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マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・コルウィヌス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・コルウィヌス
M. Valerius M. f. M. n. Messalla Corvinus
出生しゅっしょう 紀元前きげんぜん64ねんごろ
死没しぼつ 紀元前きげんぜん8ねんごろ
出身しゅっしん階級かいきゅう パトリキ
氏族しぞく ウァレリウス氏族しぞく
官職かんしょく 補充ほじゅう法務ほうむかん紀元前きげんぜん40ねん
補充ほじゅう執政しっせいかん紀元前きげんぜん31ねん
ぜん執政しっせいかん紀元前きげんぜん30ねん-29ねん紀元前きげんぜん28ねん-27ねん
首都しゅと長官ちょうかん紀元前きげんぜん26ねん
担当たんとうぞくしゅう シリアぞくしゅう紀元前きげんぜん30ねん-29ねん
ガリア・アクィタニアぞくしゅう紀元前きげんぜん28ねん-27ねん
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マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・コルウィヌスラテン語らてんご: Marcus Valerius Messalla Corvinus紀元前きげんぜん64ねんごろ - 8ねんごろ)は、共和きょうわせいローマ末期まっき人物じんぶつ紀元前きげんぜん31ねんコンスル・スフェクトゥス補充ほじゅう執政しっせいかん)をつとめた。

経歴けいれき

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わかころホラティウスわかしょうキケロとともにアテネ遊学ゆうがくする。っからの共和きょうわ主義しゅぎしゃであったが、みずからの信条しんじょうかたりすぎることはなかったので、オクタウィアヌスとの対立たいりつけることができた。

紀元前きげんぜん43ねんだい粛清しゅくせいかれもまた処罰しょばつしゃ対象たいしょうとなったが、逃亡とうぼう成功せいこうマルクス・ユニウス・ブルトゥスガイウス・カッシウス・ロンギヌスのもとにはしった。しかしピリッピのたたかりょうとも戦死せんしすると、今度こんどマルクス・アントニウスのもとへく。しかし途中とちゅうオクタウィアヌス支持しじすることになる。紀元前きげんぜん31ねんいまやローマと敵対てきたいしたアントニウスのわりにコンスルにえらばれ、そしてアクティウムの海戦かいせん従軍じゅうぐん。そのプロコンスルぜん執政しっせいかん権限けんげんで、 シリアぞくしゅうつづいてガリア・アクィタニアぞくしゅう総督そうとくつとめる。ガリアでのたたかいでの功績こうせきにより紀元前きげんぜん27ねん凱旋がいせんしき敢行かんこうゆるされた。

かれはまたローマ皇帝こうていとなったオクタウィアヌスに「国家こっかちち」の称号しょうごうさづけられるべきだと身上しんじょうした。しかしながら、それは本来ほんらいかれ政治せいじてき信条しんじょうとは相容あいいれないものだったので、そのたった6日間にちかん任期にんき首都しゅと長官ちょうかん地位ちいした。

その公共こうきょう建築けんちくぶつ建造けんぞう街道かいどう修復しゅうふくなどに率先そっせんしてすすめる。そして文学ぶんがくでもかれ影響えいきょうおおきく、ガイウス・マエケナス影響えいきょうで、みずからの文学ぶんがくサロンをもよおした。そのなかにはティブッルスオウィディウスなどの交流こうりゅうもあり、とくにオウィディウスからはみずからの作品さくひん後押あとおししてくれた賛辞さんじおくられている。またかれ自身じしんみずからで文学ぶんがく作品さくひんしるしていたが、現存げんそんしていない。しかしそのおおくは、スエトニウスプルタルコスのようなのちの歴史れきし詩人しじんによって引用いんようされている。

関連かんれん項目こうもく

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公職こうしょく
先代せんだい
グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス
ガイウス・ソシウス
補充ほじゅう
ルキウス・コルネリウス・キンナ
マルクス・ウァレリウス・メッサッラ
補充ほじゅう執政しっせいかん途中とちゅう離職りしょく
紀元前きげんぜん31ねん
正規せいき執政しっせいかん
マルクス・アントニウス III(正式せいしき就任しゅうにんせず)
アウグストゥス III
補充ほじゅう執政しっせいかん
マルクス・ティティウス途中とちゅう離職りしょく
グナエウス・ポンペイウス
次代じだい
アウグストゥス IV
マルクス・リキニウス・クラッスス
補充ほじゅう
ガイウス・アンティスティウス・ウェトゥス
マルクス・トゥッリウス・キケロ・ミノル
ルキウス・サエニウス