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ピョートル・カホフスキー

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ピョートル・カホフスキー

ピョートル・グリゴリエヴィッチ・カホフスキーロシア: Пётр Григо́рьевич Кахо́вский, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Petr Grigorievich Kakhovskii, 1797ねん - 1826ねん7がつ25にちユリウスれき7がつ13にち))は、帝政ていせいロシア軍人ぐんじん革命かくめい。いわゆるデカブリスト(十二月じゅうにがつとう)の指導しどうしゃで、ミハイル・ミロラドヴィチ伯爵はくしゃくとシュトゥルレル大佐たいさ殺害さつがいし、デカブリストのらん首謀しゅぼうしゃ一人ひとりとして処刑しょけいされた。

生涯しょうがい

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1797ねんロシア帝国ていこくスモレンスクけんグベルニヤ)に没落ぼつらく貴族きぞく息子むすことしてまれる。ちちから250にん農奴のうど相続そうぞくするが、土地とちきの売買ばいばい逃亡とうぼうによってカホフスキー没後ぼつごは17にんっていた。

ながじてモスクワ大学だいがく寄宿きしゅく学校がっこう: Московский Университетский Пансион)にまなび、1816ねん3がつぐんはい少尉しょうい任官にんかんし、近衛このえ連隊れんたい配属はいぞくされる。同年どうねん12月行状ぎょうじょうわれ、アレクサンドル1せいおとうとコンスタンチン大公たいこう指揮しきいち兵卒へいそつ降格こうかくされる。

カフカスだい7狙撃そげき連隊れんたい配属はいぞくされ、1817ねん少尉しょういとなる。1819ねん中尉ちゅうい昇進しょうしんするが、1821ねん病気びょうきのためぐん退役たいえきした。1823ねん病気びょうき療養りょうようのためドレスデンパリスイスイタリアオーストリア旅行りょこうし、よく1824ねんサンクトペテルブルクもどった。旅行りょこうちゅうに、ローマ熱狂ねっきょうし、とくマルクス・ユニウス・ブルートゥスによるガイウス・ユリウス・カエサル暗殺あんさつについて、あえて、自分じぶん自身じしんにブルートゥスと運命うんめい共通きょうつう見出みいだそうとした。

帰国きこく、カホフスキーは青年せいねん将校しょうこうらの秘密ひみつ結社けっしゃはいり、ペテルブルクの「北方ほっぽう結社けっしゃ」では、急進きゅうしんコンドラチイ・フョードロヴィッチ・ルイレーエフ補佐ほさした。カホフスキー自身じしん、デカブリストの分派ぶんぱである「擲弾へい連隊れんたい」を組織そしきし、皇帝こうていおよびロマノフ全員ぜんいん暗殺あんさつ主張しゅちょうするほど過激かげきしていった。

1825ねんアレクサンドル1せい崩御ほうぎょし、デカブリストが武装ぶそう蜂起ほうきしたさい、カホフスキーは決起けっきすることに躊躇ちゅうちょしていたが、12月14にち元老げんろういん広場ひろばおもむ同志どうしとともに行動こうどうする。12月15にちナポレオン戦争せんそう英雄えいゆう一人ひとりで、将兵しょうへい人気にんきのあった陸軍りくぐん大将たいしょうミハイル・ミロラドヴィチ伯爵はくしゃくがデカブリストを説得せっとくたが、カホフスキーはミロラドヴィチはく狙撃そげき殺害さつがいおよんだ(皮肉ひにくなことにミロラドヴィチはくは、みずからが保有ほゆうしていた農奴のうど全員ぜんいん解放かいほうしている。カホフスキーは、生活せいかつ維持いじするために自家じか農奴のうどりしていた)。カホフスキーはさらに自分じぶん指揮しきにあって反乱はんらん参加さんかした擲弾へい原隊げんたい復帰ふっき説得せっとくしようとしたシュトゥルレル大佐たいさ殺害さつがいした。

12月15にち逮捕たいほされ、身柄みがらをサンクトペテルブルクの特別とくべつ法廷ほうていうつされる。パーヴェル・ペステリ、ルイレーエフ、セルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストルミハイル・ベストゥージェフ=リューミンの4にんとともに首謀しゅぼうしゃとされ、よっけい宣告せんこくされたが、のち絞首刑こうしゅけい変更へんこうされた。1826ねん7がつ25にちペトロパヴロフスク要塞ようさいけい執行しっこうされた。処刑しょけい、ペテルブルク、コロデイとう秘密裏ひみつりほうむられた。

外部がいぶリンク

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