マグヌス1世 せい (Magnus I., 1470年 ねん 1月 がつ 1日 にち - 1543年 ねん 8月 がつ 1日 にち )は、ザクセン=ラウエンブルク 公 おおやけ (在位 ざいい :1507年 ねん - 1543年 ねん )。
マグヌス1世 せい はザクセン=ラウエンブルク 公 おおやけ ヨハン5世 せい とブランデンブルク選 せん 帝 みかど 侯 こう フリードリヒ2世 せい の娘 むすめ ドロテア・フォン・ブランデンブルクの次男 じなん としてラッツェブルクで生 う まれた。
1481年 ねん 、父 ちち ヨハン5世 せい は、1407年 ねん 以降 いこう 3,000ラインギルダーの担保 たんぽ としてハンブルク に質入 しちい れされていたザクセン=ラウエンブルクの飛 と び地 ち ラント・ハーデルンを買 か い戻 もど した。その後 ご 、ヨハン5世 せい は息子 むすこ マグヌス1世 せい をハーデルンの副 ふく 摂政 せっしょう に任命 にんめい し、1498年 ねん には摂政 せっしょう とした。
ラント・ハーデルンの支配 しはい [ 編集 へんしゅう ]
1484年 ねん 、マグヌス1世 せい は収入 しゅうにゅう を増 ふ やすため、ヴェーザー川 がわ 河口 かこう の北海 ほっかい の湿地 しっち にあったフリース人 じん の自由 じゆう 農民 のうみん の事実 じじつ 上 じょう の自治領 じちりょう である豊 ゆた かなラント・ヴルステンを征服 せいふく しようと手 て を伸 の ばしたが、失敗 しっぱい した。マグヌスは、1180年 ねん にザクセン公 こう ハインリヒ獅子 しし 公 こう が皇帝 こうてい により廃位 はいい されてザクセン公 おおやけ 領 りょう が分割 ぶんかつ され、アスカーニエン家 か が縮小 しゅくしょう されたザクセン公 おおやけ 領 りょう を与 あた えられるまでヴルステンもザクセン領 りょう であったという口実 こうじつ により、自分 じぶん の暴力 ぼうりょく 行為 こうい を正当 せいとう 化 か しようとした。一方 いっぽう でブレーメン大司教 だいしきょう はヴルステンを大司教 だいしきょう 領 りょう であると主張 しゅちょう し、警戒 けいかい した。
マグヌスは摂政 せっしょう になった後 のち 、ヴルステン征服 せいふく を再 ふたた び新 あら たに計画 けいかく した。1498年 ねん 11月24日 にち 、マグヌスは父 ちち ヨハン5世 せい およびブラウンシュヴァイク=リューネブルク 公 おおやけ ハインリヒ4世 せい と同盟 どうめい を結 むす び、ヴルステンを征服 せいふく した。ハインリヒ4世 せい は3,000人 にん の傭兵 ようへい を送 おく り、傭兵 ようへい らは征服 せいふく に成功 せいこう した後 のち にヴルステンの自由 じゆう 農民 のうみん を略奪 りゃくだつ することで報酬 ほうしゅう を得 え ることとなっていた。ブレーメン大司教 だいしきょう ヨハン・ローデはこれに備 そな え、ハンブルクの3人 にん の市長 しちょう (次期 じき 、現任 げんにん 、前任 ぜんにん )である、ヨハネス・フーゲ、ヘルメン・ランゲンベック、ヘニング・ブリングと11月16日 にち に防衛 ぼうえい 同盟 どうめい を締結 ていけつ した。ハンブルクは、エルベ川 がわ 経由 けいゆ でハンブルクへの自由 じゆう な往来 おうらい を守 まも るための軍事 ぐんじ 前哨 ぜんしょう 基地 きち であった飛 と び地 ち リッツビュッテル を失 うしな うことを恐 おそ れ、この都市 とし はマグヌスの攻撃 こうげき に備 そな える拠点 きょてん となった。
ローデはブレーメン、ハンブルク、シュターデの市民 しみん らに訴 うった え、市民 しみん はエルベ川 がわ とヴェーザー川 がわ の下 しも 流域 りゅういき が自由 じゆう な海上 かいじょう 貿易 ぼうえき のための場 ば と考 かんが えたため、3都市 とし はローデを支持 しじ し、ローデはさらにディットマールシェンの自由 じゆう 農民 のうみん を獲得 かくとく し、ブレーメンの緩 ゆる やかな支配 しはい 下 か に置 お いた。5月1日 にち 、ローデはヴルステン、ハンブルクおよびブレーメンの代表 だいひょう 者 しゃ を集 あつ め、4月 がつ に傭兵 ようへい 団 だん の助 たす けを借 か りて西 にし 隣 となり のブチアディンゲンを征服 せいふく したオルデンブルク伯 はく ヨハン5世 せい による再度 さいど の侵攻 しんこう に備 そな えてヴルステンのための防衛 ぼうえい 同盟 どうめい を締結 ていけつ した。
このようにしてヴルステンは西 にし からはオルデンブルクの、東 ひがし からはマグヌスの脅威 きょうい にさらされた。両者 りょうしゃ との戦争 せんそう を避 さ けるために、ローデはマグヌスとの関係 かんけい を改善 かいぜん しようとしたが無駄 むだ に終 お わった。8月1日 にち 、ローデ、ブレーメン大 だい 聖堂 せいどう の聖堂 せいどう 参事 さんじ 会 かい 、大司教 だいしきょう 領 りょう の高位 こうい 聖職 せいしょく 者 しゃ 、およびブレーメン、ブクステフーデ 、ハンブルク、シュターデの各 かく 都市 とし は、ヴルステンやハーデルンの侵攻 しんこう に対 たい する防衛 ぼうえい のために1,300人 にん の戦士 せんし と装備 そうび を供給 きょうきゅう する戦争 せんそう 同盟 どうめい を締結 ていけつ した。一方 いっぽう 、ブレーメンのミニステリアーレ と貴族 きぞく は全員 ぜんいん 棄権 きけん した。大臣 だいじん や貴族 きぞく の多 おお くはむしろマグヌスの側 がわ に立 た った。1499年 ねん 9月 がつ 9日 にち 、ローデはヨハン5世 せい とマグヌスに対 たい し攻撃 こうげき を開始 かいし した。連合 れんごう 軍 ぐん はハーデルンの地 ち を難 なん なく征服 せいふく し、マグヌスを破 やぶ り、ハーデルンからマグヌスを追 お い出 だ すことができた。
1499年 ねん 11月20日 にち までにマグヌスはオルデンブルクで軍事 ぐんじ 行動 こうどう を行 おこな う前 まえ にトーマス・スレンツが指揮 しき するオランダ人 じん および東 ひがし フリース人 じん からなる傭兵 ようへい を雇 やと った。大司教 だいしきょう 領 りょう への侵攻 しんこう はブレーメンで撃退 げきたい されたが、11月末 まつ までに上流 じょうりゅう のフェルデン 周辺 しゅうへん のフェルデン大司教 だいしきょう 領 りょう でヴェーザー川 がわ を渡 わた ることに成功 せいこう し、大司教 だいしきょう 領 りょう を荒 あ らし、特 とく に修道院 しゅうどういん の略奪 りゃくだつ を行 おこな い、リューネブルク・ツェレ目指 めざ して北東 ほくとう へ向 む かった。リューネブルクの国境 こっきょう を越 こ えた後 のち 、傭兵 ようへい 隊 たい は西 にし に向 む きを変 か え、要塞 ようさい 化 か されたブクステフーデ とシュターデを迂回 うかい してブレーメン大司教 だいしきょう 領内 りょうない に入 はい り、田園 でんえん 地帯 ちたい と修道院 しゅうどういん (アルトクロスターおよびノイクロスター、どちらも今日 きょう のブクステフーデ、ヒンメルプフォルテン 修道院 しゅうどういん の所在地 しょざいち )を荒廃 こうはい させた。
大司教 だいしきょう 軍 ぐん がフェルデ を確保 かくほ したため、傭兵 ようへい 隊 たい は南 みなみ に迂回 うかい した。最終 さいしゅう 的 てき に12月24日 にち にレーエのヴェーザー川下 かわしも 流 りゅう に到着 とうちゃく した傭兵 ようへい 隊 たい がヴルステンへの侵攻 しんこう を試 こころ みたが、そこにいた自由 じゆう 農民 のうみん たちは12月26日 にち ヴェッデヴァルデン付近 ふきん で傭兵 ようへい 隊 たい の攻撃 こうげき を撃退 げきたい した。そこで傭兵 ようへい 隊 たい は北東 ほくとう に進路 しんろ を変 か え、ノイエンヴァルデ女子 じょし 修道院 しゅうどういん から略奪 りゃくだつ を行 おこな いハーデルンに入 はい り、1500年 ねん 初 はじ めにマグヌスのためにハーデルンを奪還 だっかん した。この侵攻 しんこう によりハーデルンの住民 じゅうみん は、大司教 だいしきょう 領 りょう の農村 のうそん 部 ぶ の住民 じゅうみん と同様 どうよう に、虐殺 ぎゃくさつ 、略奪 りゃくだつ 、放火 ほうか を受 う けた。
12月初旬 しょじゅん までに、ローデはハインリヒ1世 せい に助 たす けを求 もと めたが、実際 じっさい にはハインリヒ1世 せい はマグヌスと同盟 どうめい を結 むす んでいた。その見返 みかえ りとして、ローデはハインリヒ1世 せい の12歳 さい の息子 むすこ クリストフを大司教 だいしきょう 補佐 ほさ に任命 にんめい することを約束 やくそく せねばならなかったが、これは通常 つうじょう 、そしてこの場合 ばあい は確実 かくじつ に次期 じき 大司教 だいしきょう 位 い の確約 かくやく を意味 いみ した。これはハインリヒ1世 せい の権力 けんりょく 圏 けん 拡大 かくだい の野望 やぼう を達成 たっせい させるものであったため、ハインリヒ1世 せい は寝返 ねがえ り、大司教 だいしきょう 座 ざ を軍事 ぐんじ 的 てき に支援 しえん するためマグヌスおよびヨハン5世 せい との同盟 どうめい を破棄 はき した。
ハインリヒ1世 せい とその軍隊 ぐんたい は、傭兵 ようへい 隊 たい と戦 たたか うこととなった。マグヌスは傭兵 ようへい らに給料 きゅうりょう を支払 しはら うことができず、このため傭兵 ようへい らはハーデルンの住民 じゅうみん に対 たい してさらに抑圧 よくあつ 的 てき な態度 たいど をとり、マグヌスは「自分 じぶん が呼 よ んだ精霊 せいれい 」を取 と り除 のぞ くことができない魔術 まじゅつ 師 し の見習 みなら いのような状況 じょうきょう となった。1500年 ねん 1月 がつ 中旬 ちゅうじゅん までに、デンマーク王 おう ハンス は衛兵 えいへい 隊 たい を雇 やと い、ホルシュタインにおける安全 あんぜん な行動 こうどう を保証 ほしょう した。ハンスはディットマールシェンを服従 ふくじゅう させるために傭兵 ようへい 隊 たい を雇 やと った。1500年 ねん 2月 がつ 17日 にち のヘミングシュテットの戦 たたか いにおいてディットマールシェンの住民 じゅうみん は傭兵 ようへい 隊 たい を完全 かんぜん に撃破 げきは し、ディットマールシェンを服従 ふくじゅう させるというハンスの夢 ゆめ は潰 つい えた。
マグヌスとブレーメンの対立 たいりつ は、ブラウンシュヴァイク=カレンベルク公 こう エーリヒ1世 せい とハインリヒ1世 せい の息子 むすこ の大司教 だいしきょう 補佐 ほさ クリストフ(1511年 ねん 時点 じてん でブレーメン大司教 だいしきょう )の調停 ちょうてい によって解決 かいけつ された。こうしてローデとマグヌスは1500年 ねん 1月 がつ 20日 はつか に和平 わへい を締結 ていけつ した。ハーデルンはマグヌスに返還 へんかん されたが、ヴルステンの住民 じゅうみん は8月 がつ 18日 にち にローデに臣従 しんじゅう の礼 れい を取 と り、ローデはその見返 みかえ りとして自治 じち 権 けん を認 みと めたため、実際 じっさい には以前 いぜん と比 くら べて状況 じょうきょう はほとんど変 か わらなかった。
父 ちち の晩年 ばんねん にマグヌスは公 おおやけ 領 りょう を統治 とうち し、1507年 ねん に父 ちち の跡 あと を継 つ いでザクセン公 こう となった。その統治 とうち の最初 さいしょ の数 すう 年間 ねんかん は、ブレーメン大司教 だいしきょう 領 りょう およびその補佐 ほさ 司教 しきょう であるラッツェブルク大司教 だいしきょう 領 りょう としばしば対立 たいりつ した。1509年 ねん のカタリーナ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル との結婚 けっこん を通 つう じて、マグヌスはカタリーナの父 ちち であるブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公 こう ハインリヒ1世 せい (かつての同盟 どうめい 者 しゃ )との絆 きずな をさらに強 つよ めた。
マグヌスはザクセン=ラウエンブルクとザクセン=ヴィッテンベルクの間 あいだ の選挙 せんきょ 権 けん に関 かん する対立 たいりつ において従順 じゅうじゅん な立場 たちば をとった最初 さいしょ のザクセン=ラウエンブルク公 こう であった。マグヌスは、黒 くろ と銀 ぎん の盾 たて に赤 あか い選挙 せんきょ 剣 けん (ドイツ語 ご :Kurschwerter)を紋章 もんしょう に描 えが くことを控 ひか えた。選挙 せんきょ 剣 けん は帝国 ていこく 大元帥 だいげんすい の職 しょく を示 しめ しており、前 ぜん 皇帝 こうてい の死後 しご に新 しん 皇帝 こうてい を選出 せんしゅつ するという重要 じゅうよう な権利 けんり に加 くわ え、選 せん 帝 みかど 侯 こう としての特権 とっけん に関連 かんれん していた。
神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい カール5世 せい は、1530年 ねん 11月12日 にち のアウクスブルクの帝国 ていこく 議会 ぎかい で、マグヌスにザクセン公 おおやけ 領 りょう 、エンゲルン、ヴェストファーレン(正式 せいしき 名称 めいしょう であるが口語 こうご でザクセン=ラウエンブルク)と関連 かんれん するレガリア を委 ゆだ ねた。しかし勅許 ちょっきょ 状 じょう には、マグヌスはザクセン選 せん 帝 みかど 侯 こう 位 い も要求 ようきゅう していたが、「心 しん を打 う つ理由 りゆう により」当時 とうじ はそれが実現 じつげん できなかったと説明 せつめい されている。すでに1425年 ねん 8月 がつ 1日 にち に神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい ジギスムント がヴェッティン家 か にザクセン選 せん 帝 みかど 侯 ほう 領 りょう を委 ゆだ ねていた。
1531年 ねん 、マグヌスは公 おおやけ 領内 りょうない に宗教 しゅうきょう 改革 かいかく を導入 どうにゅう し、ルター派 は に改宗 かいしゅう し、家臣 かしん の多 おお くも同様 どうよう に改宗 かいしゅう した。マグヌスは1543年 ねん に亡 な くなり、ラッツェブルクに埋葬 まいそう された。
マグヌスは1509年 ねん 11月17日 にち から20日 はつか の間 あいだ にブラウンシュヴァイク=リューネブルク 公 おおやけ ハインリヒ4世 せい の娘 むすめ カタリーナ (1488年 ねん - 1563年 ねん 7月 がつ 29日 にち )とヴォルフェンビュッテル において結婚 けっこん し、6人 にん の子供 こども をもうけた。
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