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ドミネ・クォ・ヴァディス教会きょうかい

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サンタ・マリーア・イン・パルミス教会きょうかいイタリア:「パルミスのせいマリア教会きょうかい」の」 (Chiesa di Santa Maria in Palmis) は、ローマ南東なんとうにあるちいさな教会きょうかいである。しかし、この公式こうしきによるよりも、もっぱら「ドミネ・クォ・ヴァディス(ラテン語らてんご:「おもよ、どこへかれるのですか」の教会きょうかい」 (Chiesa del Domine Quo Vadis ?) としてよくられている。 1983ねん ヨハネ・パウロ2せい教皇きょうこうはこの教会きょうかいを「ローマの歴史れきしと、キリスト教会きょうかい歴史れきしにとって特別とくべつ重要じゅうようせい場所ばしょ」とさだめた。おおくの名高なだか教会きょうかいがその声価せいか建築けんちくぶつとしての壮麗そうれい壮大そうだいさによるのにたいして、建築けんちくぶつとしては平凡へいぼんなこの教会きょうかいはその由来ゆらい来歴らいれき故事こじによってひろられている。

歴史れきし

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アンニーバレ・カラッチによる絵画かいが左記さき伝承でんしょう場面ばめんえがいたものである。

きよしペトロが、ローマでの迫害はくがいからのがれようとしたときに、イエスったとされているのはこの教会きょうかい場所ばしょである。カトリック教会きょうかいふる伝承でんしょうによれば、ペトロはイエスに「ドミネ、クォ・ウァディス?」("Domine, quo vadis?":ぬしよ、どこへかれるのですか?)とたずね、それにたいしイエスは「エオ・ロマム・イテルム・クルキフィギ」("Eo Romam iterum crucifigi":ローマへふたた十字架じゅうじかかりにゆく)とこたえたとされる。

この場所ばしょ9世紀せいきにはすでに聖域せいいきとされていたが、現在げんざい教会きょうかい1637ねん建立こんりゅうされたものであり、ファサード17世紀せいきくわえられたものである。

ファサード正面しょうめんのドアのうえには、かつて「あゆみをめたまえ、旅人たびびとよ。ごくからのがれるせいペテロが(まみ)えた、われらがしゅイエス・キリストの足跡あしあとをこのせいなる寺院じいんはいってらん(ろう)じたまえ。煉獄れんごくからたましい解放かいほうするために、ろうあぶらのためのほどこしをすすめる。」ときざまれていた。教皇きょうこうグレゴリウス16せいは、これを不適切ふてきせつ実際じっさいじょう宣伝せんでんるいである)とみとめ、1845ねんにこれの撤去てっきょめいじた。

ポーランド作家さっかヘンリク・シェンキェヴィチによる小説しょうせつクォ・ヴァディス」にもこの教会きょうかいについての言及げんきゅうえる。

キリスト教きりすときょう以前いぜん伝承でんしょう・レディクルム信仰しんこうとの関連かんれん

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この聖地せいちはもっとふるいものであり、なんらかのすでにあった寺院じいんの「キリストきょうばん」だともされている。この教会きょうかい実際じっさい、「再来さいらいかみレディクルムにささげられたせいなる」(レディクルムのは、ラテン語らてんご動詞どうし「redeo(もどる)」に由来ゆらいしている)のまさに正面しょうめん位置いちしている。このには、このかみ儀式ぎしきのための聖域せいいきがあり、出発しゅっぱつまえ旅行りょこうしゃとくエジプトギリシャ東方とうほうなど、なが危険きけんたびかうものから布施ふせっていた。また旅行りょこうしゃたちがもどったときには、このかみたび幸運こううん結末けつまつ感謝かんしゃすることになっていた。 レディクルムのにある聖域せいいき地位ちいるぎないものであった。なによりもまず古代こだいのアッピア街道かいどうはローマがい道中どうちゅうでも、もっと重要じゅうようであったし、だいにはこの場所ばしょのゆえに、旅行りょこうしゃにとってはローマ城壁じょうへき最後さいごながめる場所ばしょになったことであろう。この聖地せいちには、ティベリウス治世ちせい大々的だいだいてき葬儀そうぎ埋葬まいそうされた、人語じんごする有名ゆうめいカラスはかもあった。さらにレディクルムしんにはおそろしい評判ひょうばんがあった。伝説でんせつによれば、ハンニバルだい2ポエニ戦役せんえきカンナエのたたかでローマぐんやぶったあと、この街道かいどう辿たどってローマを指呼しこあいだのぞんだとき、レディクルムしんあらわれ、ぐんくことをハンニバルにおそろしい方法ほうほううながしたとされる。これらの伝説でんせつから、ローマじんたちがレディクルムしんふか信仰しんこうしていたことがわかる。この聖域せいいき何処どこにあったかは、現在げんざいでも正確せいかくにはわかっていない。しかしながら、17世紀せいき著述ちょじゅつひろめたあやまりにより、レディクルムの寺院じいんはカッファレッラ公園こうえん内側うちがわほうにある墓地ぼち、それはまたアンニア・レジッラのものとされるが、そこにあったと非常ひじょうひろかんがえられている。

キリスト教きりすときょう以後いご伝承でんしょう

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ドミネ・クォ・ヴァディス教会きょうかいにある「キリストの足跡あしあと

この地域ちいきでは使徒しとペトロが生活せいかつしたとされているが、ペトロの存在そんざいは、ペトロのいえ(Domus Petri)を述懐じゅっかいするきよしセバスティアヌス墓所はかしょ碑文ひぶんと、教皇きょうこうダマスス1せい(366-384)によるペトロとパウロのための警句けいく見出みいだされる。この警句けいくにはこのようにしるされている。「なんじがペトロとパウロとのもとめるならば、なんじ、かの聖者せいじゃらがここにきたることをるべし」

教会きょうかい中央ちゅうおう大理石だいりせきいたうえふたつの足跡あしあとがあり、これはイエスによる奇跡きせきせい遺物いぶつとされる(レリーフ複製ふくせいは、ちかくにあるサン・セバスティアーノ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂せいどう保存ほぞんされている)。実際じっさいじょうこれは、たびのよき結末けつまつのためにけられる「ねがい」であり、このふたつの寺院じいんあいだなんらかの関係かんけいがあったとする想像そうぞう確認かくにんするものでもある。

この教会きょうかい正式せいしき名前なまえ上述じょうじゅつのように「パルミスのせいマリア教会きょうかい(Chiesa di Santa Maria in Palmis)」であり、「パルミス」はイエスのあしうらす。

カトリック教会きょうかいがこの伝説でんせつ承認しょうにんしたのは、インノケンティウス3せいがこの故事こじ真正しんせいであると宣言せんげんしてからのちのことであることは、記録きろくする必要ひつようがある。インノケンティウス3せいのこのかいみことのり以下いか文書ぶんしょ収録しゅうろくされている。 the Decretali di Gregorio IX, book IV, tit. 17, cap. Per Venerabilem. (グレゴリウス 9せいかいみことのりだい 4かん、17へん「Per Veneravilem」

所在しょざい

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ドミネ・クォ・ヴァディス教会きょうかい外観がいかん

この教会きょうかい前述ぜんじゅつのとおり、ローマ近郊きんこうアッピア街道かいどう州立しゅうりつ公園こうえんうち所在しょざいする。アッピア街道かいどうからかれたアルデアティーナどお沿いのせいセバスティアーノもんから800m の位置いちにある。正確せいかく住所じゅうしょ以下いかとおりである。

Via Appia Antica, 51

関連かんれん項目こうもく

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