ベルナール・フォントネル

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ベルナール・フォントネル
誕生たんじょう (1657-02-11) 1657ねん2がつ11にち
フランス王国おうこくルーアン
死没しぼつ (1757-01-09) 1757ねん1がつ9にち(99さいぼつ
フランス王国おうこくパリ
国籍こくせき フランスの旗 フランス
代表だいひょうさく世界せかい多数たすうせいについての対話たいわ
親族しんぞく ピエール・コルネイユトマ・コルネイユ伯父おじ
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ベルナール・ル・ボヴィエ・ド・フォントネル(Bernard le Bovier de Fontenelle、1657ねん2がつ11にち - 1757ねん1がつ9にち[1])は、フランス著述ちょじゅつである。宇宙うちゅうろん啓蒙けいもうしょ、『世界せかい多数たすうせいについての対話たいわ』が当時とうじのヨーロッパしょ言語げんごやくされ、知識ちしき階級かいきゅう影響えいきょうあたえた。アカデミー・フランセーズ会員かいいん

ルーアンまれた。ちち法服ほうふく貴族きぞくで、ルーアン高等法院こうとうほういんづけ弁護士べんごしはは2人ふたりあに有名ゆうめいげき作家さっかピエール・コルネイユトマ・コルネイユであった。イエズスかいのコレージュでまなんだのちちち職業しょくぎょういで弁護士べんごしになるが、裁判さいばんで1かい弁護べんごしたのみでめてしまい、後世こうせいデカルト主義しゅぎてき立場たちばにたつ哲学てつがくしゃ科学かがくしゃとしてごした。

パリのサロン出入でいりし、劇作げきさくこころみるが、評価ひょうかられなかった。1686ねん、29さいのとき、『神託しんたく歴史れきし』、『アジャオじん物語ものがたり』、『世界せかい多数たすうせいについての対話たいわ』を発表はっぴょうした。『世界せかい多数たすうせいについての対話たいわ』は公爵こうしゃく夫人ふじん天文学てんもんがくおしえるという体裁ていさい対話たいわ形式けいしき科学かがく啓蒙けいもうしょである。英語えいご、イタリアやくされたほか、ロシアで翻訳ほんやくされたものは、禁書きんしょとされ焚書ふんしょにされたが、ミハイル・ロモノソフによって地下ちか出版しゅっぱんされた。1691ねんからアカデミー・フランセーズ会員かいいん、1697ねん科学かがくアカデミーの終身しゅうしん書記しょきとなった。

あと1がつで100さい誕生たんじょうむかえようとする1757ねん1がつ、パリで死亡しぼう享年きょうねん99。

初期しょき著作ちょさく[編集へんしゅう]

まず詩作しさくこころみ、アカデミー・フランセーズ懸賞けんしょうなんとなく応募おうぼするがすべて落選らくせん。たびたびパリをおとずれ、アベ・ド・サン=ピエールアベ・ヴェルトー数学すうがくしゃピエール・ヴァリニョンらの知遇ちぐうる。コルネイユらの後押あとおしをけてげき作家さっかになることをゆめみるが、1680ねん初演しょえんされた自作じさく悲劇ひげき『アスパール』が酷評こくひょうされる。1688ねんの『牧歌ぼっか詩集ししゅう』も不評ふひょう1689ねん初演しょえんのオペラ『テティスペーレウス』はヴォルテールらの絶賛ぜっさんびたが、興行こうぎょうてきにはおなじく失敗しっぱいわり、げき作家さっかとしてはなかった。

フォントネルが文学ぶんがくてき名声めいせい確立かくりつしたのはなによりもまず1683ねん著作ちょさくしん死者ししゃとの対話たいわ』によってである。1685ねん匿名とくめい出版しゅっぱんされた『騎士きしエル……への恋愛れんあい書簡しょかん』は軽妙けいみょう筋立すじだての小咄こばなしあつめたもので、これもすぐさま注目ちゅうもくあつめた。1686ねんかれは『アジャオじん物語ものがたり』のなかで、ローマカトリック)とジュネーヴプロテスタント)との宗教しゅうきょう対立たいりつを、二人ふたり登場とうじょう人物じんぶつムレオ王女おうじょ(Mreo=Romeのアナグラム)とエネグ王女おうじょ(Eenegu=Geneve)の対立たいりつ仮託かたくし、宗教しゅうきょう問題もんだい果敢かかん発言はつげんしてみせた。

1686ねんあらわれた『世界せかい複数ふくすうせいについての対話たいわ』は、フォントネルの名声めいせいをますますたしかなものにした。このほん架空かくう侯爵こうしゃく夫人ふじんと「わたし」との対話たいわという形式けいしきりて、宇宙うちゅうとはなにかについて詳細しょうさいべたものである。「それは本当ほんとうおおきい宇宙うちゅうで、わたしはそのなか自分じぶん見失みうしなってしまいますわ。もうどこにいるかもからず、わたしなんてもうなにものでもないのですわ」。フォントネルは、コペルニクスの地動説ちどうせつたいして当時とうじ人々ひとびとかんじた不安ふあん以上いじょうのように要約ようやくし、それが杞憂きゆうにすぎないことを主張しゅちょうしている。「わたしかえってゆったりした気分きぶんになりますよ。この天蓋てんがい無限むげんひろがりとふかさがあたえられ、それがすうかぎりない渦動かどうかれたいまわたし自分じぶん一層いっそう自由じゆう呼吸こきゅうできるようにおもいます」(赤木あかぎ昭三しょうぞうわけ)。フォントネルはそのながきにわたって王立おうりつ科学かがくアカデミーのリーダーになるが、このように小説しょうせつという形式けいしきりて科学かがく知識ちしき提供ていきょうしたために、自然しぜんがくしたしみのない人々ひとびとでも当時とうじ自然しぜんがく進歩しんぽ実感じっかんすることができた。これによってフォントネルはデカルト天文学てんもんがく理論りろん普及ふきゅうさせようとした。フランスでは18世紀せいき中頃なかごろにニュートン学説がくせつ普及ふきゅうするまで、デカルトのいわゆる「渦動かどうせつ」が有力ゆうりょくだったが、フォントネルのこの書物しょもつ渦動かどうせつ普及ふきゅうおおきく貢献こうけんした。

後年こうねん著作ちょさく[編集へんしゅう]

フォントネルの肖像しょうぞう

フォントネルはルーアン地所じしょをもっていたが、1687ねんからパリに居住きょじゅうした。同年どうねん、『神託しんたく歴史れきし』を出版しゅっぱん神学しんがくしゃ哲学てつがくしゃたちのあいだで物議ぶつぎかもした。この書物しょもつは2へんからなり、前半ぜんはんでは神託しんたくちょう自然しぜんてきれいからられるものではないことが証明しょうめいされ、後半こうはんではイエス誕生たんじょう神託しんたくつづいていることが証明しょうめいされる。こうした内容ないようのせいでこのほん当時とうじのカトリック教会きょうかいからにらまれ、バルテュスというイエズスかいには長々ながながしい反駁はんばくしょかれている。しかしフォントネルは論争ろんそうきらい、応酬おうしゅうしなかった。

よく1688ねんには『古代こだいじん近代きんだいじん余談よだん』をい、当時とうじ知識ちしきじんたちの意見いけん二分にぶんしていた新旧しんきゅう論争ろんそうについて、近代きんだいがわつことを宣言せんげんした。そのまもなくあらわれた『機会きかい原因げんいんにもとづく物理ぶつり体系たいけいへのしょ疑問ぎもん』ではマールブランシュ批判ひはん展開てんかいした。

フォントネルは当時とうじ知識ちしきじんたちのあいだではヴォルテールなら卓越たくえつした地位ちいめていた。しかしヴォルテールとはちがって論争ろんそうけ、てきつくらなかった。批判ひはんてき思考しこうこの傾向けいこうと、貴族きぞく社会しゃかいなか愛嬌あいきょうりまき世渡よわたりをしていくこととのあいだでうまくバランスをっていた。

アカデミー・フランセーズ[編集へんしゅう]

1691ねんにアカデミー・フランセーズ会員かいいん選出せんしゅつされる。ラシーヌボワロー古代こだい人々ひとびとから反対はんたいされたため、5かい選考せんこうだった。碑文ひぶんアカデミーと科学かがくアカデミーの両方りょうほうぞくし、科学かがくアカデミーについては1697ねんからじつに42年間ねんかんにわたって終身しゅうしん書記しょき地位ちいにあった。終身しゅうしん書記しょきとしてフォントネルは『科学かがくアカデミーの変革へんかく歴史れきし』(パリ、3かん、1708-1717-1722ねん)という題名だいめい議事ぎじろく編纂へんさん検討けんとうおこな一方いっぽう物故ぶっこ会員かいいん追悼ついとう演説えんぜつ担当たんとうした。こうした演説えんぜつ全部ぜんぶで69てんのぼるが、なかでも有名ゆうめいなのはおそらく親戚しんせきのピエール・コルネイユにたいするものだろう。著作ちょさくとしては『無限むげん幾何きかがくようろん』(1727ねん)など。

後年こうねん評価ひょうか[編集へんしゅう]

フランス文学ぶんがく史上しじょう、フォントネルは2つのたいへんことなる時代じだいつな仲介ちゅうかい役割やくわりたしている。すなわち、コルネイユラシーヌボワローらの時代じだいから、ヴォルテール、ダランベールディドロらの時代じだいである。これはフォントネルが長命ちょうめいだったためばかりではなく、17世紀せいき才人さいじんたちとも18世紀せいき哲学てつがくしゃたちともそうつうずるところがあったからである。ただしどちらかといえばかれ後者こうしゃ時代じだいちかかった。

フォントネルの才能さいのううたが余地よちがない。しかし、サント=ブーヴべているように(『月曜げつよう閑談かんだんだい3かん)、フォントネルが「かぎりなく卓越たくえつした精神せいしんぬし一人ひとり」にかぞえられるのがたしかだとしても、知性ちせいというよりは聡明そうめいさが特徴とくちょうであり、おおくのことをうよりはすこしのことを上手じょうずうことにけていた。人間にんげんとしては非情ひじょうであったともつたえられている。

フォントネルの著作ちょさくしゅうすうかい編纂へんさんされている。最初さいしょ著作ちょさくしゅうは、ハーグで1728ねんから1729ねんにかけて編纂へんさんされた3かんほんであった。もっとすぐれたはんは、1790ねんにパリで編纂へんさんされた8かんほん著作ちょさくしゅうである。『世界せかい複数ふくすうせいについての対話たいわ』などのいくつかの作品さくひんなん再版さいはんされ、様々さまざま言語げんご翻訳ほんやくされた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

日本語にほんご訳書やくしょ[編集へんしゅう]

  • 赤木あかぎ昭三しょうぞうわけ世界せかい複数ふくすうせいについての対話たいわ工作こうさくしゃ , 1992ねん ISBN 4-87502-208-5
  • 白石しらいし嘉治よしはるやく哲人てつじん共和きょうわこく、またはアジャオじん物語ものがたり」, 『啓蒙けいもうのユートピア』だい1かん, 法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく, 1996ねん
  • 赤木あかぎ昭三しょうぞうやく哲学てつがくしゃくにまたはアジャオじん物語ものがたり」, 『ユートピア旅行りょこう叢書そうしょだい4かん, 岩波書店いわなみしょてん, 1998ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

電子でんしテクスト[編集へんしゅう]

  • フランス国立こくりつ図書館としょかん電子でんしテクスト・サイトGallica
    • Entretiens sur la pluralité des mondes
    • Traité sur la nature de l'églogue
  • Association des Bibliophiles UniverselsのサイトABU
    • Entretiens sur la pluralité des mondes
  • ケベック大学だいがく社会しゃかい科学かがく古典こてん電子でんし図書館としょかんLes classiques des sciences sociales
    • Histoire des oracles
    • Traité de la liberté de l'âme


前任ぜんにん
ジャン=ジャック・ルノード・ヴィレイエ
アカデミー・フランセーズ
席次せきじ27

だい3だい1691ねん - 1757ねん
後任こうにん
アントワーヌ=ルイス・セギエ