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商店 しょうてん の棚 たな に並 なら べられているバス・ペールエールの瓶 びん
バス・ブリュワリー (英語 えいご : The Bass Brewery )は、イギリス のビール 醸造 じょうぞう 会社 かいしゃ である。バス・ペールエール (英語 えいご : Bass Pale ale )の銘柄 めいがら で有名 ゆうめい 。
2000年 ねん に約 やく 3900億 おく 円 えん でインターブリュー(現 げん アンハイザー・ブッシュ・インベブ )に買収 ばいしゅう された[1] 。
バス・ミュージアムの看板 かんばん
1777年 ねん にウィリアム・バス (英語 えいご 版 ばん ) によってイギリス中部 ちゅうぶ のスタッフォードシャー バートン・アポン・トレント (英語 えいご 版 ばん ) に創業 そうぎょう される[2] [3] 。
その後 ご 、バス・ブリュワリーは発展 はってん を遂 と げ、19世紀 せいき 後半 こうはん には、自社 じしゃ 醸造 じょうぞう 工場 こうじょう 内 ない に専用 せんよう の鉄道 てつどう を施設 しせつ するまでになり、1877年 ねん 時点 じてん での年間 ねんかん 生産 せいさん 量 りょう は数 すう 百 ひゃく 万 まん バレル にも増 ふ え、イギリス最大 さいだい のビール会社 かいしゃ となった[4] 。
バス・ブリュワリーによって醸造 じょうぞう された瓶 びん ビール(エール )「バス・ペールエール」は世界中 せかいじゅう に輸出 ゆしゅつ され、ナポレオン・ボナパルト 、エドガー・アラン・ポー が愛飲 あいいん していたという記録 きろく や、タイタニック号 ごう の処女 しょじょ 航海 こうかい の際 さい には500ケースのバス・ペールエールが積 つ み込 こ まれていた記録 きろく も残 のこ っている[2] 。日本 にっぽん においても明治 めいじ 時代 じだい にバス・ペールエールが輸入 ゆにゅう され、人気 にんき となっていた記録 きろく が残 のこ っている[2] [5] (ただし、日本 にっぽん においては次第 しだい にイギリスのエールから、ドイツのビール に人気 にんき が移 うつ って行 い く[5] )。
1977年 ねん 、創業 そうぎょう 200年 ねん を記念 きねん してバートン・アポン・トレントの工場 こうじょう 隣接 りんせつ 地 ち に「バス・ミュージアム」を開設 かいせつ [4] 。レストラン併設 へいせつ のビール博物館 はくぶつかん として賑 にぎ わっている[4] 。
『フォリー・ベルジェールのバー 』 テーブル上 じょう にバス・ペールエールの瓶 びん が2本 ほん ある。
バス・ペールエールの瓶 びん に描 えが かれている特徴 とくちょう 的 てき な赤 あか 三角形 さんかっけい (レッドトライアングル)のラベルは1876年 ねん 1月 がつ 1日 にち に登録 とうろく されたイギリスの登録 とうろく 商標 しょうひょう 第 だい 1号 ごう でもあり、赤 あか 三角形 さんかっけい の下 した に「ENGLANDS FIRST‐REGD.TRADMARK」と書 か かれている[2] [3] 。第 だい 1号 ごう の登録 とうろく となるために、バス・ブリュワリーの従業 じゅうぎょう 員 いん が前夜 ぜんや である1875年 ねん 12月31日 にち から登録 とうろく 事務所 じむしょ の外 そと で待 ま っていたというエピソードが残 のこ されている[2] [3] [4] 。この赤 あか 三角形 さんかっけい のラベルのついた瓶 びん は多 おお くの芸術 げいじゅつ 家 か によって描 えが かれている[2] 。例 れい としてキュビスム 時代 じだい のパブロ・ピカソ の『Glass and bottle of Bass』や、エドゥアール・マネ の『フォリー・ベルジェールのバー 』がある[2] 。また、日本 にっぽん のビールの商標 しょうひょう デザインにも大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えたと言 い われている[4] 。
出典 しゅってん ・脚注 きゃくちゅう [ 編集 へんしゅう ]
マイケル・トーマス・バス Jr. - 創業 そうぎょう 者 しゃ ウィリアムの孫 まご 。ブリュワリーの経営 けいえい を引 ひ き継 つ いで、イギリス最大 さいだい のビール醸造 じょうぞう 会社 かいしゃ に成長 せいちょう させた。