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マリオ・サンターナ

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マリオ・サンターナ
名前なまえ
本名ほんみょう マリオ・アルベルト・サンターナ
Mario Alberto Santana
愛称あいしょう スーペルマリオ
ラテン文字もじ Mario SANTANA
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき アルゼンチンの旗 アルゼンチン
イタリアの旗 イタリア
生年月日せいねんがっぴ (1981-12-23) 1981ねん12月23にち(42さい
出身しゅっしん コモドーロ・リバダビア
身長しんちょう 170cm
体重たいじゅう 72kg
選手せんしゅ情報じょうほう
ポジション MF (WG)
あし 右足みぎあし
ユース
アルゼンチンの旗 CAIスペインばん
アルゼンチンの旗 サン・ロレンソ
クラブ1
とし クラブ 出場しゅつじょう (得点とくてん)
1999-2001 アルゼンチンの旗 サン・ロレンソ 33 (2)
2002 イタリアの旗 ヴェネツィア 4 (0)
2002-2006 イタリアの旗 パレルモ 91 (4)
2003-2004 イタリアの旗 キエーヴォ (loan) 28 (3)
2006-2011 イタリアの旗 フィオレンティーナ 108 (15)
2011-2013 イタリアの旗 ナポリ 8 (0)
2012 イタリアの旗 チェゼーナ (loan) 16 (3)
2012-2013 イタリアの旗 トリノ (loan) 27 (4)
2013-2015 イタリアの旗 ジェノア 6 (0)
2014 ポルトガルの旗 オリャネンセ (loan) 3 (0)
2015 イタリアの旗 フロジノーネ (loan) 12 (1)
2016-2019 イタリアの旗 プロ・パトリア 94 (32)
2019-2021 イタリアの旗 パレルモ 32 (5)
代表だいひょうれき
2004-2005 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 7 (1)
1. 国内こくないリーグせんかぎる。
■テンプレート■ノート 解説かいせつ■サッカー選手せんしゅpj

マリオ・アルベルト・サンターナMario Alberto Santana, 1981ねん12月23にち - )は、アルゼンチンチュブしゅうコモドーロ・リバダビア出身しゅっしんもとサッカー選手せんしゅ現役げんえき時代じだいのポジションはミッドフィールダーもとアルゼンチン代表だいひょう

経歴けいれき[編集へんしゅう]

クラブ[編集へんしゅう]

アルゼンチン時代じだい[編集へんしゅう]

1999-2000シーズンにCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロにてプロとしてのキャリアをスタートさせる。その、3シーズンをアルゼンチンの1リーグであるプリメーラ・ディビシオン経験けいけんみ、どうリーグではけい2得点とくてんする。2001ねんにリーグせん優勝ゆうしょうたすと、その活躍かつやくをつけたイタリア・セリエASSCヴェネツィア会長かいちょうつとめていたマウリツィオ・ザンパリーニられ20さいでイタリアにわたることになる。

イタリア時代じだい - ザンパリーニのした[編集へんしゅう]

2006ねんごろのサンターナ

2002ねん1がつ31にちSSCヴェネツィア移籍いせき同年どうねん3がつ24にちたいアタランタBCせんにてセリエAにデビューする。その3試合しあい出場しゅつじょうたすも、どうシーズンにセリエAに昇格しょうかくしたばかりのクラブは最下位さいかいしずんでおり、そのままシーズンを終了しゅうりょうセリエB降格こうかくすることになる。この時期じきに、会長かいちょうつとめていたザンパリーニがUSチッタ・ディ・パレルモ株式かぶしきASローマのフランコ・センシ会長かいちょうからり、パレルモのオーナーとなる。ザンパリーニは若手わかてのサンターナをパレルモにれてくことをめ、サンターナ自身じしんもセリエBに活躍かつやく舞台ぶたいうつした。パレルモに移籍いせきすると出場しゅつじょう機会きかいえ、2002-03シーズンは33試合しあい出場しゅつじょう、3得点とくてんする。

2003ねん7がつ1にちにサンターナは1年間ねんかんのローンでACキエーヴォ・ヴェローナ移籍いせきした。当時とうじのキエーヴォはプロンヴィンチャのクラブとしてかい進撃しんげきつづけており、サンターナはステップアップをたした。ルイジ・デルネーリ監督かんとくした戦術せんじゅつてきにも成長せいちょうし、2003-04シーズンはリーグせん28試合しあい出場しゅつじょう、セリエAはつ得点とくてんふくけい3得点とくてんした。これらの活躍かつやくから、シーズン終了しゅうりょうなつにはキリンチャレンジカップ2004のメンバーとしてアルゼンチン代表だいひょう招集しょうしゅうされた。

シーズン終了しゅうりょうに1ねんのローンの期間きかんえ、サンターナ不在ふざいなかセリエA昇格しょうかくたしたパレルモにふたたもどされた。キエーヴォ在籍ざいせきにセリエAで通用つうようすることを証明しょうめいしたサンターナは、レギュラーとして昇格しょうかくのチームに貢献こうけんした。2シーズンでリーグせんに58試合しあい出場しゅつじょうし、3得点とくてんする。2006ねん3月16にちおこなわれたUEFAカップたいシャルケ04せんにおいて、3番目ばんめ腰椎ようつい骨折こっせつする怪我けがい2ヶ月かげつあいだ離脱りだつ余儀よぎなくされた[1]。リーグせん最終さいしゅうせん復帰ふっきすることができたが、この怪我けがにより2006 FIFAワールドカップ代表だいひょうメンバーには落選らくせんすることになった。

フィオレンティーナ時代じだい[編集へんしゅう]

2006ねん5月27にち長年ながねんいであったザンパリーニのしたはなれ、500まんユーロの移籍いせききんACFフィオレンティーナ完全かんぜん移籍いせきした[2]。フィオレンティーナの監督かんとくであるチェーザレ・プランデッリしんシーズンを4-2-3-1システムから4-3-3システムにするべく、どうクラブのスポーツディレクターのパンタレオ・コルヴィーノ適役てきやくもとめたためであった[3]同年どうねん8がつ移籍いせきすぐにコッパ・イタリアにおけるたいギアッレFCせん得点とくてんをあげるも、どう試合しあい大腿だいたいすじいため2ヶ月かげつ離脱りだついられ、リーグせん開幕かいまくまえにしてふたた怪我けがなやまされることになった[4]10月22にちたいレッジーナ・カルチョせん怪我けがから復帰ふっきし、フィオレンティーナにおいてのリーグせんデビューをたす。10月25にちにはたいトリノFCせん得点とくてんをあげ、0-1の勝利しょうり貢献こうけんした。しかし、その怪我けが再発さいはつ離脱りだつ復帰ふっきかえし、移籍いせき初年度しょねんどは8試合しあい出場しゅつじょうにとどまった。2007-08シーズンは、怪我けがから回復かいふくしチームの上位じょうい進出しんしゅつ貢献こうけんした。2007ねん9月3にちおこなわれたたいACミランせんでは、技巧ぎこうてき足技あしわざ世界せかい最高さいこうのディフェンダーの1人ひとりであるアレッサンドロ・ネスタ翻弄ほんろうしアシストをめたことで、おおくのメディアにげられた。自身じしんの26かい誕生たんじょうでもあった12月23にちおこなわれたリーグせんたいカリアリ・カルチョでは自身じしんはつとなるドッピエッタをめるなど、チームのリーグ4貢献こうけんした。このシーズンは26試合しあい出場しゅつじょうし、6得点とくてん記録きろくした。2008-09シーズンの途中とちゅうからクラブが4-3-1-2のウィングを使つかわないシステムを採用さいようすると、サンターナはトレクァルティスタとしてもプレーできること証明しょうめいし、たか適応てきおうせいしめした。2009ねん1がつ28にちたいSSCナポリせんでシーズンはつ得点とくてん記録きろくした。しかし同年どうねん2がつ2にちたいボローニャFCせんにおいてぜん十字じゅうじ靭帯じんたい損傷そんしょう手術しゅじゅつ余儀よぎなくされぜん日程にっていわるまえにサンターナのどうシーズンが終了しゅうりょうした[5]。2010-11シーズンでは開幕かいまくからチームに故障こしょうしゃ続出ぞくしゅつ度重たびかさなるフォーメーション変更へんこうなかマルコ・ドナデルらとともに中盤ちゅうばんがりでプレイする機会きかいえるようになった。シーズン終了しゅうりょう契約けいやくれ、そのフィオレンティーナと契約けいやく延長えんちょうしない意思いししめしていた。

ナポリ時代じだい[編集へんしゅう]

2011ねん7がつ12にち本人ほんにん希望きぼうであったSSCナポリ移籍いせきすることが発表はっぴょうされた[6]。しかし、ナポリではクリスティアン・マッジョアンドレア・ドッセーナまえ出場しゅつじょう機会きかいめぐまれず、2012ねん1がつ31にちACチェゼーナへレンタル移籍いせき

ジェノア時代じだい[編集へんしゅう]

2013ねん7がつ30にちジェノアCFC移籍いせきすることが発表はっぴょうされた[7]翌年よくねん1がつ29にちからシーズン終了しゅうりょうまで、プリメイラ・リーガSCオリャネンセ期限きげん移籍いせきした[8]。2015ねん2がつ2にちセリエBフロジノーネ・カルチョ期限きげん移籍いせきすることが決定けっていした[9]。クラブ史上しじょうはつのセリエA昇格しょうかく見届みとどけジェノアにもどるが、2015ねん8がつ30にちをもってルカ・アントニーニともにクラブとの契約けいやく終了しゅうりょうした[10]

プロ・パトリア時代じだい[編集へんしゅう]

2016ねん1がつ16にちレガ・プロアウローラ・プロ・パトリア1919加入かにゅうした[11]

パレルモ復帰ふっき[編集へんしゅう]

2019ねん8がつUSチッタ・ディ・パレルモ復帰ふっきした[12]

2021ねん6がつ18にち現役げんえき引退いんたい表明ひょうめいした[13]

代表だいひょう[編集へんしゅう]

アルゼンチン代表だいひょうとしては、キリンチャレンジカップ2004出場しゅつじょうするために来日らいにちし、とう大会たいかいたい日本にっぽんせんにおいて代表だいひょうキャップちゅう唯一ゆいいつ得点とくてんげている。2005ねんにはホセ・ペケルマンしたFIFAコンフェデレーションズカップ2005代表だいひょうチームに招集しょうしゅうされ、グループステージ3試合しあい準決勝じゅんけっしょう1試合しあい出場しゅつじょうする。どうチームの唯一ゆいいつ敗戦はいせんとなった決勝けっしょうせん以外いがいには出場しゅつじょうし、チームのじゅん優勝ゆうしょう貢献こうけんした。パレルモ在籍ざいせきった怪我けがにより、2006 FIFAワールドカップ代表だいひょうメンバーには落選らくせんすることになった。その若手わかて台頭たいとうもあり代表だいひょうからはとおざかっている。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

  • 2002ねんふゆ当時とうじSSCヴェネツィア会長かいちょうつとめていたマウリツィオ・ザンパリーニ[14]られ20さいでイタリアにわたり、以後いごセリエA舞台ぶたいでキャリアをかさねている。技巧ぎこうてきなドリブル、クロス精度せいどすぐれたテクニカルなプレーヤーであり、トリッキーなドリブルで相手あいて守備しゅびじん翻弄ほんろうし、ピンポイントクロスを前線ぜんせんおく[15]度重たびかさなる怪我けが若手わかて台頭たいとうにより2006ねん以降いこうアルゼンチン代表だいひょうからとおざかる。2008ねんイタリア国籍こくせき取得しゅとく

エピソード[編集へんしゅう]

  • サッカー選手せんしゅとしては小柄こがらであり、全体ぜんたいてき浅黒あさぐろさからイタリアではカリメロともばれる[15]
  • うでに「アナタオ」という日本語にほんごタトゥーがある。

タイトル[編集へんしゅう]

サン・ロレンソ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Palermo, stagione finita per Santana: frattura della vertebra”. sport.it (2006ねん3がつ25にち). 2010ねん2がつ6にち閲覧えつらん(イタリア
  2. ^ Acffiorentina: per Santana un quadriennale”. fiorentina.it (2006ねん5がつ27にち). 2010ねん2がつ6にち閲覧えつらん(イタリア
  3. ^ どう時期じきにフィオレンティーナが獲得かくとくしたアドリアン・ムトゥファビオ・リヴェラーニ同様どうよう理由りゆうであった。
  4. ^ Fiorentina: stiramento per Santana”. sport.excite.it (2006ねん8がつ21にち). 2010ねん2がつ6にち閲覧えつらん(イタリア
  5. ^ Report dello Staff Medico”. フィオレンティーナ公式こうしき (2009ねん2がつ3にち). 2010ねん2がつ6にち閲覧えつらん(イタリア
  6. ^ Santana e Colombo al Napoli”. sscnapoli.it (2011ねん7がつ12にち). 2011ねん7がつ13にち閲覧えつらん(イタリア
  7. ^ UFFICIALE SANTANA AL GENOA ジェノアCFC公式こうしきウェブサイト 2013ねん7がつ30にちづけ
  8. ^ SANTANA CEDUTO A SC OLHANENSE Archived 2014ねん2がつ1にち, at the Wayback Machine. ジェノアCFC公式こうしきウェブサイト 2014ねん1がつ29にちづけ
  9. ^ UFFICIALE: Frosinone, colpo Santana dal Genoa Tutto Mercato Web.com 2015ねん2がつ2にちづけ
  10. ^ Genoa, rescissione per Antonini e Santana: è addio”. TuttoMercatoWeb.com (2015ねん8がつ30にち). 2016ねん1がつ26にち閲覧えつらん
  11. ^ UFFICIALE: Pro Patria, preso Mario Alberto Santana”. TuttoMercatoWeb.com (2016ねん1がつ16にち). 2016ねん1がつ26にち閲覧えつらん
  12. ^ “Palermo, Santana il primo acquisto in D: "Tornare qui è una grande emozione"” (イタリア). Sky Sport. (2019ねん8がつ6にち). https://sport.sky.it/calciomercato/2019/08/06/santana-palermo-calciomercato-news.html 2022ねん1がつ5にち閲覧えつらん 
  13. ^ SANTANA SARÀ ALLENATORE DEL SETTORE GIOVANILE ROSANERO” (Italian). Palermo F.C. (2021ねん6がつ18にち). 2022ねん1がつ5にち閲覧えつらん
  14. ^ 2002-2003シーズン以降いこうパレルモ会長かいちょう
  15. ^ a b “OCCHI PUNTATI SU”, Mario Alberto Santana…il nuovo “Calimero” viola”. stefanoborgi.it (2008ねん9がつ22にち). 2010ねん2がつ6にち閲覧えつらん(イタリア

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]