600年 ねん 頃 ごろ のブリテン島 とう
キュネイルス (Cynegils 、? - 642年 ねん )は七 なな 王国 おうこく 時代 じだい のウェセックス 初期 しょき の王 おう 。伝統 でんとう 的 てき にはウェセックス王国 おうこく の王 おう とされているが、彼 かれ の出自 しゅつじ には曖昧 あいまい な点 てん が多 おお く、またウェセックス国内 こくない に同 どう 時代 じだい に王 おう が混在 こんざい していた形跡 けいせき もあり、分 わ からない点 てん が多 おお い。古 こ 英語 えいご での発音 はつおん は現代 げんだい 英語 えいご と異 こと なるために日本語 にほんご 表記 ひょうき は一定 いってい していない。彼 かれ の名 な はまたシネジルス とも書 か かれる事 こと がある。
伝統 でんとう 的 てき にキュネイルスはウェセックスの王 おう とされるが、彼 かれ の時代 じだい はいまだ国 くに の様相 ようそう が小 ちい さな部族 ぶぞく の連合体 れんごうたい の連立 れんりつ という体裁 ていさい から脱 だっ しきれておらず、また当時 とうじ の西 にし サクソン人 じん の支配 しはい 地域 ちいき (便宜上 べんぎじょう 、以下 いか 『西 にし サクソン王国 おうこく 』と呼 よ ぶ)は後 ご のウェセックス王国 おうこく とは大 おお きく異 こと なっていた。
後世 こうせい のウェセックス王国 おうこく はハンプシャー 、ドーセット 、サマセット 、ウィルトシャー を支配 しはい していたが、彼 かれ の時代 じだい はむしろ北部 ほくぶ に偏 かたよ っており、テムズ川 がわ 上 うえ 流域 りゅういき のドルチェスター (Dorchester-on-Thames)を中心 ちゅうしん としウィルトシャー 北部 ほくぶ 、サマセット、グロスターシャー 、オックスフォードシャー 、バークシャー 西部 せいぶ を領域 りょういき としていた。
この地域 ちいき は『ゲウィセ 』と呼 よ ばれた部族 ぶぞく の勢力 せいりょく 地 ち であり、彼 かれ の時代 じだい より100年 ねん 後 ご の時代 じだい に生 い きた歴史 れきし 家 か ベーダ・ヴェネラビリス も西 にし サクソン王国 おうこく の事 こと を「ゲウィセ」という名 な で呼 よ んでいる。またこの時代 じだい の西 にし サクソン王国 おうこく の支配 しはい 領域 りょういき は後 ご のマーシア王国 おうこく とウェセックス王国 おうこく を分 わ かつ境界 きょうかい 線 せん となった。
611年 ねん にキュネイルスは先王 せんおう チェオルウルフ の後 のち を継 つ ぎ王位 おうい に就 つ いた。彼 かれ とチェオルウルフがそのような関係 かんけい にあったのかは分 わ かっていない。西 にし サクソン王国 おうこく の資料 しりょう ではキュネイルスの位置 いち づけは以下 いか のような記述 きじゅつ がある。
チェオルウルフの息子 むすこ
チェオル の息子 むすこ
チェウリン の血統 けっとう につながるクタ の息子 むすこ であるチェオラの息子 むすこ
チェウリンの孫 まご にしてクスウィネ の息子 むすこ
クスウィンの孫 まご にしてクスウルフ の息子 むすこ
とこのように一定 いってい していない。しかし様々 さまざま な食 く い違 ちが いを見 み せる説 せつ の中 なか で、彼 かれ の兄弟 きょうだい に、後世 こうせい のウェセックス王 おう イネ の血統 けっとう の始祖 しそ となるチェオワルド がいた事 こと では一致 いっち している。後世 こうせい の9世紀 せいき にウェセックスで編纂 へんさん されたアングロサクソン年代 ねんだい 記 き では歴代 れきだい のウェセックス王 おう は単独 たんどく で統治 とうち した存在 そんざい という体面 たいめん をもって描 えが かれているが、むしろこの時代 じだい の国 くに の統治 とうち は2、3人 にん の王 おう で共有 きょうゆう されていたものと現在 げんざい では考 かんが えられている。
史料 しりょう による記述 きじゅつ [ 編集 へんしゅう ]
アングロサクソン年代 ねんだい 記 き の611年 ねん の項目 こうもく にこう書 か かれている。
「
この年 とし 、キュネイルスはウェセックスの国 くに を継 つ いだ。そして31もの冬 ふゆ を越 こ した。キュネイルスはチェオルの息子 むすこ 、チェオルはクタの息子 むすこ であり、クタはキュンリッチ の息子 むすこ である
」
同 おな じく年代 ねんだい 記 き の614年 ねん にはこう書 か かれている。
「
この年 とし キュネイルスとクウィチェルム はともにバンプトン(Bampton)で戦 たたか い、2000と46のウェールズ人 じん を屠 ほふ った。
」
この項目 こうもく の記述 きじゅつ に矛盾 むじゅん してベーダ によれば、626年 ねん にノーサンブリア王 おう エドウィン の暗殺 あんさつ が西 にし サクソン王 おう クウィチェルム によって試 こころ みられたとある。このクウィチェルムがキュネイルスと同 どう 時代 じだい の620年代 ねんだい のウェセックス王 おう であり、またキュネイルスとともにキリスト教 きりすときょう に帰依 きえ し洗礼 せんれい を受 う けた人物 じんぶつ であったかは意見 いけん が分 わ かれている。一部 いちぶ では、このクウィチェルムはキュネイルスの息子 むすこ ではなかったかと憶測 おくそく されている。
キュネイルスはクウィチェルムとともに628年 ねん サイレンスター にてマーシア王 おう ペンダ と戦 たたか った。年代 ねんだい 記 き ではキュネイルスの勝利 しょうり のように書 か かれているが事実 じじつ では敗戦 はいせん であり、ペンダの勝利 しょうり であったようである[1] 。この時 とき までにキュネイルスとクウィチェルムはエドウィン に臣従 しんじゅう した模様 もよう であり、大 だい 規模 きぼ な土地 とち が貢 みつぎ 納 おさめ として上納 じょうのう されたと言 い う。
630年代 ねんだい に聖 せい ビリヌス が首都 しゅと ドルチェスターに住居 じゅうきょ を構 かま え、キュネイルスとクウィチェルムがともに洗礼 せんれい を受 う け、バーニシア王 おう オスワルド を名付 なづ け親 おや としたとされる。もう一人 ひとり のウェセックス王 おう クスレッド は661年 ねん 頃 ころ に没 ぼっ したものと思 おも われる。名付 なづ け親 おや となったオスワルドはキュネイルスの娘 むすめ と結婚 けっこん した。娘 むすめ の名 な は分 わ かってはいないが、後世 こうせい 12世紀 せいき の修道 しゅうどう 士 し ダラムのレイナルド (Reginald of Durham)は彼女 かのじょ の名 な はキュネブルガ(Kyneburga、Cyneburg)であったと言 い う。このキリスト教 きりすときょう の洗礼 せんれい は後 ご の世代 せだい に影響 えいきょう を与 あた え、次期 じき の王 おう にして息子 むすこ とされるチェンワルフ [2] はペンダにより故国 ここく 西 にし サクソン王国 おうこく を追 お われてからの646年 ねん になるまで洗礼 せんれい は受 う ける事 こと はなかった。
キュネイルスの没年 ぼつねん は分 わ かっていない。ベーダによると彼 かれ の王位 おうい はチェンワルフによって継 つ がれたとされ、それは643年 ねん の事 こと であったと言 い う。
チェンワルフとオスワルドに嫁 とつ いだ娘 むすめ のほかに、キュネイルスにはクウィチェルムという息子 むすこ がいたとされるが、彼 かれ が前述 ぜんじゅつ の史書 ししょ に残 のこ されている王 おう と行動 こうどう をともにしたクウィチェルムであるかどうかは分 わ からない。後 のち に王位 おうい を継 つ ぐチェントウィン はキュネイルスの息子 むすこ であるかと言 い われているが、この記述 きじゅつ の出所 しゅっしょ は後 こう 付 づけ によるものである可能 かのう が強 つよ い。
^ アングロサクソン年代 ねんだい 記 き に「キュネイルスとクウィチェルム(Cwichelm)はサイレンスターにてペンダと戦 たたか い、合意 ごうい に達 たっ した」と書 か かれている
^ キュネイルスとチェンワルフの血縁 けつえん 関係 かんけい は史料 しりょう によって食 く い違 ちが っており、一致 いっち していない。詳 くわ しくはチェンワルフ (ウェセックス王 おう ) を参照 さんしょう の事 こと 。