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ボルコ2せいマウィ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ボルコ2せいマウィ
Bolko II Mały
シフィドニツァおおやけ
ヤヴォルルヴヴェクおおやけ
ルサティアおおやけ
ボルコ2せい墓石はかいし彫像ちょうぞう中世ちゅうせい彩色さいしき復元ふくげんこころみたもの
在位ざいい シフィドニツァおおやけ1326ねん - 1368ねん
ヤヴォルルヴヴェクおおやけ1346ねん - 1368ねん
ルサティアおおやけ1364ねん - 1368ねん

出生しゅっしょう 1312ねんころ
死去しきょ 1368ねん7がつ28にち
埋葬まいそう グリュッサウ修道院しゅうどういん
配偶はいぐうしゃ アグネス・フォン・ハプスブルク
家名かめい シロンスク・ピャスト
父親ちちおや シフィドニツァこうベルナルト
母親ははおや クネグンダ・ウォキェトクヴナ
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ボルコ2せいマウィ(16世紀せいき

ボルコ2せいマウィ(Bolko II Mały、1312ねんごろ - 1368ねん7がつ28にち)は、シロンスク・ピャスト最後さいご独立どくりつ諸公しょこうシフィドニツァおおやけ在位ざいい1326ねん - 1368ねん)、ヤヴォルルヴヴェクおおやけ在位ざいい1346ねん - 1368ねん)、ルサティアおおやけ在位ざいい1364ねん - 1368ねん)、ブジェクはんくにおよオワヴァおおやけ在位ざいい1358ねん - 1368ねん)、シェヴィエシュおおやけ在位ざいい1359ねん - 1368ねん)、グウォグフはんくにおよシチナヴァはんこくおおやけ在位ざいい1361ねん - 1368ねん)。シフィドニツァこうベルナルト長男ちょうなんははポーランドおうヴワディスワフ1せいむすめクネグンダ。マウィ(Mały)は「ちいさい」を意味いみする異称いしょう

生涯しょうがい

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公国こうこく独立どくりつ確保かくほこころ

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1326ねんちちぬとボルコ2せいのこりょう継承けいしょうしたが、おとうとヘンリク2せい共同きょうどう統治とうちしゃとした。公爵こうしゃく兄弟きょうだいはまだどちらも10代だったため、ははクネグンダ、父方ちちかた叔父おじであるヤヴォルおおやけヘンリク1せい、ジェンビツェこうボルコ2せい後見人こうけんにんとなった。ザクセン=ヴィッテンベルクおおやけルドルフ1せいのちザクセンせんみかどこう)と再婚さいこんしていたはは1331ねんくなると、ボルコ2せい親政しんせい開始かいしした。

ボルコ2せい親政しんせい開始かいしすぐに直面ちょくめんしたのが、みずからのりょうするしょう公国こうこく独立どくりつたもつという問題もんだいだった。ポーランドの分裂ぶんれつ状態じょうたいが、ポーランド王国おうこくにもその近隣きんりん諸国しょこくにもぞくそうとしない自主じしゅ独立どくりつ気風きふうんでいたのである。当時とうじシロンスクしょ公国こうこく支配しはいおさめようとねらっていたのが、ボヘミアおうヨハン・フォン・ルクセンブルクだった。1329ねん、ヨハンはシフィドニツァこうみずからの宗主そうしゅけんみとめさせようという最初さいしょこころみをおこなった。ヨハンはすでにほぼすべてのシロンスク諸公しょこうふうじしんとして、どう地域ちいきおおきな影響えいきょうりょくつようになっていた。しかし、2人ふたり諸公しょこうだけはボヘミアにひざくっするのをこばんだ。ボルコ2せいとそのいもうとコンスタンツィアおっとグウォグフおおやけプシェムコ2せいである。

ボルコ2せい公国こうこく独立どくりつ維持いじにはもっとおおくの軍勢ぐんぜい必要ひつようだとさとり、ハンガリーおうカーロイ1せい宮廷きゅうていおもむき、自分じぶん独立どくりつ主権しゅけんまもってもらうことを確約かくやくされた。その直後ちょくご、ボルコ2せい母方ははかた祖父そふであるポーランドおうヴワディスワフ1せい交流こうりゅうつようになり、1329ねんには伯母おばベアトリチェおっと神聖しんせいローマ皇帝こうてい即位そくいしたばかりだったルートヴィヒ4せいもとたずねている。

ボヘミアおう圧迫あっぱく近隣きんりん諸国しょこくとのはんボヘミア同盟どうめい結成けっせい

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だが、ボヘミアおうヨハンの圧力あつりょくからまもろうとするボルコ2せいこころみは失敗しっぱいし、ヨハンは1331ねんドイツ騎士きしだん同盟どうめいして(騎士きしだんはポーランドを足止あしどめする役割やくわりになった)、シレジア遠征えんせいした。この時期じきのボルコ2せい行動こうどうくわしくわかっていないが、ヨハンのシレジア進軍しんぐんはさほど容易よういなものではなかった。ニェムチャ包囲ほういとグウォグフでの攻防こうぼうせん予想よそうしたよりながくかかり、おまけにボヘミア国王こくおうぐん和議わぎであったカリシュ到着とうちゃくするのがおくれてしまった。結局けっきょく、ボヘミアおう自国じこく領域りょういき併合へいごう出来できたのはグウォグフ公国こうこくのみだった。

1336ねん、ボルコ2せい同名どうめい叔父おじであるジェンビツェこうボルコ2せいがボヘミアおう臣従しんじゅうし、ジェンビツェこう臣従しんじゅうえにグラーツぐん獲得かくとくした。この臣従しんじゅうはポーランドのしん国王こくおうカジミェシュ3せいが、シロンスクにたいする要求ようきゅうけん一部いちぶ放棄ほうきしたことにじょうじておこなわれたものであった。

孤立こりつじょうきょうまれながら、ボルコ2せいはポーランド、ハンガリーとともはんボヘミア同盟どうめい結成けっせいするための策動さくどうつづけた。みずからの国際こくさいてき地位ちいたかめるため、1338ねん6月1にち、ボルコ2せいハプスブルク一員いちいんであるオーストリアこうレオポルト1せいむすめアグネス結婚けっこんした。ハプスブルクルクセンブルク主要しゅようなライバルであり、オーストリアシュタイアーマルク獲得かくとくしてちからしていた新興しんこう貴族きぞく家門かもんであった。地位ちい向上こうじょうはやくも効果こうかあらわし、ボルコ2せい領国りょうごく商人しょうにんたちハールィチ周辺しゅうへんまで取引とりひき範囲はんいひろげることが出来できるようになった。1345ねん1がつ1にち、ボルコ2せい外交がいこう努力どりょくむすび、神聖しんせいローマ皇帝こうていルートヴィヒ4せい、ポーランドおうカジミェシュ3せい、ハンガリーおうラヨシュ1せい(カーロイ1せい息子むすこ)の公式こうしき同盟どうめい成立せいりつした。

ポーランドおうカジミェシュ3せいによるボヘミア遠征えんせい

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この直後ちょくご、ポーランドおうカジミェシュ3せい自分じぶん利益りえきのためにはんボヘミア同盟どうめい利用りようすることになった。カジミェシュ3せいはボヘミアおうヨハンの長男ちょうなんであるモラヴィア辺境へんきょうはくカール皇帝こうていカール4せい)を投獄とうごくした。ヨハンは報復ほうふくとしてボルコ2せい領国りょうごく侵略しんりゃくし、たいするポーランドとハンガリーはボヘミアに宣戦せんせんした。ボルコ2せいシフィドニツァ包囲ほういちゅうのボヘミアぐんかく方面ほうめん分散ぶんさんしたのを好機こうきとして、ボヘミアぐん撃退げきたいすることが出来できた。しかし、神聖しんせいローマ皇帝こうていルートヴィヒ4せいはすぐにボヘミアおうとの一時いちじてき休戦きゅうせん条約じょうやくむすんだ。戦況せんきょう一進一退いっしんいったいかえし、どちらの陣営じんえい相手あいて決定けっていくだすことが出来できなかった。シフィドニツァ公国こうこくかんしては、ボルコ2せいは1345ねんカミェンナ・グラ要塞ようさいうしなったが、1348ねん姦計かんけいもちい、商人しょうにん変装へんそうさせた兵士へいしたちをおくんで、この要塞ようさいもどした。

ボヘミアおうヨハンは1346ねんひゃくねん戦争せんそう最中さいちゅうクレシーのたたか戦死せんししていたため、ちゅうおうでの戦争せんそう終結しゅうけつることは出来できなかった。ルートヴィヒ4せいよく1347ねん死去しきょ1348ねん11月22にちナムィスウフやくむすばれ、戦争せんそう結局けっきょくけにわった。このとき理由りゆう不明ふめいだが、ボルコ2せい交渉こうしょうけんみとめられず、シフィドニツァ公国こうこく利益りえきはポーランドおう代表だいひょうすることになった。ボルコ2せいとボヘミアのしん国王こくおうである神聖しんせいローマ皇帝こうていカール4せい関係かんけい正常せいじょうは、1350ねん8がつ16にち、オーストリアこうアルブレヒト2せいによる調停ちょうていによってようやく実現じつげんした。

ルクセンブルクのカール4せいとの決着けっちゃく

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1350ねんやく調印ちょういんしたのち、ボルコ2せいはポーランドおうカジミェシュ3せい、ハンガリーおうラヨシュ1せいとの友好ゆうこう関係かんけい犠牲ぎせいにせぬよう注意深ちゅういぶかくではあるが、ルクセンブルクへの接近せっきんはじめた。1346ねん唯一ゆいいつのこっていた叔父おじのヤヴォルこうヘンリク1せいぬと、ボルコ2せいはそののこりょうであるヤヴォル=ルヴヴェク公国こうこく相続そうぞくした。その直前ちょくぜん、ボルコ2せいおとうとばかりの共同きょうどう統治とうちしゃだったヘンリク2せいが、一人娘ひとりむすめアンナのこしてんでいた。ボルコ2せいはこのめい後見人こうけんにんとなり、ゆくゆくは彼女かのじょ自分じぶん公国こうこく相続そうぞくさせようとかんがえだした。

1350ねん12月13にち、11さいのアンナと、カール4せい長男ちょうなんわず生後せいご11かげつのヴェンツェルの婚約こんやく成立せいりつした。婚約こんやく契約けいやくによれば、アンナとヴェンツェルは、ボルコ2せい今後こんご子供こどもをもうけなかった場合ばあい(その見込みこみがつよかった)、そののこりょう相続そうぞくすることがめられた(ただし、ボルコ2せいつまアグネスがおっと遺言ゆいごんによって公国こうこく寡婦かふりょうとして獲得かくとくした場合ばあいは、彼女かのじょ死後しご公国こうこく相続そうぞくするという規定きていまれていた)。しかし婚約こんやくから15にち12月28にち、ヴェンツェルが急死きゅうししたため婚約こんやく白紙はくしもどった。しかし、カール4せいはボルコ2せい遺産いさん平和へいわてきかたち獲得かくとくする計画けいかくを、あきらめてはいなかった。

としけて1353ねん2がつ2にちアンナ・フォン・デア・プファルツ息子むすこヴェンツェルののちうようにくなると、カール4せいはボルコ2せい公国こうこく入手にゅうしゅするためのつぎなるった。つま死後しごまもなく、カール4せいはボルコ2せいにそのめいとの再婚さいこん打診だしんし、婚約こんやく成立せいりつさいして以前いぜん婚前こんぜん契約けいやくさい発効はっこうさせたのである。結婚式けっこんしきは1353ねん5月27にち、ハンガリーの首都しゅとブダ(アンナはちち死後しごはは実家じっかられていた)でおこなわれた。参列さんれつしゃはオーストリアこうアルブレヒト2せい、ハンガリーおうラヨシュ1せいブランデンブルク辺境へんきょうはくルートヴィヒ3せい、ザクセンせんみかどこうルドルフ1せいのほか、ポーランドおうカジミェシュ3せい使節しせつヴェネツィア共和きょうわこく使節しせつなど錚々たるかおぶれであった。

カール4せいとの協調きょうちょうりょう拡大かくだい

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カール4せいとの政治せいじじょう親密しんみつ協力きょうりょく関係かんけいは、ボルコ2せいにかなりの利益りえきをもたらし、領土りょうど拡張かくちょうめんではおおいに恩恵おんけいけることになった。領内りょうない経済けいざいてき繁栄はんえい背景はいけいに、ボルコ2せい財政難ざいせいなんなやむシロンスクのほか諸公しょこうからおおくの領土りょうどった。1358ねんにはレグニツァこうヴァツワフ1せいから、ズウォティ・ストク金鉱きんこうブジェク半分はんぶんオワヴァ購入こうにゅうした。その直後ちょくご、シチナヴァこうヤンからシチナヴァ半分はんぶんっている。1359ねん皇帝こうていはボルコ2せいフリードラントふくむボヘミアの国境こっきょう地域ちいき購入こうにゅうすることを許可きょかした。同年どうねん、ボルコ2せいはチェシンこうプシェミスワフ1せいノシャクからシェヴィエシュを2300グジヴナでった。よく1360ねんにはケンティ・ヴロツワフスキェ購入こうにゅうした。

またこのとし、カール4せいとボルコ2せい良好りょうこう関係かんけいこうそうし、グウォグフこうプシェムコ2せい未亡人みぼうじんとして30ねんちかくをごしたボルコ2せいいもうとコンスタンツィアが、ボヘミアに支配しはいされていたグウォグフはんこく領有りょうゆうみとめられた(もう半分はんぶんはジャガンこうが1349ねん獲得かくとくしていた)。1361ねんすで修道しゅうどうおんなとなっていたコンスタンツィアは、グウォグフはんこくあにボルコ2せい譲渡じょうとした。皇帝こうていはいずれ領地りょうちもどせるはずだったため、かれがグウォグフを獲得かくとくするのをのぞんだ。

ボルコ2せいにとって破格はかく不動産ふどうさんとなったのは、1364ねん4がつ14にちぎん2まん1000グジヴナという大枚たいまいをはたいて皇帝こうていからったラウジッツ(ルサティア)近郊きんこう大都市だいとしおよ周辺しゅうへん領地りょうちである。この領地りょうちはボルコ2せい財産ざいさんなかでももっと重要じゅうようかつ高級こうきゅうなものだった。

同年どうねん、ボルコ2せいクラクフ会議かいぎ主賓しゅひん君主くんしゅ1人ひとりとしてまねかれた。公爵こうしゃくはそこで、ポーランドおうカジミェシュ3せい主人しゅじんやくつとめ、ハンガリーおうラヨシュ1せいデンマークおうヴァルデマー3せいキプロスおうピエール1せい、オポーレこうヴワディスワフ、スウプスクこうボグスワフ5せいらが出席しゅっせきした高名こうみょうな「ヴィエルジネクの祝宴しゅくえん」に参加さんかしている。

1368ねん7がつ28にち、56さいくなり、グリュッサウ修道院しゅうどういん埋葬まいそうされた。ボルコ2せいヴワディスワフ2せい亡命ぼうめいこう)を始祖しそとするシロンスク諸公しょこうなかで、最後さいご独立どくりつ諸公しょこうとなった。公国こうこくつまアグネスが1392ねんぬまで管理かんりしたが、そのはカール4せいとボルコのめいアンナとのあいだまれたローマおうヴェンツェルによって、ボヘミア王国おうこく併合へいごうされた。

外部がいぶリンク

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先代せんだい
ベルナルト
シフィドニツァこう
ヘンリク2せい共同きょうどう統治とうち(1345ねんまで)

1326ねん - 1368ねん
次代じだい
アグネス
先代せんだい
ヘンリク1せい
ヤヴォルこう
1346ねん - 1368ねん
ルヴヴェクこう
1346ねん - 1368ねん
先代せんだい
ヴァツワフ1せい
ブジェクこうはんこく
1358ねん - 1368ねん
次代じだい
ルドヴィク1せい
先代せんだい
プシェミスワフ1せいノシャク
シェヴィエシュこう
1359ねん - 1368ねん
次代じだい
プシェミスワフ1せいノシャク
先代せんだい
コンスタンツィア
グウォグフこうはんこく
1361ねん - 1368ねん
次代じだい
ボヘミア王国おうこくによる併合へいごう
称号しょうごうのみ
プシェミスワフ1せいノシャク
先代せんだい
ヤン
シチナヴァこうはんこく
1365ねん - 1368ねん