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ハインリッヒ・ディートリッヒ・フォン・ビューロー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

ハインリッヒ・ディートリッヒ・フォン・ビューロー(Bülow, Dietrich Adam Heinrich von, 1757ねん - 1807ねん)は、プロイセン陸軍りくぐん将校しょうこうであり、軍事ぐんじ学者がくしゃである。

研究けんきゅう業績ぎょうせきにおいては戦略せんりゃく戦術せんじゅつといった概念がいねん定義ていぎし、作戦さくせん基地きち後方こうほう連絡れんらくせん構成こうせいするじょうでの幾何きかがくてき原則げんそく提唱ていしょうし、また戦争せんそう遂行すいこうにおいて政府せいふ財政ざいせい社会しゃかい徴兵ちょうへい組織そしきといった国家こっか兵站へいたん重要じゅうようせい指摘してきしたことなどでられる。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

1757ねんニーダーザクセンしゅうファルケンベルク(Falkenberg)近郊きんこうにあるアルトマルク(Altmark)にて、貴族きぞく家系かけいであるフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ビューローおとうととしてまれる。

15さい陸軍りくぐん入隊にゅうたいした。当初とうしょ兵科へいか歩兵ほへいであったが、のち騎兵きへいうつり、中尉ちゅういで1790ねんぐん退しりぞいた。その企業きぎょう経営けいえい記者きしゃといった仕事しごとをし、フランスオランダイギリス転々てんてんとし、軍事ぐんじがく著作ちょさく発表はっぴょうするようになる。

1799ねんはじめて出版しゅっぱんした著作ちょさくしん戦争せんそう体系たいけい精神せいしん』(Geist des neuern Kreigsystems)が成功せいこうしたことから、一時いちじはプロイセンで公務こうむくことをのぞんだが結局けっきょくパリロンドン著述ちょじゅつ活動かつどう専念せんねんすることになる。

しかし、プロイセンぐん改革かいかく接触せっしょくち、1806ねんにはベルンホルストなどの軍制ぐんせい改革かいかく推奨すいしょうする人々ひとびととともに軍事ぐんじ戦争せんそう年報ねんぽう発行はっこうたす。また同年どうねん出版しゅっぱんした『1805ねん戦役せんえき』のなかでプロイセンの軍制ぐんせい改革かいかくつよ主張しゅちょうし、フランスのヨーロッパ征服せいふく予言よげんしたことなどから、1807ねん当局とうきょくによって逮捕たいほされてベルリン狂人きょうじんとして拘束こうそくされた。フランスぐんによってベルリンが占領せんりょうされてからは身柄みがらコルベルクリガうつされ、ロシアぐんによって拘束こうそくされ、獄中ごくちゅう死去しきょした。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 小堤こづつみたて「ビューロー」前原まえはらとおる監修かんしゅう戦略せんりゃく思想家しそうか事典じてん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、2003ねん、p.141-146
  • パーマーちょ山田やまだつもるあきらやく王朝おうちょう戦争せんそうから国民こくみん戦争せんそうへ」アール編著へんちょ山田やまだつもるあきら石塚いしづかさかえ伊藤いとうひろし邦訳ほうやくしん戦略せんりゃく創始そうししゃ マキアヴェリからヒトラーまで うえはら書房しょぼう、2011ねん、p.70-107
  • Dupuy, Trevor N., Jonson, Curt, and Bongard, David L.. 1995. The Harper Encyclopedia of Military Biography. New York: Harper Collins Publishers, Inc.