1977年5月、パルモリヴやヴィヴがザ・クラッシュのジョー・ストラマーやミック・ジョーンズと親しかったためもあり、スリッツはメンバーが固まってからわずか3回のリハーサルを経たばかりでザ・クラッシュの「White Riot Tour」に前座として起用される。同年9月と1978年4月にはBBC Radio 1の「ジョン・ピール・セッションズ」に出演(デビュー・アルバム以前のオリジナル・メンバー4人による貴重な音源が残されており、1988年にCD化されている)。1978年末にはパルモリヴがレインコーツへ参加するためにスリッツを脱退。新しいドラマーとしてバッジー(本名ピーター・クラーク)が加入。このころまでのスリッツは荒々しい典型的パンク・サウンドの演奏をしていたが、次第にレゲエの影響を受け、特にダブの手法を積極的に取り入れるようになった。
1979年9月、イギリスにおけるダブ・ミュージックの巨匠デニス・ボーヴェルをプロデューサーに迎えたデビュー・アルバム『カット』をリリース(同アルバムからは「Typical Girls / I Heard It Through the Grapevine」をシングルカット。B面はマーヴィン・ゲイのヒット曲「悲しいうわさ」のカヴァー)。パンクとダブを融合させた特異なスタイル(ただし、スリッツ以降のポスト・パンク、ニュー・ウェイヴにおいてはオーソドックスとなる)ばかりでなく、アリ、ヴィヴ、テッサの3人が褌一丁で泥まみれになっているジャケット写真は衝撃を与えた。スリッツのメンバーたちだけでなく、たいていの女性パンク・ロッカーは声高にフェミニズムを語ることはしていない(それは語るためのものではなく生き方であるから)。しかしこのジャケットが典型的であるが、スリッツのヴィジュアル・イメージや雑誌などにおける発言、ステージでのパフォーマンスなどのすべてが、それまでのマチズモ的なパンクとは一線を画す姿勢を表している。
『カット』リリース後にバッジーはスリッツを脱退してスージー・アンド・ザ・バンシーズに参加。以後、スリッツは正式なドラマーをメンバーに置かず、そのつどゲストとしての参加を要請するようになる。このとき呼びかけに答えたのは当時ブリストルのポストパンク・バンド、ポップ・グループに在籍していたブルース・スミスである。またこの頃、アイランド・レコードを離れてポップ・グループと同じラフ・トレード傘下のレーベル「Y」へ移籍し、同レーベルからシングル「In The Beginning There Was Rhythm」(ポップ・グループ「Where There's A Will」とのスプリット・シングル)、「Man Next Door」をリリース。後者をプロデュースしているのは「On-Uサウンド」レーベルの主宰者でダブ・エンジニアのエイドリアン・シャーウッドである。シャーウッドとの交流は、アリとヴィヴがスリッツと並行して参加したプロジェクト「ニュー・エイジ・ステッパーズ」で生まれたものであるが、ここでスティーヴ・ベレスフォードやネナ・チェリーといった先鋭的なシャーウッドの人脈と触れることによって、スリッツはレゲエやダブ、ジャズなどの要素を貪欲に取り入れてさらに実験的・前衛的なスタイルを深化させてゆく。そして1981年10月、CBSとメジャー契約を交わしたスリッツはセカンド・アルバム『大地の音』をリリースするが、これを最後にスリッツは解散してしまう。
解散後、アリはニュー・エイジ・ステッパーズへの参加などを経てジャマイカやベリーズを渡り歩きながらソロ・シンガーとしての活動を続け、ニューヨーク在住後の2005年にはスリッツ解散後初となるソロ・アルバム『Dread More Dan Dead』を発表した。ヴィヴはテレビや自主制作映画のプロデューサーに、パルモリヴはレインコーツでの活動を終えたのちインドへ旅に出て、そこで知り合った男性と結婚して主婦となった。テッサだけはスリッツ解散後の消息が長らく知られていなかったが、2003年にはアリのライブに飛び入りで顔を見せた。2006年、アリとテッサは新メンバーを加えてスリッツを再結成し、25年ぶりの新作となるEP『Revenge Of The Killer Slits』を発表した。2009年には28年ぶりとなるサード・アルバム『トラップド・アニマル』を発表する。このアルバムにはJapanese SlitsとしてLittle Anna(The Slitsのメンバーとしてアルバムにクレジットされている。)が参加し、彼女のオリジナル曲“Be It”が収録されている。アリは2010年10月20日に48歳で死去した。