ミハエル・アッシュバッハー

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ミハエル・アッシュバッハー
生誕せいたん (1944-04-08) 1944ねん4がつ8にち(80さい
リトルロック (アーカンソーしゅう)
居住きょじゅう アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
国籍こくせき アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
研究けんきゅう分野ぶんや 数学すうがく
研究けんきゅう機関きかん カリフォルニア工科こうか大学だいがく
出身しゅっしんこう カリフォルニア工科こうか大学だいがく
ウィスコンシン大学だいがくマディソンこう
博士はかせ課程かてい
指導しどう教員きょういん
リチャード・ヒューバート・ブラック英語えいごばん
おも業績ぎょうせき 群論ぐんろん
おも受賞じゅしょうれき コールしょう (1980)
ショックしょう (2011)
スティールしょう (2012)
ウルフしょう数学すうがく部門ぶもん (2012)
プロジェクト:人物じんぶつでん
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ミハエル・ジョージ・アッシュバッハーMichael Geroge Aschbacher1944ねん4がつ8にち - )は、有限ゆうげんぐんかんする業績ぎょうせき著名ちょめいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく数学すうがくしゃである。アッシュバッハーは1970年代ねんだいと80年代ねんだいになされた有限ゆうげん単純たんじゅんぐん分類ぶんるい完成かんせいにおける指導しどうてき人物じんぶつだった。のちに、じゅんすすきぐん英語えいごばん場合ばあい終了しゅうりょうしておらず、分類ぶんるい不完全ふかんぜんであることが判明はんめいした。このギャップは2004ねんに、アッシュバッハーとスティーブン・D・スミス (Stephen D. Smith) により合計ごうけいで1300ページほどになる1つい書籍しょせきによりめられた。アッシュバッハーは現在げんざいカリフォルニア工科こうか大学だいがく数学すうがくのShaler Arthur Hanisch Professorをつとめている。

教育きょういく経歴けいれき[編集へんしゅう]

アッシュバッハーは1966ねんカリフォルニア工科こうか大学だいがく学士がくしごうを、1969ねんウィスコンシン大学だいがくマディソンこう博士はかせごう取得しゅとくした[1]。1970ねんにカリフォルニア工科こうか大学だいがく教員きょういんくわわり、1976ねんせい教授きょうじゅになった。1978ねんから79ねんは、プリンストン高等こうとう研究所けんきゅうじょ招待しょうたい研究けんきゅうしゃだった[2]。1980ねんコールしょう受賞じゅしょうし、1990ねん米国べいこく科学かがくアカデミー会員かいいん選出せんしゅつされた。1992ねん、アッシュバッハーはアメリカ芸術げいじゅつ科学かがくアカデミーのフェローに選出せんしゅつされた[3]。2011ねんスウェーデン王立おうりつ科学かがくアカデミーから数学すうがくたいするショックしょう授与じゅよされた[4]。2012ねんスティールしょう研究けんきゅう論文ろんぶん部門ぶもんウルフしょう数学すうがく部門ぶもん受賞じゅしょうし、アメリカすう学会がっかいのフェローになった[5]

有限ゆうげん単純たんじゅんぐん分類ぶんるい[編集へんしゅう]

1973ねん、アッシュバッハーは有限ゆうげん単純たんじゅんぐん分類ぶんるいにおける主役しゅやくとなった。アッシュバッハーは自身じしん伝統でんとうてき群論ぐんろん世界せかいにおけるアウトサイダーとかんがえ、「その時点じてんでシステムに接続せつぞく」していないと主張しゅちょうした[6] 。アッシュバッハーはその分野ぶんや専門せんもんあいだ共有きょうゆうされていた様々さまざまなプレプリントを入手にゅうしゅしていたが、すでに研究けんきゅうしゃにより発見はっけんされていたおおくの証明しょうめいみずか再現さいげんし、それらを初期しょき論文ろんぶん発表はっぴょうした。アッシュバッハーはポストドクターのとき有限ゆうげん単純たんじゅんぐんにのみ興味きょうみつようになった。そして、わせろんかんする学位がくい論文ろんぶん執筆しっぴつし、有限ゆうげん単純たんじゅんぐん初期しょき研究けんきゅう貢献こうけんするためにわせろん発展はってんしたおおくのテクニックを活用かつようすることができ、研究けんきゅうしゃのコミュニティをおどろかせた。とくに、有限ゆうげん単純たんじゅんぐん分類ぶんるいべつ指導しどうしゃであるダニエル・ゴーレンシュタインは、アッシュバッハーの登場とうじょうは「劇的げきてき」だったとった[7]

実際じっさい、アッシュバッハーの結果けっかすペースは驚異きょういてきであり、おおくの数学すうがくしゃ有限ゆうげん単純たんじゅんぐん分類ぶんるい研究けんきゅう分野ぶんやり、問題もんだい追究ついきゅうすることにめた。アッシュバッハーはあいついで主要しゅよう結果けっか証明しょうめいし、オランダの学会がっかい進捗しんちょく発表はっぴょうしたとき数学すうがくしゃは、問題もんだいはほぼ解決かいけつしたと納得なっとくした。この会議かいぎは、問題もんだいたいするターニングポイントとなり、おおくの数学すうがくしゃ(とくに、この分野ぶんや比較的ひかくてき新参しんざんであるもの)は、べつ問題もんだい追究ついきゅうすることにめた[8]

しかし、アッシュバッハーのこの分野ぶんやでの登場とうじょうは、困難こんなんももたらした。アッシュバッハーの論文ろんぶんは、大変たいへんみにくかった。証明しょうめいは、非常ひじょう洗練せんれんされたかぞげの論点ろんてん説明せつめい欠落けつらくしているとコメントするものもいた。証明しょうめいながかったため、より一層いっそう数学すうがくしゃ理解りかいするのは困難こんなんなものとなった。共著きょうちょしゃでさえ、自身じしん論文ろんぶん読解どっかいするのにほねった。そのとき以来いらい研究けんきゅうしゃはもはや論文ろんぶん独立どくりつした文書ぶんしょとしてではなく、むしろ著者ちょしゃ背景はいけい理解りかい必要ひつようとするものとしてむようになった。結果けっかとして、分類ぶんるい問題もんだいにおけるあやまりをつける責任せきにんは、査読さどくしゃ個人こじんだけでなくむしろ研究けんきゅうしゃコミュニティ全体ぜんたい背負せおうことになった。アッシュバッハーのこの証明しょうめいは、能力のうりょく欠如けつじょによるのではなく、むしろアッシュバッハーの考案こうあんしたアイデアのおどろくべき複雑ふくざつさにより、むのが困難こんなんであった[9]

書籍しょせき[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]