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シリアのエフレム

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シリアのせいエフレム
シリアのせいエフレムのイコン
ネア・モニ修道院しゅうどういんモザイクイコン)
かつあやかしゃ
言語げんご表記ひょうき アラム / シリア: ܐܦܪܝܡ ܣܘܪܝܝܐ, Mor Afrêm Sûryāyâ; ギリシア: Ἐφραίμ ὁ Σしぐまῦρος; ラテン語らてんご: Ephraem Syrus
生誕せいたん 307ねん
ニシビス (トルコ)
死没しぼつ 373ねん
エデッサ(シャンルウルファ:トルコ)
崇敬すうけいする教派きょうは 正教会せいきょうかい
カルケドン
カトリック教会きょうかい
せい公会こうかい
ルーテル教会きょうかい
記念きねん 正教会せいきょうかい1がつ28にちユリウスれき使用しよう正教会せいきょうかいではグレゴリオれき2がつ10日とおか相当そうとう
シリア正教会せいきょうかい復活ふっかつさいまえ土曜日どようび
スコットランドせい公会こうかい6月8にち
ローマカトリック教会きょうかいイングランドせい公会こうかい6月9にち
ウェールズせい公会こうかい米国べいこくせい公会こうかい6がつ10日とおか
マロン典礼てんれいカトリック教会きょうかい6月18にち
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シリアのエフレムアラム / シリア: ܐܦܪܝܡ ܣܘܪܝܝܐ, Mor Afrêm Sûryāyâ; ギリシア: Ἐφραίμ ὁ Σしぐまῦρος; ラテン語らてんご: Ephraem Syrus306ねんごろ - 373ねん)は、4世紀せいきシリア活躍かつやくしたキリスト教きりすときょう修道しゅうどう聖歌せいか作家さっか神学しんがくしゃ輔祭助祭じょさい執事しつじ)。正教会せいきょうかい東方とうほうしょ教会きょうかいカトリック教会きょうかいせい公会こうかいルーテル教会きょうかいにおける聖人せいじん正教会せいきょうかいではシリアのかつあやかしゃせいエフレムばれる。

現在げんざいのシリアとトルコの国境こっきょう位置いちするニシビス[1]まれ、母語ぼご古典こてんシリアむかし東西とうざい交易こうえき合流ごうりゅうとしておおいにさかえたニシビスのまちはその破壊はかいされ、現在げんざいはトルコのヌサイビン英語えいごばんというちいさなまちになっている。エフレムはアリウス反駁はんばくなどに活躍かつやくし、シリア多数たすう祈祷きとうぶん聖歌せいか)を著作ちょさくした。シリアではいまもそのままもちいられている。かれ祈祷きとうぶんギリシアにも多数たすう翻訳ほんやくされている。

生涯しょうがい伝承でんしょう

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以下いかは、確認かくにんされた歴史れきしてき事実じじつとしての記述きじゅつではなく、教会きょうかいつたえる伝承でんしょう概略がいりゃくである。

4世紀せいき初頭しょとう現在げんざいのシリアとトルコ国境こっきょう位置いちするニシビス[1]まずしくも敬虔けいけん農家のうかまれた。エフレムの祖先そせん乞食こじきであり、農家のうかとなったのは祖父そふだいからであるという[2]

まだ迫害はくがいつづいているころであったが、敬虔けいけんキリスト教徒きりすときょうとであった一家いっかで、エフレムも敬虔けいけん信者しんじゃとなるよう教育きょういくされた。しかしエフレムは少年しょうねん時代じだい短気たんきでわがままな性格せいかくであり、よく喧嘩けんかをし浅慮せんりょ言動げんどうをとり、かみ存在そんざいにすら疑問ぎもんをもっていた[2]

あるひつじいに一夜いちや宿やどたのんだエフレムは、おおかみひつじころしていったことを「エフレムが盗賊とうぞく手引てびきしてひつじぬすもうとした」と誤認ごにんしたひつじいによってうったえられ、無実むじつつみ投獄とうごくされてしまった。牢獄ろうごくには2人ふたり無実むじつつみ投獄とうごくされたものがいた。3にん無実むじつつみろうることをいきどおり、忍耐にんたいして日々ひびおくっていた[3]

しかしあるよる、エフレムのゆめなかこえこえ、かみむねおもこしてこれまで自分じぶんのしてきたことをかえりみるようげられたエフレムは、自分じぶんいま境遇きょうぐう過去かこつみのためであるとさとり、仲間なかま2人ふたりにもこのことをかたった。そしてそろって3にんとも悔改して敬虔けいけんものとなった。のちにエフレムは潔白けっぱく証明しょうめいされて釈放しゃくほうされた[3]

ふかやめねんをもっていたエフレムは釈放しゃくほう近隣きんりんやまって隠遁いんとんしゃとなった。ニシビスにおいてすぐれた禁欲きんよくしゃとしてられた主教しゅきょう司教しきょう)イアコフ(ヤコブ)の弟子でしとなって指導しどうけ、高徳こうとくしゃとなっていった。イアコフはエフレムの徳性とくせい才能さいのう発揮はっきされるよう配慮はいりょし、説教せっきょうと、学校がっこうでのどもたちへの教育きょういくおこなわせ、だいいちぜん公会こうかい(ニケアこう会議かいぎにイアコフがおもむさいには随行ずいこうさせた。イアコフの永眠えいみんエデッサおもむき、そこの修道しゅうどうたちと交流こうりゅうしつつ、おおくのひと説教せっきょうおこない、またアリウスへの反駁はんばくと、同調どうちょうしゃへの説得せっとく教化きょうかにあたった[4]

その従順じゅうじゅんさゆえに自分じぶんだれよりも罪深つみぶかいものとみなしていたエフレムは、晩年ばんねんエジプト荒野あらの偉大いだい隠遁いんとんしゃたちの偉業いぎょうたいとおもいエジプトにおもむいた。エジプトでエフレムは尊敬そんけいすべき客人きゃくじんとしてむかえられ、エフレムも隠遁いんとんしゃたちとのまじわりのなかおおきななぐさめを[5]

帰路きろ、エフレムはカッパドキアカイサリアってきよしだいワシリイ(バシレイオス)のもとをおとずれた。ワシリイはエフレムを司祭しさいじょひじり叙任じょにんしようとしたが、エフレムは固辞こじし、なんかの説得せっとくによってようやく輔祭しょくくことを承諾しょうだくした。のちにワシリイはエフレムを主教しゅきょうとしてまねこうとするが、エフレムは謙虚けんきょさからぬまで輔祭しょくにとどまった[5]

エデッサにもどったエフレムは、晩年ばんねん隠遁いんとんしゃとしてごそうとかんがえていたが、かみむねによってふたた人々ひとびとのためにはたらいた。エデッサで飢饉ききん発生はっせいしたおりには、富裕ふゆう人々ひとびと食物しょくもつあたえるよう説得せっとくし、寄付きふきん救済きゅうさい施設しせつ建設けんせつしておおくの貧民ひんみん病人びょうにんすくった[5]

その、エフレムはふたたびエデッサ近郊きんこう洞穴どうけつ隠遁いんとんし、ぬまでそこにとどまった[5]

著作ちょさく業績ぎょうせき

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おおくの祈祷きとうぶん聖書せいしょ注解ちゅうかいのこされており、それらは正教会せいきょうかいにおいてたか評価ひょうかている。エフレムのつくった祈祷きとうぶんなかで、正教会せいきょうかいだいとき期間きかんちゅう土曜どよう(スボタ)と日曜にちようおも)をのぞかく祈祷きとうごとにもちいる「エフレムのしゅくぶん」がよくられている[6]聖書せいしょ注解ちゅうかい旧約きゅうやく新約しんやく両方りょうほうわたっているが[7]とくモーセしょ注解ちゅうかい特筆とくひつされる[6]

エフレムの著作ちょさくは、修行しゅぎょう中心ちゅうしんいのりと共同きょうどう生活せいかつのための労働ろうどうとしていた当時とうじシリア修道しゅうどうたちの生活せいかつ全体ぜんたいぞううかがることが出来できるものと教会きょうかいでは評価ひょうかされている[8]

  • 聖母せいぼ賛歌さんか』 著者ちょしゃせいエフレム 訳者やくしゃ:デルコル神父しんぷ江藤えとうきみえ あいしんかん発行はっこうのひかりしゃ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b せいエフレムでん』67ぺーじ-73ぺーじ デルコル神父しんぷしる あいしんかん発行はっこう
  2. ^ a b しょせい略伝りゃくでん がつ』51ぺーじ‐52ぺーじ
  3. ^ a b しょせい略伝りゃくでん がつ』52ぺーじ‐53ぺーじ
  4. ^ しょせい略伝りゃくでん がつ』53ぺーじ‐54ぺーじ
  5. ^ a b c d しょせい略伝りゃくでん がつ』58ぺーじ‐59ぺーじ
  6. ^ a b しょせい略伝りゃくでん がつ』55ぺーじ
  7. ^ Толкования на Священное Писание. — Ефрем Сирин (シリアのエフレムによる聖書せいしょ注解ちゅうかい一覧いちらん (ロシア
  8. ^ しょせい略伝りゃくでん がつ』56ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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