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ミコワイキ (ポーランド語 ご :Mikołajki [mʲikɔˈwai̯kʲi] 、ドイツ語 ご :Nikolaiken [nikoˈlaɪkn̩] ( 音声 おんせい ファイル ) )は、ポーランド 、ヴァルミア=マズールィ県 けん 、ムロンゴヴォ郡 ぐん の町 まち 。ミコワイ地区 ちく の行政 ぎょうせい 中心 ちゅうしん 都市 とし 。1975年 ねん から1998年 ねん の間 あいだ は、スヴァルスキ県 けん に属 ぞく していた。
マズールィ湖水 こすい 地方 ちほう (en )最大 さいだい の湖 みずうみ 、シニャルドヴィ湖 こ 近 ちか くにある。
この都市 とし の名前 なまえ は、聖 せい ニコラウス教会 きょうかい の守護 しゅご 聖人 せいじん に由来 ゆらい している(聖 せい ニコラウス のポーランド語 ご の名前 なまえ が聖 せい ミコワイ)。現在 げんざい のミコワイキのある場所 ばしょ には、もともと古 こ プロイセン人 じん の集落 しゅうらく があった。ミコワイキが歴史 れきし に最初 さいしょ に登場 とうじょう したのは1444年 ねん である。15世紀 せいき の半 なか ばには橋 はし のたもとに二 に 件 けん の宿場 しゅくば があり、1516年 ねん に宿場 しゅくば に対 たい する特権 とっけん が更新 こうしん されている記録 きろく が残 のこ っている。宿場 しゅくば は、ドイツ騎士 きし 団 だん の衣料 いりょう ・食料 しょくりょう を2頭 とう 立 だ ての馬車 ばしゃ でリン(ミコワイキの北 きた 約 やく 20kmの場所 ばしょ )まで輸送 ゆそう して戻 もど る義務 ぎむ を負 お っていた。ミコワイキにおいて、ドイツ騎士 きし 団 だん は取 と れた魚 さかな の半分 はんぶん を独占 どくせん 的 てき に取 と り扱 あつか う権利 けんり をもっており、その魚 さかな は外国 がいこく へ輸出 ゆしゅつ された。また、湖 みずうみ と湖 みずうみ の間 あいだ にある地峡 ちきょう に橋 はし がかかっており、その橋 はし を渡 わた る人 ひと から通行 つうこう 料 りょう を徴収 ちょうしゅう することで収入 しゅうにゅう を得 え ていた。このミコワイキでタウテ湖 こ とミコワイ湖 こ がつながっているが、これらはドイツ騎士 きし 団 だん 領 りょう の時代 じだい につながった。
宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 以前 いぜん のミコワイキの教会 きょうかい は、ヴァルミア教区 きょうく 群 ぐん の教区 きょうく ないし支部 しぶ 教会 きょうかい のリスト含 ふく まれていなかった。おそらくはリンのドイツ騎士 きし 団 だん 司祭 しさい が祭儀 さいぎ を行 おこな っていたのであろう。ドイツ騎士 きし 団 だん 領 りょう が世俗 せぞく 化 か しプロイセン公国 こうこく に移行 いこう した(1525年 ねん )後 ご 、マズーレの多 おお くのプロテスタント教区 きょうく でポーランド語 ご を話 はな す牧師 ぼくし を迎 むか えた。ミコワイキには、1552年 ねん にポーランド人 じん 牧師 ぼくし ヤクブ・ヴィラモフスキがやってきた。1798年 ねん には、ミコワイキでシュフィエンタ=リプカのカトリック神父 しんぷ が布教 ふきょう を行 おこな っている。
18世紀 せいき に定住 ていじゅう 地 ち が拡大 かくだい し、1726年 ねん にはプロイセン国王 こくおう のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世 せい によって、ニコライケン の名 な で町 まち 特権 とっけん が与 あた えられた。当時 とうじ はリネック、クニエッツ、コズウォヴォの3つの地区 ちく からなっていた。最後 さいご のコズウォヴォは、ミコワイキの中心 ちゅうしん 部 ぶ から見 み て、湖 みずうみ の対岸 たいがん にある地区 ちく である。シニャルドヴィ湖 こ に近接 きんせつ する立地 りっち から、ニコライケンの漁業 ぎょぎょう は繁栄 はんえい を続 つづ けていた。地域 ちいき で獲 え れるマスは、東 ひがし プロイセン中 なか で特 とく に人気 にんき であった。1843年 ねん にはマズーレの定期 ていき 航路 こうろ が開設 かいせつ され、ミコワイキが栄 さか えるきっかけとなる。1911年 ねん には、ムロンゴヴォやオジェシュと鉄道 てつどう で結 むす ばれた。1920年 ねん からは観光 かんこう 地 ち として知 し られるようになる。
1945年 ねん まで、町 まち はプロイセン王国 おうこく の東 ひがし プロイセン、ゼンスブルク郡 ぐん の一部 いちぶ であった。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか のニコライケンは、戦闘 せんとう で破壊 はかい されなかった数少 かずすく ない東 ひがし プロイセンの町 まち の1つであった。ミコワイキ内 ない 、ミコワイ湖 こ の西岸 せいがん にはワルリⅡというコードネームのアプヴェーア が活動 かつどう していた。1940年 ねん から対 たい ソ連 それん 情報 じょうほう を収集 しゅうしゅう しており、総統 そうとう 大本営 だいほんえい がケンシントン付近 ふきん の森 もり に移転 いてん してからは、このヴォルフスシャンツェ に直接 ちょくせつ 報告 ほうこく をおこなっていた。1944年 ねん 8月 がつ のケーニヒスベルク 爆 ばく 撃 げき の前 まえ には、ケーニヒスベルクの公文書 こうぶんしょ がミコワイキに移 うつ された。大戦 たいせん 後 ご 、町 まち はポーランド領 りょう となった。ドイツ系 けい 住民 じゅうみん は、ポーランドとソビエト軍 ぐん による東 ひがし プロイセン撤収 てっしゅう (en )とドイツ人 じん 追放 ついほう によって町 まち を追 お われた。
チェルノブイリ原子力 げんしりょく 発電 はつでん 所 しょ 事故 じこ の際 さい は、汚染 おせん 大気 たいき が流 なが れ込 こ んできていることをポーランドで最初 さいしょ に検出 けんしゅつ したのは、ミコワイキにある放射線 ほうしゃせん 監視 かんし 施設 しせつ である。
戦前 せんぜん より町 まち は観光 かんこう 地 ち として成長 せいちょう していた。現在 げんざい はマズールィ地方 ちほう 最大 さいだい の観光 かんこう 地 ち の1つである。魅力 みりょく 的 てき な湖沼 こしょう 地帯 ちたい に位置 いち するので、ミコワイキはポーランドにおけるヨットスポーツの中心 ちゅうしん 地 ち になっている。冬期 とうき の氷上 ひかみ セーリングは特 とく に人気 にんき がある。ミコワイキにはマズーレ周回 しゅうかい 航路 こうろ の停泊 ていはく 地 ち がある。またホテル全部 ぜんぶ で1500人 にん ほどの収容 しゅうよう 能力 のうりょく があり、そのうち1200人 にん 分 ぶん はゴウェンビエスキホテルの分 ぶん である。ホテルのほかにも、ペンションや民宿 みんしゅく などの宿泊 しゅくはく 施設 しせつ に数 すう 百 ひゃく の部屋 へや がある。ミコワイキにはポーランド科学 かがく アカデミー環境 かんきょう 研究所 けんきゅうじょ の水中 すいちゅう 生態 せいたい 学 がく 研究 けんきゅう 施設 しせつ と気象 きしょう 水 すい 理 り 研究所 けんきゅうじょ の気象 きしょう 水中 すいちゅう 生態 せいたい 学 がく 研究 けんきゅう 施設 しせつ がある。主要 しゅよう な産業 さんぎょう は漁業 ぎょぎょう と観光 かんこう 業 ぎょう である。ロザリオ聖母 せいぼ 教会 きょうかい と聖 きよし ニコラウス教会 きょうかい の2 ふた つの教区 きょうく があり、他 た にプロテスタント系 けい の2つの教会 きょうかい (ルーテル教会 きょうかい の教会 きょうかい とペンテコステ派 は の教会 きょうかい )がある。
エウツカ通 どお り - 両側 りょうがわ 二 に 車線 しゃせん の主要 しゅよう 道路 どうろ で、ミコワイキを出 で て、オジェシュ、エウク、アウグストヴォにつながる道路 どうろ の出発 しゅっぱつ 点 てん に当 あ たり、国道 こくどう 16号線 ごうせん の一部 いちぶ をなす。コレヨヴァ通 どお りとの交差点 こうさてん から始 はじ まってミコワイキの市 し 境 さかい までの範囲 はんい である。この道路 どうろ の目立 めだ った建造 けんぞう 物 ぶつ としては、線路 せんろ の上 うえ に架 か かる陸橋 りっきょう がある。道路 どうろ 沿 ぞ いには一般 いっぱん の住宅 じゅうたく が数 すう 件 けん ある。通 とお りの名前 なまえ はエウカに由来 ゆらい している。
ムロンゴフスカ通 どお り - 両側 りょうがわ 二 に 車線 しゃせん の主要 しゅよう 道路 どうろ である。橋 はし から鉄道 てつどう の陸橋 りっきょう までの間 あいだ 、舗装 ほそう されている。一般 いっぱん 住宅 じゅうたく 、ドイツ風 ふう アパートが道路 どうろ 沿 ぞ いに建 た っている。ムロンゴフスカ通 どお りは、ミコワイ湖 こ にかかる橋 はし から始 はじ まり、市 し 境 さかい のところまでの道 みち である。ミコワイからムロンゴヴォやオルシュティンへ向 む かう道路 どうろ の出発 しゅっぱつ 点 てん に当 あ たり、国道 こくどう 16号線 ごうせん の一部 いちぶ を成 な す。通 とお りの名前 なまえ はこの道 みち が向 む かう方向 ほうこう にあるムロンゴヴォに由来 ゆらい し、ロムンゴヴォはミコワイキも属 ぞく するムロンゴヴォ郡 ぐん の行政 ぎょうせい 中心 ちゅうしん 都市 とし である。この通 とお りは15世紀 せいき の始 はじ めに定 さだ められ、当時 とうじ のコズウォヴォへの道 みち の一部 いちぶ でありまた、タウトヴィスコとセンスブルクを結 むす ぶ道 みち の一部 いちぶ であった。1516年 ねん 、橋 はし がかけられて通 とお りが延長 えんちょう され、コズウォヴォをミコワイキと直接 ちょくせつ 結 むす ぶことになった。1911年 ねん には、この通 とお りをまたぐ鉄道 てつどう 橋 きょう がかけられた。1930年代 ねんだい にムロンゴブォへ続 つづ く道 みち とその周辺 しゅうへん の道 みち が舗装 ほそう された。ムロンゴフスカ通 どお り沿 ぞ いにはホテル「ゴウェンビエスキ」、ペンション「ファラ」、「タブ」、および市立 しりつ 公園 こうえん がある。
ワルシャフスカ通 どお り - 両側 りょうがわ 一 いち 車線 しゃせん の主要 しゅよう 道路 どうろ で、ミコワイキからウクタ、ルチャネ=ニダ、ピシュへ向 む かう道路 どうろ につながり、県道 けんどう 609号線 ごうせん の一部 いちぶ をなす。この通 とお り沿 ぞ いにペンションが何 なん 件 けん かとキャンピング場 じょう がある。ワルシャフスカ通 どお りはムロンゴフスカ通 どお りとの交差点 こうさてん から始 はじ まり、ミコワイキの市 し 境 さかい までつづく。通 とお りの名 な は、首都 しゅと ワルシャワにちなむ。人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく 時代 じだい は「1月 がつ 25日 にち 通 どお り」という名前 なまえ であった[1] 。
5月3日 にち 通 どお り - 古 ふる くからある通 とお りのひとつ。すべて舗装 ほそう されている。コレヨヴァ通 どお りとの交差点 こうさてん から始 はじ まり、ヴォルノシチ広場 ひろば まで延 の びている。名前 なまえ は、1791年 ねん にポーランドで最初 さいしょ の憲法 けんぽう が制定 せいてい された日 ひ にちなむ。この通 とお り沿 ぞ いに郵便 ゆうびん 局 きょく とホテル「ヴァウクスキ」があり、古 ふる い様式 ようしき のレンガ造 づく りの建造 けんぞう 物 ぶつ が残 のこ っている。
ミハウ・カイカ通 どお り - ミコワイキで最 もっと も長 なが い通 とお り。ヴォルノシチ広場 ひろば から始 はじ まって市 し 境 さかい まで延 の びている。20世紀 せいき 初頭 しょとう に建 た てられた、低層 ていそう の建造 けんぞう 物 ぶつ が見所 みどころ である。ペンションが数 すう 件 けん ある。通 とお りの名前 なまえ は、マズーレの偉大 いだい な詩人 しじん 、ミハウ・カイカ(pl:Michał Kajka )にちなんでいる。この通 とお りはディボヴォ方面 ほうめん に向 む かっている。
コレヨヴァ通 どお り - ミコワイキの主要 しゅよう 道路 どうろ のひとつ。国道 こくどう 16線 せん の一部 いちぶ を成 な す。ミコワイ湖 こ にかかる橋 はし から始 はじ まり、鉄道 てつどう の駅 えき まで延 の びている。橋 はし からシュコルナ通 どお りとの交差点 こうさてん までは舗装 ほそう されている。この通 とお りには市役所 しやくしょ 、ミコワイキ駅 えき 、墓地 ぼち がある。通 とお りの名前 なまえ は鉄道 てつどう にちなんでいる(コレヨヴァとは"鉄道 てつどう の"の意味 いみ )。人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく 時代 じだい はレーニン の名 な が冠 かん されていた。
三 さん 賢者 けんじゃ 教会 きょうかい (ルーテル教会 きょうかい 、新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ 建築 けんちく 、1842年 ねん シンケル 設計 せっけい )
木造 もくぞう のテラス
格子 こうし 状 じょう にあしらった(格 かく 間 あいだ )ドーム天井 てんじょう
塔 とう (1880年 ねん 建造 けんぞう )
墓地 ぼち の礼拝 れいはい 堂 どう (20世紀 せいき 初頭 しょとう に建造 けんぞう )
ロザリオ聖母 せいぼ 教会 きょうかい (カトリック、新 しん ゴシック様式 ようしき 、1910年 ねん 建造 けんぞう )
ウクナイノ湖 こ 特別 とくべつ 鳥獣 ちょうじゅう 保護 ほご 地域 ちいき
19世紀 せいき 末 まつ から20世紀 せいき はじめにかけて建築 けんちく された建造 けんぞう 物 ぶつ 群 ぐん
宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 博物館 はくぶつかん
^ 1月 がつ 25日 にち は、1830年 ねん 11月に始 はじ まった反 はん 帝政 ていせい ロシア反乱 はんらん (11月蜂起 ほうき )の過程 かてい で、当時 とうじ ポーランド国王 こくおう を兼 か ねていたロシア皇帝 こうてい ニコライ1世 せい を、ポーランド国王 こくおう から廃位 はいい する決定 けってい が議会 ぎかい でなされた日 ひ
Mieczysław Orłowicz,"Ilustrowany przewodnik po Mazurach Pruskich i Warmii" , Agencja Wydawnicza "Remix", Olsztyn, 1991, ISBN 83-900155-0-1 , (Str. 116-118).
Max Toeppen "Historia Mazur" ( w przekładzie Małgorzaty Szymańskiej-Jasińskiej i opracowaniu Grzegorza Jasińskiego), wyd. Wspólnota Kulturowa "Borussia", Olsztyn 1995, ISBN 83-900380-3-X . (str. 145 - dwie karczmy przy moście w połowie XV w.)
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座標 ざひょう : 北緯 ほくい 53度 ど 52分 ふん 東経 とうけい 21度 ど 18分 ふん / 北緯 ほくい 53.867度 ど 東経 とうけい 21.300度 ど / 53.867; 21.300