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ベルトルト (メラーンこう)

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ベルトルト
Berthold
メラーンこう
在位ざいい 1180/2ねん - 1204ねん

出生しゅっしょう 1159ねんごろ
死去しきょ 1204ねん8がつ12にち
埋葬まいそう かみきよしマ帝国まていこくディーセン
配偶はいぐうしゃ アグネス・フォン・ロホリッツ
子女しじょ オットー1せい
エクベルト
ハインリヒ2せい
ヘートヴィヒ
アグネス
ゲルトルート
メヒティルト
ベルトルト
家名かめい アンデクス
父親ちちおや アンデクスはくベルトルト3せい
母親ははおや ヘートヴィヒ・フォン・ヴィッテルスバッハ
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メラーンこうベルトルト(Berthold von Andechs, Herzog von Meranien, 1159ねんごろ - 1204ねん8がつ12にち)は、アンデクスはくベルトルト4せい)、イストリア辺境へんきょうはくおよびクライン辺境へんきょうはく(ベルトルト2せい)。また1180ねんから1182ねんあいだにメラーンこうとなった。その領地りょうちは、ベルトルトの先祖せんぞが1060年代ねんだい獲得かくとくしたアドリア海あどりあかい北部ほくぶクヴァルネルわん沿岸えんがんからイストリア、クラインにまでおよんだ[1]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ベルトルトは、アンデクスはくベルトルト3せいとヘートヴィヒ・フォン・ヴィッテルスバッハとのあいだ息子むすこである[2]ちちベルトルト3せい皇帝こうていフリードリヒ1せい廷臣ていしんで、シュポンハイムのエンゲルベルト3せい死去しきょしたのち、イストリア辺境へんきょうはくりょうあたえられた。

ベルトルトにかんする記録きろく最初さいしょられるのは1170ねんで、アンデクスはくとしては1172ねんからである。1175ねん、ベルトルトはイストリア辺境へんきょうはくりょう共同きょうどう統治とうちしゃとなった。1180ねん皇帝こうていフリードリヒ1せいバイエルンこうザクセンこうハインリヒ獅子ししこうからおおやけ剥奪はくだつしたのち、ベルトルトのはは兄弟きょうだいオットーにバイエルンおおやけを、ベルトルトにはメラーンおおやけあたえた[3]支配しはいすることとなったメラーンおおやけりょうは、実際じっさいにはこれまで支配しはいしていたイストリア辺境へんきょうはくりょうふくんでおり、べつあらたに独立どくりつした支配しはいおこなったわけではなかった。しかし、おおやけあたえられたことで、アンデクスはく帝国ていこく諸侯しょこうとなった。

1186ねん、ベルトルトはフリードリヒ1せい息子むすこハインリヒ6せいのイタリアきに随行ずいこうし、ハインリヒとコンスタンツェとの結婚けっこんった。1189ねん、ベルトルトは帝国ていこくぐんだいさん師団しだんひきい、だい3かい十字軍じゅうじぐんにおいてその旗手きしゅをつとめた。1190ねんフィロメリオンたたかいではシュヴァーベンこうフリードリヒ6せいとともにぐんひきいた。1195ねんには、バイエルンのテガーンゼー修道院しゅうどういんフォークトとして記録きろくえる。ベルトルトは1197ねん十字軍じゅうじぐんにも参加さんかするつもりであったが、同年どうねんにハインリヒ6せい死去しきょしたため参加さんかしなかった。ベルトルトは皇帝こうていの、かみきよしマ帝国まていこく選挙せんきょ君主くんしゅせいから世襲せしゅう君主くんしゅせい変更へんこうする計画けいかくErbreichsplan)には反対はんたいであったが、対立たいりつするヴェルフオットー4せい支持しじする教皇きょうこうインノケンティウス3せい方針ほうしんこととなえるハインリヒ6せいおとうとフィリップ支持しじした。このころ、アンデクスおおきな権力けんりょく影響えいきょうりょくっており、その領地りょうちフランケン地方ちほうからアドリア海あどりあかいにまでおよんでいた。

ベルトルトは1204ねん死去しきょし、ディーセンにあるアンデクス修道院しゅうどういんほうむられた。

子女しじょ[編集へんしゅう]

ベルトルト、アグネスと子供こどもたち(Hedwig Codex、1353ねん

1180ねんごろ、ベルトルトはアグネス・フォン・ロホリッツと結婚けっこんした[2]。アグネスはヴェッティンしもラウジッツ辺境へんきょうはくデド3せいむすめである。以下いか子女しじょをもうけた。

  • オットー1せい(1180ねんごろ - 1234ねん[2] - メラーンおおやけ継承けいしょう(1204ねん - 1234ねん)。ホーエンシュタウフェンのブルゴーニュはくオトン1せいむすめベアトリス結婚けっこんし、1211ねんにブルゴーニュはくとなった。
  • エクベルト(1237ねんぼつ) - バンベルク司教しきょう(1203ねん - 1231ねん[2]、1234ねんおいオットー2せい後見人こうけんにんとなった。
  • ハインリヒ2せい(1228ねんぼつ[2] - イストリア辺境へんきょうはくおよびクライン辺境へんきょうはく(1204ねん - 1228ねん)、ヴィンディッシュ辺境へんきょうはくおよびメトリカ女子じょし相続そうぞくじんゾフィー・フォン・ヴァイヒセルブルクと結婚けっこん
  • ヘートヴィヒ(1174ねん - 1243ねん) - ポーランド大公たいこうヘンリク1せい結婚けっこん[2]、1267ねん列聖れっせいされた。
  • アグネス=マリア(1180ねんごろ - 1201ねん) - 1196ねんフランスおうフィリップ2せい結婚けっこん[2](1200ねん離婚りこん
  • ゲルトルート(1185ねん - 1213ねん) - ハンガリーおうアンドラーシュ2せい結婚けっこん[2]、1205ねん王妃おうひとなったが、殺害さつがいされた。
  • メヒティルト(1254ねんぼつ) - バンベルクのザンクト・テオドール修道院しゅうどういん修道しゅうどうおんな、1215ねんよりキッツィンゲン女子じょし修道しゅうどう院長いんちょう
  • ベルトルト(1180ねんごろ - 1251ねん[2] - カロチャ大司教だいしきょう(1206ねん - 1218ねん)、アクイレイアそう大司教だいしきょう(1218ねん - 1251ねん

だいさんかい十字軍じゅうじぐんにおいてセルビアを通過つうかしたさい、1189ねん7がつ27にち皇帝こうていフリードリヒ1せいニシュにおいてセルビア君主くんしゅステファン・ネマニャった。そこでベルトルトのむすめと、ミロスラフ・ザビドビッチの息子むすこトルジェンとをせいゲオルギウスの祝日しゅくじつ翌日よくじつ(1190ねん4がつ24にち)に結婚けっこんさせる交渉こうしょうおこなわれた。この結婚けっこんおこなわれなかったようで、『Historia de Expeditione Friderici Imperatoris皇帝こうていフリードリヒの遠征えんせい)』にもむすめられない。研究けんきゅうしゃあいだでは、このむすめ上記じょうきむすめたちのうちのいちにんか、それともそれ以外いがい記録きろくじょうにないむすめかで、意見いけんかれている[4]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Milko Kos, Zgodovina Slovencev: od naselitve do reformacije (Ljubljana, 1933), p. 142
  2. ^ a b c d e f g h i Newman 2020, p. 30.
  3. ^ Arnold 2003, p. 103.
  4. ^ G. A. Loud, ed. (2010), The Crusade of Frederick Barbarossa: The History of the Expedition of the Emperor Frederick and Related Texts, Ashgate, pp. 61–62; Jonathan Lyon (2013), Princely Brothers and Sisters: The Sibling Bond in German Politics, 1100–1250, Ithaca and London: Cornell University Press, p. 154 n. 10.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Arnold, Benjamin (2003). Princes and Territories in Medieval Germany. Cambridge University Press. ISBN 9780521521482.
  • Newman, Martha G. (2020). Cistercian Stories for Nuns and Monks. University of Pennsylvania Press.
先代せんだい
コンラート2せい
メラーンこう
1180/2ねん - 1204ねん
次代じだい
オットー1せい
先代せんだい
ベルトルト1せい
イストリア辺境へんきょうはく
クライン辺境へんきょうはく
1188ねん - 1204ねん
次代じだい
ハインリヒ2せい