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ジュリアーノ・デ・メディチ (ヌムール公) - Wikipedia コンテンツにスキップ

ジュリアーノ・デ・メディチ (ヌムールこう)

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ジュリアーノ・デ・メディチ
Giuliano de' Medici
フィレンツェの僭主せんしゅ
ヌムールこう
ヌムールこうジュリアーノ・デ・メディチ、ラファエロ・サンティ
在位ざいい フィレンツェの僭主せんしゅ1513ねん - 1516ねん
ヌムールこう1515ねん – 1516ねん

出生しゅっしょう (1479-03-12) 1479ねん3月12にち
フィレンツェ共和きょうわこくフィレンツェ
死去しきょ (1516-03-17) 1516ねん3月17にち(37さいぼつ
フィレンツェ共和きょうわこくフィレンツェ
配偶はいぐうしゃ フィリベルタ・ディ・サヴォイア
家名かめい メディチ
父親ちちおや ロレンツォ・デ・メディチ
母親ははおや クラリーチェ・オルシーニ
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ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(Giuliano di Lorenzo de' Medici, 1479ねん3月12にち - 1516ねん3月17にち)は、イタリア貴族きぞく政治せいじフィレンツェ僭主せんしゅフランス貴族きぞくとしてヌムールこう爵位しゃくい所領しょりょうた。フランス語ふらんすごめいジュリアン・ド・メディシス(Julien de Médicis)。イタリアメディチ一員いちいんで、ロレンツォ・イル・マニフィコつまクラリーチェ・オルシーニの三男さんなんとしてフィレンツェまれた。長兄ちょうけいピエロ次兄じけいローマ教皇きょうこうレオ10せいとなったジョヴァンニである。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ちちロレンツォの死後しご長兄ちょうけいピエロがフィレンツェ支配しはいしゃであったが、享楽きょうらくふけってちち側近そっきんたちの離反りはんまねき、またおりからイタリアに侵攻しんこうしてきたフランスおうシャルル8せい (フランスおう)たいする対応たいおうあやまって市民しみん信頼しんらいうしなった。1494ねんにシャルル8せいがフィレンツェに入城にゅうじょうすると、メディチはついに亡命ぼうめいせざるをなくなり、ジュリアーノはヴェネツィアのがれた。1503ねんにピエロは死亡しぼうしたが、スペイン主導しゅどうする神聖しんせい同盟どうめい以後いご共和きょうわせい支持しじしたフランス勢力せいりょくわれ、メディチ以前いぜん権力けんりょく回復かいふくした。ジュリアーノは1513ねんから1516ねんまでフィレンツェをおさめた。また、次兄じけい教皇きょうこうレオ10せいにより教皇きょうこうぐんそう司令しれいかんにんじられている。

しかしジュリアーノは、政務せいむはげむよりも文人ぶんじん芸術げいじゅつまじわったり、パトロン活動かつどうおこなうなどはなやかな文化ぶんかじん宮廷きゅうていじんであった。友人ゆうじんにはレオナルド・ダ・ヴィンチラファエロルドヴィーコ・アリオストフランチェスコ・デル・ジョコンドなどがいた。

1515ねんサヴォイアこうフィリッポ2せいむすめでフランスおうフランソワ1せい母方ははかた叔母おばフィリベルタとフランス宮廷きゅうてい結婚けっこん次兄じけいのとりなしにより、フランスおうフランソワ1せいはジュリアーノにヌムールおおやけさづけた。フランスがわはジュリアーノをナポリ王位おういにつけようとかんがえていた(ナポリは歴史れきしてきにフランスおう興味きょうみしめしてきた王国おうこくだった)。ジュリアーノが急逝きゅうせいすると、フィレンツェの僭主せんしゅ地位ちいおいロレンツォがれた。

フィリベルタとのあいだ子供こどもがなく、庶子しょしイッポーリト一人ひとりいたのみだった。イッポーリトはながじて枢機卿すうききょうとなった。

なお、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」は、ジュリアーノからの依頼いらいとされている。しかし、モデルはかれ愛人あいじんではなく、フィレンツェの商人しょうにんつまであるジョコンド夫人ふじん有力ゆうりょくされている。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

先代せんだい
ジョヴァンニ・デ・メディチ枢機卿すうききょう
フィレンツェの僭主せんしゅ
1513ねん - 1516ねん
次代じだい
ロレンツォ2せい・デ・メディチ
先代せんだい
ガストン・ド・フォワ
ヌムールこう
1515ねん – 1516ねん
次代じだい
フィリップ・ド・サヴォワ=ヌムール