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ジョン・ワデル

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ジョン・アレキサンダー・ロウ・ワデル

ジョン・アレキサンダー・ロウ・ワデル(John Alexander Low Waddell、1854ねん - 1938ねん3月3にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく土木どぼく技術ぎじゅつしゃである。とりわけ橋梁きょうりょう数多かずおお設計せっけいした。明治めいじ時代じだい初期しょきやと外国がいこくじんとしてとき政府せいふまねかれ、東京大学とうきょうだいがくこうじた。J.A.L.ワデルジョン・アレキサンダー・ワデルともしょうされる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

生誕せいたんから青年せいねん[編集へんしゅう]

ワデルは、1854ねんカナダオンタリオしゅうポート・ホープでまれた。ながじて1875ねん土木どぼく学位がくい取得しゅとくしたのはニューヨークしゅうトロイレンセラー工科こうか大学だいがく(RPI)であった。

学位がくい取得しゅとくすぐにカナダにうつ水産すいさん海洋かいようしょうにてはたらいたのちカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうへとうつった。そのふたたアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくもどり、今度こんどウエストバージニアしゅう炭鉱たんこう会社かいしゃ鉱山こうざん設計せっけいたずさわった。1878ねんにはレンセラーにもどり、1880ねんまで機械きかいがくこうじた。そして再度さいどカナダにもどり、ケベックしゅうモントリオールマギル大学だいがくにてさらなる学位がくい取得しゅとくし、3わたったアメリカのアイオワしゅうカウンシルブラフスレイモンド・アンド・キャンベルRaymond & Campbellしゃつとめた。

日本にっぽん時代じだいと、日本にっぽんとのかかわり[編集へんしゅう]

1882ねん7がつ日本にっぽん明治めいじ政府せいふまねかれ、やと外国がいこくじんとして東京大学とうきょうだいがく理学部りがくぶ当時とうじ)にて4年間ねんかん土木どぼく工学こうがく講義こうぎおこなった。そのあいだ、ワデルは代表だいひょうさくとなる著書ちょしょを2さつ上梓じょうししている。

当時とうじ本州ほんしゅう鉄道てつどうはイギリスの流儀りゅうぎつくられていたが、1885ねん明治めいじ18ねん)、ワデルは横浜よこはま刊行かんこうされていた英字えいじ新聞しんぶん紙上しじょうで「経験けいけんそくからつくられるイギリスせい橋梁きょうりょうたいして、アメリカせい橋梁きょうりょう理論りろんつくられている。今後こんごはアメリカせい採用さいようすべきである」むね議論ぎろん提起ていきする。イギリスがわは、チャールズ・ポーナル1873ねん建築けんちくちょうとして来日らいにち以後いご橋梁きょうりょう設計せっけいのほとんどをがけた。1896ねん帰国きこく)が反論はんろんしたが、鉄道てつどう発展はってんとともにポーナルが設計せっけいした橋梁きょうりょう設計せっけい荷重におもでは不足ふそくするようになり、ポーナルが帰国きこくしたのち、次々つぎつぎとアメリカせい橋梁きょうりょうえられていった。

磐越西線ばんえつさいせん阿賀野川あがのがわがまわき橋梁きょうりょう

1897ねん明治めいじ30ねん)、いわえつ鉄道てつどう岩越線がんえつせん現在げんざい磐越西線ばんえつさいせん)が郡山こおりやまえきから喜多方きたかたえき区間くかん建設けんせつ開始かいしした。喜多方きたかた以西いせいでは、流量りゅうりょうおお水深すいしんふか阿賀野川あがのがわ阿賀川あががわすうわた渡河とかする必要ひつようがあったため、すでにアメリカに帰国きこくし、名声めいせいていた(後述こうじゅつ)ワデルに調査ちょうさ依頼いらいした。ワデルは、カンチレバーしき架設かせつ工法こうほう張出はりだしき架設かせつ工法こうほう、すなわち中央ちゅうおうスパンの両側りょうがわのスパンをアンカーとして中央ちゅうおうスパンとなるべきけたし、中央ちゅうおう接合せつごうする方法ほうほう見通みとおしをてており、これを提案ていあんした。1913ねん大正たいしょう2ねん)、みちあいだ300フィート(90メートル)の阿賀野川あがのがわがまわき橋梁きょうりょう[1][2]荻野おぎのえき - 尾登おのぼりえきあいだ)が竣工しゅんこう。ワデルの提唱ていしょうから15ねん経過けいかしていた。この阿賀野川あがのがわがまわき橋梁きょうりょうは、日本にっぽんはじめてこの工法こうほう架設かせつされた橋梁きょうりょうであった[3]

アメリカへ[編集へんしゅう]

1886ねん、ワデルはアメリカにもどり、翌年よくねんにかけてカンザスシティにあたらしく設計せっけい事務所じむしょ設立せつりつした。この会社かいしゃは、今日きょうでもハーデスティ・アンド・ハノーバーHardesty & Hanover.)として存続そんぞくしている。ワデルはいくつもの挑戦ちょうせんてき設計せっけいおこない、それらはすぐに強度きょうどすぐれるというデモンストレーションになった。

ライトアップされたよるのエアリアルきょう

1892ねんミネソタしゅうダルースは、運河うんが開削かいさくにより孤立こりつした陸地りくちとなったミネソタ・ポイントへの交通こうつう手段しゅだん公募こうぼした。ワデルは のぼりひらくきょう提唱ていしょうし、優勝ゆうしょうした。しかし、建設けんせつ間際まぎわ戦争せんそうしょう現在げんざい国防総省こくぼうそうしょう)がこの設計せっけい反対はんたいし、のぼりひらくきょう建設けんせつ見送みおくられた。結果けっかとして、フェリーやゴンドラで対岸たいがんわた運搬うんぱんきょうエアリアルきょう1905ねん完成かんせいした。

やがてエアリアルきょう輸送ゆそう能力のうりょくいつかなくなり、結局けっきょく、もとの運搬うんぱんきょうのデザインをのこしたまま、のぼりひらくきょう改造かいぞうされることになった。皮肉ひにくなことに、この改造かいぞうったのはかつてワデルが創設そうせつした会社かいしゃいだ会社かいしゃであった。

ワデルがミネソタ・ポイントよう設計せっけいしたはしは、のちにオリジナルよりも若干じゃっかんスケールアップしたものが1893ねんシカゴにサウス・ハルステッドどお可動かどうきょう(South Halsted Street Lift-Bridge)として建設けんせつされた。これはワデルの処女しょじょさくとなった。ワデルは生涯しょうがいで100をえる可動かどうきょう設計せっけいし、かれ設立せつりつした会社かいしゃ各種かくしゅ可動かどうきょう製作せいさくした。

1920ねん、ワデルはニューヨークうつり、ガーサルズきょうGoethals Bridge)やマリン・パークウェイ・ギル・ホッジス・メモリアルきょうMarine Parkway-Gil Hodges Memorial Bridge)の建設けんせつコンサルタントとして活動かつどうした。

1934ねんつま死去しきょ。その4ねん1938ねんにワデル自身じしん死去しきょした。

ワデルのおも仕事しごと[編集へんしゅう]

ワデルは高架こうか鉄道てつどうシステムの基準きじゅんつくり、長大ちょうだいスパンの橋梁きょうりょうてきする素材そざい開発かいはつにもちからそそいだ。その最大さいだい功績こうせきは、蒸気じょうき動力どうりょくのぼりひらくきょう開発かいはつである。橋梁きょうりょう設計せっけいしゃとしてひろ尊敬そんけいあつめ、技術ぎじゅつしゃにはクオリティ・トレーニングが必要ひつようであると提唱ていしょうした一人ひとりでもある。

生涯しょうがい設計せっけいした橋梁きょうりょうかずは、アメリカとカナダだけで1000をえ、メキシコロシア中国ちゅうごく日本にっぽんニュージーランドにもある。現在げんざいでもなお供用きょうようちゅうのものもおおく、それらのおおくは歴史れきしてきランドマークとしてられている。よくられているのはミズーリしゅうカンザスシティアーマー・スイフト・バーリントンきょう(ASBきょう)であり、いまなおBNSF鉄道てつどうにより使用しようされている。

ワデル「A」トラスきょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]


参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]