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ヘンリー・シーモア・コンウェイ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
Field Marshal The Honourable
ヘンリー・シーモア・コンウェイ
北部ほくぶ担当たんとう国務大臣こくむだいじん
任期にんき
1766ねん5がつ23にち – 1768ねん1がつ20日はつか
君主くんしゅジョージ3せい
首相しゅしょうチャタム伯爵はくしゃく
前任ぜんにんしゃグラフトン公爵こうしゃく
後任こうにんしゃウェイマス子爵ししゃく
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
任期にんき
1765ねん7がつ14にち – 1768ねん10がつ20日はつか
君主くんしゅジョージ3せい
首相しゅしょうロッキンガム侯爵こうしゃく
チャタム伯爵はくしゃく
前任ぜんにんしゃジョージ・グレンヴィル
後任こうにんしゃノースきょう
南部なんぶ担当たんとう国務大臣こくむだいじん
任期にんき
1765ねん7がつ12にち – 1766ねん5がつ23にち
君主くんしゅジョージ3せい
首相しゅしょうロッキンガム侯爵こうしゃく
前任ぜんにんしゃハリファックス伯爵はくしゃく
後任こうにんしゃリッチモンド公爵こうしゃく
アイルランド担当たんとう大臣だいじん英語えいごばん
任期にんき
1755ねん – 1757ねん
君主くんしゅジョージ2せい
ふく知事ちじデヴォンシャー公爵こうしゃく
前任ぜんにんしゃジョージ・ジャーメイン
後任こうにんしゃリチャード・リグビー英語えいごばん
個人こじん情報じょうほう
生誕せいたん1721ねん
グレートブリテン王国 グレートブリテン王国おうこくミドルセックスチェルシー
死没しぼつ1795ねん7がつ9にち
グレートブリテン王国 グレートブリテン王国おうこくバークシャーヘンリー=オン=テムズ英語えいごばん
政党せいとうロッキンガム英語えいごばん
配偶はいぐうしゃキャロライン・キャンベル
子供こどもアン・シーモア・コンウェイ英語えいごばん
兵役へいえき経験けいけん
所属しょぞくこくグレートブリテン王国 グレートブリテン王国おうこく
所属しょぞく組織そしき イギリス陸軍りくぐん
ぐんれき1737ねん - 1793ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん元帥げんすい
戦闘せんとう

ヘンリー・シーモア・コンウェイ元帥げんすい英語えいご: Henry Seymour Conway1721ねん - 1795ねん7がつ9にち)は、グレートブリテン王国おうこく軍人ぐんじん政治せいじ初代しょだいハートフォード侯爵こうしゃくおとうとホレス・ウォルポールのいとこであり、オーストリア継承けいしょう戦争せんそうぐんれきをはじめたのちアイルランド主席しゅせき政務せいむかん英語えいごばん南部なんぶ担当たんとう国務大臣こくむだいじん庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ北部ほくぶ担当たんとう国務大臣こくむだいじん歴任れきにんした。晩年ばんねんイギリスぐん最高さいこう司令しれいかん英語えいごばんつとめた。

出自しゅつじ

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コンウェイは初代しょだいコンウェイ男爵だんしゃくフランシス・シーモア=コンウェイ(コンウェイ男爵だんしゃくあにポパム・シーモア=コンウェイ英語えいごばんコンウェイ伯爵はくしゃく英語えいごばんいえ遺産いさん継承けいしょうした)と3にんつまシャーロット(旧姓きゅうせいショーター)の次男じなんとしてまれた[1]。1732ねんイートン・カレッジ入学にゅうがく、そのときからいとこのホレス・ウォルポールしたしい間柄あいだがらになった[1]

初期しょきぐんれき

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1737ねん6がつ27にち中尉ちゅういとしてモールズワースの竜騎兵りゅうきへい連隊れんたい英語えいごばん入隊にゅうたいした[2]。1741ねん2がつ14にちだい1近衛このえ歩兵ほへい連隊れんたい移籍いせきして大尉たいい英語えいごばん昇進しょうしん、1742ねん5がつ10日とおか中佐ちゅうさcaptain-lieutenant)に昇進しょうしんした[2]

オーストリア継承けいしょう戦争せんそうではジョージ・ウェイド元帥げんすいしたで1743ねん6がつデッティンゲンのたたか参戦さんせん、1745ねん5がつにはカンバーランド公爵こうしゃくウィリアム・オーガスタスしたフォントノワのたたか参戦さんせんした[3]。1746ねん4がつ6にちだい48歩兵ほへい連隊れんたい英語えいごばんちょう任命にんめいされたのち、16にち1745ねんジャコバイト蜂起ほうきにおけるカロデンのたたか参戦さんせんした[3]つづいて1747ねん7がつラウフフェルトのたたか参戦さんせん瀕死ひんし重傷じゅうしょうってフランスぐん捕虜ほりょになったが、数日すうじつ仮釈放かりしゃくほうされた[3]。1749ねん7がつだい34歩兵ほへい連隊れんたい英語えいごばん移籍いせき、1751ねんには連隊れんたいミノルカとう駐留ちゅうりゅうぐん一部いちぶになった[3]

初期しょきせいれき

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1741ねん、コンウェイは対立たいりつ候補こうほのないままアントリム・カウンティ選挙せんきょ英語えいごばん当選とうせんしてアイルランド議会ぎかい議員ぎいんになり、同年どうねん12がつにはサー・ロバート・ウォルポールすすめでハイアム・フェラーズ選挙せんきょ英語えいごばんから出馬しゅつばして当選とうせんグレートブリテン議会ぎかい英語えいごばん議員ぎいんになった[1]。その1747ねんイギリスそう選挙せんきょではペンリン選挙せんきょ英語えいごばんで、1754ねんイギリスそう選挙せんきょではセント・モーズ選挙せんきょ英語えいごばん当選とうせんしたが、いずれもボスコーエン支持しじけての当選とうせんだった[1]。1755ねん3がつ12にち少将しょうしょう昇進しょうしんした[3]

1755ねん4がつあたらしく着任ちゃくにんしたアイルランド総督そうとくハーティントン侯爵こうしゃくウィリアム・キャヴェンディッシュによって予想よそうがいアイルランド担当たんとう大臣だいじん英語えいごばん任命にんめいされた[3]。そのため、1755ねん10がつにようやくアントリム・カウンティ選挙せんきょ代表だいひょうとしてアイルランド庶民しょみんいん登院とういんした[3]当時とうじのアイルランド政界せいかいでは庶民しょみんいん議長ぎちょうヘンリー・ボイルアーマー大司教だいしきょう英語えいごばんジョージ・ストーン英語えいごばんジョン・ポンソンビー政争せいそうひろげており、コンウェイの調停ちょうてい期待きたいされた。結局けっきょくだいいちニューカッスル公爵こうしゃくないかくれられる妥協だきょうがなされ、ボイルが伯爵はくしゃくじょされ、ポンソンビーが庶民しょみんいん議長ぎちょうになった[1]。1757ねん4がつ、ジョージ2せいジョージ3せい寝室しんしつ宮内くないかん英語えいごばん任命にんめいされ、1764ねんまでつとめた[1]

ななねん戦争せんそう

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ななねん戦争せんそうなかの1762ねんにコンウェイによって占領せんりょうされたヴァルデックじょう英語えいごばん写真しゃしんは2012ねん撮影さつえい

1757ねんロシュフォール襲撃しゅうげきにおいて、コンウェイはイギリスぐんふく指揮しきかんつとめ、フーラとりでFouras)への攻撃こうげきをしきりに支持しじしたが、それ以外いがい指揮しきかん夜襲やしゅうにのみ同意どうい結果けっかてきには夜襲やしゅう失敗しっぱい[1]遠征えんせいたいなにたさないままポーツマスもどった[3]そう指揮しきかんジョン・モードント英語えいごばん軍法ぐんぽう会議かいぎ無罪むざいになったものの、2人ふたりともこの失態しったい名声めいせい影響えいきょうけた[3]。そして、国王こくおうジョージ2せいは1758ねん戦役せんえきでコンウェイの派遣はけん拒否きょひした[3]以降いこう次期じき国王こくおう即位そくい(1760ねん)まで戦場せんじょうられず、1759ねんにはスロイス捕虜ほりょ交換こうかん条約じょうやく締結ていけつしただけだった[1]。1759ねん4がつ21にちだい1王立おうりつ竜騎兵りゅうきへい連隊れんたい英語えいごばんちょうになり[4]同年どうねん8がつ25にちには中将ちゅうじょう昇進しょうしんした[5]

1761ねん、ドイツでグランビー侯爵こうしゃくジョン・マナーズ英語えいごばんフェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルひきいる軍勢ぐんぜいのイギリス部隊ぶたい指揮しきかん)の副官ふっかんつとめた[3]。1761ねん7がつフィリングハウゼンのたたかでは戦列せんれつ中央ちゅうおう部隊ぶたいひきいたが、てきぐん攻撃こうげきされなかった[1]。1762ねん6がつヴィルヘルムスタールのたたかにも参加さんか、7がつにはヴァルデックじょう英語えいごばん占領せんりょうした[1]。11月にフォンテーヌブロー予備よび講和こうわ条約じょうやく締結ていけつされると、イギリスぐん大陸たいりくヨーロッパからの出港しゅっこう監督かんとく翌年よくねん3がつ帰国きこくした[1]

後期こうきせいれき

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1761ねん4がつ、コンウェイはテットフォード選挙せんきょ英語えいごばんでイギリス庶民しょみんいん議員ぎいん再選さいせん[6]同年どうねん7がつ4にち枢密すうみつ顧問こもんかん任命にんめいされた[7]かれホイッグとうロッキンガム英語えいごばん一員いちいんとして、ジョージ3せいによる改革かいかくジョン・ウィルクスへの訴追そつい(1763ねん)に反対はんたい[3]、その結果けっかとして1764ねん寝室しんしつ宮内くないかんだい1王立おうりつ竜騎兵りゅうきへい連隊れんたいちょう罷免ひめんされた[3]。これにより政府せいふ政敵せいてきぐんから追放ついほうするとおそれられ、おおくの人々ひとびとがパンフレットを出版しゅっぱんしておたがいを告発こくはつすることとなった[1]

1765ねん7がつロッキンガム侯爵こうしゃく首相しゅしょう就任しゅうにんとともに入閣にゅうかく南部なんぶ担当たんとう国務大臣こくむだいじんつとめたのち、1766ねん5がつ北部ほくぶ担当たんとう国務大臣こくむだいじん鞍替くらがえ、1768ねん1がつにさらに無任所むにんしょ大臣だいじん鞍替くらがえした[3]。コンウェイは就任しゅうにんちゅうにアメリカ植民しょくみんへの中道ちゅうどう政策せいさく支持しじ印紙いんしほう廃止はいしにも支持しじしたほか財務ざいむ大臣だいじんチャールズ・タウンゼンド徴税ちょうぜい政策せいさく反対はんたいした[1]

後期こうきぐんれき

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1768ねん1がつ大臣だいじん辞任じにんすると陸軍りくぐんもどり、1772ねん5がつ26にち大将たいしょう昇進しょうしん[8]同年どうねん10がつ22にちジャージー総督そうとく英語えいごばん任命にんめいされた[9]。この時期じきにも庶民しょみんいん重鎮じゅうちんであり、イギリスによるアメリカ反乱はんらん鎮圧ちんあつ反対はんたいした[10]。その結果けっか、1782ねん3がつだい2ロッキンガム侯爵こうしゃくないかくイギリスぐん最高さいこう司令しれいかん英語えいごばんとして入閣にゅうかくしたが[10]しょうピット新内しんないかく(1783ねん成立せいりつ)に反対はんたいしたため、1784ねんイギリスそう選挙せんきょ敗北はいぼくして議席ぎせきうしない、ここにコンウェイの政治せいじ生涯しょうがいわりをげた。以降いこう軍務ぐんむ集中しゅうちゅうしてイギリスぐん最高さいこう司令しれいかんを1793ねん1がつ完全かんぜん引退いんたいするまでつとめた[10]。1793ねん10がつ18にち元帥げんすい昇進しょうしん[11]、1795ねん7がつ9にちバークシャーレメナム英語えいごばんパーク・プレイス英語えいごばん死去しきょした[10]

家族かぞく

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1747ねん12月9にちジョン・キャンベル中将ちゅうじょう英語えいごばんだい4だいアーガイル公爵こうしゃく)のむすめキャロライン(だい4だいエルギン伯爵はくしゃくおよびだい3だいエイルズベリー伯爵はくしゃくチャールズ・ブルース未亡人みぼうじん)と結婚けっこんした[10]2人ふたり1人ひとりむすめアン・シーモア・コンウェイ英語えいごばんをもうけ、アンはのち彫刻ちょうこくになった[10]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m Towse, Clive (23 September 2004). "Conway, Henry Seymour (1719–1795)". Oxford Dictionary of National Biography (英語えいご) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/6122 (よう購読こうどく、またはイギリス公立こうりつ図書館としょかんへの会員かいいん加入かにゅう。)
  2. ^ a b Heathcote 1999, p. 92.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n Heathcote 1999, p. 93.
  4. ^ "No. 9888". The London Gazette (英語えいご). 17 April 1759. p. 2.
  5. ^ "No. 9924". The London Gazette (英語えいご). 21 August 1759. p. 2.
  6. ^ "No. 10096". The London Gazette (英語えいご). 14 April 1761. p. 2.
  7. ^ "No. 10118". The London Gazette (英語えいご). 30 June 1761. p. 1.
  8. ^ "No. 11251". The London Gazette (英語えいご). 23 May 1772. p. 2.
  9. ^ "No. 11294". The London Gazette (英語えいご). 20 October 1772. p. 1.
  10. ^ a b c d e f Heathcote 1999, p. 94.
  11. ^ "No. 13582". The London Gazette (英語えいご). 15 October 1793. p. 913.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Heathcote, Tony (1999ねん). The British Field Marshals 1733–1997. Pen & Sword Ltd. ISBN 0-85052-696-5

関連かんれん図書としょ

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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グレートブリテン議会ぎかい英語えいごばん
先代せんだい
ヘンリー・フィンチ英語えいごばん
庶民しょみんいん議員ぎいんヒガム・フェラーズ選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ
1741ねん - 1747ねん
次代じだい
ジョン・ヒル
先代せんだい
ジョン・イヴリン英語えいごばん
ジョージ・ボスカーウェン英語えいごばん
庶民しょみんいん議員ぎいんペンリン選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ
1747ねん - 1754ねん
同職どうしょくジョージ・ボスカーウェン英語えいごばん
次代じだい
リチャード・エッジカム閣下かっか英語えいごばん
ジョージ・ボスカーウェン英語えいごばん
先代せんだい
ロバート・ニュージェント
サー・トマス・クレイヴァリングじゅん男爵だんしゃく英語えいごばん
庶民しょみんいん議員ぎいんセント・モーズ選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ
1754ねん - 1761ねん
同職どうしょくロバート・ニュージェント 1754ねん
ジェームズ・ニューシャム 1754ねん - 1761ねん
次代じだい
エドマンド・ニュージェント
リチャード・ハッシー
先代せんだい
ヘンリー・ボークラーク
ハーバート・ウェストファリング
庶民しょみんいん議員ぎいんテットフォード選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ
1761ねん - 1774ねん
同職どうしょくオーブリー・ボークラーク閣下かっか 1761ねん - 1768ねん
ジョン・ドラモンド英語えいごばん 1768ねん - 1774ねん
ピーターシャム子爵ししゃく英語えいごばん 1774ねん
次代じだい
チャールズ・フィッツロイ閣下かっか英語えいごばん
チャールズ・フィッツロイ=スクーダモア英語えいごばん
先代せんだい
オーガスタス・ハーヴィー閣下かっか
サー・チャールズ・デイヴァースじゅん男爵だんしゃく英語えいごばん
庶民しょみんいん議員ぎいんバーリー・セント・エドマンズ選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ
1775ねん - 1784ねん
同職どうしょくサー・チャールズ・デイヴァースじゅん男爵だんしゃく英語えいごばん
次代じだい
ジョージ・フィッツロイ閣下かっか
サー・チャールズ・デイヴァースじゅん男爵だんしゃく英語えいごばん
アイルランド議会ぎかい
先代せんだい
ジョン・スケッフィントン
ジョン・アップトン
庶民しょみんいん議員ぎいんアントリム・カウンティ選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ
1741ねん - 1768ねん
同職どうしょくアーサー・スケッフィントン 1741ねん - 1747ねん
ヒュー・スケッフィントン 1747ねん - 1768ねん
次代じだい
ダンラス子爵ししゃく英語えいごばん
ビーチャム子爵ししゃく
公職こうしょく
先代せんだい
ジョージ・ジャーメイン
アイルランド担当たんとう大臣だいじん英語えいごばん
1755ねん - 1757ねん
次代じだい
リチャード・リグビー英語えいごばん
先代せんだい
ハリファックス伯爵はくしゃく
南部なんぶ担当たんとう国務大臣こくむだいじん
1765ねん - 1766ねん
次代じだい
リッチモンド公爵こうしゃく
先代せんだい
ジョージ・グレンヴィル
庶民しょみんいん院内いんない総務そうむ
1765ねん - 1768ねん
次代じだい
ノースきょう
先代せんだい
グラフトン公爵こうしゃく
北部ほくぶ担当たんとう国務大臣こくむだいじん
1766ねん - 1768ねん
次代じだい
ウェイマス子爵ししゃく
司法しほうしょく
先代せんだい
サー・コンプトン・ドムヴィルじゅん男爵だんしゃく
アイルランド国王こくおう書記しょきちょう英語えいごばん
1768ねん - 1788ねん
次代じだい
サー・ルーシャス・オブライエンじゅん男爵だんしゃく英語えいごばん
ぐんしょく
先代せんだい
フランシス・リゴンアー英語えいごばん
だい48歩兵ほへい連隊れんたい英語えいごばんなが
1746ねん - 1749ねん
次代じだい
トリントン子爵ししゃく
先代せんだい
ジェームズ・チャムリー閣下かっか英語えいごばん
だい34歩兵ほへい連隊れんたい英語えいごばんなが
1749ねん - 1751ねん
次代じだい
チャールズ・ラッセル
先代せんだい
サー・チャールズ・アーマンド・ポウレット英語えいごばん
だい13竜騎兵りゅうきへい連隊れんたい英語えいごばんなが
1751ねん - 1754ねん
次代じだい
ジョン・モスティン英語えいごばん
先代せんだい
ヘンリー・デ・グランゲス英語えいごばん
だい4アイルランド騎兵きへい連隊れんたい英語えいごばんなが
1754ねん - 1759ねん
次代じだい
フィリップ・ホニーウッド英語えいごばん
先代せんだい
ヘンリー・ホーリー英語えいごばん
だい1王立おうりつ竜騎兵りゅうきへい連隊れんたい英語えいごばんなが
1759ねん - 1764ねん
次代じだい
ペンブルック伯爵はくしゃく英語えいごばん
先代せんだい
タウンゼンド子爵ししゃく
兵站へいたんふく総監そうかん英語えいごばん
1767ねん - 1772ねん
次代じだい
ジェフリー・アマースト
先代せんだい
サー・ロバート・リッチじゅん男爵だんしゃく英語えいごばん
だい4竜騎兵りゅうきへい連隊れんたい英語えいごばんなが
1768ねん - 1770ねん
次代じだい
ベンジャミン・カーペンター英語えいごばん
先代せんだい
ジョン・マナーズ英語えいごばん
王立おうりつ近衛このえ騎兵きへい連隊れんたい英語えいごばんなが
1770ねん - 1795ねん
次代じだい
リッチモンド公爵こうしゃく
先代せんだい
アルベマール伯爵はくしゃく
ジャージー総督そうとく英語えいごばん
1772ねん - 1795ねん
次代じだい
サー・ジョージ・ハワード英語えいごばん
先代せんだい
アマースト男爵だんしゃく
イギリスぐん最高さいこう司令しれいかん英語えいごばん
1782ねん - 1793ねん
次代じだい
アマースト男爵だんしゃく