サン・ハビエル伝道 でんどう 所 しょ の聖堂 せいどう
ボリビアのイエズス会 かい 伝道 でんどう 所 しょ 群 ぐん は、スペイン による植民 しょくみん 地 ち 化 か の過程 かてい で、イエズス会 かい によって建造 けんぞう された伝道 でんどう 用 よう の集落 しゅうらく 群 ぐん である。それらは、ボリビア 国内 こくない でも、特 とく にサンタクルス県 けん 北部 ほくぶ やベニ県 けん に見 み られる。そのうち、サンタクルス県 けん チキトス 地方 ちほう に残 のこ る伝道 でんどう 所 しょ 群 ぐん は「チキトスのイエズス会 かい 伝道 でんどう 所 しょ 群 ぐん 」として、ユネスコ の世界 せかい 遺産 いさん に登録 とうろく されている。
スペインがボリビアを入植 にゅうしょく したときには、様々 さまざま な会派 かいは の修道 しゅうどう 士 し たちが、12使徒 しと になぞらえうる新大陸 しんたいりく の伝道 でんどう 活動 かつどう に参加 さんか した。彼 かれ らが作 つく った建造 けんぞう 物 ぶつ ・集落 しゅうらく 群 ぐん は「ミシオネス」(Misiones) あるいは「レドゥクシオネス」(Reducciones) と呼 よ ばれた。日本語 にほんご では「伝道 でんどう 所 しょ 」「伝道 でんどう 施設 しせつ 」「布教 ふきょう 村 むら 」などの訳 わけ が当 あ てられる。伝道 でんどう 所 しょ の建設 けんせつ に熱心 ねっしん だったのは、イエズス会 かい とフランシスコ会 かい である。イエズス会 かい 士 し たちによって建 た てられた施設 しせつ 群 ぐん は、特 とく にチキトス 地方 ちほう の人々 ひとびと の歴史 れきし にとって、逸 いっ することの出来 でき ない足跡 あしあと を残 のこ している。
イグナチオ・デ・ロヨラ によって創設 そうせつ され、ローマ教皇 きょうこう パウルス3世 せい によって認 みと められたイエズス会 かい は、1540年 ねん 以降 いこう 、その伝道 でんどう 施設 しせつ を新大陸 しんたいりく に築 きず き、先住民 せんじゅうみん への宣教 せんきょう を企図 きと した。その活動 かつどう のために様々 さまざま な地 ち を巡 めぐ った結果 けっか 、征服 せいふく 者 しゃ たちの新 あら たな領土 りょうど の発見 はっけん に結 むす びついたこともあった。ボリビアでの宣教 せんきょう は、有名 ゆうめい な黄金 おうごん 郷 きょう 伝説 でんせつ エル・ドラード あるいはパイ・ティティの調査 ちょうさ にも大 おお きく影響 えいきょう されていたと考 かんが えられている。
伝道 でんどう 所 しょ 建設 けんせつ の歴史 れきし [ 編集 へんしゅう ]
ボリビアでイエズス会 かい 伝道 でんどう 所 しょ が建設 けんせつ され始 はじ めたのは17世紀 せいき 末 まつ のことである。それは主 しゅ としてサンタクルス県 けん 北部 ほくぶ のチキトス地方 ちほう とベニ県 けん のモホス (Moxos) で行 おこな われた。
最初 さいしょ の伝道 でんどう 所 しょ はサン・フランシスコ・ハビエル 伝道 でんどう 所 しょ (Misión de San Francisco Xavier) で、建設 けんせつ は1691年 ねん のことだった。続 つづ いて1696年 ねん にはサン・ラファエル伝道 でんどう 所 しょ (Misión de San Rafael) が建 た てられ、1698年 ねん にはイエズス会 かい 士 し フェリペ・スアレス (Felipe Suárez) によってサン・ホセ伝道 でんどう 所 しょ (Misión de San José) が建 た てられた。さらに、宣教 せんきょう の過程 かてい でサン・フアン・バウティスタ伝道 でんどう 所 しょ (Misión de San Juan Bautista, 1699年 ねん )、コンセプシオン伝道 でんどう 所 しょ (Misión de Concepción, 1709年 ねん )、サン・イグナシオ・デ・サムコス(Misión San Ignacio de Zamucos, 1724年 ねん )などが相次 あいつ いで建 た てられた。最後 さいご のものは1745年 ねん に放棄 ほうき されたが、その後 ご もサン・イグナシオ伝道 でんどう 所 しょ (Misión de San Ignacio, 1748年 ねん )、サンティアゴ伝道 でんどう 所 しょ (Misión de Santiago, 1754年 ねん )、サンタ・アナ伝道 でんどう 所 しょ (Misión de Santa Ana, 1755年 ねん )などが建 た てられた。最後 さいご に建 た てられたのは、1760年 ねん のサント・コラソン伝道 でんどう 所 しょ (Misión de Santo Corazón) である。
イエズス会 かい の退去 たいきょ 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
1767年 ねん に、スペイン王 おう カルロス3世 せい は、イエズス会 かい をスペインとアメリカ大陸 あめりかたいりく から追放 ついほう することにした。それというのは、アメリカ大陸 あめりかたいりく の伝道 でんどう 所 しょ 群 ぐん の、管理 かんり が行 い き届 とど いて繁栄 はんえい している土地 とち を取 と り込 こ もうとした人々 ひとびと が、国王 こくおう に迫 せま り、彼 かれ はそれに抗 こう しきれなくなったためである。ポルトガル もまた同様 どうよう であり、つまりはボリビアの隣国 りんごく ブラジル でもイエズス会 かい の追放 ついほう が起 お こった。その結果 けっか 、パラグアイ 、アルゼンチン 、ブラジル、ボリビアなどでは、それまで伝道 でんどう 所 しょ でイエズス会 かい の庇護 ひご を受 う けていた先住民 せんじゅうみん たちが大 おお きな苦難 くなん に直面 ちょくめん することになった。イエズス会 かい の目覚 めざま しい働 はたら きが、略奪 りゃくだつ 者 しゃ や不信心 ふしんじん 者 しゃ たちに蹂躙 じゅうりん されることになったからである。
アルゼンチン、パラグアイ、ブラジルなどでは、伝道 でんどう 所 しょ の落日 らくじつ はすぐにやってきた。しかし、ボリビアでは、徐々 じょじょ に衰退 すいたい していったとはいえ、現在 げんざい まで脈々 みゃくみゃく と維持 いじ されてきたのである。
建築 けんちく 様式 ようしき : 現地 げんち の様式 ようしき との「混血 こんけつ 」[ 編集 へんしゅう ]
コンセプシオン伝道 でんどう 所 しょ の聖堂 せいどう 内部 ないぶ
スイス人 じん のイエズス会 かい 宣教師 せんきょうし マルティン・シュミット (Martin Schmit) は、建築 けんちく 家 か でもあり音楽家 おんがくか でもあった人物 じんぶつ で、「混血 こんけつ の」バロック様式 ようしき で建 た てられた伝道 でんどう 所 しょ の大変 たいへん 美 うつく しい聖堂 せいどう 群 ぐん は、彼 かれ に多 おお くを負 お っている。
それらの建築 けんちく に当 あ たっては、木材 もくざい などの地元 じもと の資材 しざい が用 もち いられた。円柱 えんちゅう は印象 いんしょう 的 てき なもので、バニャドス・デ・オロ(Bañados de Oro, 「金 きん メッキを施 ほどこ されたもの」)と呼 よ ばれる金色 きんいろ のまばゆい祭壇 さいだん もある。壁面 へきめん の絵画 かいが もこれまた素晴 すば らしいものである。聖人 せいじん たちの彫刻 ちょうこく は、今 いま でも伝統 でんとう を守 まも っている工房 こうぼう に根付 ねつ く「混血 こんけつ の」美術 びじゅつ 様式 ようしき に引 ひ き継 つ がれた。
バロック様式 ようしき と地元 じもと のつとめて装飾 そうしょく 性 せい に乏 とぼ しい様式 ようしき の組 く み合 あ わせが、チキトスなどでの真 しん の芸術 げいじゅつ 的 てき 試 こころ みを創出 そうしゅつ した。この試 こころ みは、信者 しんじゃ たちの混交 こんこう によってなおも洗練 せんれん されていき、その結果 けっか 、全 まった くの独自 どくじ な美 うつく しい様式 ようしき が、創出 そうしゅつ から3世紀 せいき 以上 いじょう を経 へ た今 いま でもなお伝 つた えられている。
建造 けんぞう 物 ぶつ 群 ぐん の中 なか でも土台 どだい となっているのは、最初 さいしょ に建 た てられたサン・ハビエル伝道 でんどう 所 しょ である。このシェーマが、他 た の伝道 でんどう 所 しょ 群 ぐん の中 なか においても、変化 へんか を伴 ともな いつつ繰 く り返 かえ されている。サン・ハビエル伝道 でんどう 所 しょ は、教会 きょうかい 、作業場 さぎょうば 、学校 がっこう 、住居 じゅうきょ などが並 なら ぶ広大 こうだい な地区 ちく を伴 ともな うモジュール 式 しき の構造 こうぞう になっており、特殊 とくしゅ な建築 けんちく 様式 ようしき の土台 どだい であると同時 どうじ に、都市 とし の建造 けんぞう 物 ぶつ 群 ぐん の配置 はいち の原型 げんけい にもなっている。
教会 きょうかい は3つの身 み 廊 ろう から成 な り、シンプルな木製 もくせい の屋根 やね は美 うつく しく堂々 どうどう とした柱 はしら に支 ささ えられている。クチ (Cuchi) という木 き で作 つく られた柱 はしら は念入 ねんい りに加工 かこう され、信 しん じられないほどの堅牢 けんろう さと耐久 たいきゅう 性 せい を備 そな えている。そして、それらの柱 はしら と屋根 やね は、あたかも壁 かべ から独立 どくりつ した自律 じりつ 的 てき なシステムであるかのようである。
火山岩 かざんがん の使用 しよう についても触 ふ れておこう。建造 けんぞう 物 ぶつ 群 ぐん には石造 せきぞう のものもあり、それらも節度 せつど ある美 うつく しさを備 そな えている。いずれも、美 うつく しい作品 さくひん を思 おも い描 えが き、作 つく り上 あ げた先住民 せんじゅうみん の芸術 げいじゅつ 的 てき 熟練 じゅくれん を示 しめ している。
教会 きょうかい 内部 ないぶ の絵画 かいが についていえば、チベット仏教 ぶっきょう やヒンドゥー教 きょう の寺院 じいん で使 つか われる色彩 しきさい に近 ちか い色 いろ を基礎 きそ にして描 えが かれている。
聖堂 せいどう などの建築 けんちく 物 ぶつ が今 いま なお維持 いじ されているおかげで、1990年 ねん に、チキトス地方 ちほう のイエズス会 かい 伝道 でんどう 所 しょ は、ユネスコの世界 せかい 遺産 いさん に登録 とうろく された。世界 せかい 遺産 いさん の対象 たいしょう となったのは、チキトスに残 のこ る6つの伝道 でんどう 所 しょ サン・フランシスコ・ハビエル(サン・ハビエル)、コンセプシオン、サンタ・アナ、サン・ミゲル、サン・ラファエル、サン・ホセである。
それを踏 ふ まえて、ボリビア当局 とうきょく と非 ひ 営利 えいり 組織 そしき は、チキトスでの一大 いちだい 観光 かんこう プログラム「チキトスのルネサンス ・バロック 音楽 おんがく 祭 さい 」を始動 しどう した。
この世界 せかい 遺産 いさん は世界 せかい 遺産 いさん 登録 とうろく 基準 きじゅん のうち、以下 いか の条件 じょうけん を満 み たし、登録 とうろく された(以下 いか の基準 きじゅん は世界 せかい 遺産 いさん センター公表 こうひょう の登録 とうろく 基準 きじゅん からの翻訳 ほんやく 、引用 いんよう である)。
(4) 人類 じんるい の歴史 れきし 上 じょう 重要 じゅうよう な時代 じだい を例証 れいしょう する建築 けんちく 様式 ようしき 、建築 けんちく 物 ぶつ 群 ぐん 、技術 ぎじゅつ の集積 しゅうせき または景観 けいかん の優 すぐ れた例 れい 。
(5) ある文化 ぶんか (または複数 ふくすう の文化 ぶんか )を代表 だいひょう する伝統 でんとう 的 てき 集落 しゅうらく 、あるいは陸上 りくじょう ないし海上 かいじょう 利用 りよう の際立 きわだ った例 れい 。もしくは特 とく に不 ふ 可逆 かぎゃく 的 てき な変化 へんか の中 なか で存続 そんぞく が危 あや ぶまれている人 ひと と環境 かんきょう の関 かか わりあいの際立 きわだ った例 れい 。
サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ からサン・ハビエル伝道 でんどう 所 しょ へ - 221 km(アスファルト舗装 ほそう 済 ずみ )
サン・ハビエルからコンセプシオン伝道 でんどう 所 しょ へ - 69 km(舗装 ほそう 済 ずみ )
コンセプシオンからサン・イグナシオ伝道 でんどう 所 しょ へ - 178 km(舗装 ほそう 済 ずみ )
サン・イグナシオからサン・ミゲル、サン・ラファエル、サンタ・アナ各 かく 伝道 でんどう 所 しょ へ - 159 km(舗装 ほそう 道路 どうろ は半分 はんぶん )
サン・イグナシオからサン・ホセ・デ・チキトス (チキトスの主 しゅ 都 と )- 206 km (舗装 ほそう 済 ずみ )