

1921ねん 36さいモンマルトルにアトリエ組織そしきし、ルイジ・ピランデルロの『名誉めいよよろこび』(Il Piacere dell'onestà)で開場かいじょうした。

1924ねんベン・ジョンソンさくシュテファン・ツヴァイク および ジュール・ロマン脚色きゃくしょくの『ヴォルポーヌ』が大当おおあたりした。

1927ねん 42さいルイ・ジューヴェ、ジョルユ・ピトエフ(Georges Pitoëff)、ガストン・バティ(Gaston Baty)、そしてデュランの在野ざいや劇団げきだん協調きょうちょうするという、よんカルテル(Le Cartel de Quatre)をむすび、それは1940ねん敗戦はいせんまでつづいた。1931ねんジャン=ルイ・バローむかれた。

1936ねん 51さいコメディ・フランセーズ改革かいかく目指めざそう支配人しはいにんエドワール・ブールデ(Édouard Bourdet)に、コポー、ジューヴェ、バティとともに、客演きゃくえん演出えんしゅつ委嘱いしょくされ、翌年よくねん同座どうざで、ピランデルロの『各人かくじんかくせつ』、モリエールの『ジョルジュ・ダンダン』、ボーマルシェの『フィガロの結婚けっこん』を演出えんしゅつした。

1940ねん 55さい、アトリエをアンドレ・バルサックにゆずり、パリ劇場げきじょうThéâtre de Paris)をて、1941ねんナチス占領せんりょうの、市立しりつ劇場げきじょうThéâtre de la Cité)の支配人しはいにんとなった。

1943ねんかる脳卒中のうそっちゅうこした。1949ねんまで演劇えんげき活動かつどうつづけ、巡業じゅんぎょうつづけたが、膵臓すいぞうがん衰弱すいじゃくし、パリのせいアントワーヌ施療せりょう病院びょういんHôpital Saint-Antoine)に収容しゅうようされ、ぼっした。

セーヌ=エ=マルヌけん、クレシー=エ=シャペル(Crecy-la-chapelle)の墓地ぼちねむっている。

やく16ほん映画えいが出演しゅつえんした。

舞台ぶたい記録きろくしょう

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再演さいえんしるさない。

日本にっぽん公開こうかいされた映画えいが

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まえ年次ねんじはつ公開こうかいの、数字すうじ日本にっぽん公開こうかい西暦せいれきである。

  • 1924ねん、1926ねんおおかみ奇蹟きせき
  • 1933ねん、1938ねん:レ・ミゼラブル
  • 1947ねん、1949ねん犯罪はんざい河岸かわぎし
  • 1947ねん、1951ねんはなされた

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 岩瀬いわせたかしほか:フランス演劇えんげき概説がいせつ増補ぞうほばん)、早稲田大学わせだだいがく出版しゅっぱん(1995) ISBN 9784657954206
  • 渡辺わたなべあつし:パリ・開幕かいまく丸善まるぜんブックス072(1998)ISBN 9784621060728
  • 中田なかた耕治こうじ:ルイ・ジュヴェとその時代じだい作品社さくひんしゃ (2000) ISBN 9784878933530
  • 川島かわしま順平じゅんぺい現代げんだいのフランス演劇えんげき、カルチャー出版しゅっぱんしゃ(1954)

外部がいぶリンク

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