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ベトナミゼーション

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ベトナム
こしみなみ
ベトナム社会主義共和国の国章

ベトナムの歴史れきし


おも出来事できごと
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東遊あずまあそび運動うんどう · にちふつ協約きょうやく
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ベトナムはちがつ革命かくめい
だいいちインドシナ戦争せんそう
ディエンビエンフーのたたか
ジュネーヴ協定きょうてい · 南北なんぼく分断ぶんだん
トンキンわん事件じけん · ベトナム戦争せんそう
パリ協定きょうてい · 西にしすな諸島しょとうたたか
サイゴン解放かいほう
カンボジア・ベトナム戦争せんそう
中越なかごえ戦争せんそう · 中越なかごえ国境こっきょう紛争ふんそう
ドイモイ
スプラトリー諸島しょとう海戦かいせん


ベトナム共産党きょうさんとう
みなみベトナム解放かいほう民族みんぞく戦線せんせん
共産きょうさん主義しゅぎ
ホー・チ・ミン思想しそう
中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい書記しょきちょう


国家こっか
大越おおこし
ベトナム民主みんしゅ共和きょうわこく
ベトナムこく
ベトナム共和きょうわこく
みなみベトナム共和きょうわこく
ベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく


人物じんぶつ
ファン・ボイ・チャウ
グエン・タイ・ホック
ホー・チ・ミン
ヴォー・グエン・ザップ
レ・ドゥク・ト
レ・ズアン
グエン・ミン・チエット
グエン・タン・ズン
ノン・ドゥック・マイン
グエン・フー・チョン
トー・ラム


言語げんご
ベトナム · チュノム · チュハン
チュ・クオック・グー

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ベトナミゼーションベトナマイゼーション英語えいご: Vietnamization

  1. 通常つうじょうは、制度せいど風習ふうしゅうなどをベトナムのようにする行為こういす。歴史れきしてきには18世紀せいきメコンデルタにおける南進なんしん影響えいきょうなど。
  2. 外交がいこう政策せいさくでは、ベトナム戦争せんそう最中さいちゅうリチャード・ニクソン米国べいこく大統領だいとうりょう計画けいかくした、ベトナムからの撤退てったい戦略せんりゃくす。つまりアメリカぐんなど外国がいこく軍隊ぐんたいいて、戦争せんそうきたベトナムたいみなみベトナム、ベトナムじんどうしのものにするという意味合いみあいである。ほん項目こうもくではこれについてべる。

概要がいよう

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ベトナミゼーション英語えいご:Vietnamization、ベトナム政策せいさく)は、ベトナム戦争せんそうさいリチャード・ニクソン政権せいけんがとった「みなみベトナムぐん拡大かくだい装備そうび訓練くんれんし、かれらにますますおおくの戦闘せんとう役割やくわりあてて、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく戦闘せんとう兵力へいりょく着実ちゃくじつ削減さくげんする」というプログラムをつうじて、ベトナム戦争せんそうからのアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく関与かんよ縮小しゅくしょう終結しゅうけつさせるアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく外交がいこう政策せいさく[1]

ベトコンによるテト攻勢こうせいけて導入どうにゅうされたこの政策せいさくは、地上ちじょう戦闘せんとう役割やくわりとく焦点しょうてんてたアメリカぐん地上ちじょう戦闘せんとう兵力へいりょく縮小しゅくしょうしていたが、アメリカ空軍くうぐんによる攻撃こうげきや、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく外国がいこく軍事ぐんじ援助えんじょ機関きかん政策せいさくしたがったみなみベトナムへの支援しえん否定ひていするものではなかった。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく市民しみん政府せいふ不信ふしんはテト攻勢こうせいにとくにたかまり、ソンミむら虐殺ぎゃくさつ事件じけん米兵べいへいによる民間みんかんじん虐殺ぎゃくさつ報道ほうどう(1968ねん)、カンボジア侵攻しんこう(1970ねん)、ペンタゴン文書ぶんしょ漏洩ろうえい事件じけん(1971ねん)といった出来事できごとでさらに悪化あっかした。

経緯けいい

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1968ねんパリ和平わへい会談かいだん開始かいしされたが、結論けつろんはここではなかった。1969ねん1がつ28にちひらかれた国家こっか安全あんぜん保障ほしょう会議かいぎで、みなみベトナム軍事ぐんじ援助えんじょ司令しれい指揮しきかんクレイトン・エイブラムス大将たいしょう副官ふっかんアンドリュー・グッドパスター大将たいしょうは、ベトナム共和きょうわ国軍こくぐん(ARVN)が着実ちゃくじつ強化きょうかされており、戦争せんそうを「アメリカ」できる時点じてんちかづいているとべた。メルビン・レアード国防こくぼう長官ちょうかん同意どういしたが、表現ひょうげんには同意どういせず「必要ひつようなのは『ベトナムベトナミゼーション)』といった表現ひょうげんで、ただしい問題もんだい焦点しょうてんてることだ」とった。1969ねん就任しゅうにんしたリチャード・ニクソン大統領だいとうりょうはすぐにレアードの言葉ことばった[2]

ベトナム政策せいさくは「ニクソン・ドクトリン」を発表はっぴょうしたニクソン政権せいけん広範こうはんなデタント政策せいさく一環いっかんであり、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくはもはや共産きょうさん主義しゅぎふうめを基本きほん戦略せんりゃくとしてなさず、ニクソンとかれ主要しゅよう顧問こもんヘンリー・キッシンジャーにより広範こうはん社会しゃかい構造こうぞう世界せかい大国たいこく焦点しょうてんてた協力きょうりょくてき世界せかい秩序ちつじょ目指めざした[3]。ニクソンはキッシンジャーに、ソビエト連邦れんぽう政治せいじアナトリー・ドブリニンとの外交がいこう交渉こうしょうめいじた。また、ニクソンは中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとの閣僚かくりょうきゅう接触せっしょく開始かいしした。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとソビエト連邦れんぽう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとの関係かんけいは、みなみベトナムよりもたか優先ゆうせん順位じゅんいとされた。

ニクソンはベトナムにはふたつの要素ようそがあるとした。だいいちは「みなみベトナムの軍隊ぐんたい人数にんずう装備そうび指導しどうりょく戦闘せんとう技術ぎじゅつめん強化きょうかすること」、だいは「みなみベトナムにおける平和へいわプログラム(すなわち民間みんかんへの軍事ぐんじ援助えんじょ)の拡大かくだい」である。だいいち目標もくひょう達成たっせいするために、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくのヘリコプターが支援しえん飛行ひこうおこなうことになったが、ヘリコプター作戦さくせん地上ちじょう作戦さくせん一部いちぶであるため、アメリカぐん人員じんいんむことは出来できない。そのため、ARVNの選抜せんばつ人員じんいんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくのヘリコプター訓練くんれん学校がっこう入所にゅうしょし、作戦さくせん訓練くんれんけた。デイヴ・パーマー中将ちゅうじょうによると、ARVNの選抜せんばつ人員じんいんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくのヘリコプター訓練くんれん学校がっこう資格しかくるためには、まず英語えいごまな必要ひつようがありくわえてすうヶ月かげつにわたる訓練くんれん現場げんばでの実践じっせんて、ARVN実践じっせんりょく保持ほじするようになるのにすくなくとも2ねんはかかるとした[4]。パーマーは「時間じかん資源しげんがあればだいいち要素ようそ達成たっせい可能かのうであるとの意見いけんには異論いろんはないが、だい要素ようそである平和へいわ本質ほんしつてき課題かだい提示ていじしている...それは政府せいふつね積極せっきょくてき寛大かんだい行動こうどうをすべきだった地域ちいきでの政府せいふ寛大かんだいなアクションが必要ひつようで、とくにベトナム政策せいさく機能きのうするためにはその両方りょうほう必要ひつようだった」とっていた。

1970ねんからその翌年よくねんにかけてアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくカンボジアラオスにも軍事ぐんじ侵攻しんこうし、戦況せんきょうさら悪化あっかさせていった。1973ねんべいえつあいだパリ協定きょうてい調印ちょういん3月29にち撤退てったい完了かんりょうし、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにとってのベトナム戦争せんそうはこれで終了しゅうりょうした。その停戦ていせん協定きょうてい無視むしきたベトナムみなみへの侵攻しんこう加速かそく、ニクソン大統領だいとうりょうウォーターゲート事件じけん辞任じにんするなか1975ねんサイゴン陥落かんらくし、その翌年よくねん7がつ2にちにベトナムはさい統一とういつされた。

ベトナミゼーション(ベトナム政策せいさく順調じゅんちょう実行じっこううつされたにもかかわらず、最終さいしゅうてきには、強化きょうかされたARVNぐん縮小しゅくしょうしたアメリカぐんおよび同盟どうめいこく勢力せいりょくでは、サイゴン陥落かんらくとその南北なんぼくベトナムの統一とういつによるベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく創設そうせつふせぐことができなかったとてんでは失敗しっぱいだったとされた。

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ United States Department of Defense, “Melvin R. Laird”, Secretaries of Defense, http://www.defenselink.mil/specials/secdef_histories/bios/laird.htm 
  2. ^ Kissinger 2003, pp. 81–82.
  3. ^ Burr, William, ed. (November 2, 2007), Kissinger conspired with Soviet Ambassador to keep Secretary of State in the Dark, National Security Archive Electronic Briefing Book, 233, George Washington University, http://www.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB233/index.htm 
  4. ^ Palmer, Dave R. (1978), Summons of the Trumpet, Presidio Press, pp. 219–220, ISBN 9780891410416, https://archive.org/details/summonsoftrumpet00palm/page/219