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ミコワイキ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミコワイキ (Mikołajki)
ミコワイキの旗 ミコワイキの市章
位置いち
情報じょうほう
けん: ヴァルミア=マズールィけん
緯度いど: 北緯ほくい 53°48'
経度けいど: 東経とうけい 21°35'
標高ひょうこう: 150m
面積めんせき: 8.85  km2
人口じんこう
 - 合計ごうけい
 - 人口じんこう密度みつど

3852にん
440   ひと/km2
郵便ゆうびん番号ばんごう: 11-730
市外しがい局番きょくばん: 48 87
町長ちょうちょう: Piotr Jakubowski
公式こうしきサイト: 公式こうしきウェブサイト

ミコワイキポーランド:Mikołajki [mʲikɔˈwai̯kʲi]ドイツ:Nikolaiken [nikoˈlaɪkn̩] ( 音声おんせいファイル))は、ポーランドヴァルミア=マズールィけんムロンゴヴォぐんまち。ミコワイ地区ちく行政ぎょうせい中心ちゅうしん都市とし。1975ねんから1998ねんあいだは、スヴァルスキけんぞくしていた。

マズールィ湖水こすい地方ちほうen最大さいだいみずうみシニャルドヴィちかくにある。

歴史れきし

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この都市とし名前なまえは、せいニコラウス教会きょうかい守護しゅご聖人せいじん由来ゆらいしている(せいニコラウスのポーランド名前なまえせいミコワイ)。現在げんざいのミコワイキのある場所ばしょには、もともとプロイセンじん集落しゅうらくがあった。ミコワイキが歴史れきし最初さいしょ登場とうじょうしたのは1444ねんである。15世紀せいきなかばにははしのたもとにけん宿場しゅくばがあり、1516ねん宿場しゅくばたいする特権とっけん更新こうしんされている記録きろくのこっている。宿場しゅくばは、ドイツ騎士きしだん衣料いりょう食料しょくりょうを2とうての馬車ばしゃでリン(ミコワイキのきたやく20kmの場所ばしょ)まで輸送ゆそうしてもど義務ぎむっていた。ミコワイキにおいて、ドイツ騎士きしだんれたさかな半分はんぶん独占どくせんてきあつか権利けんりをもっており、そのさかな外国がいこく輸出ゆしゅつされた。また、みずうみみずうみあいだにある地峡ちきょうはしがかかっており、そのはしわたひとから通行つうこうりょう徴収ちょうしゅうすることで収入しゅうにゅうていた。このミコワイキでタウテとミコワイがつながっているが、これらはドイツ騎士きしだんりょう時代じだいにつながった。

宗教しゅうきょう改革かいかく以前いぜんのミコワイキの教会きょうかいは、ヴァルミア教区きょうくぐん教区きょうくないし支部しぶ教会きょうかいのリストふくまれていなかった。おそらくはリンのドイツ騎士きしだん司祭しさい祭儀さいぎおこなっていたのであろう。ドイツ騎士きしだんりょう世俗せぞくプロイセン公国こうこく移行いこうした(1525ねん)、マズーレのおおくのプロテスタント教区きょうくでポーランドはな牧師ぼくしむかえた。ミコワイキには、1552ねんにポーランドじん牧師ぼくしヤクブ・ヴィラモフスキがやってきた。1798ねんには、ミコワイキでシュフィエンタ=リプカのカトリック神父しんぷ布教ふきょうおこなっている。

18世紀せいき定住ていじゅう拡大かくだいし、1726ねんにはプロイセン国王こくおうフリードリヒ・ヴィルヘルム1せいによって、ニコライケンまち特権とっけんあたえられた。当時とうじはリネック、クニエッツ、コズウォヴォの3つの地区ちくからなっていた。最後さいごのコズウォヴォは、ミコワイキの中心ちゅうしんからて、みずうみ対岸たいがんにある地区ちくである。シニャルドヴィ近接きんせつする立地りっちから、ニコライケンの漁業ぎょぎょう繁栄はんえいつづけていた。地域ちいきれるマスは、ひがしプロイセンなかとく人気にんきであった。1843ねんにはマズーレの定期ていき航路こうろ開設かいせつされ、ミコワイキがさかえるきっかけとなる。1911ねんには、ムロンゴヴォやオジェシュと鉄道てつどうむすばれた。1920ねんからは観光かんこうとしてられるようになる。

1945ねんまで、まちプロイセン王国おうこくひがしプロイセン、ゼンスブルクぐん一部いちぶであった。だい世界せかい大戦たいせんなかのニコライケンは、戦闘せんとう破壊はかいされなかった数少かずすくないひがしプロイセンのまちの1つであった。ミコワイキない、ミコワイ西岸せいがんにはワルリⅡというコードネームのアプヴェーア活動かつどうしていた。1940ねんからたいソ連それん情報じょうほう収集しゅうしゅうしており、総統そうとう大本営だいほんえいがケンシントン付近ふきんもり移転いてんしてからは、このヴォルフスシャンツェ直接ちょくせつ報告ほうこくをおこなっていた。1944ねん8がつケーニヒスベルクばくげきまえには、ケーニヒスベルクの公文書こうぶんしょがミコワイキにうつされた。大戦たいせんまちはポーランドりょうとなった。ドイツけい住民じゅうみんは、ポーランドとソビエトぐんによるひがしプロイセン撤収てっしゅうen)とドイツじん追放ついほうによってまちわれた。

チェルノブイリ原子力げんしりょく発電はつでんしょ事故じこさいは、汚染おせん大気たいきながんできていることをポーランドで最初さいしょ検出けんしゅつしたのは、ミコワイキにある放射線ほうしゃせん監視かんし施設しせつである。

現在げんざいのミコワイキ

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戦前せんぜんよりまち観光かんこうとして成長せいちょうしていた。現在げんざいはマズールィ地方ちほう最大さいだい観光かんこうの1つである。魅力みりょくてき湖沼こしょう地帯ちたい位置いちするので、ミコワイキはポーランドにおけるヨットスポーツの中心ちゅうしんになっている。冬期とうき氷上ひかみセーリングはとく人気にんきがある。ミコワイキにはマズーレ周回しゅうかい航路こうろ停泊ていはくがある。またホテル全部ぜんぶで1500にんほどの収容しゅうよう能力のうりょくがあり、そのうち1200にんぶんはゴウェンビエスキホテルのぶんである。ホテルのほかにも、ペンションや民宿みんしゅくなどの宿泊しゅくはく施設しせつすうひゃく部屋へやがある。ミコワイキにはポーランド科学かがくアカデミー環境かんきょう研究所けんきゅうじょ水中すいちゅう生態せいたいがく研究けんきゅう施設しせつ気象きしょうすい研究所けんきゅうじょ気象きしょう水中すいちゅう生態せいたいがく研究けんきゅう施設しせつがある。主要しゅよう産業さんぎょう漁業ぎょぎょう観光かんこうぎょうである。ロザリオ聖母せいぼ教会きょうかいきよしニコラウス教会きょうかいふたつの教区きょうくがあり、にプロテスタントけいの2つの教会きょうかい(ルーテル教会きょうかい教会きょうかいペンテコステ教会きょうかい)がある。

主要しゅよう道路どうろ

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  • エウツカどおり - 両側りょうがわ車線しゃせん主要しゅよう道路どうろで、ミコワイキをて、オジェシュ、エウク、アウグストヴォにつながる道路どうろ出発しゅっぱつてんたり、国道こくどう16号線ごうせん一部いちぶをなす。コレヨヴァどおりとの交差点こうさてんからはじまってミコワイキのさかいまでの範囲はんいである。この道路どうろ目立めだった建造けんぞうぶつとしては、線路せんろうえかる陸橋りっきょうがある。道路どうろ沿いには一般いっぱん住宅じゅうたくすうけんある。とおりの名前なまえはエウカに由来ゆらいしている。
  • ムロンゴフスカどおり - 両側りょうがわ車線しゃせん主要しゅよう道路どうろである。はしから鉄道てつどう陸橋りっきょうまでのあいだ舗装ほそうされている。一般いっぱん住宅じゅうたく、ドイツふうアパートが道路どうろ沿いにっている。ムロンゴフスカどおりは、ミコワイにかかるはしからはじまり、さかいのところまでのみちである。ミコワイからムロンゴヴォやオルシュティンへかう道路どうろ出発しゅっぱつてんたり、国道こくどう16号線ごうせん一部いちぶす。とおりの名前なまえはこのみちかう方向ほうこうにあるムロンゴヴォに由来ゆらいし、ロムンゴヴォはミコワイキもぞくするムロンゴヴォぐん行政ぎょうせい中心ちゅうしん都市としである。このとおりは15世紀せいきはじめにさだめられ、当時とうじのコズウォヴォへのみち一部いちぶでありまた、タウトヴィスコとセンスブルクをむすみち一部いちぶであった。1516ねんはしがかけられてとおりが延長えんちょうされ、コズウォヴォをミコワイキと直接ちょくせつむすぶことになった。1911ねんには、このとおりをまたぐ鉄道てつどうきょうがかけられた。1930年代ねんだいにムロンゴブォへつづみちとその周辺しゅうへんみち舗装ほそうされた。ムロンゴフスカどお沿いにはホテル「ゴウェンビエスキ」、ペンション「ファラ」、「タブ」、および市立しりつ公園こうえんがある。
  • ワルシャフスカどおり - 両側りょうがわいち車線しゃせん主要しゅよう道路どうろで、ミコワイキからウクタ、ルチャネ=ニダ、ピシュへかう道路どうろにつながり、県道けんどう609号線ごうせん一部いちぶをなす。このとお沿いにペンションがなんけんかとキャンピングじょうがある。ワルシャフスカどおりはムロンゴフスカどおりとの交差点こうさてんからはじまり、ミコワイキのさかいまでつづく。とおりのは、首都しゅとワルシャワにちなむ。人民じんみん共和きょうわこく時代じだいは「1がつ25にちどおり」という名前なまえであった[1]
  • 5月3にちどおり - ふるくからあるとおりのひとつ。すべて舗装ほそうされている。コレヨヴァどおりとの交差点こうさてんからはじまり、ヴォルノシチ広場ひろばまでびている。名前なまえは、1791ねんにポーランドで最初さいしょ憲法けんぽう制定せいていされたにちなむ。このとお沿いに郵便ゆうびんきょくとホテル「ヴァウクスキ」があり、ふる様式ようしきのレンガづくりの建造けんぞうぶつのこっている。
  • ミハウ・カイカどおり - ミコワイキでもっとながとおり。ヴォルノシチ広場ひろばからはじまってさかいまでびている。20世紀せいき初頭しょとうてられた、低層ていそう建造けんぞうぶつ見所みどころである。ペンションがすうけんある。とおりの名前なまえは、マズーレの偉大いだい詩人しじん、ミハウ・カイカ(pl:Michał Kajka)にちなんでいる。このとおりはディボヴォ方面ほうめんかっている。
  • コレヨヴァどおり - ミコワイキの主要しゅよう道路どうろのひとつ。国道こくどう16せん一部いちぶす。ミコワイにかかるはしからはじまり、鉄道てつどうえきまでびている。はしからシュコルナどおりとの交差点こうさてんまでは舗装ほそうされている。このとおりには市役所しやくしょ、ミコワイキえき墓地ぼちがある。とおりの名前なまえ鉄道てつどうにちなんでいる(コレヨヴァとは"鉄道てつどうの"の意味いみ)。人民じんみん共和きょうわこく時代じだいレーニンかんされていた。

観光かんこうスポット

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  • さん賢者けんじゃ教会きょうかい(ルーテル教会きょうかいしん古典こてん主義しゅぎ建築けんちく、1842ねんシンケル設計せっけい)
    • 木造もくぞうのテラス
    • 格子こうしじょうにあしらった(かくあいだ)ドーム天井てんじょう
    • とう(1880ねん建造けんぞう)
  • 墓地ぼち礼拝れいはいどう(20世紀せいき初頭しょとう建造けんぞう)
  • ロザリオ聖母せいぼ教会きょうかい(カトリック、しんゴシック様式ようしき、1910ねん建造けんぞう)
  • ウクナイノ特別とくべつ鳥獣ちょうじゅう保護ほご地域ちいき
  • 19世紀せいきまつから20世紀せいきはじめにかけて建築けんちくされた建造けんぞうぶつぐん
  • 宗教しゅうきょう改革かいかく博物館はくぶつかん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 1がつ25にちは、1830ねん11月にはじまったはん帝政ていせいロシア反乱はんらん(11月蜂起ほうき)の過程かていで、当時とうじポーランド国王こくおうねていたロシア皇帝こうていニコライ1せいを、ポーランド国王こくおうから廃位はいいする決定けってい議会ぎかいでなされた

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Mieczysław Orłowicz,"Ilustrowany przewodnik po Mazurach Pruskich i Warmii" , Agencja Wydawnicza "Remix", Olsztyn, 1991, ISBN 83-900155-0-1, (Str. 116-118).
  • Max Toeppen "Historia Mazur" ( w przekładzie Małgorzaty Szymańskiej-Jasińskiej i opracowaniu Grzegorza Jasińskiego), wyd. Wspólnota Kulturowa "Borussia", Olsztyn 1995, ISBN 83-900380-3-X. (str. 145 - dwie karczmy przy moście w połowie XV w.)

ギャラリー

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外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい5352ふん 東経とうけい2118ふん / 北緯ほくい53.867 東経とうけい21.300 / 53.867; 21.300