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シュラクサイ包囲戦 (紀元前214年-紀元前212年) - Wikipedia コンテンツにスキップ

シュラクサイ包囲ほういせん (紀元前きげんぜん214ねん-紀元前きげんぜん212ねん)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
シュラクサイ包囲ほういせん

シュラクサイの城壁じょうへき
戦争せんそうだいポエニ戦争せんそう
年月日ねんがっぴ紀元前きげんぜん214ねん紀元前きげんぜん212ねん
場所ばしょ:シュラクサイ(現在げんざいシラクサ
結果けっか:ローマの勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
共和きょうわせいローマ シュラクサイ
カルタゴ
指導しどうしゃ指揮しきかん
マルクス・クラウディウス・マルケッルス ヒポクラテス(it)
エピシデス英語えいごばん
戦力せんりょく
歩兵ほへい18,000
騎兵きへい2,000
21,000
損害そんがい
2,000 10,000
だいポエニ戦争せんそう

シュラクサイ包囲ほういせん(シュラクサイほういせん)は、だいポエニ戦争せんそうなか紀元前きげんぜん214ねんから紀元前きげんぜん212ねんにかけて発生はっせいしたおさむしろせん。シュラクサイ(現在げんざいシラクサ)はシチリアとう東岸とうがん都市としであるが、マグナ・グラエキアみなみイタリアおよびシチリア)のギリシャ殖民しょくみん都市としなかもっと繁栄はんえいしていた。だいいちポエニ戦争せんそうときにシュラクサイはローマと同盟どうめいむすんだが、それを解消かいしょうしてカルタゴ同盟どうめいむすんだためローマぐん包囲ほういされ陥落かんらくした。ローマぐんはシチリアとう全体ぜんたい支配しはいいたうえで、シュラクサイにせた。包囲ほういせんあいだまちアルキメデス発明はつめいした兵器へいきによって防衛ぼうえいされていた。アルキメデスは偉大いだい発明はつめいであり博学はくがくしゃであったが、陥落かんらくにローマぐん司令しれいかんマルクス・クラウディウス・マルケッルス命令めいれいはんして殺害さつがいされた[1]

序幕じょまく

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アルキメデスまち防衛ぼうえい依頼いらいするヒエロン2せいセバスティアーノ・リッチ、 1720年代ねんだい

だいいちポエニ戦争せんそうにおいてローマはシチリアとう全体ぜんたい支配しはいき、紀元前きげんぜん241ねんにはローマ最初さいしょ海外かいがい領土りょうどシキリアぞくしゅう)となった。しかし、シュラクサイのみはローマの同盟どうめいこくとして独立どくりつたもち、ヒエロン2せい統治とうちしも繁栄はんえいつづけていた[2]紀元前きげんぜん215ねんにヒエロン2せい死去しきょすると、まごであるヒエロニムス(en)が王位おういき、シュラクサイの支配しはい階級かいきゅうなかはんローマてき感情かんじょうはじめた。ヒエロニムスは暗殺あんさつされ、おやカルタゴ勢力せいりょく除去じょきょされたが、ローマの威嚇いかくてき姿勢しせいのためにシュラクサイは戦争せんそうそなえざるをなくなった。

外交がいこうてき努力どりょくにもかかわらず、紀元前きげんぜん214ねんにローマとシュラクサイは開戦かいせんした。ローマはカルタゴとのたたかい(だいポエニ戦争せんそう)に忙殺ぼうさつされていたが、マルクス・クラウディウス・マルケッルスひきいるローマぐんがシチリアに上陸じょうりくし、海陸かいりくからシュラクサイを包囲ほういした。シチリア東岸とうがんのシュラクサイは城壁じょうへき都市としでありその堅牢けんろう防御ぼうぎょられていた。また、シュラクサイの防衛ぼうえい担当たんとうしゃなかに、科学かがくしゃ数学すうがくしゃであるアルキメデスがいた。

要塞ようさい都市としシュラクサイ

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シュラクサイはだいペロポネソス戦争せんそう紀元前きげんぜん415ねん-紀元前きげんぜん404ねん以来いらい度々たびたび包囲ほういせん舞台ぶたいとなったが、紀元前きげんぜん402ねんから紀元前きげんぜん397ねんにかけて、ディオニュシオス1せいによって強力きょうりょく要塞ようさいつくえられた[3]西側にしがわにあたるエピポライ台地だいち全長ぜんちょう27キロメートルにおよ城壁じょうへきかこみ、まった間隔かんかくで14のとうきずかれた。6つのもんもうけられたが、いずれも要塞ようさいされ、もっと西にしにあるエピポライもん強力きょうりょく防御ぼうぎょりょくつエウリュアロスじょうit)でまもられていた。このしろなん強化きょうかされているが、最後さいご改装かいそうはアルキメデスが指揮しきしている。アルキメデスはまた、攻撃こうげき兵器へいきとしてねじりバネを利用りようした投石とうせき開発かいはつしているが、80キログラムのいし発射はっしゃできた。アルキメデスはこれら投石とうせき大型おおがたいしゆみゆみ城壁じょうへきじょう効果こうかてき配置はいちした[4]

包囲ほういせん

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アルキメデスのかぎつめ沈没ちんぼつさせられるローマかん、1600ねんごろ壁画へきが一部いちぶ

シュラクサイは堅牢けんろう防御ぼうぎょされていたために、数ヶ月すうかげつあいだローマのあらゆる攻撃こうげきえた。おさむしろせん困難こんなんさを実感じっかんし、ローマはしん兵器へいき投入とうにゅうすることとした。サンブーカ(en)とばれる艦載かんさいがたかぎなわおさむしろとうや、城壁じょうへき上部じょうぶ滑車かっしゃろせる、艦載かんさいがた梯子はしごとうである。

シュラクサイの防衛ぼうえい指揮しきするアルキメデス。トーマス・ラルフ・スペンス、1895ねん

他方たほう、アルキメデスも防衛ぼうえいようしん兵器へいき考案こうあんしたとされる。かべしに巨石きょせきほうして敵艦てきかんとす装置そうちや、かべしにうでばしてやぶしろづちおさむしろよう小屋こやうえ丸太まるたとす装置そうちなどがられている[4]アルキメデスのかぎつめばれる兵器へいきは、クレーンじょううでさきるされた金属きんぞくせいかぎつめ構造こうぞうで、このかぎつめちかづいた敵艦てきかんけてうでげることで敵艦てきかんかたむけて転覆てんぷくさせるものであった。また、巨大きょだいかがみならべて太陽たいようひかり反射はんしゃさせ、ローマかんいたという伝説でんせつアルキメデスのねつ光線こうせん英語えいごばん)もある(2世紀せいき著述ちょじゅつルキアノスによる)。これらの兵器へいきくわえて、城壁じょうへきそなけられた投石とうせきはたがたいしゆみゆんでの攻撃こうげき苦戦くせんし、結局けっきょくちからめを余儀よぎなくされた。

膠着こうちゃく

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かがみもちいてローマかんやすアルキメデス

戦闘せんとう膠着こうちゃく状態じょうたいとなった。ローマぐん城内じょうない突入とつにゅうすることも、またシュラクサイにたいする外部がいぶからの補給ほきゅう完全かんぜんつこともできなかった。他方たほう、シュラクサイがわもローマぐん撤退てったいさせることはできなかった。カルタゴもシュラクサイの救援きゅうえんこころみたが撃退げきたいされた。再度さいど救援きゅうえん計画けいかく立案りつあんされたが、イベリア半島はんとうでの作戦さくせん優先ゆうせんしたためにシュラクサイけの兵士へいし艦艇かんてい用意よういできなかった。結局けっきょく、シュラクサイは独力どくりょくたたかつづけるしかなかった。

陥落かんらく

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ローマの攻撃こうげき撃退げきたいしたシュラクサイは自信じしん過剰かじょうとなった。紀元前きげんぜん212ねん、ローマはシュラクサイの市民しみんアルテミスかみ祝祭しゅくさい参加さんかし、防御ぼうぎょ手薄てうすになるとの情報じょうほうた。シュラクサイはじゅう城壁じょうへきかこまれていたが、少数しょうすうのローマへい暗闇くらやみにまぎれて外郭がいかく城壁じょうへき梯子はしご使つかって突破とっぱし、ただちに援軍えんぐんまねきいれたため、外郭がいかくはローマぐんちた。しかし、内郭ないかく依然いぜんとして堅牢けんろうであった。アルキメデスが殺害さつがいされたとされるのは、このときである。

アルキメデスのエドウアルド・ヴィモン 、1920年代ねんだい

マルケッルスは、高名こうみょう数学すうがくしゃであり、防衛ぼうえい兵器へいき発明はつめいであったアルキメデスをころさないように命令めいれいしていた。アルキメデスはこのときすでに78さい前後ぜんこうであったが、ローマぐん侵入しんにゅうしてきたのちでも研究けんきゅうつづけていた。ローマへいいえにやってきてかれ研究けんきゅう邪魔じゃますると、アルキメデスはこれにたいしてつよ抗議こうぎ退去たいきょもとめた。この兵士へいしは、それがだれだかをらず、そのでアルキメデスを殺害さつがいした(あるいはローマぐんくるしめた兵器へいき発明はつめいっていたのかもしれない)。

ローマは外郭がいかく支配しはいにおいたものの、シュラクサイ市民しみん内郭ないかく退避たいひして抵抗ていこうつづけた。しかし内郭ないかく面積めんせきちいさく、ローマは外部がいぶからの補給ほきゅう完全かんぜん遮断しゃだんすることができた。8ヶ月かげつ経過けいかしたころ場内じょうないでは飢餓きがくるしみがはじまり、ローマとの講和こうわ議論ぎろんされるようになった。モエリスカスという指導しどうしゃ一人ひとりがローマと内通ないつうし、アレトゥーサいずみちかくにローマぐんまねれ、陽動ようどう攻撃こうげきおこなっているあいだ城門じょうもんけた。おやローマ地区ちく衛兵えいへいき、マルケッルスはシュラクサイの略奪りゃくだつゆるした[5]長期ちょうきおさむしろせん苦戦くせんしていたローマへい市内しないあばまわり、おおくのシュラクサイ市民しみん殺害さつがいし、またのこった市民しみんほとんどを奴隷どれいとした。シュラクサイは完全かんぜん略奪りゃくだつされ、破壊はかいされた。

その

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シュラクサイはふたたびローマのもどり、シチリアとう全体ぜんたいがローマのぞくしゅうとなった。シュラクサイを確保かくほしたことにより、カルタゴはシチリアでの足場あしばうしない、そこからイタリアにいるハンニバルを支援しえんすることが不可能ふかのうとなった。このため、ローマはイタリアとイベリアにその戦力せんりょく集中しゅうちゅうすることができるようになった。10ねんには、シチリアを補給ほきゅう基地きちとしてアフリカへの侵攻しんこう作戦さくせん実施じっしされることになる。また、ギリシャへの侵攻しんこう拠点きょてんとしても重要じゅうよう位置いちめた。

シュラクサイは再建さいけんされ、5世紀せいきにいたるまでローマにとって軍事ぐんじめんでも経済けいざいめんでも重要じゅうよう都市としとして存在そんざいした。

関連かんれん作品さくひん

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  • 1914ねん作製さくせいされたイタリアのサイレント映画えいがである『カビリア』では、アルキメデスとシュラクサイ包囲ほういせんがドラマチックにえがかれている。
  • いわあきらひとし漫画まんがヘウレーカ』は、シュラクサイ包囲ほういせん舞台ぶたいとしたものである。
  • 映画えいがインディ・ジョーンズと運命うんめいのダイヤル』で、インディたちがタイムスリップしたシチリアとうはシュラクサイ包囲ほういせん只中ただなかだった[6]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Plutarch, "Life of Marcellus", Lives
  2. ^ Livy xxi. 49–51, xxii. 37, xxiii. 21
  3. ^ アングリム、p309
  4. ^ a b アングリム、p311
  5. ^ Davies, p144
  6. ^ “【ネタバレ】『インディ・ジョーンズ』新作しんさくのクライマックス、監督かんとく納得なっとくしなかったべつあん存在そんざいした”. シネマトゥデイ. (2023ねん7がつ4にち). https://www.cinematoday.jp/news/N0137794 2023ねん7がつ4にち閲覧えつらん 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Norman Davies "Europe: A History", Oxford University Press; 1st edition (December 5, 1996), ISBN 978-0195209129
  • サイモン・アングリムちょ天野あまの淑子としこやく戦闘せんとう技術ぎじゅつ歴史れきし 1 古代こだいへん(3000BC-AD500)』そうもとしゃ (2008/8/21)、ISBN 978-4422215044

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい3705ふん00びょう 東経とうけい1517ふん00びょう / 北緯ほくい37.0833 東経とうけい15.2833 / 37.0833; 15.2833