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マティアス・フラキウス・イリリクス

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マティアス・フラキウス・イリリクス(Matthias Flacius Illyricus、1520ねん3月3にち1575ねん3月11にち[1])は、16世紀せいきスラブけいルター神学しんがくしゃ歴史れきし

経歴けいれき[編集へんしゅう]

イストリア半島はんとうのアルボナ(現在げんざいクロアチアりょうラビン)の出身しゅっしんヴェネツィア人文じんぶん主義しゅぎ教育きょういくけたのち、17さいフランチェスコかいはいって修道しゅうどうになることをこころざし、伯父おじである修道院しゅうどういんちょうバルド・ルペティーノ(Baldo Lupetina)に相談そうだんする。だが、ひそかにマルティン・ルターかんがえに共鳴きょうめいしていた伯父おじドイツにて神学しんがくまなぶようにすすめた(のちにルペティーノはルター信仰しんこう告白こくはくして処刑しょけいされることになる)。かれバーゼルテュービンゲンヴィッテンベルクいたり、ルターやその盟友めいゆうであるフィリップ・メランヒトン面識めんしきる。そのころのフラキウスはよくうつしょうくるしんでいたが、ルターのみとめろんせっすることでこれを克服こくふくし、1539ねん19さいとき正式せいしきにルター改宗かいしゅうした。24さいときにはヴィッテンベルク大学だいがくヘブライ教授きょうじゅ抜擢ばってきされた。

ところが、ルターの死後しごの1548ねん成立せいりつしたアウクスブルクかり信条しんじょう協定きょうていライプツィヒかり信条しんじょう協定きょうていめぐり、これを推進すいしんしようとするメランヒトンをカトリックたいして妥協だきょうてきでルターのおしえから逸脱いつだつしていると批判ひはんしたためにヴィッテンベルク大学だいがくにいられなくなり、マクデブルクのがれて印刷所いんさつしょ管理人かんりにんとなった。マクデブルクにはかり信条しんじょう協定きょうてい反発はんぱつする人々ひとびとあつまり、のちに「純正じゅんせいルター」としょうされる反対はんたい一大いちだい拠点きょてんとなり、フラキウスはその指導しどうしゃとしてあおがれるようになった。

フラキウスは言語げんごがくのみならず、解釈かいしゃくがく教会きょうかい分野ぶんやでも卓越たくえつした才能さいのう発揮はっきした。かれはカトリックやメランヒトンとの神学しんがく論争ろんそうつうじて、ルターの立場たちば沿ってあらためて聖書せいしょ教会きょうかい位置いちづけをおこなうべきとのかんがえをつようになった。フラウキスは1552ねんごろより、教会きょうかい使徒しと時代じだいから今日きょう堕落だらく再生さいせい宗教しゅうきょう改革かいかく)までの歴史れきし構想こうそうかしてその準備じゅんびはいった。その構想こうそう具体ぐたいするのは自身じしんふくめた5にん執筆しっぴつ監修かんしゅうしゃ決定けっていした1554ねんになってからである。だが、フラウキスとの宗教しゅうきょうてき見解けんかい対立たいりつなどから監修かんしゅう執筆しっぴつしゃ辞任じにん補充ほじゅうなんかえされた。また、おおくの重要じゅうよう史料しりょうをカトリックがわにぎっているという状況じょうきょうでの史料しりょう収集しゅうしゅう困難こんなんきわめた(しかもそれらはヨーロッパ各地かくち分散ぶんさんしていた)。かれ主導しゅどうした『マクデブルクのしょ世紀せいき教会きょうかい』(Ecclesiastica Historia, integram Ecclesiae Christi ideam, quantum ad Locum, Propagationem, Persecutionem, Tranquillitatem, Doctrinam, Hæreses, Ceremonias, Gubernationem, Schismata, Synodos, Personas, Miracula, Martyria, Religiones extra Ecclesiam, & statum Imperii politicum attinet, secundum singulas Centurias, perspicuo ordine complectens: singulari diligentia & fide ex vetustissimis & optimis historicis, patribus, & aliis scriptoribus congesta: Per aliquot studiosos & pios viros in urbe Magdeburgicâen)は、1559ねんだい1かん刊行かんこうされ、1574ねん13世紀せいきあつかっただい10かん刊行かんこうされたが、前述ぜんじゅつ執筆しっぴつじん内紛ないふんから14世紀せいき以後いご担当たんとうしゃ決定けっていできず、翌年よくねんにフラキウス自身じしんぼっしたことから未完みかんわった。とはいえ、それまでの通史つうしてき方法ほうほうではなく、世紀せいき単位たんいまきかち(ただし、だい1かんは1-3世紀せいきだい8かんは10・11世紀せいきあつかう)、そのなかでテーマごとにしょうてるスタイルは当時とうじとしては斬新ざんしんなものであった。また、このほん著述ちょじゅつ意図いとからして、ルターのかんがえに忠実ちゅうじつであることを目指めざし、徹底的てっていてきなカトリック批判ひはんおこなったために中立ちゅうりつてき観点かんてんからは問題もんだいがあった。それでも、4世紀せいきエウセビオスが『教会きょうかい』を刊行かんこうして以後いご、これまで古代こだいからの一貫いっかんした教会きょうかいほん存在そんざいしたことがかったこともあり、カトリックがわにも衝撃しょうげきあたえた。つづいて、1567ねんには聖書せいしょ権威けんい源泉げんせん解釈かいしゃくがくめんから研究けんきゅうした『聖書せいしょかぎ』(Clavis Scripturae Sacrae seu de Sermone Sacrarum literarum)を刊行かんこうするなど、ルターの立場たちば擁護ようごする多数たすう著作ちょさく刊行かんこうした。

だが、その強硬きょうこうかる妥協だきょうてきはんカトリックてき態度たいどは、おなじプロテスタントをふくめてかく方面ほうめん軋轢あつれきしょうじさせた。このため、1557ねんイエーナ大学だいがく解釈かいしゃくがく教授きょうじゅまねかれたものの、4ねんには大学だいがくわれ、以後いご著作ちょさく活動かつどうつづけながら家族かぞくとともにレーゲンスブルクアントワープストラスブールなど各地かくち転々てんてんとした。そして、1575ねんフランクフルトからも追放ついほうされることになるが、かれすでやまいであり、もなく同地どうちにてこのった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]