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マグヌス1せい (ザクセン=ラウエンブルクこう)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
マグヌス1せい
Magnus I.
ザクセン=ラウエンブルクおおやけ
マグヌス1せい(1520ねんごろ)
在位ざいい 1507ねん - 1543ねん

出生しゅっしょう (1470-01-01) 1470ねん1がつ1にち
神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく
ザクセン=ラウエンブルクおおやけりょう、ラッツェブルク
死去しきょ (1543-08-01) 1543ねん8がつ1にち(73さいぼつ
神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく
ザクセン=ラウエンブルクおおやけりょう、ラッツェブルク
埋葬まいそう 神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく
ザクセン=ラウエンブルクおおやけりょう、ラッツェブルク
配偶はいぐうしゃ カタリーナ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル
子女しじょ フランツ1せい
ドロテア
カタリーナ
クララ
ゾフィー
家名かめい アスカーニエン
父親ちちおや ザクセン=ラウエンブルクおおやけヨハン5せい
母親ははおや ドロテア・フォン・ブランデンブルク
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マグヌス1せい(Magnus I., 1470ねん1がつ1にち - 1543ねん8がつ1にち)は、ザクセン=ラウエンブルクおおやけ在位ざいい1507ねん - 1543ねん)。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

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マグヌス1せいザクセン=ラウエンブルクおおやけヨハン5せいとブランデンブルクせんみかどこうフリードリヒ2せいむすめドロテア・フォン・ブランデンブルクの次男じなんとしてラッツェブルクでまれた。

1481ねんちちヨハン5せいは、1407ねん以降いこう3,000ラインギルダーの担保たんぽとしてハンブルク質入しちいれされていたザクセン=ラウエンブルクのラント・ハーデルンをもどした[1]。その、ヨハン5せい息子むすこマグヌス1せいをハーデルンのふく摂政せっしょう任命にんめいし、1498ねんには摂政せっしょうとした[2]

ラント・ハーデルンの支配しはい[編集へんしゅう]

1484ねん、マグヌス1せい収入しゅうにゅうやすため、ヴェーザーがわ河口かこう北海ほっかい湿地しっちにあったフリースじん自由じゆう農民のうみん事実じじつじょう自治領じちりょうであるゆたかなラント・ヴルステンを征服せいふくしようとばしたが、失敗しっぱいした[3][4]。マグヌスは、1180ねんにザクセンこうハインリヒ獅子ししこう皇帝こうていにより廃位はいいされてザクセンおおやけりょう分割ぶんかつされ、アスカーニエン縮小しゅくしょうされたザクセンおおやけりょうあたえられるまでヴルステンもザクセンりょうであったという口実こうじつにより、自分じぶん暴力ぼうりょく行為こうい正当せいとうしようとした[5]一方いっぽうでブレーメン大司教だいしきょうはヴルステンを大司教だいしきょうりょうであると主張しゅちょうし、警戒けいかいした。

マグヌスは摂政せっしょうになったのち、ヴルステン征服せいふくふたたあらたに計画けいかくした[3]。1498ねん11月24にち、マグヌスはちちヨハン5せいおよびブラウンシュヴァイク=リューネブルクおおやけハインリヒ4せい同盟どうめいむすび、ヴルステンを征服せいふくした[4]。ハインリヒ4せいは3,000にん傭兵ようへいおくり、傭兵ようへいらは征服せいふく成功せいこうしたのちにヴルステンの自由じゆう農民のうみん略奪りゃくだつすることで報酬ほうしゅうることとなっていた[2]。ブレーメン大司教だいしきょうヨハン・ローデはこれにそなえ、ハンブルクの3にん市長しちょう次期じき現任げんにん前任ぜんにん)である、ヨハネス・フーゲ、ヘルメン・ランゲンベック、ヘニング・ブリングと11月16にち防衛ぼうえい同盟どうめい締結ていけつした[4]。ハンブルクは、エルベがわ経由けいゆでハンブルクへの自由じゆう往来おうらいまもるための軍事ぐんじ前哨ぜんしょう基地きちであったリッツビュッテルうしなうことをおそれ、この都市としはマグヌスの攻撃こうげきそなえる拠点きょてんとなった[4]

ローデはブレーメン、ハンブルク、シュターデの市民しみんらにうったえ、市民しみんはエルベがわとヴェーザーがわしも流域りゅういき自由じゆう海上かいじょう貿易ぼうえきのためのかんがえたため、3都市としはローデを支持しじし、ローデはさらにディットマールシェンの自由じゆう農民のうみん獲得かくとくし、ブレーメンのゆるやかな支配しはいいた[2]。5月1にち、ローデはヴルステン、ハンブルクおよびブレーメンの代表だいひょうしゃあつめ、4がつ傭兵ようへいだんたすけをりて西にしとなりのブチアディンゲンを征服せいふくしたオルデンブルクはくヨハン5せいによる再度さいど侵攻しんこうそなえてヴルステンのための防衛ぼうえい同盟どうめい締結ていけつした[4]

このようにしてヴルステンは西にしからはオルデンブルクの、ひがしからはマグヌスの脅威きょういにさらされた。両者りょうしゃとの戦争せんそうけるために、ローデはマグヌスとの関係かんけい改善かいぜんしようとしたが無駄むだわった[4]。8月1にち、ローデ、ブレーメンだい聖堂せいどう聖堂せいどう参事さんじかい大司教だいしきょうりょう高位こうい聖職せいしょくしゃ、およびブレーメン、ブクステフーデ、ハンブルク、シュターデのかく都市としは、ヴルステンやハーデルンの侵攻しんこうたいする防衛ぼうえいのために1,300にん戦士せんし装備そうび供給きょうきゅうする戦争せんそう同盟どうめい締結ていけつした[4]一方いっぽう、ブレーメンのミニステリアーレ貴族きぞく全員ぜんいん棄権きけんした。大臣だいじん貴族きぞくおおくはむしろマグヌスのがわった[6]。1499ねん9がつ9にち、ローデはヨハン5せいとマグヌスにたい攻撃こうげき開始かいしした[6]連合れんごうぐんはハーデルンのなんなく征服せいふくし、マグヌスをやぶり、ハーデルンからマグヌスをすことができた[3][5]

1499ねん11月20にちまでにマグヌスはオルデンブルクで軍事ぐんじ行動こうどうおこなまえにトーマス・スレンツが指揮しきするオランダじんおよびひがしフリースじんからなる傭兵ようへいやとった[3][6]大司教だいしきょうりょうへの侵攻しんこうはブレーメンで撃退げきたいされたが、11月まつまでに上流じょうりゅうフェルデン周辺しゅうへんのフェルデン大司教だいしきょうりょうでヴェーザーがわわたることに成功せいこうし、大司教だいしきょうりょうらし、とく修道院しゅうどういん略奪りゃくだつおこない、リューネブルク・ツェレ目指めざして北東ほくとうかった[7][8]。リューネブルクの国境こっきょうえたのち傭兵ようへいたい西にしきをえ、要塞ようさいされたブクステフーデとシュターデを迂回うかいしてブレーメン大司教だいしきょう領内りょうないはいり、田園でんえん地帯ちたい修道院しゅうどういん(アルトクロスターおよびノイクロスター、どちらも今日きょうのブクステフーデ、ヒンメルプフォルテン修道院しゅうどういん所在地しょざいち)を荒廃こうはいさせた[9]

大司教だいしきょうぐんフェルデ確保かくほしたため、傭兵ようへいたいみなみ迂回うかいした[9]最終さいしゅうてきに12月24にちにレーエのヴェーザー川下かわしもりゅう到着とうちゃくした傭兵ようへいたいがヴルステンへの侵攻しんこうこころみたが、そこにいた自由じゆう農民のうみんたちは12月26にちヴェッデヴァルデン付近ふきん傭兵ようへいたい攻撃こうげき撃退げきたいした[9][10]。そこで傭兵ようへいたい北東ほくとう進路しんろえ、ノイエンヴァルデ女子じょし修道院しゅうどういんから略奪りゃくだつおこないハーデルンにはいり、1500ねんはじめにマグヌスのためにハーデルンを奪還だっかんした。この侵攻しんこうによりハーデルンの住民じゅうみんは、大司教だいしきょうりょう農村のうそん住民じゅうみん同様どうように、虐殺ぎゃくさつ略奪りゃくだつ放火ほうかけた[11]

12月初旬しょじゅんまでに、ローデはハインリヒ1せいたすけをもとめたが、実際じっさいにはハインリヒ1せいはマグヌスと同盟どうめいむすんでいた[12]。その見返みかえりとして、ローデはハインリヒ1せいの12さい息子むすこクリストフを大司教だいしきょう補佐ほさ任命にんめいすることを約束やくそくせねばならなかったが、これは通常つうじょう、そしてこの場合ばあい確実かくじつ次期じき大司教だいしきょう確約かくやく意味いみした[12]。これはハインリヒ1せい権力けんりょくけん拡大かくだい野望やぼう達成たっせいさせるものであったため、ハインリヒ1せい寝返ねがえり、大司教だいしきょう軍事ぐんじてき支援しえんするためマグヌスおよびヨハン5せいとの同盟どうめい破棄はきした[9]

ハインリヒ1せいとその軍隊ぐんたいは、傭兵ようへいたいたたかうこととなった。マグヌスは傭兵ようへいらに給料きゅうりょう支払しはらうことができず、このため傭兵ようへいらはハーデルンの住民じゅうみんたいしてさらに抑圧よくあつてき態度たいどをとり、マグヌスは「自分じぶんんだ精霊せいれい」をのぞくことができない魔術まじゅつ見習みならいのような状況じょうきょうとなった。1500ねん1がつ中旬ちゅうじゅんまでに、デンマークおうハンス衛兵えいへいたいやとい、ホルシュタインにおける安全あんぜん行動こうどう保証ほしょうした。ハンスはディットマールシェンを服従ふくじゅうさせるために傭兵ようへいたいやとった[10]。1500ねん2がつ17にちのヘミングシュテットのたたかいにおいてディットマールシェンの住民じゅうみん傭兵ようへいたい完全かんぜん撃破げきはし、ディットマールシェンを服従ふくじゅうさせるというハンスのゆめついえた[13]

マグヌスとブレーメンの対立たいりつは、ブラウンシュヴァイク=カレンベルクこうエーリヒ1せいとハインリヒ1せい息子むすこ大司教だいしきょう補佐ほさクリストフ(1511ねん時点じてんでブレーメン大司教だいしきょう)の調停ちょうていによって解決かいけつされた。こうしてローデとマグヌスは1500ねん1がつ20日はつか和平わへい締結ていけつした[9]。ハーデルンはマグヌスに返還へんかんされたが、ヴルステンの住民じゅうみんは8がつ18にちにローデに臣従しんじゅうれいり、ローデはその見返みかえりとして自治じちけんみとめたため、実際じっさいには以前いぜんくらべて状況じょうきょうはほとんどわらなかった。

ザクセンこうとして[編集へんしゅう]

ちち晩年ばんねんにマグヌスはおおやけりょう統治とうちし、1507ねんちちあといでザクセンこうとなった。その統治とうち最初さいしょすう年間ねんかんは、ブレーメン大司教だいしきょうりょうおよびその補佐ほさ司教しきょうであるラッツェブルク大司教だいしきょうりょうとしばしば対立たいりつした。1509ねんカタリーナ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルとの結婚けっこんつうじて、マグヌスはカタリーナのちちであるブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルこうハインリヒ1せい(かつての同盟どうめいしゃ)とのきずなをさらにつよめた。

マグヌスはザクセン=ラウエンブルクとザクセン=ヴィッテンベルクのあいだ選挙せんきょけんかんする対立たいりつにおいて従順じゅうじゅん立場たちばをとった最初さいしょのザクセン=ラウエンブルクこうであった。マグヌスは、くろぎんたてあか選挙せんきょけん(ドイツ:Kurschwerter)を紋章もんしょうえがくことをひかえた。選挙せんきょけん帝国ていこく大元帥だいげんすいしょくしめしており、ぜん皇帝こうてい死後しごしん皇帝こうてい選出せんしゅつするという重要じゅうよう権利けんりくわえ、せんみかどこうとしての特権とっけん関連かんれんしていた。

神聖しんせいローマ皇帝こうていカール5せいは、1530ねん11月12にちのアウクスブルクの帝国ていこく議会ぎかいで、マグヌスにザクセンおおやけりょう、エンゲルン、ヴェストファーレン(正式せいしき名称めいしょうであるが口語こうごでザクセン=ラウエンブルク)と関連かんれんするレガリアゆだねた。しかし勅許ちょっきょじょうには、マグヌスはザクセンせんみかどこう要求ようきゅうしていたが、「しん理由りゆうにより」当時とうじはそれが実現じつげんできなかったと説明せつめいされている。すでに1425ねん8がつ1にち神聖しんせいローマ皇帝こうていジギスムントヴェッティンザクセンせんみかどほうりょうゆだねていた。

1531ねん、マグヌスはおおやけ領内りょうない宗教しゅうきょう改革かいかく導入どうにゅうし、ルター改宗かいしゅうし、家臣かしんおおくも同様どうよう改宗かいしゅうした。マグヌスは1543ねんくなり、ラッツェブルクに埋葬まいそうされた。

結婚けっこん子女しじょ[編集へんしゅう]

マグヌスは1509ねん11月17にちから20日はつかあいだブラウンシュヴァイク=リューネブルクおおやけハインリヒ4せいむすめカタリーナ(1488ねん - 1563ねん7がつ29にち)とヴォルフェンビュッテルにおいて結婚けっこんし、6にん子供こどもをもうけた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Boeselager 1995, p. 331.
  2. ^ a b c Boeselager 1995, p. 332.
  3. ^ a b c d Krause 1881, p. 184.
  4. ^ a b c d e f g Schütz 1995, p. 266.
  5. ^ a b Schulze 1974, p. 480.
  6. ^ a b c Schütz 1995, p. 267.
  7. ^ Krause 1881, pp. 185seq.
  8. ^ Schütz 1995, pp. 267seq.
  9. ^ a b c d e Schütz 1995, p. 268.
  10. ^ a b Krause 1881, p. 185.
  11. ^ Boeselager 1995, pp. 334seq.
  12. ^ a b Schleif 1972, p. 20.
  13. ^ Schütz 1995, p. 269.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Boeselager, Elke Freifrau von (1995). “Das Land Hadeln bis zum Beginn der frühen Neuzeit”. Geschichte des Landes zwischen Elbe und Weser. vol. II 'Mittelalter (einschl. Kunstgeschichte)'. Hans-Eckhard Dannenberg und Heinz-Joachim Schulze (eds.). Stade: Landschaftsverband der ehem. Herzogtümer Bremen und Verden. pp. 321–388. ISBN 978-3-9801919-8-2 
  • Schütz, Michael (1995). “Die Konsolidierung des Erzstiftes unter Johann Rode”. Geschichte des Landes zwischen Elbe und Weser. vol. II 'Mittelalter (einschl. Kunstgeschichte)'. Hans-Eckhard Dannenberg und Heinz-Joachim Schulze (eds.). Stade: Landschaftsverband der ehem. Herzogtümer Bremen und Verden. ISBN 978-3-9801919-8-2 
  • Otto von Heinemann (1884), “Magnus I. (Herzog von Sachsen-Lauenburg)” (ドイツ), Allgemeine Deutsche Biographie (ADB), 20, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 72 
  • Karl Ernst Hermann Krause (1881), “Johann III. (Erzbischof von Bremen)” (ドイツ), Allgemeine Deutsche Biographie (ADB), 14, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 183–185 
  • Schleif, Karl (1972). Regierung und Verwaltung des Erzstifts Bremen. Hamburg: no publ. , (=Schriftenreihe des Landschaftsverbandes der ehemaligen Herzogtümer Bremen und Verden; vol. 1), zugl.: Hamburg, Univ., Diss., 1968.
  • Heinz-Joachim Schulze: Johann III.. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 10, Duncker & Humblot, Berlin 1974, ISBN 3-428-00191-5, S. 480 f. (電子でんしテキストばん).
先代せんだい
ヨハン5せい
ザクセン=ラウエンブルクおおやけ
1507ねん - 1543ねん
次代じだい
フランツ1せい