ペティは、妻のヴィー (Vi) とともに、ギタリストのジャック・ヴォーン (Jack Vaughn) を加えてノーマン・ペティ・トリオ (the Norman Petty Trio) を結成した。このトリオはレコード契約を取り付け、『キャッシュボックス』誌における投票で1954年に最も期待されるグループ (Most Promising Group of 1954) に選ばれた。大ヒットとなった1956年の「Mood Indigo」は、50万枚売れ、おかげでペティは自分の録音スタジオを大幅に拡充することができた。1957年には、「Almost Paradise」がチャートの18位まで浮上するヒットとなり、ペティは初めてBroadcast Music, Inc. (BMI)から作家としての賞を与えられた。
1963年、ペティはFMラジオ局KTQMを、録音スタジオの隣に開局し[2]、さらに1971年には、AMラジオ局KWKAを開局した[3]。ペティはこのふたつのラジオ局を1979年まで経営し、その後、それぞれの現在の所有者に売却した。[要出典]ペティは、没後の1984年に、今年を代表するクローヴィス市民 (Clovis Citizen Of The Year) に選出された。
ノーマン・ペティは、1984年8月に、テキサス州ラボックにおいて、白血病で死去した。残された妻ヴィーも、1992年3月に死去した。オリジナルの7丁目スタジオ (7th Street Studio) は、残されており、予約をすれば観光客が見学をすることもできる。ヴィー・ペティは、1987年からクローヴィスで開催された「ノーマン&ヴィー・ペティ音楽祭 (Norman & Vi Petty Music Festival)」の開催を支援した。このイベントには、ペティのスタジオで録音した多くのアーティストたちや、人気のあるヒットメーカーたちが出演した。このイベントは2002年に一度途切れてしまったが、その後「クローヴィス音楽祭 (The Clovis Music Festival)」として、毎年9月に開催されるようになった。
2011年4月、クローヴィス公立学校財団/同窓会連合 (the Clovis Municipal Schools Foundation and Alumni Association) は、ノーマンとヴィーの夫妻に、「卒業生功労賞 (Outstanding Graduate Accomplishment award)」を授与するとした。ノーマンは1945年、ヴィーは1946年卒業のクラスであった。この賞は、クローヴィス高校 (Clovis High School) の卒業生を対象に、それぞれの職業領域で達成した業績に対して与えられるものである。受章者は、現在の在校生に刺激を与え、ものごとに挑戦させるモデルとしてふさわしい個性と市民意識の強さに基づいて選出される。受賞のプラークは、ヴィーの親族であるニック・ブレイディ (Nick Brady) が受け取り、その後、ペティ・エステートのケネス・ブロード (Kenneth Broad) に渡されて、スタジオ・ツアーの際に見える場所に掲げられた。