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スウェーデンりょうポメラニア

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スウェーデンりょうポメラニア
Svenska Pommern  (スウェーデン)
Schwedisch Pommern  (ドイツ)
ポメラニア公国 1630ねん - 1815ねん ポメラニア州 (1815年-1945年)
ポメラニアの国旗 ポメラニアの国章
スウェーデンの国旗こっきくにあきら
ポメラニアの位置
1658ねんスウェーデンにおけるポメラニア(オレンジしょく
言語げんご 低地ていちドイツドイツ
スウェーデン
宗教しゅうきょう ルター
首都しゅと シュテッティーン
(1630ねん-1720ねん
グライフスヴァルト
(1720ねん-1814ねん
おおやけ
1630ねん - 1632ねん グスタフ2せいアドルフ
1809ねん - 1814ねんカール13せい
総督そうとく英語えいごばん
1633ねん - 1641ねんステン・スヴァンテソン・ビールケ英語えいごばん
1800ねん - 1809ねんハンス・ヘンリク・フォン・エッセン英語えいごばん
1809ねん - 1814ねん直轄ちょっかつりょう
変遷へんせん
シュテッティーン条約じょうやく(1630ねん 1630ねん7がつ10日とおか
ヴェストファーレン条約じょうやく1648ねん10がつ24にち
シュテッティーン条約じょうやく1653ねん5がつ4にち
ストックホルム条約じょうやく1720ねん1がつ21にち
キール条約じょうやく1814ねん1がつ14にち
ウィーン会議かいぎ1815ねん6がつ4にち - 6月7にち
プロイセンに割譲かつじょう1815ねん10がつ23にち

スウェーデンりょうポメラニアスウェーデン: Svenska Pommernドイツ: Schwedisch Pommern)は、1630ねんから1815ねんにかけて現在げんざいドイツポーランドまたがバルト海ばるとかい沿岸えんがんにあったスウェーデン王国おうこく属領ぞくりょう英語えいごばんである。

ポーランドとの戦争せんそうさんじゅうねん戦争せんそうのち、スウェーデンはポメラニアリヴォニアならびにプロシア一部いちぶふくむ、バルト海ばるとかい南岸なんがん広範こうはん地域ちいき支配しはいけんドミニウム・マーリス・バルティキ英語えいごばん)を確保かくほした。

概要がいよう[編集へんしゅう]

1628ねんからポメラニアのシュトラールズントに守備しゅびたいいていたスウェーデンは、1630ねんシュテッティーン条約じょうやくポメラニア公国こうこく実効じっこうてき支配しはいけん獲得かくとくした。

また1648ねんヴェストファーレン条約じょうやく1653ねんのシュテッティーン条約じょうやくリューゲンとうウーゼドムとうヴォリンとうひがしポメラニア英語えいごばんドイツ:Hinterpommern、ヒンターポンメルン)の一部いちぶふく西にしポメラニア英語えいごばん(Vorpommern、フォアポンメルン)をる。

これらのやくスウェーデン女王じょおうクリスティーナ幼少ようしょうころ協議きょうぎされ、スウェーデン帝国ていこく統治とうち高位こうい貴族きぞくおこなっていた。その結果けっか、ポメラニアはフランスの獲得かくとく領土りょうどことなりスウェーデンに併合へいごうされなかった。なぜなら、そこでは1616ねん農民のうみんほうもっと厳格げんかく適用てきようされており、併合へいごう農奴のうどせい廃止はいし意味いみしたからである。わりに同地どうちかみきよしマ帝国まていこく一部いちぶとしてのこり、スウェーデンの統治とうちしゃ帝国ていこく諸侯しょこう英語えいごばん一人ひとりとなり、貴族きぞくそう所領しょりょうとその住民じゅうみんたいする責任せきにんすべてをつづうことになった。

スウェーデンりょうポメラニアの貴族きぞくそう17世紀せいき後半こうはん国王こくおう政治せいじりょく回復かいふくしたさい権限けんげん縮小しゅくしょう英語えいごばん対象たいしょうとなった一方いっぽう、ヴェストファーレン条約じょうやくしょ条項じょうこう1806ねんかみきよしマ帝国まていこく解体かいたいされるまでポメラニアにおけるスウェーデンの統合とうごう政策せいさく英語えいごばん実施じっし阻止そしつづけている。

1679ねん、スウェーデンはオーダーがわ以東いとう所領しょりょうのほとんどをサン=ジェルマン=アン=レー条約じょうやく喪失そうしつし、1720ねんにはストックホルム条約じょうやくペーネがわ英語えいごばん以南いなんならびにペーネシュトロームドイツばん以東いとう領土りょうどうしなった。これらの地域ちいきブランデンブルク=プロイセン割譲かつじょうされ、ブランデンブルクりょうポンメルン英語えいごばん併合へいごうされたのである。

同年どうねんフレゼリクスボー条約じょうやくでスウェーデンは、1715ねんにデンマークにうばわれた属領ぞくりょうのこりをもどす。そして1814ねんナポレオン戦争せんそう結果けっかとして、スウェーデンりょうポメラニアはノルウェーえにキール条約じょうやくデンマーク割譲かつじょうされた。

同地どうち1815ねんウィーン会議かいぎ帰結きけつとしてプロイセン移譲いじょうされた。

地理ちり[編集へんしゅう]

スウェーデンりょうポメラニアでもっとおおきなしょ都市としシュトラールズントグライフスヴァルト、そして1720ねんまではシュテッティーン(現在げんざいシュチェチン)であった。リューゲンとう現在げんざいドイツ最大さいだいしまである。

さんじゅうねん戦争せんそうちゅう拡張かくちょう[編集へんしゅう]

グスタフ2せいアドルフ

ポメラニアは1620年代ねんだいさんじゅうねん戦争せんそうまれ、同地どうち支配しはいしゃであるシュテッティーンこうボギスラフ14せい1628ねん6がつ攻囲こういのシュトラールズントにおいてスウェーデン国王こくおうグスタフ2せいアドルフ条約じょうやくむすんだ。1630ねん7がつ10日とおか、この条約じょうやくシュテッティーン条約じょうやくで「恒久こうきゅうてきな」同盟どうめい発展はってんする。同年どうねんまつ、スウェーデンぐんはポメラニアの軍事ぐんじ占領せんりょう完遂かんすいした。グスタフ2せいアドルフは同地どうち実質じっしつてき支配しはいしゃとなったこのときから、グリムニッツ条約じょうやくもとづいてブランデンブルクせんみかどこうフリードリヒ・ヴィルヘルム保持ほじしていたポメラニアの継承けいしょうけん確認かくにんされたにもかかわらず、ブランデンブルク辺境へんきょうはくりょう皇帝こうていフェルディナント2せいとの断交だんこう要求ようきゅうする。1634ねん、ポメラニアの身分みぶんせい議会ぎかいは8めいから構成こうせいされる理事りじかい暫定ざんていてき統治とうちけん譲渡じょうとした。それは1638ねん、ブランデンブルクが神聖しんせいマ帝国まていこく任免にんめんけんもとづいて理事りじかい解散かいさんめいじるまで存続そんぞくした。

この結果けっか、ポメラニアは政府せいふ状態じょうたいおちいり、スウェーデンぐん行動こうどういられる。1641ねんにはシュテッティーン(シュチェチン)から評議ひょうぎかい(「コンキリウム・スタートゥス」)が、1648ねんやくによってスウェーデンに有利ゆうりなように同地どうち権利けんり調停ちょうていされるまで、統治とうち主導しゅどうした。オスナブリュックにおける和平わへい協議きょうぎで、ブランデンブルク=プロイセンはポメラニア公国こうこく一部いちぶであるひがしポメラニア(ヒンターポンメルン)のオーダーがわ以東いとうを、シュテッティーンをのぞいて獲得かくとくする。ダム英語えいごばんゴルノウふくむオーダーがわ東岸とうがん一帯いったい、ヴォリンとうならびにリューゲンとうとウーゼドムとうふく西にしポメラニア(フォアポンメルン)は皇帝こうていフェルディナント3せいから封土ほうどとしてスウェーデンにあたえられた。1653ねんのシュテッティーンにおける調停ちょうていで、ブランデンブルクとの国境こっきょうはスウェーデンに有利ゆうりなようにさだめられた。トレーベルかわ英語えいごばんレックニッツがわ英語えいごばん沿メクレンブルクとの国境こっきょうも、1691ねん確定かくていした。

政体せいたい統治とうち[編集へんしゅう]

かつてのポメラニア公国こうこく中央ちゅうおう)は1653ねんのシュテッティーン条約じょうやくスウェーデンブランデンブルク分割ぶんかつされた。スウェーデンりょうポメラニア(「西にしポメラニア英語えいごばん」)はあおで、ブランデンブルクりょうポンメルン英語えいごばん(「ひがしポメラニア英語えいごばん」)はオレンジでしめされている。

ポメラニアの貴族きぞくそう社会しゃかい下層かそうめていた農奴のうどたいしてしっかりと確立かくりつし、広範こうはん特権とっけんゆうしていた。18世紀せいきまつでもなお、農奴のうど地方ちほう人口じんこうの2/3を構成こうせいしていたのである。貴族きぞく所有しょゆうしていた領地りょうち管区かんくと、国土こくどの1/4をめ、アムトドイツばん分割ぶんかつされていたおうりょうかれていた。

スウェーデンりょうポメラニアにおける騎士きしりょうドイツばん(Rittergut、リッターグート)の1/4は、スウェーデンじん貴族きぞくおさめていた[1]おおやけりょう(Domäne、ドメーネ)は当初とうしょ、その2/3をスウェーデンじん貴族きぞくと、のこりをかんじんめていたが1654ねん先代せんだいのスウェーデン女王じょおう、クリスティーナが統治とうちすることになった[2]スウェーデンじんポメラニアじん英語えいごばん貴族きぞくそうつうこんし、18世紀せいきちゅうには民族みんぞくてき区別くべつがつかなくなる[3]。スウェーデン王国おうこくにおけるポメラニアの地位ちいは、ポメラニアの身分みぶんせい議会ぎかいスウェーデン政府せいふ英語えいごばん協議きょうぎ左右さゆうされるようになる。それは1663ねん7がつ17にち統治とうち制度せいどドイツばん提示ていじ公布こうふは1669ねん4がつ10日とおか合意ごういによる)されるまで成果せいかとぼしく、ポメラニアの身分みぶんせい議会ぎかいがスウェーデン国王こくおうみずからのあたらしい支配しはいしゃとして表敬ひょうけいしたのは1664ねんになってからのことであった。

ポメラニアの王立おうりつ政府せいふ(Königliche Landesregierung、ケーニクリヒェ・ランデスレギールンク)はつねにスウェーデンの枢密院すうみついん議長ぎちょうでもあった総督そうとく英語えいごばんを5めい評議ひょうぎいん主席しゅせきとし、そのなかには上訴じょうそ裁判所さいばんしょ総裁そうさい、シュテッティーン要塞ようさい司令しれいたる総督そうとく王立おうりつ警察けいさつそうかんふくまれていた。必要ひつようおうじて身分みぶんせい議会ぎかい貴族きぞく市民しみん1690ねんまでは聖職せいしょくしゃも、「ラントターク英語えいごばん」とばれる地方ちほう議会ぎかい招集しょうしゅうされた。貴族きぞくいち地方ちほうにつきいちめい代理人だいりにん代表だいひょうとなった。これらの代理人だいりにんは、同様どうよう担当たんとうする地方ちほう貴族きぞく議会ぎかいによって権限けんげんあたえられていた。市民しみん階級かいきゅうは、たとえばシュトラールズントのように政治せいじてき特権とっけんあたえられたいち都市としにつきいちめい代理人だいりにん構成こうせいした。このラントタークの議長ぎちょうつとめたのは法務ほうむかん(Erb-landmarschall、エアプ=ラントマーシャル)である。議会ぎかいだいさん構成こうせいいんは、当初とうしょじゅうめいのちめいとなった地方ちほう議員ぎいんであり、かれらは身分みぶんせい議会ぎかい指名しめいつづいてポメラニア王立おうりつ政府せいふから任命にんめいされた。ラントタークの議員ぎいんはスウェーデン政府せいふとの調停ちょうていおこない、政体せいたい監督かんとくする地方ちほう議会ぎかい形成けいせいしたのである。

ポメラニアの諸公しょこうあいだおおきな権限けんげん行使こうしした身分みぶんせい議会ぎかいは、1663ねん政体せいたいによってポメラニアに影響えいきょうおよかぎ拒否きょひけんあたえられていたにもかかわらず、スウェーデンに重要じゅうよう影響えいきょうおよぼすことができなかった。しかし、その請願せいがん権利けんり制限せいげんけず、1720ねんにスウェーデン国王こくおうフレドリク1せいあたえた特権とっけんによって立法りっぽう課税かぜい参加さんかする権利けんり付与ふよされている。

シュトラールズント、シュテッティーン、グライフスヴァルトおよアンクラムしょ都市としには自主じしゅてき司法しほうけんあたえられていた[4]

ほう制度せいど[編集へんしゅう]

ポメラニアのほう制度せいどは、首尾しゅび一貫いっかんした立法りっぽうけんどころかもっと基本きほんてき法典ほうてん欠如けつじょしていたうえ共通きょうつうてんのない様々さまざま法理ほうりしたがって運用うんようされていたため、おおいに混乱こんらんしていた。スウェーデンの支配しはいは、なにはともあれすくなくともほう支配しはい裁判さいばん制度せいどにもたらす。1655ねん以降いこうもうては初審しょしん裁判所さいばんしょからグライフスヴァルト[4]1665ねんから1680ねんヴォルガスト)の上訴じょうそ裁判所さいばんしょ上告じょうこくできるようになり、そこではダーヴィット・メヴィウスドイツばん主導しゅどうした1672ねん上訴じょうそほうもとづき判決はんけつくだされた。カノンほうしたが案件あんけんはグライフスヴァルトのほういんまわされた。案件あんけん上訴じょうそ裁判所さいばんしょから、1653ねん開設かいせつされドイツにおけるスウェーデンりょう最高法院さいこうほういんであった、ヴィスマール[4]だいしん裁判所さいばんしょ上告じょうこくすることができた。

だい北方ほっぽう戦争せんそうとスコーネ戦争せんそう[編集へんしゅう]

だい北方ほっぽう戦争せんそうなか1657ねんから1659ねんポーランドオーストリアおよびブランデンブルク各国かっこくぐんがこの領土りょうどらした。スコーネ戦争せんそうなか1675ねんから1679ねんにかけてはデンマーク領域りょういき占領せんりょうし、そのさいにデンマークはリューゲンとうを、ブランデンブルクはポメラニアののこりの土地とち獲得かくとくする[5]1693ねん支払しはらわれる[6]まで、ブランデンブルクが賠償金ばいしょうきん担保たんぽとして保持ほじしたゴルノウならびにオーダーがわ東岸とうがん土地とちのぞき、1679ねんのサン=ジェルマン=アン=レー条約じょうやくでスウェーデンりょうポメラニアがスウェーデンに返還へんかんされると、これらの戦役せんえき無駄むだとなる。

ポメラニアはすでにさんじゅうねん戦争せんそういちじるしく荒廃こうはいしており、つづすうねんあいだ復興ふっこうすることが困難こんなんであったため、スウェーデン政府せいふ1669ねんから1689ねんにかけて制令せいれい(Freiheitspatent、フライハイツパテント)を布告ふこくし、家屋かおく新築しんちく再建さいけんしたもの租税そぜい免除めんじょした。これらの制令せいれい頻繁ひんぱん変更へんこうされたものの、1824ねんまで有効ゆうこうであった[7]

だい北方ほっぽう戦争せんそうちゅう領域りょういき変遷へんせん[編集へんしゅう]

だい北方ほっぽう戦争せんそう最初さいしょすう年間ねんかん、ポメラニアに影響えいきょうおよぼさなかった。1714ねんにデンマーク、ロシアとポーランド各国かっこくぐん国境こっきょうえたのちでさえ、プロイセン侵攻しんこうてんじるまでのあいだ当初とうしょはためらいちな仲裁ちゅうさいこくとしてっていたのである。スウェーデン国王こくおうカール12せいシュトラールズントのたたかにおいて1714ねん11月から1715ねん12月のいち年間ねんかんルンド退避たいひするまでポメラニアの防戦ぼうせん指揮しきした。デンマークぐんはリューゲンとうならびに西にしポメラニアのペーネかわ以北いほくのちノイフォアポンメルン英語えいごばんとしてられるようになるデンマークの旧領きゅうりょうリューゲンおおやけりょう英語えいごばん)を奪取だっしゅした一方いっぽうのちアルトフォアポンメルン英語えいごばんばれるそのかわ以南いなんプロイセンぐん攻略こうりゃくした。

デンマークりょうポメラニアは1716ねん4がつから、シュトラールズントにかれためい構成こうせいいんによる委員いいんかい統治とうちすることになる[8]。スウェーデンの統治とうちとは対照たいしょうてきに、どう委員いいんかい司法しほう行政ぎょうせい権利けんりをどちらも行使こうしした[9]。デンマークはそのさい同国どうこくが1712ねんから1715ねんにかけて占領せんりょうしたブレーメン=フェルデンおおやけりょう英語えいごばんでの経験けいけんもとづいて官庁かんちょう設置せっちし、デンマーク=ノルウェー国王こくおうフレゼリク4せい治世ちせいにおいて絶対ぜったい王政おうせい[8]。この委員いいんかい代官だいかん英語えいごばんフィリップ・ユリウス・フォン・プラーテンドイツばんのちエマヌエル・フリードリヒ・フォン・ケーチャウドイツばん)、顧問こもんのハインリヒ・ベルンハルト・フォン・ケンプファーベック、J・B・ホーエンミューレとペーター・フォン・ティーネンならびに長官ちょうかん秘書ひしょのアウグスト・J・フォン・ヨーンが構成こうせいしていた[10]。1720ねんにケンプファーベックがぼっすると、アンドレアス・ボーイェが後任こうにんとなっている[11]

1720ねん6がつ3にちフレゼリクスボー条約じょうやくによって、デンマークは占領せんりょうしたスウェーデンりょう返還へんかん義務付ぎむづけられたが、同年どうねん1がつ21のストックホルム条約じょうやくでプロイセンはシュテッティーンをふく征服せいふく保持ほじみとめられた。これによってスウェーデンは、1648ねん獲得かくとくしたオーダーがわ以東いとう西にしポメラニアのペーネかわ以南いなん、そしてヴォリンとうとウーゼドムとうをプロイセンに割譲かつじょうしたのである。

デンマークは1721ねん1がつ17にち、そのポメラニアの領土りょうどをスウェーデンに返還へんかんした。デンマーク時代じだい統治とうち記録きろくコペンハーゲンはこばれており、デンマーク国立こくりつ古文書こもんじょかん英語えいごばん閲覧えつらんできる[9]

ななねん戦争せんそう[編集へんしゅう]

失地しっち回復かいふくけたスウェーデンの熱心ねっしんとはえないこころみは、ななねん戦争せんそうなかのポメラニア戦役せんえきポメラニア戦争せんそう1757ねん-1762ねん)において失敗しっぱいした。スウェーデンぐん同盟どうめいしていたフランスロシアぐん協調きょうちょうしようと尽力じんりょくし、プロイセンりょうポンメルンへの侵攻しんこうとして開始かいしされたこのたたかいは、もなくプロイセンぐんによるスウェーデンりょうポメラニアのだい部分ぶぶん占領せんりょうつながった。1762ねんロシアがプロイセンと講和こうわすると、スウェーデンも戦争せんそうまえ原状げんじょう復帰ふっきえに戦争せんそうから脱落だつらくする。この戦争せんそうにおけるスウェーデンの不甲斐ふがいないはたらきは、その国際こくさいてき威厳いげんをさらに毀損きそんした。

土壇場どたんば統合とうごう[編集へんしゅう]

1812ねんのスウェーデンりょうポメラニア(中央ちゅうおう右側みぎがわ

1806ねん6月26にちみことのりれいによって、ポメラニアの政治せいじ体制たいせい停止ていし廃止はいし宣言せんげんされた。1772ねん政治せいじ体制たいせい英語えいごばん1789ねん統合とうごう国防こくぼうほう英語えいごばん1734ねん法律ほうりつ英語えいごばんがこれに優先ゆうせんすることが宣言せんげんされ、1808ねん9月1にちから履行りこうされることとされた。国王こくおうがこのクーデター承認しょうにんした理由りゆうは、みことのりれいによる禁止きんしにもかかわらずしょ身分みぶん欽定きんてい法規ほうき、とりわけポメラニアのラントヴェーア編成へんせい[12]かんする1806ねん4がつ30にち法律ほうりつ抗議こうぎして法廷ほうていうったたことにあった。国王こくおうグスタフ4せいアドルフあたらしいみことのりれいなかで、省庁しょうちょうかれた統治とうち制度せいど導入どうにゅうこころみた。スウェーデンの教会きょうかいほう導入どうにゅうされた。国土こくどはスウェーデンしき行政ぎょうせいモデルにしたがい、(ソッケン英語えいごばん)という区分くぶんふくむ、よっつの行政ぎょうせい区画くかくヘレー英語えいごばん)に分割ぶんかつされた。ポメラニアの身分みぶんせい議会ぎかいは、とくにポメラニアとリューゲンとうかかわる問題もんだいがあるときでなければ招集しょうしゅうされなかった。ラントタークのしん体制たいせいスウェーデンの身分みぶんせい議会ぎかい英語えいごばん規範きはんとし、それにもとづく会議かいぎも1806ねん8がつ開催かいさいされ、国王こくおう忠誠ちゅうせい宣言せんげんし、支配しはいしゃとして歓呼かんこしている。この革命かくめいつづいて、数々かずかず社会しゃかい改革かいかく実行じっこう計画けいかくされた。もっと重要じゅうようなのは、1806ねん7がつ4にち欽定きんていほうによる農奴のうどせい廃止はいしである。

おなじく1806ねん、グスタフ4せいアドルフはポメラニアであたらしいだい規模きぼ港湾こうわん都市としグスタヴィア英語えいごばん建設けんせつ開始かいしさせた。しかしはやくも1807ねんには、フランスぐん現場げんば占領せんりょうしている[13]

ナポレオン戦争せんそうちゅう喪失そうしつ[編集へんしゅう]

スウェーデンがはじめてナポレオンたたかい、やぶれることになった英語えいごばん1805ねんだいさんたいふつだい同盟どうめいへの参加さんかは、1807ねんから1810ねんにかけてフランスぐんによるスウェーデンりょうポメラニアの占領せんりょうつながった。1810ねんパリ条約じょうやく調印ちょういんいたると、この領域りょういきはスウェーデンに返還へんかんされる。1812ねんにフランスぐんふたたびポメラニアへ進軍しんぐんすると、スウェーデンぐんはナポレオンにこうして動員どういんをかけ1813ねんライプツィヒのたたかロシアぐん、プロイセンぐんとオーストリアぐん支援しえんした。またスウェーデンはデンマークにも侵攻しんこうし、1814ねんキール条約じょうやくによってノルウェーとえにポメラニアをデンマークに割譲かつじょうする。

スウェーデンりょうポメラニアの命運めいうんウィーン会議かいぎあいだに、1815ねん6月4にちにプロイセンとデンマーク、そして6がつ7にちにプロイセンとスウェーデンがむすんだ条約じょうやくによってけっした。この方策ほうさくによってプロイセンはわずかじゅうよんねんまえハノーファーりょうであり、ひがしフリースラント英語えいごばん交換こうかんしたばかりのザクセン=ラウエンブルクをデンマークにゆずり、えにスウェーデンりょうポメラニアを獲得かくとくしたのである。つづいてひがしフリースラントは、ふたたびハノーファーに割譲かつじょうされた[14]。また、デンマークはプロイセンからひゃくろくじゅうまんターラーった。戦災せんさいこうむったスウェーデンにはさんひゃくじゅうまんターラーがおくられる。「スウェーデンりょうポメラニア」は「ノイフォアポンメルン」(Neuvorpommern)としてプロイセンのポンメルンしゅう英語えいごばん併合へいごうされた。

人口じんこう[編集へんしゅう]

スウェーデンりょうポメラニアの人口じんこう1764ねん臣民しんみん82,827めい農村のうそん人口じんこう58,682めい都市とし人口じんこう24,145めい人口じんこうの40%は農奴のうどである)であった[15]1766ねんには89,000めい1802ねんには113,000めいであり、そのやく1/4はリューゲンとう居住きょじゅうしていた。そして1805ねんには118,112めい農村のうそん人口じんこう79,087めい都市とし人口じんこう39,025めい農村のうそん人口じんこうのうち46,190めい農奴のうどである)にたっしている[15]

総督そうとく一覧いちらん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん:[16]

デンマークの総督そうとく(1715ねん-1721ねん[編集へんしゅう]

フランスの総督そうとく(1807ねん-1813ねん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

典拠てんきょ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Werner Buchholz, Pommern, Siedler, 1999, p.239, ISBN 3-88680-272-8
  2. ^ Werner Buchholz, Pommern, Siedler, 1999, p.255, ISBN 3-88680-272-8
  3. ^ Werner Buchholz, Pommern, Siedler, 1999, p.259, ISBN 3-88680-272-8
  4. ^ a b c Werner Buchholz, Pommern, Siedler, 1999, p.253, ISBN 3-88680-272-8
  5. ^ Heitz, Gerhard; Rischer, Henning (1995) (German). Geschichte in Daten. Mecklenburg-Vorpommern. Münster-Berlin: Koehler&Amelang. pp. 239–241. ISBN 3-7338-0195-4 
  6. ^ Heitz, Gerhard; Rischer, Henning (1995) (German). Geschichte in Daten. Mecklenburg-Vorpommern. Münster-Berlin: Koehler&Amelang. p. 241. ISBN 3-7338-0195-4 
  7. ^ Felix Schönrock's studies in: Frank Braun, Stefan Kroll, Städtesystem und Urbanisierung im Ostseeraum in der frühen Neuzeit: Wirtschaft, Baukultur und historische Informationssysteme: Beiträge des wissenschaftlichen Kolloquiums in Wismar vom 4. Und 5. September 2003,2004, pp.184ff, ISBN 3-8258-7396-X, 978-3-8258-7396-7, [1]
  8. ^ a b Olesen, Jens (2004). “Auswirkungen der dänischen Herrschaft auf Verständnis und Praxis der Tribunalstätigkeit, pages 111-132”. In Alvermann, Dirk; Regge, Jürgen (German). Justitia in Pommern. Geschichte. 63. Berlin-Hamburg-Münster: LIT. p. 132. ISBN 3-8258-8218-7 
  9. ^ a b Olesen, Jens (2004). “Auswirkungen der dänischen Herrschaft auf Verständnis und Praxis der Tribunalstätigkeit, pages 111-132”. In Alvermann, Dirk; Regge, Jürgen (German). Justitia in Pommern. Geschichte. 63. Berlin-Hamburg-Münster: LIT. p. 131. ISBN 3-8258-8218-7 
  10. ^ Olesen, Jens (2004). “Auswirkungen der dänischen Herrschaft auf Verständnis und Praxis der Tribunalstätigkeit, pages 111-132”. In Alvermann, Dirk; Regge, Jürgen (German). Justitia in Pommern. Geschichte. 63. Berlin-Hamburg-Münster: LIT. p. 126. ISBN 3-8258-8218-7 
  11. ^ a b Olesen, Jens (2004). “Auswirkungen der dänischen Herrschaft auf Verständnis und Praxis der Tribunalstätigkeit, pages 111-132”. In Alvermann, Dirk; Regge, Jürgen (German). Justitia in Pommern. Geschichte. 63. Berlin-Hamburg-Münster: LIT. p. 130. ISBN 3-8258-8218-7 
  12. ^ Johannes Weise, Die Integration Schwedisch-Pommerns in den preußischen Staatsverband: Transformationsprozesse innerhalb von Staat und Gesellschaft, GRIN Verlag, Norderstedt, 2005, p. 39, ISBN 9783638915212
  13. ^ *Asmus, Ivo. “Gustavia - Ein schwedisches Hafen- und Stadtprojekt für Mönchgut” (German, Swedish). rügen.de. 2010ねん6がつ18にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2009ねん12がつ20日はつか閲覧えつらん
  14. ^ Pommern, Werner Buchholz (ed.), Werner Conze, Hartmut Boockmann (contrib.), Berlin: Siedler, 1999, pp. 363 seq. ISBN 3-88680-272-8
  15. ^ a b Jan M Piskorski, Pommern im Wandel der Zeiten, 1999, p.191, ISBN 83-906184-8-6 OCLC 43087092
  16. ^ a b c d e Petrick, Fritz, ed (2009) (German). Rügens Schwedenzeit 1648–1815. Rügens Geschichte von den Anfängen bis zur Gegenwart in fünf Teilen. 3. Putbus: Rügendruck. pp. 18. ISBN 978-3-9808999-6-3 
  17. ^ Olesen, Jens (2004). “Auswirkungen der dänischen Herrschaft auf Verständnis und Praxis der Tribunalstätigkeit, pages 111-132”. In Alvermann, Dirk; Regge, Jürgen (German). Justitia in Pommern. Geschichte. 63. Berlin-Hamburg-Münster: LIT. pp. 117, 130. ISBN 3-8258-8218-7 

文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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