(Translated by https://www.hiragana.jp/)
エウセビオス - Wikipedia コンテンツにスキップ

エウセビオス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
カエサレアのエウセビオス

カエサレアのエウセビオスΕυσέβιος, Eusebios, 263ねんごろ - 339ねん5月30にち)は、ギリシア教父きょうふ一人ひとりであり、歴史れきしにして聖書せいしょ注釈ちゅうしゃくいえ314ねん前後ぜんごからカエサレア・マリティマ(パレスティナ)の司教しきょう主教しゅきょう)をつとめた。そのパンフィロスとともにせいてん確定かくていかかわり、『福音ふくいん論証ろんしょう』『福音ふくいんそなえ』『福音ふくいんあいだ矛盾むじゅんについて』といった、聖書せいしょテキストの研究けんきゅうのこす。またとりわけ歴史れきし著述ちょじゅつにおいて、後世こうせいかれを「教会きょうかいちち」としてらしめた代表だいひょうさく教会きょうかい』がられるほか、『パンフィロスの生涯しょうがい』『年代ねんだい』『パレスティナ殉教者じゅんきょうしゃ列伝れつでん』といった業績ぎょうせきがある。みずから「パンフィロスの(息子むすこ)エウセビオス」を名乗なのったといわれる[1]日本にっぽんハリストス正教会せいきょうかいではエウセウィ転写てんしゃされる。

史料しりょう

[編集へんしゅう]

エウセビオスの生涯しょうがいについてられるところはすくない。かれ後任こうにんのカエサレア司教しきょうであるアカキウスが伝記でんき『エウセビオスの生涯しょうがい』をあらわしたが、すでに散佚さんいつしている。現存げんそんするエウセビオスの著作ちょさくも、おそらくその著作ちょさく全体ぜんたいのほんの一部いちぶ相当そうとうするにぎない。エウセビオスは4世紀せいきにおけるアリウス論争ろんそうで、アリウス同情どうじょうてき態度たいどしめしたゆえに、エウセビオス個人こじんたいしての後世こうせい評価ひょうかかんばしくなく、かれ著作ちょさく保存ほぞん熱心ねっしんにはおこなわれなかった[2]。エウセビオスをつたえる代表だいひょうてき史料しりょうとしては、現存げんそんするかれ自身じしん著作ちょさく以外いがいに、4世紀せいきキリスト教きりすときょう著述ちょじゅつヒエロニュムスによるものや、5世紀せいき教会きょうかい史家しかソクラテス・スコラスティコスやソゾメノス、キュロステオドレトスによるものがある。エウセビオスの動静どうせいうかがわせるどう時代じだい史料しりょうとしては、アタナシオスアリウス、ニコメディアのエウセビオス、アレクサンドリアのアレクサンドロスによるものがあり、かれ弟子でしエメサのエウセビオスもいくつかの些末な情報じょうほうつたえている[3]

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

ぜん半生はんせい

[編集へんしゅう]

生誕せいたんから青年せいねん

[編集へんしゅう]

教会きょうかい』のなかで、エウセビオスはアレクサンドリアのディオニュシオスをどう時代じだいじんとして著述ちょじゅつしているが、それが事実じじつであれば、ディオニュシオスがんだ264ねんあき以前いぜんまれていたということになる。近代きんだい歴史れきしおおくは、かれ出生しゅっしょう260ねんから265ねんあいだ位置いちづけている[4]かれはおそらくカエサレア・マリティマでまれ、おそらく人生じんせい大半たいはんをそこでごしたであろう[5]。エウセビオスはこのカイサリアで洗礼せんれいけ、教育きょういくほどこされた[6]296ねんディオクレティアヌスみかど軍隊ぐんたいがパレスティナ地域ちいきおとずれたときに、コンスタンティヌス大帝たいてい従軍じゅうぐん目撃もくげきしていることがかれの『コンスタンティヌスの生涯しょうがい』によりられるので、かれはこのころパレスティナにいたことは確実かくじつである[7]。エウセビオスはカエサレアのアガピオスのした司祭しさい叙任じょにんされた[6]

カエサレア・マリティマ

[編集へんしゅう]

カエサレア人口じんこうは3世紀せいきまでにはやく100,000にいたっていた。紀元前きげんぜん60年代ねんだいポンペイウス東方とうほうぞくしゅう支配しはいしていたとき、この都市としユダヤじん支配しはいゆだねた。ヨセフスによれば、このころのカエサレアは地元じもと豪族ごうぞくちなんで「ストラトンのとう」とばれていた[8]。ユダヤじんはカエサレアにかれたユダヤぞくしゅう長官ちょうかん地位ちい要求ようきゅうつづけたが、それから3世紀せいきあいだにわたってユダヤじん支配しはいつづいた。ヘロデ大王だいおう治世ちせい都市とし改造かいぞうおこなわれ、この都市としカエサル・アウグストゥスささげられて「カエサレア」とばれるようになり、結果けっかとしてユダヤじんによる統治とうち強化きょうかされた[9]シリアじんギリシアじんなどのユダヤじん入植にゅうしょくしゃがカエサレアの人口じんこう大半たいはんめていたが、それにくわえてかなりのかずのユダヤひとサマリアじん住民じゅうみん存在そんざいしていた。エウセビオスはおそらくこの都市としキリスト教徒きりすときょうとのうちにまれたであろう。カエサレアのキリスト教徒きりすときょうと使徒しと伝道でんどう時代じだいさかのぼるもので[10]邦人ほうじん伝道でんどう発祥はっしょうとしてられているものの[8]190ねんごろまではこの都市とし司教しきょうのいた証拠しょうこはない。

ドロテウスとの出会であ

[編集へんしゅう]

さて、この時期じきにエウセビオスは当時とうじアンティオキア司祭しさいをしていたティルスのドロテウスにったと『教会きょうかいだい7かんしるしている[注釈ちゅうしゃく 1]。このドロテウスの聖書せいしょこうかいをエウセビオスは「いた」ことがあるとしるしているのであるが、この意味いみめぐって論争ろんそうがある。神学しんがくしゃ教会きょうかい史家しか一部いちぶはこのドロテオスとエウセビオスのあいだ師弟してい関係かんけい想定そうていする。たとえばジョン・ヘンリー・ニューマンは『教会きょうかい』の該当がいとう箇所かしょにおいてドロテウスが「教会きょうかい聖書せいしょ適切てきせつこうかいした」とエウセビオスが叙述じょじゅつしているのは、エウセビオスがドロテウスの弟子でしであったことを示唆しさするとした。他方たほうでデイヴィッド・ウォレス=ハドリルはこの文言もんごんはどのようにもとれる曖昧あいまいなものであるとなしている。はたつよしたいらによれば、この「いた」という文言もんごん時制じせいてき解釈かいしゃくすればいちかいかぎりの出会であいを示唆しさするが、エウセビオスのギリシャ用法ようほう厳密げんみつさをくので、その意味いみするところは明確めいかくではない[12]

カエサレアの図書館としょかんパンフィロス

[編集へんしゅう]

初期しょきキリスト教きりすときょう代表だいひょうてき神学しんがくしゃオリゲネスと、そのがくみつるいだパンフィロス英語えいごばん活動かつどうによって、カエサレアはキリスト教きりすときょう教育きょういくにおけるひとつの中心ちゅうしんになった。そのさいして、オリゲネスはその豊富ほうふ個人こじんてき蔵書ぞうしょをパンフィロスに遺贈いぞうし、パンフィロスによってカエサレアに図書館としょかん設立せつりつされた[13]。オリゲネスの個人こじんてき蔵書ぞうしょかれ自身じしん著作ちょさく写本しゃほん[14][注釈ちゅうしゃく 2]かれ庇護ひごしゃであったアレクサンドリアのアンブロシウスの蔵書ぞうしょふくみ、パンフィロスも蔵書ぞうしょ蓄積ちくせきつとめたので、3世紀せいき後半こうはんにはその収蔵しゅうぞうすうは30,000さつほこるまでになっていた[16]。パンフィロスはまた、オリゲネスの学校がっこう「ディダスカリア」にならってカエサレアに学校がっこう設立せつりつしたか、もしくはオリゲネスが設立せつりつしていた学校がっこう再建さいけんした[17]。パンフィロスは「世界せかいのあらゆるところから」聖書せいしょあつめ、書物しょもつ収集しゅうしゅうとして紀元前きげんぜん6世紀せいきアテナイ僭主せんしゅペイシストラトスや、エジプトプトレマイオス1せいした文化ぶんか顧問こもんかんつと[18]ムセイオン設立せつりつかかわったと推測すいそくされている[19]パレロンのデメトリオスとならしょうされた[20]。オリゲネスの指導しどう方法ほうほういで、パンフィロスも直接ちょくせつ生徒せいと指導しどうした。エウセビオスは、迫害はくがい時代じだいについてしるなかで、カエサレアの殉教者じゅんきょうしゃたちのおおくが、おそらくパンフィロスのもとで、共同きょうどう生活せいかつおくっていたことをほのめかしている。

オリゲネスのがくみつるとパンフィロスの薫陶くんとう

[編集へんしゅう]

パンフィロスが280ねんころ移住いじゅうしてそれほど月日つきひないうちに、かれはエウセビオスを指導しどうはじめたが、当時とうじエウセビウスは20さいと25さいあいだであったろう[21]。エウセビオスとパンフィロスとの関係かんけいは、ときにエウセビオスが「エウセビオス・パンフィリ」、つまり「パンフィロスのエウセビオス」とばれるほど親密しんみつなものであった[注釈ちゅうしゃく 3]。このはまたエウセビオスがパンフィロスのがくみつるもの認識にんしきされていたことをあらわしている[24]。パンフィロスをつうじて、エウセビオスはオリゲネスの思想しそうへの賞賛しょうさんつよいだくようになった[25]。パンフィロスとエウセビオスの双方そうほうはいずれもオリゲネスを個人こじんてきにはらず[26]、パンフィロスはおそらく、「しょうオリゲネス」とばれた[27]アレクサンドリアの司祭しさいピエリウスのしたまなんださいにオリゲネスの思想しそうしたしんだ[28]。カエサレアでは、オリゲネス思想しそう継承けいしょうしゃとして、かれしたまなんだテオテクノスが260ねんころ司教しきょうつとめている[29]

聖書せいしょ校訂こうていと『パレスティナ殉教者じゅんきょうしゃ列伝れつでん』の編纂へんさん

[編集へんしゅう]

エウセビオス『福音ふくいんそなえ』はかれがオリゲネスのがくみつるぞくしていることを如実にょじつ物語ものがたっている。エウセビオスは喜劇きげき悲劇ひげき叙情詩じょじょうし一切いっさい引用いんようしないが、プラトンぜん著作ちょさくくわえて、しゅとしてアレクサンドリアのフィロンから2世紀せいき後半こうはんまでの中期ちゅうきプラトン主義しゅぎのものを中心ちゅうしんとして、プラトン以後いご膨大ぼうだい哲学てつがくてき著作ちょさく参照さんしょうしている[30]。どれほど世俗せぞく内容ないようふくまれていようとも、オリゲネスとパンフィロスのがくみつる本来ほんらい目的もくてきは、宗教しゅうきょう教育きょういく増進ぞうしんにあった。カエサレア図書館としょかんおさめられた聖書せいしょがくてき著作ちょさく神学しんがくてき著作ちょさく傾向けいこうは、より興味深きょうみぶかい。オリゲネスの『ヘクサプラ』と『テトラプラ』、『マタイによる福音ふくいんしょアラマイ原典げんてん[よう曖昧あいまい回避かいひ]のコピー(と主張しゅちょうされている書物しょもつ)、そしておおくのオリゲネス自身じしん著作ちょさく収蔵しゅうぞうされていた[21]写本しゃほんらん外注がいちゅうはパンフィロスと、エウセビオスをふくかれ友人ゆうじん生徒せいとたちが図書館としょかん収蔵しゅうぞうされた聖書せいしょテクストのおおくを校閲こうえつ訂正ていせいくわえていたことをしめしている[21]対照たいしょうやくセプトゥアギンタテキスト作成さくせい活動かつどうシリアパレスティナ徐々じょじょられるようになった[31]。パンフィロスの学校がっこうくわわってあいだもなく、エウセビオスはパンフィロスの書物しょもつ収集しゅうしゅうかかわるようになり、このころエウセビオスは『パレスティナ殉教者じゅんきょうしゃ列伝れつでん』をんだであろう[21]

教会きょうかい』と『年代ねんだい』の執筆しっぴつ

[編集へんしゅう]

290年代ねんだいはいるとエウセビオスは、イエス・キリストはじまりからコンスタンティヌスみかど時代じだいいたるまでの教会きょうかいキリスト教徒きりすときょうと説話せつわたい歴史れきしである、『教会きょうかい』の執筆しっぴつ開始かいししている。どう時期じき天地てんち創造そうぞうからエウセビオスのどう時代じだいいたるまでの世界中せかいじゅう出来事できごとつづった『年代ねんだい』にもりかかっている。300ねんまでには、『教会きょうかい』と『年代ねんだい』の初版しょはんをエウセビオスは完成かんせいさせている[32]

カエサレア司教しきょう時代じだい

[編集へんしゅう]

司教しきょう叙任じょにんとアリウス論争ろんそう、そしてニカイアこう会議かいぎ

[編集へんしゅう]

314ねんころ、エウセビオスはカエサレアの司教しきょうになったが、かれ前任ぜんにんしゃがアガピウスであったかどうかは不明ふめいである[33]318ねんにアリウス論争ろんそうこると、エウセビウスはアリウス同情どうじょうてき姿勢しせいっていたが、それはアリウス破門はもんしたアレクサンドリア司教しきょうアレクサンドロスの主張しゅちょうサベリオスてき異端いたんうたがいをかけていたからで、積極せっきょくてきにアリウス支持しじしていたわけではないらしい[34]すでにして、324ねんごろからエウセビオスは、その教養きょうよう著述ちょじゅつとしての名声めいせいによってコンスタンティヌスみかど寵愛ちょうあいけるようになった[34]325ねんニカイアこう会議かいぎでは、かれ皇帝こうていからカエサレア教会きょうかい信条しんじょう提出ていしゅつするようめいじられたので、318にん出席しゅっせきしゃ全員ぜんいんまえげた[35]。しかし、最終さいしゅうてきにはこのカエサレア信条しんじょうはんアリウス主義しゅぎてき文言もんごんけくわえたニカイア信条しんじょう採択さいたくされることとなった[36]。エウセビオスは本心ほんしんからこれに賛成さんせいしていたわけではなかったが、最終さいしゅうてきには署名しょめいしてこれに同意どういした[36]

オリゲネスのがくみつるとアリウス主義しゅぎ

[編集へんしゅう]

アリウスの主張しゅちょうは、その支持しじしゃであるニコメディアのエウセビオスの書簡しょかん例外れいがいとして、おも敵対てきたいしゃ著作ちょさくつうじてられる[37]。その内容ないようは、

  1. 御子みこいち造物ぞうぶつであり、かみ意志いし由来ゆらいする。
  2. 御子みこ」という用語ようご比喩ひゆであり、ちち御子みこおな存在そんざい地位ちいかちつことを意味いみしない。
  3. 御子みこ地位ちいはそれ自体じたいちち意志いし結果けっかである。

というもので、御子みこ造物ぞうぶつせい強調きょうちょうすることで、ちち御子みこへだたりを設定せっていするものであった[38]。これはキリストろんにおいて、ちちなるかみ完全かんぜん神性しんせいみとめる一方いっぽうで、なるかみ神性しんせいちちよりすくないとかんがえたオリゲネスのかんがえにちかいところがあった[39]。ゆえに、アンティオキアの司教しきょうエウスタティウスはオリゲネスのがくみつる隆盛りゅうせいがアリウス主義しゅぎ根源こんげんになっているとかんがえ、オリゲネス主義しゅぎつよ反対はんたいし、エウセビオスがニカイア信条しんじょう遵守じゅんしゅしていないとして、かれ槍玉やりだまげた。ぎゃくにエウセビオスはエウスタティウスをサベリウスてき異端いたんであるとして告発こくはつした。エウセビオスとエウスタティウスの対立たいりつ330ねんひらかれたアンティオキアの宗教しゅうきょう会議かいぎでエウスタティウスの追放ついほうという結果けっかわった[40]

コンスタンティヌスみかど翻意ほんいとアタナシウスの追放ついほう

[編集へんしゅう]

さて、328ねんごろにはコンスタンティヌスみかどはすでにアリウス主義しゅぎ支持しじかたむいており[41]皇帝こうてい334ねんのカエサレアでの宗教しゅうきょう会議かいぎアタナシオス召喚しょうかんするが、かれはそれにおうじなかった[42]よく335ねんには、エウセビオスを議長ぎちょうとしてティルスの宗教しゅうきょう会議かいぎひらかれ、アタナシオスのアレクサンドリア司教しきょう罷免ひめんとその追放ついほう決定けっていされた[43]
文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう」の「だい世界せかい」の7「中世ちゅうせいひかりかげ」の5「キリストきょう世界せかい展開てんかい」の「アタナシウスの教会きょうかい自由じゆう主張しゅちょう」によると、
『エウセビウスは、皇帝こうてい教会きょうかい支配しはい国家こっか教会きょうかい主義しゅぎをみとめる立場たちばであり、アタナシウスは、信仰しんこうかんするかぎり、いかなるこの権力けんりょくとも妥協だきょうしない立場たちばであった』とある。
このせつただしいなら、コンスタンティヌス大帝たいていがアリウス支持しじかたむいたのは『皇帝こうてい教会きょうかい支配しはいをみとめる立場たちば』であることが理由りゆうひとつになる。

おも著作ちょさく

[編集へんしゅう]

日本語にほんごやく

[編集へんしゅう]
  • エウセビオス ちょはたつよしたいら わけ『エウセビオス「教会きょうかいじょう講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、2010ねんISBN 9784062920247 
  • エウセビオス ちょはたつよしたいら やく『エウセビオス「教会きょうかいした講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、2010ねんISBN 9784062920254 
  • エウセビオス ちょはたつよしたいら やく『コンスタンティヌスの生涯しょうがい京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい西洋せいよう古典こてん叢書そうしょ〉、2004ねんISBN 9784876981533 
  • エウセビオス ちょ久松ひさまつ英二えいじ やく福音ふくいん論証ろんしょうだいさんかん)』『中世ちゅうせい思想しそう原典げんてん集成しゅうせい1 初期しょきギリシア教父きょうふ所収しょしゅう平凡社へいぼんしゃ、1995ねん、697‐766ぺーじISBN 4582734111 
  • エウセビオス ちょ小高おだかあつし わけ教区きょうく信徒しんとへの手紙てがみ』『中世ちゅうせい思想しそう原典げんてん集成しゅうせい2 盛期せいきギリシア教父きょうふ所収しょしゅう平凡社へいぼんしゃ、1992ねん、53‐64ぺーじISBN 458273412X 
  • ユウセビウス ちょ鑓田やりた研一けんいち わけ『ユウセビウス信仰しんこうまえへんへん)』警醒けいせいしゃ、1925ねんNCID BN01411196 

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ はたつよしたいらによれば、277ねんから279ねんあいだのことである[11]
  2. ^ しかしパンフィロスはオリゲネスの著作ちょさく写本しゃほんすべ入手にゅうしゅできたわけではないらしい。オリゲネスによる『イザヤしょ注解ちゅうかいのテキストは30しょう6せつ部分ぶぶん欠損けっそんしており、元来がんらいは30かんあったとされている。[15]
  3. ^ 「エウセビオス・パンフィリ」(Eusebius Pamphili)という言葉ことばめぐっては3つの解釈かいしゃくがある。
    1. エウセビオスはパンフィロスの「霊的れいてき子供こども」あるいはおりの生徒せいとという意味いみとする解釈かいしゃく[22]
    2. エウセビオスがパンフィロス学問がくもんじょう養子ようしであるという意味いみとする解釈かいしゃく[21]
    3. エウセビオスはパンフィロスの生物せいぶつがくじょう実子じっしであったとする解釈かいしゃく
    だい3の解釈かいしゃく学者がくしゃあいだではほとんどかえりみられていない。だい3の解釈かいしゃく根拠こんきょは『福音ふくいんそなえ』パリ写本しゃほん.451の1しょう3せつほどこされたらん外注がいちゅうであるが、その成立せいりつがあまりにおそく、あやまった情報じょうほうであるとなして、その信憑しんぴょうせい否定ひていしている。しかし、『信仰しんこうそなえ』を校訂こうていわけしたE・H・ギフォードはこのらん外注がいちゅう10世紀せいきのカエサレア大司教だいしきょうアレタスによってかれ、アレタスはこの問題もんだいについての真実しんじつりうる立場たちばにいたとしんじている[23]

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ 上智大学じょうちだいがく中世ちゅうせい思想しそう研究所けんきゅうじょ中世ちゅうせい思想しそう原典げんてん集成しゅうせい〈1〉 初期しょきギリシア教父きょうふ平凡社へいぼんしゃ。p. 698。
  2. ^ Louth, "Eusebius and Birth of church history", 266; cf. Wallace-Hadrill, 7.
  3. ^ Wallace-Hadrill, 11.
  4. ^ Barnes, Constantine and Eusebius, 277; Wallace-Hadrill, 7; Quasten dates his birth to "about 263" (3.309).
  5. ^ Louth, "Eusebius and Birth of church history", 266; Quasten, 3.309.
  6. ^ a b Wallace-Hadrill, 12, citing Socrates, Historia Ecclesiastica 1.8; Theodoret, Historia Ecclesiastica 1.11.
  7. ^ Wallace-Hadrill, 12, citing Vita Constantini 1.19.
  8. ^ a b はたつよしたいらやく教会きょうかいうえ〉』p. 448。
  9. ^ Barnes, Constantine and Eusebius, 81–82; cf. also A. H. M. Jones, The Cities of the Eastern Roman Provinces (Oxford: Clarendon, 1937), 273–74.
  10. ^ Acts 8:40, 10:1–48; Barnes, Constantine and Eusebius, 82, 327 n. 11.
  11. ^ はたつよしたいらやく教会きょうかいうえ〉』p. 451。
  12. ^ はたつよしたいらやく教会きょうかいうえ〉』pp. 451-452。
  13. ^ Quasten, 3.309.
  14. ^ Eusebius, Historia Ecclesiastica 6.32.3–4; Kofsky, 12.
  15. ^ Barnes, Constantine and Eusebius, 333 n. 114, citing Eusebius, HE 6.32.1; In Is. p. 195.20–21 Ziegler.
  16. ^ L・カッソン『図書館としょかん誕生たんじょう』p. 197。
  17. ^ Levine, 124–25.
  18. ^ ホルスト・ブランク『ギリシア・ローマ時代じだい書物しょもつ』p. 157。
  19. ^ L・カッソン『図書館としょかん誕生たんじょう』p. 44。
  20. ^ Levine, 125.
  21. ^ a b c d e Barnes, Constantine and Eusebius, 94.
  22. ^ Quasten, 3.310.
  23. ^ Wallace-Hadrill, 12 n. 1.
  24. ^ Wallace-Hadrill, 11–12.
  25. ^ Quasten, 3.309–10.
  26. ^ Barnes, Constantine and Eusebius, 93, 95; Louth, "Birth of church history", 266.
  27. ^ Jerome, de Viris Illustribus 76, qtd. and tr. Louth, "Birth of church history", 266.
  28. ^ Barnes, Constantine and Eusebius, 93, 95.
  29. ^ Barnes, Constantine and Eusebius, 93; ジャン・ダニエルー『キリストきょう〈1〉』p. 468。
  30. ^ Barnes, Constantine and Eusebius, 93–94.
  31. ^ Barnes, Constantine and Eusebius, 95.
  32. ^ Barnes, Constantine and Eusebius, 277; Wallace-Hadrill, 12–13.
  33. ^ はたつよしたいらやく教会きょうかいうえ〉』p. 466。
  34. ^ a b 上智大学じょうちだいがく中世ちゅうせい思想しそう研究所けんきゅうじょ中世ちゅうせい思想しそう原典げんてん集成しゅうせい〈1〉 初期しょきギリシア教父きょうふ平凡社へいぼんしゃ。p. 699。
  35. ^ Walker, Williston (1959). "A History of the Christian Church" (Document). Edinburgh: T&T Clark. p. 108.
  36. ^ a b はたつよしたいらやく教会きょうかいうえ〉』p. 475。
  37. ^ アリスター・E・マクグラス『キリストきょう思想しそう入門にゅうもん』p. 73。
  38. ^ アリスター・E・マクグラス『キリストきょう思想しそう入門にゅうもん』p. 74。
  39. ^ アリスター・E・マクグラス『キリストきょう思想しそう入門にゅうもん』p. 43。
  40. ^ はたつよしたいらやく教会きょうかいうえ〉』p. 476。
  41. ^ H・I・マルー『キリストきょう〈2〉』p. 82。
  42. ^ はたつよしたいらやく教会きょうかいうえ〉』p. 477。
  43. ^ 上智大学じょうちだいがく中世ちゅうせい思想しそう研究所けんきゅうじょ中世ちゅうせい思想しそう原典げんてん集成しゅうせい〈1〉 初期しょきギリシア教父きょうふ平凡社へいぼんしゃ。p. 700。

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]