ペンダ (マーシアおう)

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ペンダ
Penda
マーシアおう
ウースターだい聖堂せいどうにあるステンドグラス 、ペンダのえがいている。
在位ざいい 626ねんごろ - 655ねん

死去しきょ 655ねん11月15にち
子女しじょ ペーダ
ウルフヘレ
エゼルレッド1せい
キュネブルフ
キュネウィズ
父親ちちおや ピュバ
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ペンダ(Penda、? - 655ねん11月15にち)は7世紀せいきなな王国おうこく時代じだいマーシアおう在位ざいい626ねんごろ - 655ねん)。マーシアに隆盛りゅうせいをもたらした人物じんぶつとしてられている。またキリスト教きりすときょうアングロサクソン諸国しょこくひろまりつつあった時代じだいキリスト教きりすときょう帰依きえしていなかった人物じんぶつとしてもられる。

ペンダは633ねんハットフィールド・チェイスのたたかノーサンブリアおうエドウィンはいさせ、9ねんマザーフィールドのたたかではエドウィンの後継こうけいしゃオスワルド戦死せんしさせ、イングランド中央ちゅうおう強大きょうだい勢力せいりょくおうとなった。さらにかれイースト・アングリアたたかいこれに勝利しょうり、そしてウェセックス進攻しんこうしておうチェンワルフ亡命ぼうめいさせ、さらにノーサンブリアへ進攻しんこうするなど強大きょうだい権力けんりょくおうとなった。しかしその13ねん655ねん、ノーサンブリアに転戦てんせんちゅうウィンウェドのたたか戦死せんしした。

かく資料しりょう記述きじゅつ比較ひかく[編集へんしゅう]

この時代じだい資料しりょうすくない。ペンダにかんする資料しりょうとしては9世紀せいきのウェセックス王国おうこく編纂へんさんされた『アングロサクソン年代ねんだい』、7世紀せいきノーサンブリア修道しゅうどうベーダ・ヴェネラビリス以下いか「ベーダ」とりゃくす)のしるした『イングランド教会きょうかい』、そして9世紀せいきネンニウスしるしたとされるブリトンじん史書ししょブリトンじん歴史れきし(Historia Brittonum)』がある。

『イングランド教会きょうかい』によればペンダは「マーシアの高貴こうき血筋ちすじよりでたもっと好戦こうせんてきおとこ」としるされ、633ねんのエドウィンおう敗北はいぼくつづいてかれはマーシアを22年間ねんかん統治とうち様々さまざまとみをもたらしたとつたえている。このベーダの記述きじゅつ考証こうしょうした20世紀せいき歴史れきしフランク・ステントンはかれ高貴こうき血筋ちすじであったこと間違まちがいなくエドウィンあと唯一ゆいいつおうとなったのだろうと結論けつろんべている。

『ブリトンじん歴史れきし』では、かれ統治とうち期間きかんは10ねんとしている。おそらくこれは642ねんのマザーフィールドのたたかいからかぞえた数字すうじであるとおもわれるが、実際じっさいには10ねん以上いじょう統治とうち期間きかんがあったことみとめられている。前述ぜんじゅつのアングロサクソン年代ねんだい統治とうちを30ねんとしており、ちがいはあきらかである。このちがいはおそらくペンダにかんする資料しりょうのどれもがマーシアのものでないからとかんがえられている。

ベーダのまれ故郷こきょうであるノーサンブリアはペンダの敵国てきこくであり、『アングロサクソン年代ねんだい』のかれたウェセックス王国おうこく前身ぜんしんである西にしサクソンはペンダがおう放逐ほうちくさせ支配しはいいたくにである。すなわち現存げんそんする3つの資料しりょうのうち2つが敵国てきこくないし征服せいふくがわ資料しりょうであること留意りゅういすべきである。

以下いか著述ちょじゅつされる資料しりょうちがいを明確めいかくにするために『』であらわこととする。

初期しょき記録きろく[編集へんしゅう]

出自しゅつじ[編集へんしゅう]

ペンダはピュバの息子むすこで、その先祖せんぞはイチェル、血統けっとう辿たどると北欧ほくおう神話しんわ主神しゅしんウォーデンまでさかのぼることになっている。『アングロサクソン年代ねんだい』には以下いかのようにしるされている:

「ペンダはピュバの、ピュバはクリュダの、クリュダはキュネワルドの、キュネワルドはクネバの、クネバはイチェルのイチェルはエオメルの、エオメルはアンイェルセロウの、アンイェルセロウはオファの、オファはウェルムンドの、ウェルムンドはウィーラァクの、ウィートラァクはウォーデンの — アングロサクソン年代ねんだい(A写本しゃほん)、626ねん

このように血統けっとう神話しんわまでかたれる伝承でんしょうせいつよいものではあるが、ペンダのちちピュバ息子むすこペーダがいたことたしからしい。『ブリトンじん歴史れきし』によればピュバにはペンダをふくむ12にん息子むすこがいたことしるしているが、そのなかでペンダとエオワ存在そんざい際立きわだっている。このエオワのほかにペンダにはコエンワルフ[注釈ちゅうしゃく 1]という兄弟きょうだいがおり、この血統けっとうのちにマーシアおう2人ふたり輩出はいしゅつすることとなる。

登場とうじょう時期じき[編集へんしゅう]

ペンダが王位おういのぼった時期じき不明ふめい、その経緯けいいかっていない。かれ登場とうじょうした7世紀せいき初頭しょとう隣国りんごくノーサンブリアではエゼルフリス王位おういいていたが、そのどう時代じだいのマーシアおうとしてチェルル存在そんざいがベーダによって確認かくにんされている。このチェルルはかれ先王せんおうとして現在げんざいつたえられている。

この先王せんおうとされるチェルルからかれへの王位おうい交代こうたい経緯けいい、この両者りょうしゃ血縁けつえん関係かんけいにあったのか、あったのならばどれほどきんえんであったのかもあきらかでない。しかし12世紀せいき史家しかハンティングドンのヘンリーかたるには、チェルルはピュバの親族しんぞくであったとう。またかれ先王せんおうチェルルとはちが血筋ちすじ同士どうし政敵せいてきであった可能かのうせい指摘してきされている。

『アングロサクソン年代ねんだい』の記述きじゅつもとにするとかれ王位おうい626ねん王位おういのぼったときよわい50で、以降いこう30ねんおうつとめたとなっている。ここでかれるかれ統治とうち期間きかんとしての30ねん勿論もちろん正確せいかく数字すうじではない。またかれよわい50で王位おういのぼったとするのもうたがわしい。かれ子供こどもとの年齢ねんれい世代せだいてきわなくなり、たとえばかれ息子むすことされるウルフヘレが3さいときにペンダは80さいとなってしまう。

年代ねんだいのこの記述きじゅつ現在げんざい歴史れきしは、ペンダが戦死せんししたとき50さい王位おういいたときは20さいであったとわんとしていたのではないかと推測すいそくしている。

王位おうい就任しゅうにん時期じき[編集へんしゅう]

『アングロサクソン年代ねんだい』の628ねん項目こうもくおうキュネイルスとクウィチェルムがペンダとたたかった記録きろくられ、そこではこのたたかいでかれらはペンダと「合意ごういたっした」とかれている。キュネイルスたちを先祖せんぞとするウェセックスの資料しりょうであるこの記述きじゅつひかえめにかれているが、おそらくはペンダが西にしサクソン勢力せいりょくたい勝利しょうりおさめ、サイレンスターを中心ちゅうしんとするセヴァーンがわしも流域りゅういき土地とちかれのものとなったのだろうと解釈かいしゃくされている。

この時期じきかれがマーシアおうであったのかは、年代ねんだい比較ひかくするじょう非常ひじょう重要じゅうよう研究けんきゅうテーマとなっている。かんがえられる解釈かいしゃくとして以下いかのことがかんがえられうる。

  • この時点じてんではかれ王位おういにはいておらず、独立どくりつ勢力せいりょく指導しどうしゃとして西にしサクソン相手あいてみずからの領地りょうちっていた。
  • この時代じだいのマーシアは単一たんいつおうよう王国おうこくではなく、部族ぶぞく国家こっかとして複数ふくすう部族ぶぞくによって分割ぶんかつ統治とうちされており、かれはそのなか一人ひとりぎなかった。

またペンダがたこの土地とちは、かつてブリトンじん土地とち西にしサクソンのチェウリン577ねん進攻しんこう領有りょうゆうしたものであった。そしてかれうばったのちには小国しょうこくウィッチェ支配しはいとなっていること確認かくにんされており、ウィッチェというくにかれによってつくられた可能かのうせいもある。もちろん根拠こんきょとして十分じゅうぶん証拠しょうこいてはいるが、この小国しょうこく大国たいこくマーシアの隣国りんごくとして後世こうせいにも存続そんぞくしている。

ハットフィールド・チェイスのたたか[編集へんしゅう]

620ねんから630ねんにかけて、ウェールズブリトンじんくにグゥイネッズノーサンブリア交戦こうせん状態じょうたいにあった。グゥイネッズのおうカドゥアソン英語えいごばん強力きょうりょくなノーサンブリアおうであったエドウィンたたかっていたが、劣勢れっせいにあった。そこでかれはペンダと同盟どうめいむすび、633ねん10月ハットフィールド・チェイスのたたかでノーサンブリアをくだした。このときペンダはいまだマーシアのおうではなかった可能かのうせいがあるが、このときのベーダがかれ特記とっきして記述きじゅつしていることからこの直後ちょくごにはおうになったものとおもわれている。このたたかいでエドウィンは戦死せんしかれ息子むすこのエドフリスはペンダのもとにられた。

このたたかいの模様もようが『アングロサクソン年代ねんだい』のいち写本しゃほんしるされている。それによるとペンダとカドゥアソンはノーサンブリアじん土地とち全土ぜんど」を略奪りゃくだつしたとしるされている。ノーサンブリアをてきとするカドゥアソンはおうエドウィンあと戦役せんえき続行ぞっこうしていたが、同盟どうめいしゃペンダのそれ以降いこう関与かんよかっていない。

べつ資料しりょうとしてベーダはエドウィンは「異教徒いきょうと」どもによってころされたとしるしている。この『異教徒いきょうと』とはペンダひきいるマーシアぜいこと言及げんきゅうしているものとされるが、べつ視点してんからこれはてきとなったブリトンけいキリスト教徒きりすときょうとをほのめかした蔑称べっしょうであった可能かのうせい否定ひていできない。

いずれにせよ戦争せんそう続行ぞっこうしたカドワロンはこの1ねんヘヴンフィールドのたたか戦死せんししてしまうが、これよりもまえにペンダは戦線せんせんから撤退てったいしていたとおもわれる。その証拠しょうこにベーダはこのたたかいにはペンダのしるしておらず、つづいてのデイアラ王国おうこくのオスリックが戦死せんししたおさむしろせんにもかれ登場とうじょうしていない。おそらくはハットフィールド・チェイスのたたかでマーシア国内こくない地位ちい確立かくりつしたかれ王位おういき、みずからの地位ちい安泰あんたいにするためにノーサンブリアとの戦争せんそうからいたものとかんがえられている。

せんあいだ[編集へんしゅう]

ノーサンブリアがわからの資料しりょうより[編集へんしゅう]

ヘヴンフィールドのたたかいでキャドワロンがぬと、戦争せんそう終結しゅうけつ状態じょうたいとなりオスワルドがノーサンブリア王位おういのぼった。このオスワルドの治世ちせいあいだ隣国りんごくマーシアでのペンダのうごきはつたえられておらず、このあいだかれかんして様々さまざま憶測おくそくろんじられている。

このオスワルドの治世ちせいでは以前いぜんのようにマーシアの地位ちいはノーサンブリアの庇護ひごにあったものとかんがえられている。ノーサンブリアにとってペンダは油断ゆだんならぬ存在そんざいであったペンダであったものの、かれ本人ほんにんはノーサンブリアの宗主そうしゅけんみとめていたらしい。しかしかれちからおそれるオスワルドは以降いこう西にしサクソン(ウェセックス)との同盟どうめいへとうごことになる。このように記述きじゅつられる特色とくしょくとしてペンダがすでにこの時点じてん潜在せんざいてきちからをつけていたようにかれてはいるが、このような記述きじゅつ後年こうねんかれ隆盛りゅうせい強調きょうちょうするため脚色きゃくしょくしてある可能かのうせい否定ひていはできない。

オスワルドの治世ちせいにペンダはノーサンブリアの先王せんおうエドウィンの息子むすこエドフリスを処刑しょけいしたと記録きろくのこされている。これは「かれ本人ほんにんちかった宣誓せんせいはんした」行為こういであったとつたえられているが、なぜかれ先王せんおう息子むすこころさねばならなかったかについては以下いか憶測おくそくがなされている。

  • 黒幕くろまくとしてオスワルドがペンダに圧力あつりょくをかけてころしたとするせつがある。すなわち先王せんおうエドウィンの息子むすこであるエドフリスはげんおうオスワルドにとって敵対てきたい勢力せいりょくをまとめる存在そんざいとなりえた。そこでオスワルドはペンダに圧力あつりょくをかけ、ペンダはころさざるをなかったというものである。
  • ペンダ本人ほんにんころした必要ひつようがあった。すなわちエドフリスはマーシアの先王せんおうチェルル外孫そとまごでもあり、ペンダ本人ほんにん脅威きょういとなりえたのでころしたというものである。前述ぜんじゅつのように先王せんおうチェルルとかれ政敵せいてき同士どうしであったなら、処刑しょけいする理由りゆう存在そんざいする。

またノーサンブリアのオスワルドの治世ちせいときにペンダはひがしアングル(イースト・アングリア)ともたたかった記録きろくのこっている。それによるとかれひがしアングルのおうエグリッチ兵士へいし鼓舞こぶのために隠遁いんとんから戦線せんせんもどらされた先代せんだいおうシエベルトはいさせたとかれている。このたたかいの年代ねんだいははっきりしていない。635ねんというはや時期じきとするせつ他方たほう640ねんないし641ねん以前いぜんとするせつもあるが、マザーフィールドのたたか以前いぜんということでは一致いっちしている。このたたかいで活躍かつやくしたペンダをオスワルドがおそれ、次第しだいかれ敵対てきたいしていったのであろうとかんがえられている。

ブリトンじんがわからの資料しりょうより[編集へんしゅう]

『ブリトンじん歴史れきし』にはペンダには兄弟きょうだいとしてエオワ存在そんざい見受みうけられ、『カンブリア年代ねんだい』にはこのエオワがマザーフィールドのたたかいの時期じき、マーシアのおうであったとの記述きじゅつがある。

このエオワとかれ関係かんけいについては資料しりょうなにかたっていない。歴史れきしたちからは以下いかのような憶測おくそくがなされてきた。

  • エオワはペンダの指揮しきにある下位かいおうであり、たんにエオワはかれ下位かいおうであり、たん630年代ねんだいから640年代ねんだいにかけて共同きょうどう統治とうち立場たちばとなっただけとするせつ。このような王権おうけん共有きょうゆう当時とうじのアングロサクソン社会しゃかいではめずらしいことでもなく、2人ふたり南北なんぼくのマーシアを分割ぶんかつ統治とうちしていたこと十分じゅうぶんありえる。
  • ペンダの権力けんりょくかげりがえ、ヘヴンフォールドのたたかいの時点じてんでのエオワがマーシアおうになっていたとするせつ。エオワはノーサンブリアと関係かんけいふかく、同盟どうめいしゃないし傀儡かいらいとしてのマーシアおう支配しはいにペンダがいた可能かのうせいがある。ベーダの記述きじゅつかれ権力けんりょく合計ごうけい22年間ねんかんであることがほのめかされており、この時期じき権力けんりょく保持ほじしていた時期じきではなかった可能かのうせいはある。すなわちかれ権力けんりょくについてから一環いっかんとした最高さいこう権力けんりょくしゃであったわけではなく、ハットフィールド・チェイスのたたかいからマザーフィールドのたたかいの期間きかん次席じせきあまんじていた可能かのうせい指摘してきされている。

マザーフィールドのたたか[編集へんしゅう]

642ねん8がつ5にち、ペンダはノーサンブリアおうオスワルドをマザーフィールドのたたかやぶり、戦死せんしさせた。このたたかいはウェールズの近郊きんこうおこなわれ、現存げんそんするウェールズの詩文しぶんから、このたたかいにおいてペンダはポウィスのブリトンじん同盟どうめい関係かんけいにあったこと見受みうけられる。またこの戦場せんじょう特定とくていただしければ、たたかいをしかけたのはオスワルドであり、ペンダは守勢しゅせいにある立場たちばであったこととなる。おそらくはペンダがポウィスと同盟どうめい関係かんけいにあるのを脅威きょういてオスワルドはマーシアへ進攻しんこうしたものとおもわれる。

たたかいの経緯けいいつたえるものとして12世紀せいき史家しかダラムのレイナルドは『せいオスワルドでん』がげられる。それによるとせんまえにしてペンダはウェールズへとのがれてしまい、これをたオスワルドは安全あんぜんおもみずからのぐん退却たいきゃくさせたとう。この経緯けいい説明せつめい一応いちおう通説つうせつ」としてられているが、この言文げんぶん補強ほきょうする資料しりょう見当みあたらないので、同時どうじにレイナルドが創作そうさくした可能かのうせいかんがえられている。

ベーダによれば、勝利しょうりしたペンダは戦死せんししたオスワルドの遺体いたいきにし、くびうでなどそれぞれをくいけたとう。もっともこの残虐ざんぎゃく行為こうい異教徒いきょうとであったかれ宗教しゅうきょう儀式ぎしきであったのかもしれない。このたたかいでんだオスワルドは異教徒いきょうとたいしてたたかいをいど殉教じゅんきょうしたキリスト教きりすときょうおうとして聖人せいじんとしてあがめられる存在そんざいとなった。

一方いっぽうでペンダの兄弟きょうだいであるエオワもこのたたかいで戦死せんしした。しかし潜在せんざいてきてきであったかもしれないかれたしてどちらの味方みかたとし、どちらをてきとしたのかはかってはいない。また、もしエオワが実際じっさいにマーシアを牽引けんいんする立場たちばとしてのおうであったのであれば、かれは『ブリトンじん歴史れきし』にペンダの時代じだい初期しょき記録きろくとしてのこっていただろうが、それもない。結果けっかとしてれば、ペンダはそとてきであるオスワルドとうちなるてきであったかもしれないエオワの両者りょうしゃのぞことができたともえる。

こうしてかれ進展しんてんはば存在そんざいであった両者りょうしゃえ、マーシア史上しじょうもっと強力きょうりょくおう突如とつじょとしてミッドランドあらわれることとなった。一方いっぽう敗北はいぼくしたノーサンブリアはおうオスワルドがえたことにより急速きゅうそく弱体じゃくたいみずからのおうオスウィンをえらんだデイアラ王国おうこくとオスワルドののちいだオスウィいたバーニシア王国おうこくの2つへと分裂ぶんれつ状態じょうたい発展はってんする。たいする勝利しょうりしたマーシアは強大きょうだいおうペンダを中心ちゅうしんとして近隣きんりん諸国しょこくへの影響えいきょうりょくおよぼしていった。

さらなる外征がいせい[編集へんしゅう]

西にしサクソン遠征えんせい[編集へんしゅう]

マザーフィールドの敗戦はいせんでノーサンブリアは国力こくりょく減退げんたい外交がいこうめんとして西にしサクソンへの影響えいきょうりょくうしない、結果けっかとして西にしサクソンがマーシアへと接近せっきんすること阻止そしできなくなった。この経緯けいいから西にしサクソンのおうチェンワルフはペンダの姉妹しまい結婚けっこんするが、ベーダによると、チェンワルフがこのつま退しりぞけ、べつつまめとったらしい。そしてペンダは645ねん西にしサクソンへと進攻しんこう、チェンワルフをひがしアングルへと亡命ぼうめいさせた。チェンワルフの亡命ぼうめいは3ねんおよんだとう。

おそらくはペンダに従順じゅうじゅんだれかであろうが、チェンワルフをしたのちだれおうのいない西にしサクソンを統治とうちしたのかはかっていない。また記録きろくではチェンワルフの亡命ぼうめい期間きかんは3ねんかれているものの、チェンワルフはペンダが655ねんぬまで西にしサクソンへともどことができなかったのではともかんがえられている。

ひがしアングル遠征えんせい[編集へんしゅう]

654ねん、ペンダはひがしアングルに進攻しんこう亡命ぼうめいしたチェンワルフをかくまったおうアンナ戦死せんしさせた。アンナののち王位おうい兄弟きょうだいエゼルヘレがれた。このエゼルヘレをペンダは同盟どうめいしゃとしてのちにノーサンブリアの遠征えんせい同行どうこうさせることとなる。かれひがしアングルへの遠征えんせい動機どうき推測すいそくするしかにないが、息子むすこペーダおさめるミドルアングリア地方ちほう平定へいていするためともかんがえられている。

ノーサンブリア遠征えんせい[編集へんしゅう]

またペンダはノーサンブリアあとのバーニシア王国おうこくにも遠征えんせいをしかけている。ベーダは651ねん8がつ31にちこととし、ペンダは「ノーサンブリアの各地かくち略奪りゃくだつした」とつたえ、バーニシアの城砦じょうさいバンバラ(Bamburgh)を包囲ほういしている。しかしこの包囲ほうい失敗しっぱいわり、ベーダは直後ちょくごくなった司教しきょうアイダンおこなった奇跡きせきだとしている。この記述きじゅつ当時とうじオスウィがペンダにたいして劣勢れっせい直接ちょくせつ対決たいけつけていたことしているともかんがえられる。会戦かいせん記録きろく655ねんウィンウェドのたたかまでない。

ウィンウェドのたたか[編集へんしゅう]

655ねん、ペンダは大勢おおぜいひきいてノーサンブリアのバーニシア王国おうこくへと遠征えんせい盟友めいゆうグウィネドこくのキャダフェル、ひがしアングルのエゼルヘレも同行どうこうした。ペンダはすでにオスウィン-分裂ぶんれつしたノーサンブリアの片割かたわれデイアラ王国おうこくおう-を651ねん暗殺あんさつ後継こうけいしゃエゼルワルド同盟どうめいしゃとしていた。ベーダがかたるには、このエゼルワルドがこの遠征えんせい案内あんないやくつとめたとう。

発端ほったん[編集へんしゅう]

この遠征えんせい原因げんいんかっていない。当時とうじ政治せいじ状況じょうきょうから以下いかことかんがえられる。

  • ひがしアングルのウルフヘレがその発端ほったんであった(『イングランド教会きょうかい』)。しかしこの記述きじゅつなにわんとしていたのかかっていない。この記述きじゅつなが中世ちゅうせい歴史れきしあいだ写本しゃほん不正確ふせいかく筆写ひっしゃかえされた結果けっかによるものなのか、それともかれわんとしていたことはこのペンダが発端ほったんであったことなのかは意見いけんかれている。
  • ペンダはマーシアと配下はいかのミドルアングリアにバーニシア王国おうこく正確せいかくえばリンデスファーン修道院しゅうどういんからの)からの布教ふきょうしゃ支援しえんしていた[注釈ちゅうしゃく 2]。しかしこれはキリスト教きりすときょうかいしたバーニシア王国おうこくの「マーシア植民しょくみん」とられ、これを潜在せんざいてき危機ききかれはノーサンブリアへの遠征えんせいこしたとする。
  • ノーサンブリアをさい統合とうごうしようとこころみるオスウィの行動こうどうふうじるために遠征えんせいいたった。
  • 当時とうじ分裂ぶんれつしたバーニシアとデイアラの2つの王国おうこく緊迫きんぱく関係かんけい隣国りんごく内政ないせい干渉かんしょうまねいた。デイアラこく国王こくおうエゼルワルドはオスワルドの息子むすこであったが、意外いがいなことにちちころしたペンダと同盟どうめいむすんでいる。おそらく先王せんおうオスワルドの息子むすこだからこそ、バーニシアの支配しはいをも目論もくろんだのだろうとおもわれる。

経緯けいい[編集へんしゅう]

『ブリトンじん歴史れきし』には、このたたかいでペンダは「ユデウ(Iudeu)[注釈ちゅうしゃく 3]」なるでオスウィを包囲ほういしたとつたえられる。そしてオスウィは金銭きんせん和平わへい交渉こうしょうこころみたとつたえられている[注釈ちゅうしゃく 4]。またオスウィの息子むすこエクグフリスは人質ひとじちとして王妃おうひキュネウィスの後宮こうきゅう幽閉ゆうへいされていたらしい[注釈ちゅうしゃく 5]

おそらくはペンダのぐんみなみ後退こうたい、マーシアへ帰還きかんしたものとおもわれるが、後年こうねん記録きろくではこのたたかいはウィンウェド(Winward)というかわちかくでおこなわれたことになっている。この場所ばしょ特定とくていできていない。ただそれは11月15にちことであったとベーダはつたえている。

敗走はいそう[編集へんしゅう]

たたかいの経緯けいいかってはいない。可能かのうせいとしてかんがえられることえば、寡勢のオスウィがペンダの大軍たいぐん盲点もうてんいたということくらいで、記述きじゅつはその敗走はいそうのものしかのこっていない。

『ブリトンじん歴史れきし』ではマーシアぐんへい逃亡とうぼうにより弱体じゃくたい同盟どうめいしゃであったキャダフェルは「夜間やかんうごいてのがれた」とある。ベーダによればデイアラのエゼルワルドはぐんき「安全あんぜんなところでった[1]」とある。この著述ちょじゅつ説明せつめいとして、ペンダが退却たいきゃくさい同盟どうめいぐんなかたたかいに消極しょうきょくてきなものがいたとするものとしめしておりペンダの同盟どうめいぐんそれぞれに遠征えんせい理由りゆうがあった証拠しょうこではないかとかんがえられている。またペンダが敗北はいぼく見捨みすてられた同盟どうめいぐん苦汁くじゅうをなめたことあらわしているとするせつもある。

豪雨ごううによりかわ増大ぞうだいし、ペンダひきいるマーシアぐん大敗たいはい、「30の指揮しきかんかれ支援しえんまわったものたちは逃亡とうぼうし、そのほとんど全員ぜんいんころされ(ベーダ)」、たたかいでんだしゃ以上いじょうかわおぼれ、マーシアおうペンダとひがしアングルおうエゼルヘレはころされた。ペンダのくびとされたとい、この記述きじゅつかれ遺体いたい自分じぶんくだしたオスワルドとおな仕打しうちをけたことにおわせている。12世紀せいき史家しかハンティングドンのヘンリーうには、ペンダはかつて自分じぶんおとしいれた人々ひとびとおなじような運命うんめい辿たどったのだとっている。

死後しご[編集へんしゅう]

ペンダの没後ぼつご勝利しょうりしゃオスウィは短期間たんきかんマーシアを支配しはいにおさめ、ペンダの息子むすこペーダはかれ庇護ひごもとみなみマーシアの支配しはいのみみとめられた。後年こうねんペンダのほかの息子むすこであるウルフヘレとエゼルレッドはマーシアおうこととなり、650年代ねんだいにマーシアをノーサンブリアの支配しはいから解放かいほうすることになる。ペンダの子孫しそん断絶だんぜつするのは曾孫そうそんのチェオルレッドのの716ねん、これ以降いこうはペンダの兄弟きょうだいエオワの血統けっとう王位おういことになる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ Coenwalh、一部いちぶではこの「コエンワルフ」はペンダが進攻しんこうして亡命ぼうめいさせたウェセックスおうチェンワルフ(Cenwalh)」とどう一人物いちじんぶつではないかと推測すいそくされている。
  2. ^ しかしベーダはマーシアに布教ふきょうにやってきた伝道でんどうしゃたちをペンダが迫害はくがいしていたとつたえている。
  3. ^ この場所ばしょ現在げんざいのスターリング、当時とうじオスウィの支配しはい地域ちいき北部ほくぶにあった場所ばしょ特定とくていされている。
  4. ^ 『ブリトンじん歴史れきし』ではペンダはった金銭きんせんをブリトンじん同盟どうめいしゃあたえたとあるが、べつ記述きじゅつ(ベーダ)では「オスウィのみんうえからしたまで根絶ねだやしにせんとする」ペンダはこの和平わへい交渉こうしょう拒否きょひしたとつたえている。
  5. ^ ベーダのげんおそらくこれは和平わへい交渉こうしょう一環いっかんだったのだろうとかんがえられている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 『イングランド教会きょうかいだい3かん14しょう
先代せんだい
チェルル
マーシアおう
4だい
626ねんごろ - 655ねん
次代じだい
ペーダ