スウェーデン領 りょう ポメラニア
Svenska Pommern (スウェーデン語 ご ) Schwedisch Pommern (ドイツ語 ご )
1658年 ねん のスウェーデン におけるポメラニア(オレンジ色 しょく )
スウェーデン領 りょう ポメラニア (スウェーデン語 ご : Svenska Pommern 、ドイツ語 ご : Schwedisch Pommern )は、1630年 ねん から1815年 ねん にかけて現在 げんざい のドイツ とポーランド に跨 またが るバルト海 ばるとかい 沿岸 えんがん にあったスウェーデン王国 おうこく の属領 ぞくりょう (英語 えいご 版 ばん ) である。
ポーランドとの戦争 せんそう と三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう の後 のち 、スウェーデンはポメラニア とリヴォニア 並 なら びにプロシア の一部 いちぶ を含 ふく む、バルト海 ばるとかい 南岸 なんがん の広範 こうはん な地域 ちいき の支配 しはい 権 けん (ドミニウム・マーリス・バルティキ (英語 えいご 版 ばん ) )を確保 かくほ した。
1628年 ねん からポメラニアのシュトラールズントに守備 しゅび 隊 たい を置 お いていた スウェーデンは、1630年 ねん のシュテッティーン条約 じょうやく でポメラニア公国 こうこく の実効 じっこう 的 てき 支配 しはい 権 けん を獲得 かくとく した。
また1648年 ねん のヴェストファーレン条約 じょうやく と1653年 ねん のシュテッティーン条約 じょうやく でリューゲン島 とう 、ウーゼドム島 とう 、ヴォリン島 とう と東 ひがし ポメラニア(英語 えいご 版 ばん ) (ドイツ語 ご :Hinterpommern、ヒンターポンメルン)の一部 いちぶ を含 ふく む西 にし ポメラニア(英語 えいご 版 ばん ) (Vorpommern、フォアポンメルン)を得 え る。
これらの和 わ 約 やく はスウェーデン女王 じょおう クリスティーナ が幼少 ようしょう の頃 ころ に協議 きょうぎ され、スウェーデン帝国 ていこく の統治 とうち は高位 こうい の貴族 きぞく が執 と り行 おこな っていた。その結果 けっか 、ポメラニアはフランスの獲得 かくとく 領土 りょうど と異 こと なりスウェーデンに併合 へいごう されなかった。なぜなら、そこでは1616年 ねん の農民 のうみん 法 ほう が最 もっと も厳格 げんかく に適用 てきよう されており、併合 へいごう が農奴 のうど 制 せい の廃止 はいし を意味 いみ したからである。代 か わりに同地 どうち は神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の一部 いちぶ として残 のこ り、スウェーデンの統治 とうち 者 しゃ は帝国 ていこく 諸侯 しょこう (英語 えいご 版 ばん ) の一人 ひとり となり、貴族 きぞく 層 そう は所領 しょりょう とその住民 じゅうみん に対 たい する責任 せきにん の全 すべ てを引 ひ き続 つづ き負 お うことになった。
スウェーデン領 りょう ポメラニアの貴族 きぞく 層 そう は17世紀 せいき 後半 こうはん 、国王 こくおう が政治 せいじ 力 りょく を回復 かいふく した際 さい に権限 けんげん 縮小 しゅくしょう (英語 えいご 版 ばん ) の対象 たいしょう となった一方 いっぽう 、ヴェストファーレン条約 じょうやく の諸 しょ 条項 じょうこう は1806年 ねん 、神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく が解体 かいたい されるまでポメラニアにおけるスウェーデンの統合 とうごう 政策 せいさく (英語 えいご 版 ばん ) の実施 じっし を阻止 そし し続 つづ けている。
1679年 ねん 、スウェーデンはオーダー川 がわ 以東 いとう の所領 しょりょう のほとんどをサン=ジェルマン=アン=レー条約 じょうやく で喪失 そうしつ し、1720年 ねん にはストックホルム条約 じょうやく でペーネ川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) 以南 いなん 、並 なら びにペーネシュトローム (ドイツ語 ご 版 ばん ) 以東 いとう の領土 りょうど を失 うしな った。これらの地域 ちいき はブランデンブルク=プロイセン に割譲 かつじょう され、ブランデンブルク領 りょう ポンメルン (英語 えいご 版 ばん ) に併合 へいごう されたのである。
同年 どうねん のフレゼリクスボー条約 じょうやく でスウェーデンは、1715年 ねん にデンマークに奪 うば われた 属領 ぞくりょう の残 のこ りを取 と り戻 もど す。そして1814年 ねん 、ナポレオン戦争 せんそう の結果 けっか として、スウェーデン領 りょう ポメラニアはノルウェー と引 ひ き換 か えにキール条約 じょうやく でデンマーク に割譲 かつじょう された。
同地 どうち は1815年 ねん 、ウィーン会議 かいぎ の帰結 きけつ としてプロイセン に移譲 いじょう された。
スウェーデン領 りょう ポメラニアで最 もっと も大 おお きな諸 しょ 都市 とし はシュトラールズント 、グライフスヴァルト 、そして1720年 ねん まではシュテッティーン(現在 げんざい のシュチェチン )であった。リューゲン島 とう は現在 げんざい 、ドイツ で最大 さいだい の島 しま である。
三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう 中 ちゅう の拡張 かくちょう [ 編集 へんしゅう ]
グスタフ2世 せい アドルフ
ポメラニアは1620年代 ねんだい 、三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう に巻 ま き込 こ まれ、同地 どうち の支配 しはい 者 しゃ であるシュテッティーン公 こう ボギスラフ14世 せい は1628年 ねん 6月 がつ 、攻囲 こうい 下 か のシュトラールズントにおいてスウェーデン国王 こくおう グスタフ2世 せい アドルフ と条約 じょうやく を結 むす んだ。1630年 ねん 7月 がつ 10日 とおか 、この条約 じょうやく はシュテッティーン条約 じょうやく で「恒久 こうきゅう 的 てき な」同盟 どうめい に発展 はってん する。同年 どうねん 末 まつ 、スウェーデン軍 ぐん はポメラニアの軍事 ぐんじ 占領 せんりょう を完遂 かんすい した。グスタフ2世 せい アドルフは同地 どうち の実質 じっしつ 的 てき な支配 しはい 者 しゃ となったこの時 とき から、グリムニッツ条約 じょうやく に基 もと づいてブランデンブルク選 せん 帝 みかど 侯 こう フリードリヒ・ヴィルヘルム が保持 ほじ していたポメラニアの継承 けいしょう 権 けん が確認 かくにん されたにも拘 かか わらず、ブランデンブルク辺境 へんきょう 伯 はく 領 りょう に皇帝 こうてい フェルディナント2世 せい との断交 だんこう を要求 ようきゅう する。1634年 ねん 、ポメラニアの身分 みぶん 制 せい 議会 ぎかい は8名 めい から構成 こうせい される理事 りじ 会 かい に暫定 ざんてい 的 てき な統治 とうち 権 けん を譲渡 じょうと した。それは1638年 ねん 、ブランデンブルクが神聖 しんせい ロ ろ ーマ帝国 まていこく の任免 にんめん 権 けん に基 もと づいて理事 りじ 会 かい に解散 かいさん を命 めい じるまで存続 そんぞく した。
この結果 けっか 、ポメラニアは無 む 政府 せいふ 状態 じょうたい に陥 おちい り、スウェーデン軍 ぐん は行動 こうどう を強 し いられる。1641年 ねん にはシュテッティーン(シュチェチン)から評議 ひょうぎ 会 かい (「コンキリウム・スタートゥス」)が、1648年 ねん の和 わ 約 やく によってスウェーデンに有利 ゆうり なように同地 どうち の権利 けんり が調停 ちょうてい されるまで、統治 とうち を主導 しゅどう した。オスナブリュック における和平 わへい 協議 きょうぎ で、ブランデンブルク=プロイセンはポメラニア公国 こうこく の一部 いちぶ である東 ひがし ポメラニア(ヒンターポンメルン)のオーダー川 がわ 以東 いとう を、シュテッティーンを除 のぞ いて獲得 かくとく する。ダム (英語 えいご 版 ばん ) 、ゴルノウ を含 ふく むオーダー川 がわ 東岸 とうがん の一帯 いったい 、ヴォリン島 とう 並 なら びにリューゲン島 とう とウーゼドム島 とう を含 ふく む西 にし ポメラニア(フォアポンメルン)は皇帝 こうてい フェルディナント3世 せい から封土 ほうど としてスウェーデンに与 あた えられた。1653年 ねん のシュテッティーンにおける調停 ちょうてい で、ブランデンブルクとの国境 こっきょう はスウェーデンに有利 ゆうり なように定 さだ められた。トレーベル川 かわ (英語 えいご 版 ばん ) とレックニッツ川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) に沿 そ うメクレンブルク との国境 こっきょう も、1691年 ねん に確定 かくてい した。
かつてのポメラニア公国 こうこく (中央 ちゅうおう )は1653年 ねん のシュテッティーン条約 じょうやく でスウェーデン とブランデンブルク に分割 ぶんかつ された。スウェーデン領 りょう ポメラニア(「西 にし ポメラニア(英語 えいご 版 ばん ) 」)は青 あお で、ブランデンブルク領 りょう ポンメルン (英語 えいご 版 ばん ) (「東 ひがし ポメラニア(英語 えいご 版 ばん ) 」)はオレンジで示 しめ されている。
ポメラニアの貴族 きぞく 層 そう は社会 しゃかい の下層 かそう を占 し めていた農奴 のうど に対 たい してしっかりと確立 かくりつ し、広範 こうはん な特権 とっけん を有 ゆう していた。18世紀 せいき 末 まつ でもなお、農奴 のうど は地方 ちほう 人口 じんこう の2/3を構成 こうせい していたのである。貴族 きぞく が所有 しょゆう していた領地 りょうち は管区 かんく と、国土 こくど の1/4を占 し め、アムト (ドイツ語 ご 版 ばん ) に分割 ぶんかつ されていた王 おう 領 りょう に分 わ かれていた。
スウェーデン領 りょう ポメラニアにおける騎士 きし 領 りょう (ドイツ語 ご 版 ばん ) (Rittergut、リッターグート)の1/4は、スウェーデン人 じん の貴族 きぞく が治 おさ めていた[1] 。公 おおやけ 領 りょう (Domäne、ドメーネ)は当初 とうしょ 、その2/3をスウェーデン人 じん の貴族 きぞく と、残 のこ りを官 かん 人 じん が占 し めていたが1654年 ねん に先代 せんだい のスウェーデン女王 じょおう 、クリスティーナが統治 とうち することになった[2] 。スウェーデン人 じん とポメラニア人 じん (英語 えいご 版 ばん ) の貴族 きぞく 層 そう は通 つう 婚 こん し、18世紀 せいき 中 ちゅう には民族 みんぞく 的 てき に区別 くべつ がつかなくなる[3] 。スウェーデン王国 おうこく におけるポメラニアの地位 ちい は、ポメラニアの身分 みぶん 制 せい 議会 ぎかい とスウェーデン政府 せいふ (英語 えいご 版 ばん ) の協議 きょうぎ に左右 さゆう されるようになる。それは1663年 ねん 7月 がつ 17日 にち に統治 とうち 制度 せいど (ドイツ語 ご 版 ばん ) が提示 ていじ (公布 こうふ は1669年 ねん 4月 がつ 10日 とおか の合意 ごうい による)されるまで成果 せいか に乏 とぼ しく、ポメラニアの身分 みぶん 制 せい 議会 ぎかい がスウェーデン国王 こくおう に自 みずか らの新 あたら しい支配 しはい 者 しゃ として表敬 ひょうけい したのは1664年 ねん になってからのことであった。
ポメラニアの王立 おうりつ 政府 せいふ (Königliche Landesregierung、ケーニクリヒェ・ランデスレギールンク)は常 つね にスウェーデンの枢密院 すうみついん 議長 ぎちょう でもあった総督 そうとく (英語 えいご 版 ばん ) を5名 めい の評議 ひょうぎ 員 いん の主席 しゅせき とし、その中 なか には上訴 じょうそ 裁判所 さいばんしょ の総裁 そうさい 、シュテッティーン要塞 ようさい 司令 しれい たる総督 そうとく と王立 おうりつ 警察 けいさつ 区 く の総 そう 監 かん が含 ふく まれていた。必要 ひつよう に応 おう じて身分 みぶん 制 せい 議会 ぎかい 、貴族 きぞく 、市民 しみん と1690年 ねん までは聖職 せいしょく 者 しゃ も、「ラントターク (英語 えいご 版 ばん ) 」と呼 よ ばれる地方 ちほう 議会 ぎかい に招集 しょうしゅう された。貴族 きぞく は一 いち 地方 ちほう につき一 いち 名 めい の代理人 だいりにん が代表 だいひょう となった。これらの代理人 だいりにん は、同様 どうよう に担当 たんとう する地方 ちほう の貴族 きぞく 議会 ぎかい によって権限 けんげん を与 あた えられていた。市民 しみん 階級 かいきゅう は、例 たと えばシュトラールズントのように政治 せいじ 的 てき 特権 とっけん を与 あた えられた一 いち 都市 とし につき一 いち 名 めい の代理人 だいりにん が構成 こうせい した。このラントタークの議長 ぎちょう を務 つと めたのは法務 ほうむ 官 かん (Erb-landmarschall、エアプ=ラントマーシャル)である。議会 ぎかい の第 だい 三 さん の構成 こうせい 員 いん は、当初 とうしょ は十 じゅう 名 めい 、後 のち に五 ご 名 めい となった地方 ちほう 議員 ぎいん であり、彼 かれ らは身分 みぶん 制 せい 議会 ぎかい の指名 しめい に続 つづ いてポメラニア王立 おうりつ 政府 せいふ から任命 にんめい された。ラントタークの議員 ぎいん はスウェーデン政府 せいふ との調停 ちょうてい を行 おこな い、政体 せいたい を監督 かんとく する地方 ちほう 議会 ぎかい を形成 けいせい したのである。
ポメラニアの諸公 しょこう の間 あいだ で大 おお きな権限 けんげん を行使 こうし した身分 みぶん 制 せい 議会 ぎかい は、1663年 ねん の政体 せいたい によってポメラニアに影響 えいきょう が及 およ ぶ限 かぎ り拒否 きょひ 権 けん を与 あた えられていたにも拘 かかわ らず、スウェーデンに重要 じゅうよう な影響 えいきょう を及 およ ぼすことができなかった。しかし、その請願 せいがん の権利 けんり は制限 せいげん を受 う けず、1720年 ねん にスウェーデン国王 こくおう フレドリク1世 せい が与 あた えた特権 とっけん によって立法 りっぽう と課税 かぜい に参加 さんか する権利 けんり も付与 ふよ されている。
シュトラールズント、シュテッティーン、グライフスヴァルト及 およ びアンクラム の諸 しょ 都市 とし には自主 じしゅ 的 てき な司法 しほう 権 けん が与 あた えられていた[4] 。
ポメラニアの法 ほう 制度 せいど は、首尾 しゅび 一貫 いっかん した立法 りっぽう 権 けん どころか最 もっと も基本 きほん 的 てき な法典 ほうてん が欠如 けつじょ していた上 うえ 、共通 きょうつう 点 てん のない様々 さまざま な法理 ほうり に従 したが って運用 うんよう されていたため、大 おお いに混乱 こんらん していた。スウェーデンの支配 しはい は、何 なに はともあれ少 すく なくとも法 ほう の支配 しはい を裁判 さいばん 制度 せいど にもたらす。1655年 ねん 以降 いこう 、申 もう し立 た ては初審 しょしん 裁判所 さいばんしょ からグライフスヴァルト[4] (1665年 ねん から1680年 ねん はヴォルガスト )の上訴 じょうそ 裁判所 さいばんしょ に上告 じょうこく できるようになり、そこではダーヴィット・メヴィウス (ドイツ語 ご 版 ばん ) が主導 しゅどう した1672年 ねん の上訴 じょうそ 法 ほう に基 もと づき判決 はんけつ が下 くだ された。カノン法 ほう に従 したが う案件 あんけん はグライフスヴァルトの法 ほう 院 いん に回 まわ された。案件 あんけん は上訴 じょうそ 裁判所 さいばんしょ から、1653年 ねん に開設 かいせつ されドイツにおけるスウェーデン領 りょう の最高法院 さいこうほういん であった、ヴィスマール [4] の大 だい 審 しん 裁判所 さいばんしょ へ上告 じょうこく することができた。
第 だい 二 に 次 じ 北方 ほっぽう 戦争 せんそう とスコーネ戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 二 に 次 じ 北方 ほっぽう 戦争 せんそう 中 なか の1657年 ねん から1659年 ねん 、ポーランド 、オーストリア およびブランデンブルク各国 かっこく の軍 ぐん がこの領土 りょうど を荒 あ らした。スコーネ戦争 せんそう 中 なか の1675年 ねん から1679年 ねん にかけてはデンマーク が領域 りょういき を占領 せんりょう し、その際 さい にデンマークはリューゲン島 とう を、ブランデンブルクはポメラニアの残 のこ りの土地 とち を獲得 かくとく する[5] 。1693年 ねん に支払 しはら われる[6] まで、ブランデンブルクが賠償金 ばいしょうきん の担保 たんぽ として保持 ほじ したゴルノウ並 なら びにオーダー川 がわ 東岸 とうがん の土地 とち を除 のぞ き、1679年 ねん のサン=ジェルマン=アン=レー条約 じょうやく でスウェーデン領 りょう ポメラニアがスウェーデンに返還 へんかん されると、これらの戦役 せんえき は無駄 むだ となる。
ポメラニアはすでに三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう で著 いちじる しく荒廃 こうはい しており、続 つづ く数 すう 年 ねん の間 あいだ に復興 ふっこう することが困難 こんなん であったため、スウェーデン政府 せいふ は1669年 ねん から1689年 ねん にかけて制令 せいれい (Freiheitspatent、フライハイツパテント)を布告 ふこく し、家屋 かおく を新築 しんちく ・再建 さいけん した者 もの の租税 そぜい を免除 めんじょ した。これらの制令 せいれい は頻繁 ひんぱん に変更 へんこう されたものの、1824年 ねん まで有効 ゆうこう であった[7] 。
大 だい 北方 ほっぽう 戦争 せんそう 中 ちゅう の領域 りょういき の変遷 へんせん [ 編集 へんしゅう ]
大 だい 北方 ほっぽう 戦争 せんそう は最初 さいしょ の数 すう 年間 ねんかん 、ポメラニアに影響 えいきょう を及 およ ぼさなかった。1714年 ねん にデンマーク、ロシア とポーランド各国 かっこく の軍 ぐん が国境 こっきょう を越 こ えた後 のち でさえ、プロイセン は侵攻 しんこう に転 てん じるまでの間 あいだ 、当初 とうしょ はためらい勝 が ちな仲裁 ちゅうさい 国 こく として振 ふ る舞 ま っていたのである。スウェーデン国王 こくおう カール12世 せい はシュトラールズントの戦 たたか い において1714年 ねん 11月から1715年 ねん 12月の一 いち 年間 ねんかん 、ルンド に退避 たいひ するまでポメラニアの防戦 ぼうせん を指揮 しき した。デンマーク軍 ぐん はリューゲン島 とう 並 なら びに西 にし ポメラニアのペーネ川 かわ 以北 いほく (後 のち にノイフォアポンメルン (英語 えいご 版 ばん ) として知 し られるようになるデンマークの旧領 きゅうりょう 、リューゲン公 おおやけ 領 りょう (英語 えいご 版 ばん ) )を奪取 だっしゅ した一方 いっぽう 、後 のち にアルトフォアポンメルン (英語 えいご 版 ばん ) と呼 よ ばれるその川 かわ の以南 いなん はプロイセン軍 ぐん が攻略 こうりゃく した。
デンマーク領 りょう ポメラニアは1716年 ねん 4月 がつ から、シュトラールズントに置 お かれた五 ご 名 めい の構成 こうせい 員 いん による委員 いいん 会 かい が統治 とうち することになる[8] 。スウェーデンの統治 とうち とは対照 たいしょう 的 てき に、同 どう 委員 いいん 会 かい は司法 しほう と行政 ぎょうせい の権利 けんり をどちらも行使 こうし した[9] 。デンマークはその際 さい 、同国 どうこく が1712年 ねん から1715年 ねん にかけて占領 せんりょう したブレーメン=フェルデン公 おおやけ 領 りょう (英語 えいご 版 ばん ) での経験 けいけん に基 もと づいて官庁 かんちょう を設置 せっち し、デンマーク=ノルウェー国王 こくおう フレゼリク4世 せい の治世 ちせい において絶対 ぜったい 王政 おうせい を敷 し く[8] 。この委員 いいん 会 かい は代官 だいかん (英語 えいご 版 ばん ) のフィリップ・ユリウス・フォン・プラーテン (ドイツ語 ご 版 ばん ) (後 のち にエマヌエル・フリードリヒ・フォン・ケーチャウ (ドイツ語 ご 版 ばん ) )、顧問 こもん のハインリヒ・ベルンハルト・フォン・ケンプファーベック、J・B・ホーエンミューレとペーター・フォン・ティーネン並 なら びに長官 ちょうかん 秘書 ひしょ のアウグスト・J・フォン・ヨーンが構成 こうせい していた[10] 。1720年 ねん にケンプファーベックが没 ぼっ すると、アンドレアス・ボーイェが後任 こうにん となっている[11] 。
1720年 ねん 6月 がつ 3日 にち のフレゼリクスボー条約 じょうやく によって、デンマークは占領 せんりょう したスウェーデン領 りょう の返還 へんかん を義務付 ぎむづ けられたが、同年 どうねん 1月 がつ 21のストックホルム条約 じょうやく でプロイセンはシュテッティーンを含 ふく む征服 せいふく 地 ち の保持 ほじ を認 みと められた。これによってスウェーデンは、1648年 ねん に獲得 かくとく したオーダー川 がわ 以東 いとう と西 にし ポメラニアのペーネ川 かわ 以南 いなん 、そしてヴォリン島 とう とウーゼドム島 とう をプロイセンに割譲 かつじょう したのである。
デンマークは1721年 ねん 1月 がつ 17日 にち 、そのポメラニアの領土 りょうど をスウェーデンに返還 へんかん した。デンマーク時代 じだい の統治 とうち 記録 きろく はコペンハーゲン に運 はこ ばれており、デンマーク国立 こくりつ 古文書 こもんじょ 館 かん (英語 えいご 版 ばん ) で閲覧 えつらん できる[9] 。
失地 しっち の回復 かいふく に向 む けたスウェーデンの熱心 ねっしん とは言 い えない試 こころ みは、七 なな 年 ねん 戦争 せんそう 中 なか のポメラニア戦役 せんえき (ポメラニア戦争 せんそう 、1757年 ねん -1762年 ねん )において失敗 しっぱい した。スウェーデン軍 ぐん は同盟 どうめい していたフランス やロシア の軍 ぐん と協調 きょうちょう しようと尽力 じんりょく し、プロイセン領 りょう ポンメルンへの侵攻 しんこう として開始 かいし されたこの戦 たたか いは、間 ま もなくプロイセン軍 ぐん によるスウェーデン領 りょう ポメラニアの大 だい 部分 ぶぶん の占領 せんりょう に繋 つな がった。1762年 ねん にロシアがプロイセンと講和 こうわ すると、スウェーデンも戦争 せんそう 前 まえ の原状 げんじょう 復帰 ふっき と引 ひ き換 か えに戦争 せんそう から脱落 だつらく する。この戦争 せんそう におけるスウェーデンの不甲斐 ふがい ない働 はたら きは、その国際 こくさい 的 てき な威厳 いげん をさらに毀損 きそん した。
土壇場 どたんば の統合 とうごう [ 編集 へんしゅう ]
1812年 ねん のスウェーデン領 りょう ポメラニア(中央 ちゅうおう の右側 みぎがわ )
1806年 ねん 6月26日 にち の勅 みことのり 令 れい によって、ポメラニアの政治 せいじ 体制 たいせい の停止 ていし と廃止 はいし が宣言 せんげん された。1772年 ねん の政治 せいじ 体制 たいせい (英語 えいご 版 ばん ) 、1789年 ねん の統合 とうごう ・国防 こくぼう 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) と1734年 ねん の法律 ほうりつ (英語 えいご 版 ばん ) がこれに優先 ゆうせん することが宣言 せんげん され、1808年 ねん 9月1日 にち から履行 りこう されることとされた。国王 こくおう がこのクーデター を承認 しょうにん した理由 りゆう は、勅 みことのり 令 れい による禁止 きんし にも拘 かかわ らず諸 しょ 身分 みぶん が欽定 きんてい の法規 ほうき 、とりわけポメラニアのラントヴェーア の編成 へんせい [12] に関 かん する1806年 ねん 4月 がつ 30日 にち の法律 ほうりつ に抗議 こうぎ して法廷 ほうてい に訴 うった え出 で たことにあった。国王 こくおう グスタフ4世 せい アドルフ は新 あたら しい勅 みことのり 令 れい の中 なか で、省庁 しょうちょう に分 わ かれた統治 とうち 制度 せいど の導入 どうにゅう を試 こころ みた。スウェーデンの教会 きょうかい 法 ほう も導入 どうにゅう された。国土 こくど はスウェーデン式 しき の行政 ぎょうせい モデルに従 したが い、(ソッケン (英語 えいご 版 ばん ) )という区分 くぶん を含 ふく む、四 よっ つの行政 ぎょうせい 区画 くかく (ヘレー (英語 えいご 版 ばん ) )に分割 ぶんかつ された。ポメラニアの身分 みぶん 制 せい 議会 ぎかい は、特 とく にポメラニアとリューゲン島 とう に関 かか わる問題 もんだい がある時 とき でなければ招集 しょうしゅう されなかった。ラントタークの新 しん 体制 たいせい はスウェーデンの身分 みぶん 制 せい 議会 ぎかい (英語 えいご 版 ばん ) を規範 きはん とし、それに基 もと づく会議 かいぎ も1806年 ねん 8月 がつ に開催 かいさい され、国王 こくおう に忠誠 ちゅうせい を宣言 せんげん し、支配 しはい 者 しゃ として歓呼 かんこ している。この革命 かくめい に続 つづ いて、数々 かずかず の社会 しゃかい 改革 かいかく が実行 じっこう ・計画 けいかく された。最 もっと も重要 じゅうよう なのは、1806年 ねん 7月 がつ 4日 にち の欽定 きんてい 法 ほう による農奴 のうど 制 せい の廃止 はいし である。
同 おな じく1806年 ねん 、グスタフ4世 せい アドルフはポメラニアで新 あたら しい大 だい 規模 きぼ な港湾 こうわん 都市 とし 、グスタヴィア (英語 えいご 版 ばん ) の建設 けんせつ を開始 かいし させた。しかし早 はや くも1807年 ねん には、フランス軍 ぐん が現場 げんば を占領 せんりょう している[13] 。
ナポレオン戦争 せんそう 中 ちゅう の喪失 そうしつ [ 編集 へんしゅう ]
スウェーデンが初 はじ めてナポレオン と戦 たたか い、敗 やぶ れることになった(英語 えいご 版 ばん ) 1805年 ねん の第 だい 三 さん 次 じ 対 たい 仏 ふつ 大 だい 同盟 どうめい への参加 さんか は、1807年 ねん から1810年 ねん にかけてフランス軍 ぐん によるスウェーデン領 りょう ポメラニアの占領 せんりょう に繋 つな がった。1810年 ねん にパリ条約 じょうやく が調印 ちょういん に至 いた ると、この領域 りょういき はスウェーデンに返還 へんかん される。1812年 ねん にフランス軍 ぐん が再 ふたた びポメラニアへ進軍 しんぐん すると、スウェーデン軍 ぐん はナポレオンに抗 こう して動員 どういん をかけ 、1813年 ねん のライプツィヒの戦 たたか い でロシア軍 ぐん 、プロイセン軍 ぐん とオーストリア軍 ぐん を支援 しえん した。またスウェーデンはデンマークにも侵攻 しんこう し、1814年 ねん のキール条約 じょうやく によってノルウェーと引 ひ き換 か えにポメラニアをデンマークに割譲 かつじょう する。
スウェーデン領 りょう ポメラニアの命運 めいうん はウィーン会議 かいぎ の間 あいだ に、1815年 ねん 6月4日 にち にプロイセンとデンマーク 、そして6月 がつ 7日 にち にプロイセンとスウェーデンが結 むす んだ条約 じょうやく によって決 けっ した。この方策 ほうさく によってプロイセンはわずか十 じゅう 四 よん 年 ねん 前 まえ にハノーファー 領 りょう であり、東 ひがし フリースラント(英語 えいご 版 ばん ) と交換 こうかん したばかりのザクセン=ラウエンブルク をデンマークに譲 ゆず り、引 ひ き換 か えにスウェーデン領 りょう ポメラニアを獲得 かくとく したのである。続 つづ いて東 ひがし フリースラントは、再 ふたた びハノーファーに割譲 かつじょう された[14] 。また、デンマークはプロイセンから二 に 百 ひゃく 六 ろく 十 じゅう 万 まん ターラー を受 う け取 と った。戦災 せんさい を被 こうむ ったスウェーデンには三 さん 百 ひゃく 五 ご 十 じゅう 万 まん ターラーが贈 おく られる。「スウェーデン領 りょう ポメラニア」は「ノイフォアポンメルン」(Neuvorpommern)としてプロイセンのポンメルン州 しゅう (英語 えいご 版 ばん ) に併合 へいごう された。
スウェーデン領 りょう ポメラニアの人口 じんこう は1764年 ねん 、臣民 しんみん 82,827名 めい (農村 のうそん 人口 じんこう 58,682名 めい 、都市 とし 人口 じんこう 24,145名 めい 。人口 じんこう の40%は農奴 のうど である)であった[15] 。1766年 ねん には89,000名 めい 、1802年 ねん には113,000名 めい であり、その約 やく 1/4はリューゲン島 とう に居住 きょじゅう していた。そして1805年 ねん には118,112名 めい (農村 のうそん 人口 じんこう 79,087名 めい 、都市 とし 人口 じんこう 39,025名 めい 。農村 のうそん 人口 じんこう のうち46,190名 めい は農奴 のうど である)に達 たっ している[15] 。
総督 そうとく の一覧 いちらん [ 編集 へんしゅう ]
参考 さんこう 文献 ぶんけん :[16]
デンマークの総督 そうとく (1715年 ねん -1721年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
フランスの総督 そうとく (1807年 ねん -1813年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
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