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マリーア・テレーザ・ディ・サヴォイア (パルマ公妃) - Wikipedia コンテンツにスキップ

マリーア・テレーザ・ディ・サヴォイア (パルマおおやけ)

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マリーア・テレーザ・
ディ・サヴォイア
Maria Teresa di Savoia
ルッカおおやけ
パルマこう
在位ざいい ルッカおおやけ:1824ねん - 1847ねん
パルマおおやけ:1847ねん - 1849ねん

出生しゅっしょう (1803-09-19) 1803ねん9月19にち
教皇きょうこうりょうローマコロンナ宮殿きゅうでん英語えいごばん
死去しきょ (1879-07-16) 1879ねん7がつ16にち(75さいぼつ
イタリア王国の旗 イタリア王国おうこく、ヴィニャーレ
埋葬まいそう イタリア王国の旗 イタリア王国おうこくローマ、ヴェラーノ墓地ぼち
結婚けっこん 1820ねん9月5にち ルッカ
配偶はいぐうしゃ カルロ2せい
子女しじょ ルイーザ
カルロ3せい
家名かめい サヴォイア
父親ちちおや ヴィットーリオ・エマヌエーレ1せい
母親ははおや マリーア・テレーザ・ダウストリア=エステ
宗教しゅうきょう キリスト教きりすときょうカトリック教会きょうかい
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マリーア・テレーザ・ディ・サヴォイアMaria Teresa di Savoia, 1803ねん9月19にち - 1879ねん7がつ16にち)は、パルマこうカルロ2せい

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

サルデーニャおうヴィットーリオ・エマヌエーレ1せいと、マリーア・テレーザむすめとして、ローマコロンナ宮殿きゅうでん英語えいごばんまれた。ぜんは、マリーア・テレーザ・フェルナンダ・フェリシタス・ガエターナ・ピア・ディ・サヴォイア(Maria Teresa Fernanda Felicitas Gaetana Pia di Savoia)。オーストリア皇后こうごうとなったマリア・アンナとは双子ふたご姉妹しまいである。姉妹しまいは、ローマ教皇きょうこうピウス7せいによって洗礼せんれいほどこされた。名付なづおやはオーストリア大公たいこうフェルディナントマリーア・ベアトリーチェ・デステであった。

子供こども時代じだいおおくをサルデーニャとうカリャリごした。ナポレオン侵攻しんこうによって一家いっかしまがいのがれるが、1814ねんちちヴィットーリオ・エマヌエーレ1せいがピエモンテ支配しはい奪還だっかんし、一家いっかトリノうつった。

1820ねん9がつルッカでカルロ・ルドヴィーコと結婚けっこんした。2人ふたりあいだには2まれた。

  • ルイーザ(1821ねん - 1823ねん
  • カルロ3せい(1823ねん - 1854ねん

マリーア・テレーザとカルロはぎくしゃくとした夫婦ふうふ関係かんけいであった。また、彼女かのじょはカトリック信仰しんこうあつ女性じょせいだった。そして、おっとのカルロは、自身じしんたのしみのために政治せいじてき責任せきにんをおろそかにしていた。そのため、夫妻ふさい結婚けっこんしてからほとんどはなれてらしていた。

1824ねん3がつ、カルロの生母せいぼくなり、かれはルッカこうカルロ1せいとなった。

1847ねん12月、パルマおんなこうマリア・ルイーザに、ウィーン会議かいぎでのめにしたがい、カルロはルッカ公国こうこくとパルマ公国こうこく交換こうかんし、パルマこうカルロ2せいとして即位そくいした。1848ねん革命かくめい勃発ぼっぱつするまで、数ヶ月すうかげつあいだではあるがマリーア・テレーザはパルマの実質じっしつてき支配しはいしゃであった。1849ねん3がつ、カルロ2せい退位たいいし、息子むすこカルロ3せい継承けいしょうした。

マリーア・テレーザは息子むすこカルロ3せい暗殺あんさつヴィアレッジョにある自分じぶん別荘べっそうもってらした。のち、彼女かのじょはルッカのきたにあるサン・マルティーノの別荘べっそううつった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]