(Translated by https://www.hiragana.jp/)
トゥース - Wikipedia コンテンツにスキップ

トゥース

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

座標ざひょう: 北緯ほくい3628ふん45.0びょう 東経とうけい5930ふん35.0びょう / 北緯ほくい36.479167 東経とうけい59.509722 / 36.479167; 59.509722

トゥースあと。19世紀せいき中葉ちゅうよう、イタリアじん旅行りょこうしゃルイージ・ペッシュ英語えいごばんにより撮影さつえいされた写真しゃしん
ゴンバデ・ハールーニーエペルシアばん。15世紀せいき建築けんちくで、イラン=イスラーム様式ようしき初期しょき様式ようしきしめす。
国威こくい発揚はつようのため1930年代ねんだい建造けんぞうされたフェルドウスィーびょう英語えいごばん

トゥースペルシア: طوس‎, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Ṭūs[注釈ちゅうしゃく 1]は、ホラーサーン地方ちほう古代こだいから14世紀せいきごろまで存在そんざいしたまち場所ばしょ現代げんだいイランラザヴィー・ホラーサーンしゅうマシュハドちかく。詩人しじんフェルドウスィーなどを輩出はいしゅつした。

歴史れきし

[編集へんしゅう]

トゥースのあるホラーサーン地方ちほう中央ちゅうおうアジアの乾燥かんそうステップ世界せかい西にしアジアの定住ていじゅう世界せかいむす位置いちにあり、紀元前きげんぜん4世紀せいきにはアレクサンドロス大王だいおう東征とうせいさいとおみちにし、紀元きげんにはトルコけい遊牧民ゆうぼくみん西方せいほうへの移住いじゅう途中とちゅう通過つうかした[1]。トゥースは古代こだいよりそのホラーサーン地方ちほう中心ちゅうしん都市としである[1]。ギリシアじんはこのまちΣούσιαSousia)とんだ[2]

619ねん西にし突厥すべまもるあせサーサーンあさのDatoyan王子おうじまもるトゥースにんだだいペルソ・テュルク戦争せんそう英語えいごばん戦場せんじょうとなった。西にし突厥の帰路きろおそったバグラトゥニーあさ英語えいごばんPersian Armenia王子おうじSmbat IV Bagratuniによってサーサーンあさ勝利しょうりしたが、ビザンチン・サーサーン戦争せんそう (602ねん - 628ねん)英語えいごばんなかのサーサーンあさ背後はいごいてひがしマ帝国まていこく支援しえんする役目やくめたした。[よう出典しゅってん]

5世紀せいきまつ(497ねん)にはキリスト教徒きりすときょうと居住きょじゅうがトゥースに存在そんざいしたようである[3]。651ねんにはアラブ=ムスリムのだい征服せいふくにより、ホラーサーンぐん占領せんりょうした[3]。ホラーサーンぐん当地とうちへの移住いじゅう50ねんほどつと経済けいざいてき文化ぶんかてきにシリアやイラクから独立どくりつし、そのアッバースあさ革命かくめい軍事ぐんじりょく提供ていきょうすることになった[4]。9世紀せいき初頭しょとう(809ねん)にアッバースあさカリフ、ハールーン・ラシードがホラーサーンで発生はっせいした反乱はんらん鎮圧ちんあつする遠征えんせい途上とじょう、トゥースちかくのちいさなむらスィナーバードでやまいくなった[5]くなった場所ばしょ墓所はかしょつくられ、「ハールーニーエ」とばれた[5]。さらにそのの818ねんに、シーアイマームのアリー・レザーがトゥースへのたび途上とじょうくなった[5]。アリー・レザーはハールーニーエ付属ふぞく果樹かじゅえんほうむられた[5]

その、820ねんにはターヒルあさが、896ねんにはサーマーンあさがトゥースを支配しはいした[3]。994ねんにはガズナあさマフムードが、1037ねんにはセルジュークあさトゥグリル・ベグ取得しゅとくした[3]。1072ねんにはニザームル・ムルクまち統治とうちがゆだねられた[3]。10世紀せいきごろまでには、トゥースでトルコせきどうアンチモンされることがられていた[3]

1121ねんまち要塞ようさいするが1153ねんにはオグズぞくによる襲撃しゅうげきをうけモスクが破壊はかいされた[3]。1200ねんあるいは1201ねんゴールあさギヤースッディーン・ムハンマド攻囲こういけ、降伏ごうぶくした[3]。1220ねんにはチンギス・ハーンせい西にしさい占領せんりょうされた[3]。その14世紀せいきまでフレグ・ウルス支配しはいにあった[3]。1360ねんごろにサルバダール政権せいけん支配しはいする[3]。このころ、だい旅行りょこうしゃイブン・バットゥータまち訪問ほうもんしている[3]。13世紀せいきから14世紀せいきごろにかれた地誌ちしによると、トゥースは当時とうじ大小だいしょうふたつのまちからなり、おおきいほうまち名前なまえTābarān といったという[3]

1385ねんティムールあさミーラーン・シャーにより征服せいふくされた[5]。これがおおきながねとなって、トゥースはしだいに荒廃こうはいしていった[5]。15世紀せいき中葉ちゅうようには文献ぶんけんからまち名前なまえ言及げんきゅうされなくなった[5]。トゥースの没落ぼつらくわりに、アリー・レザーのはかびょうのあるスィナーバードむらがシーア信徒しんとあつめて成長せいちょうしていった[5]。こうして成長せいちょうしたトゥース近郊きんこう霊廟れいびょう都市としが、現代げんだいマシュハドである[5]

トゥース出身しゅっしん有名人ゆうめいじん

[編集へんしゅう]

もっとも有名ゆうめい住人じゅうにん詩人しじんフェルドウスィーで、叙事詩じょじしシャー・ナーメ』の作者さくしゃとしてられる。かれびょう生誕せいたん1000ねんとなる1934ねんに、このまちにつくられた。

にはジャービル・イブン=ハイヤーンアサディー・トゥースィーニザームルムルクガザーリーナスィールッディーン・トゥースィーシーア学者がくしゃアブー・ジャーファル・トゥーシーなどが著名ちょめい住人じゅうにんである。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ توس‎ ともつづられる。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b Pourshariati, Parvaneh "Khorasan ." Encyclopedia of the Modern Middle East and North Africa. . Encyclopedia.com. 21 Sep. 2023
  2. ^ McCrindle, John Watson (1816), The Invasion of India by Alexander the Great, Today & Tomorrow's Printers & Publishers 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m Minorsky, V. (2000). "Tūs". In Bearman, P. J. [in 英語えいご]; Bianquis, Th.; Bosworth, C. E. [in 英語えいご]; van Donzel, E. [in 英語えいご]; Heinrichs, W. P. [in 英語えいご] (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume X: T–U. Leiden: E. J. Brill. pp. 741–744. ISBN 90-04-11211-1
  4. ^ 高野たかの ふとし輔, ウマイヤちょうイラク地方ちほうにおける軍事ぐんじ体制たいせい形成けいせい変容へんよう : シリヤぐん東方とうほう進出しんしゅつ問題もんだいをめぐって, 『史学しがく雑誌ざっし』, 1996, 105 かん, 3 ごう, p. 307-331, 公開こうかい 2017/11/30, Online ISSN 2424-2616, Print ISSN 0018-2478, https://doi.org/10.24471/shigaku.105.3_307, https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/105/3/105_KJ00003647960/_article/-char/ja
  5. ^ a b c d e f g h i "Mashhad ." Encyclopedia of Islam and the Muslim World. . Encyclopedia.com. 19 Sep. 2023 <https://www.encyclopedia.com>.