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シラージュ・ウッダウラ

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シラージュ・ウッダウラ
Siraj ud-Daulah
ベンガル太守たいしゅ
シラージュ・ウッダウラ
在位ざいい 1756ねん - 1757ねん
戴冠たいかんしき 1756ねん4がつ15にち
べつごう ナワーブ

ぜん マフムード・アリー・ハーン
出生しゅっしょう 1728ねん8がつ6にち以前いぜん
ラージマハル
死去しきょ 1757ねん7がつ4にち
ムルシダーバード近郊きんこう
埋葬まいそう クシュバーグ
王朝おうちょう アフシャールあさ
父親ちちおや ザイヌッディーン・アフマド・ハーン
母親ははおや アミーナ・ベーグム
宗教しゅうきょう イスラームきょう
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シラージュ・ウッダウラベンガル:সিরাজদ্দৌলা, Siraj ud-Daulah, 1728ねん8がつ6にち以前いぜん - 1757ねん7がつ4にち)は、ひがしインドベンガル太守たいしゅ在位ざいい1756ねん - 1757ねん)。一般いっぱんてきられているシラージュ・ウッダウラは「国家こっかひかり」を意味いみする称号しょうごうで、本名ほんみょうマフムード・アリー・ハーン(Mahmud Ali Khan)という。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

即位そくい以前いぜん[編集へんしゅう]

1728ねん8がつ6にち以前いぜん、マフムード・アリー・ハーンことシラージュ・ウッダウラはまれた[1]ちちザイヌッディーン・アフマド・ハーンパトナ長官ちょうかんであったが、ははベンガル太守たいしゅアリーヴァルディー・ハーンむすめであった。

1740ねん、シラージュ・ウッダウラは海軍かいぐんしょう艦隊かんたい提督ていとくとなり、1748ねんにはビハール太守たいしゅ任命にんめいされ、よく1749ねんにはフーグリーファウジュダール砲兵ほうへいたい将軍しょうぐんとなった[1]

1752ねん11月7にち、シラージュ・ウッダウラは祖父そふ太守たいしゅアリーヴァルディー・ハーンから後継こうけいしゃ任命にんめいされた[1]

太守たいしゅ継承けいしょう内紛ないふん[編集へんしゅう]

シラージュ・ウッダウラ

1756ねん4がつ、アリーヴァルディー・ハーンが死亡しぼうしたことにより、まごのシラージュ・ウッダウラが太守たいしゅ継承けいしょうした[1]。だが、その継承けいしょうをめぐり、かれには3にん敵対てきたいしゃがいた[2]

1人ひとりは、アリーヴァルディー・ハーンの長女ちょうじょで、シラージュ・ウッダウラの伯母おばガシーティー・ベーグムであり、そのベンガル太守たいしゅ後継こうけい不適任ふてきにんだとした[2]彼女かのじょはシラージュ・ウッダウラの敵対てきたいしゃになりそうなものかねをばらいていたため、ダッカ彼女かのじょ邸宅ていたくはその陰謀いんぼう中心ちゅうしんとなっていた[2]

2人ふたりは、おなじくアリーヴァルディー・ハーンのまごで、シラージュ・ウッダウラの従兄弟いとこにあたるシャウカト・ジャングである[2]かれはシラージュ・ウッダウラがアリーヴァルディー・ハーンのさんおんなであるのにたいし、次女じじょである自分じぶんのほうがベンガル太守たいしゅ継承けいしょうけんがあると主張しゅちょうした[2][3]

3にんは、ベンガルぐんそう司令しれいかんミール・ジャアファルである。かれはシラージュ・ウッダウラに一応いちおう味方みかたしていたが、アリーヴァルディー・ハーンの異母いぼいもうと[4]つまにしていたことから、内心ないしん自分じぶんがベンガル太守たいしゅになろうと画策かくさくしていた[2]。。

即位そくい、シラージュ・ウッダウラは、ガシーティー・ベーグムに味方みかたしたダッカ市長しちょうフサイン・クリー・ハーン殺害さつがいした。これに対抗たいこうするかたちで、ガシーティー・ベーグムは後任こうにん市長しちょうラージャ・ラージ・バラブ任命にんめいしていた[2]。そのため、シラージュ・ウッダウラはラージャ・ラージ・バラブが公金こうきん横領おうりょうしたとし、家族かぞく全員ぜんいん逮捕たいほ財産ざいさん没収ぼっしゅうのためにへいおくったが、息子むすこクリシュナ・ダースはカルカッタのイギリスじん居留きょりゅうまれてしまった[2]

当時とうじイギリスひがしインド会社かいしゃフランスひがしインド会社かいしゃはそれぞれ対決たいけつそなえ、カルカッタとシャンデルナゴル要塞ようさい強化きょうかしていたが、シラージュ・ウッダウラはこれに不満ふまんであり、両者りょうしゃにただちに工事こうじ中止ちゅうしするように要求ようきゅうした[2]。また、イギリスにはイギリスひがしインド会社かいしゃ職員しょくいんおこなってきた勝手かってわたし貿易ぼうえきがベンガル経済けいざいおおきな打撃だげきあたえていると抗議こうぎし、会社かいしゃ社員しゃいん私的してき貿易ぼうえきぶん関税かんぜい支払しはらい要求ようきゅうするとともに、カルカッタげたクリシュナ・ダースのわたしも要求ようきゅうした[2]

フランスはシャンデルナゴルの要塞ようさい工事こうじ中止ちゅうし要求ようきゅうしたが意向いこうしめした。だが、イギリスはこれらの要求ようきゅう拒否きょひし、シラージュ・ウッダウラの使者ししゃかえしたばかりか、その書簡しょかん公然こうぜんやぶてる行動こうどうをとった[2]。イギリスは太守たいしゅ命令めいれい無視むしし、その主権しゅけんたいして正面しょうめんから反抗はんこうする姿勢しせいしめした[5]

ベンガル太守たいしゅシラージュ・ウッダウラのはんえい闘争とうそう[編集へんしゅう]

ウィリアム要塞ようさいのブラック・ホール牢獄ろうごく

同年どうねん5月、シラージュ・ウッダウラは従兄弟いとこシャウカト・ジャングの討伐とうばつのため進軍しんぐんちゅうだったが、その道中どうちゅうにこのイギリスの返答へんとう激怒げきどし、イギリスじんをベンガルからすことを決定けっていした[6]。 シラージュ・ウッダウラはかかとかえし、手始てはじめに首都しゅとムルシダーバードのイギリス工場こうじょうおそい、工場こうじょうちょうなどを捕虜ほりょにした。

同年どうねん6月14にち、シラージュ・ウッダウラはフランスの支持しじけて、カルカッタをぐん15,000、ぞうぐん500、50もん大砲たいほうめ、ウィリアム要塞ようさい包囲ほういした。イギリスぐん守備しゅびたい司令しれいかんドレークげ、6月19にちふく司令しれいかんホルウェル要塞ようさいへい降伏ごうぶくしたが、そのよるにイギリスへい捕虜ほりょ146めいがウィリアム要塞ようさいないの「ブラック・ホール」とづけられたちいさな牢獄ろうごく収容しゅうようされ、結果けっか123めい窒息ちっそくする事件じけんこった[7]。これは、シラージュ・ウッダウラの部下ぶかがウィリアム要塞ようさいやこの牢獄ろうごくらなかったからおこったことであり、かならずしも計画けいかくしておこなわれたものではないが、イギリスじんは「ブラック・ホール事件じけん」、「ブラック・ホールの悲劇ひげき」としてかたいだ。その、シラージュ・ウッダウラはイギリスの工場こうじょう破壊はかいしてモスクをてるようにめいじ、カルカッタをアリーナガルと改名かいめいした[8]

さらに、同年どうねん10月なかば、シラージュ・ウッダウラはいきおいにじょうじ、従兄弟いとこシャウカト・ジャングのぐん戦闘せんとうやぶ殺害さつがいした[8]。シャウカト・ジャングを殺害さつがいしたのはミール・ジャアファルであった。

シラージュ・ウッダウラは一連いちれん勝利しょうりでその威信いしんたかめたが、従来じゅうらいにもしてさらに傲慢ごうまんになり、宮廷きゅうていではその打倒だとう陰謀いんぼうくわだてられた。かれらはシラージュ・ウッダウラからミール・ジャアファルへと太守たいしゅえるため、イギリスとむすんで計画けいかくすすめたが、そのなかにはシラージュ・ウッダウラに冷遇れいぐうされたヒンドゥーの高官こうかん人前ひとまえ侮辱ぶじょくされた貴族きぞくらがいた[8]。イギリスはこえをかけたのは、シラージュ・ウッダウラに味方みかたしていたカルカッタの長官ちょうかんマニク・チャンド、ベンガルのだい商人しょうにんアミー・チャンド、ベンガルいち金融きんゆう業者ぎょうしゃジャガト・セートなどであった[9]

イギリスの反撃はんげきとミール・ジャアファルの裏切うらぎ[編集へんしゅう]

ロバート・クライヴ

同年どうねん12月なかば、イギリスのぐん司令しれいかんロバート・クライヴ歩兵ほへい150にん砲兵ほうへい100にん、インドじん傭兵ようへい1,200にんひきいてマドラスから到着とうちゃくし、カルカッタへと進軍しんぐんした[7]1757ねん1がつ2にちかれはカルカッタを奪還だっかんし、シラージュ・ウッダウラにたいして宣戦せんせん布告ふこくした[8]。その、フーグリーにあるオランダじん居留きょりゅう攻撃こうげきし、これを攻略こうりゃくした。まもなく、シラージュ・ウッダウラもフーグリーへ到着とうちゃくし、イギリスに事業じぎょう再開さいかい許可きょかあたえる意向いこうしめした[8]

同年どうねん2がつ、シラージュ・ウッダウラはイギリスとフーグリーで和平わへい交渉こうしょうはじめたが決着けっちゃくがつかず、クライヴは和平わへい交渉こうしょう継続けいぞく印象いんしょうのこ宿舎しゅくしゃかえった[8]。だが、クライヴはベンガルぐんたい夜襲やしゅうをかけ、不意ふいかれたシラージュ・ウッダウラの軍勢ぐんぜいだい混乱こんらんののち四散しさんした[8]。このとき、イギリスと内通ないつうしていたミール・ジャアファルら側近そっきんがシラージュ・ウッダウラにたいして講和こうわつよすすめ、かれ休戦きゅうせん協定きょうていアリーナガル条約じょうやく)に調印ちょういんした[10]

同年どうねん3がつ、イギリスはフランスのベンガルにおける拠点きょてんシャンデルナゴルたい猛攻もうこうくわえ、れなくなったフランスぐん降伏ごうぶくし、フランスはベンガルにおける重要じゅうよう拠点きょてんうしなった[10]。だが、シラージュ・ウッダウラはフランス敗北はいぼくほうくとイギリスに祝意しゅくいべたが、かれのもとに逃亡とうぼうしたフランスじん保護ほごし、イギリスのわた要求ようきゅうおうじなかった[10]

しかし、シラージュ・ウッダウはこのころ自分じぶんたいする陰謀いんぼうめぐらされていることにすこしずつはじめていた。だが、陰謀いんぼうめぐらせているものには断固だんことした態度たいどをとらなかったため、そのいきおいはさらにしていった[10]。イギリスは太守たいしゅ味方みかたであるミール・ジャアファルとひそかに内通ないつうつづけて味方みかたにつけ、6月4にちにシラージュ・ウッダウラへの協力きょうりょく条件じょうけんにベンガル太守たいしゅ約束やくそくする条約じょうやく秘密裏ひみつりむすんでいた[7][10]

シラージュ・ウッダウラは不安ふあんになり、ミール・ジャアファルをんだがおうじなかったため、みずからその邸宅ていたく懸念けねんつたえるためにかった。ミール・ジャアファルはにいかなる敵対てきたい行為こういにも加担かたんしないと約束やくそくしたため、かれとともにイギリスを迎撃げいげきするためにカルカッタ付近ふきんプラッシーへとかった[11]

プラッシーのたたかいと[編集へんしゅう]

プラッシーのたたかののち、クライヴと面会めんかいするミール・ジャアファル

同年どうねん6月23にちあさ先手せんてったクライヴはプラッシーむら野営やえいしていたベンガルぐん攻撃こうげきくわえ、ベンガルぐんもすぐにこれに応戦おうせん戦闘せんとうはじまった(プラッシーのたたか)。

ベンガルぐん62,000はシラージュ・ウッダウラの武将ぶしょうモーハン・ラールミール・マダンひきいる歩兵ほへい5000にん騎兵きへい7000、太守たいしゅ叔父おじミール・ジャアファルひきいる歩兵ほへい35,000にん騎兵きへい15,000にんから構成こうせいされ、あとはフランスの援助えんじょである少数しょうすう砲兵ほうへいたいであった。一方いっぽう、イギリスぐん構成こうせいは、ヨーロッパじんへい800めいとインドじん傭兵ようへい2300にんと、太守たいしゅぐんたいきわめて少数しょうすうだった[12]

このように、ベンガルぐんのほうがイギリスぐんより圧倒的あっとうてき有利ゆうりであったが、歩兵ほへい35,000にん騎兵きへい15,000にんひきいベンガルぐん味方みかたしていたミール・ジャアファルはイギリスとの秘密ひみつ協定きょうていにより自分じぶんぐんうごかさず、ベンガルぐん主力しゅりょく50,000は傍観ぼうかんするだけで戦闘せんとう参加さんかしなかった[12]。 つまり、ベンガルぐんの4ぶんの3ちかくは戦闘せんとう参加さんかしていなかったことになるが、シラージュ・ウッダウラはたたかいに参加さんかしないのはミール・ジャアファルの作戦さくせんだとおもみ、まったうたがおうとしなかった[12]

ひるからモンスーン影響えいきょう大雨おおあめりはじめ、たたかいはしょう休止きゅうしとなり、イギリスぐん素早すばや装備そうびあめから保護ほごした。だが、ベンガルぐん訓練くんれん不足ふそくあめから装備そうび保護ほごできず、じゅう火薬かやく水浸みずびたしになり火器かきがまともに使つかえなかった[12]。このため、午後ごご2あめんだのち、イギリスぐん一方いっぽうてきこうげきにあい、ベンガルぐん司令しれいかんたちはあい矛盾むじゅんする命令めいれいおくり、へい士気しき低下ていか混乱こんらんはじめた。

まもなく、武将ぶしょうミール・マダンが砲撃ほうげき戦死せんしすると、シラージュ・ウッダウラは気落きおちして、ミール・ジャアファルに助言じょげんもとめた[12]。ミール・ジャアファルはコーランをのせてシラージュ・ウッダウラに忠誠ちゅうせいちかい、「明日あした自分じぶんがイギリスぐんへのそう攻撃こうげきをかけるので、今日きょうはもうれているから戦闘せんとうをやめましょう。」とった[13]

だが、モーハン・ラールは「いま状況じょうきょう戦闘せんとう停止ていしすれば味方みかたぐん今日きょう戦闘せんとうやぶれたと誤解ごかいし、夜半やはんじょうじて四散しさんしてしまいます。」と反対はんたいした。にもかかわらず、シラージュ・ウッダウラはミール・ジャアファルを完全かんぜん信頼しんらいしきっており、ぜんぐん戦闘せんとう停止ていしめいじた[14]

しばらくすると、モーハン・ラールの心配しんぱいしたとおり、ベンガルぐん動揺どうようひろがり、へい続出ぞくしゅつし壊走にちか状態じょうたいとなり、シラージュ・ウッダウラもあせりはじめ,首都しゅとムルシダーバードへした[14]一方いっぽう戦闘せんとう停止ていし提案ていあんしたミール・ジャアファルは公然こうぜんとイギリスぐん合流ごうりゅうし、クライヴに勝利しょうり祝意しゅくいつたえた[14]。 そして、7がつ4にち、ベンガル太守たいしゅシラージュ・ウッダウラはげきれずにミール・ジャアファルの息子むすこミール・ミーラーンとらえられ、その命令めいれいにより殺害さつがいされた。かれ遺体いたい首都しゅとムルシダーバードへとはこばれ、祖父そふアリーヴァルディー・ハーンのねむクシュバーグ埋葬まいそうされた[1]

人物じんぶつ評価ひょうか[編集へんしゅう]

クシュバーグにあるシラージュ・ウッダウラのはか

堀口ほりぐち松城まつしろはその人物じんぶつぞうかんして、ぐんそう司令しれいかんミール・ジャアファルに全幅ぜんぷく信頼しんらいいていたことをて、「すくいがたいほどおひとよしだった」とひょうしている[15]

1930ねんだいにベンガルおよびインドのはんえい闘争とうそうにおいてその気運きうんたかまると、シラージュ・ウッダウラはイギリス支配しはい抵抗ていこうした「英雄えいゆう」としてあつかわれた。その時代じだい民族みんぞく主義しゅぎてき歴史れきし詩人しじんは、かれがイギリスによるインドにけられた野望やぼうかったものの、信頼しんらいしていたきたちの利己りこてき裏切うらぎりにあった悲劇ひげきてき人物じんぶつとしてえがいた[15]

だが、堀口ほりぐち松城まつしろはこれに否定ひていてきで、「シラージュ・ウッダウラがかりにベンガルないしインドの団結だんけつかため、プラッシーのたたかいで勝利しょうりおさめていれば、たしてイギリスによる植民しょくみんけられたのか、あるいはその圧倒的あっとうてき軍事ぐんじりょく政治せいじりょくまえにいずれにせよ植民しょくみんけられなかったのか、かりけられなかったとしても大幅おおはばおくらせることはできたのか疑問ぎもんしょうじる」とべている[16]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e Murshidabad 4
  2. ^ a b c d e f g h i j k 堀口ほりぐち世界せかい歴史れきし叢書そうしょ バングラデシュの歴史れきし』、p.82
  3. ^ Murshidabad 8
  4. ^ ここでは従兄弟いとことなっているが、正確せいかくにはいもうとである
  5. ^ チャンドラ『近代きんだいインドの歴史れきし』、p.63
  6. ^ 堀口ほりぐち世界せかい歴史れきし叢書そうしょ バングラデシュの歴史れきし』、p.83
  7. ^ a b c 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2―中世ちゅうせい近世きんせい―』、p.270
  8. ^ a b c d e f g 堀口ほりぐち世界せかい歴史れきし叢書そうしょ バングラデシュの歴史れきし』、p.84
  9. ^ チャンドラ『近代きんだいインドの歴史れきし』、p.64
  10. ^ a b c d e 堀口ほりぐち世界せかい歴史れきし叢書そうしょ バングラデシュの歴史れきし』、p.85
  11. ^ 堀口ほりぐち世界せかい歴史れきし叢書そうしょ バングラデシュの歴史れきし』、pp.85-86
  12. ^ a b c d e 堀口ほりぐち世界せかい歴史れきし叢書そうしょ バングラデシュの歴史れきし』、p.86
  13. ^ 堀口ほりぐち世界せかい歴史れきし叢書そうしょ バングラデシュの歴史れきし』、pp.86-87
  14. ^ a b c 堀口ほりぐち世界せかい歴史れきし叢書そうしょ バングラデシュの歴史れきし』、p.87
  15. ^ a b 堀口ほりぐち世界せかい歴史れきし叢書そうしょ バングラデシュの歴史れきし』、p.81
  16. ^ 堀口ほりぐち世界せかい歴史れきし叢書そうしょ バングラデシュの歴史れきし』、p.81より引用いんよう一部いちぶ改編かいへん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 小谷おたにひろしこれ世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2―中世ちゅうせい近世きんせい―』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2007ねん 
  • 堀口ほりぐち松城まつしろ世界せかい歴史れきし叢書そうしょ バングラデシュの歴史れきし明石書店あかししょてん、2009ねん 
  • ビパン・チャンドラ しる栗原くりはら利江としえ やく近代きんだいインドの歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2001ねん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]