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ムハンマド1せい (こうウマイヤあさ)

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ムハンマド1せい
アラビア: محمد بن عبد الرحمن الأوسط
こうウマイヤあさアミール
ムハンマド1せい時代じだい鋳造ちゅうぞうされたディルハム銀貨ぎんか
在位ざいい 852ねん - 886ねん

ぜん ムハンマド・イブン・アブド・アッラフマーン・アル=アウサット
出生しゅっしょう 822ねん
こうウマイヤあさコルドバ
死去しきょ 886ねん
こうウマイヤあさコルドバ
子女しじょ アル・ムンディル
アブドゥッラー
家名かめい ウマイヤ
王朝おうちょう こうウマイヤあさ
父親ちちおや アブド・アッラフマーン2せい
母親ははおや ナーティス
宗教しゅうきょう イスラム教いすらむきょうスンナ
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ムハンマド1せいアラビア: محمد بن عبد الرحمن الأوسط‎, 822ねん - 886ねん)は、こうウマイヤあさだい5だいアミール在位ざいい852ねん - 886ねん)。

生涯しょうがい

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ムハンマドはコルドバまれた。その治世ちせいには、ムラディ(イベリア出身しゅっしんのイスラム教徒きょうと)とモサラベキリスト教徒きりすときょうと)のいくつかの反乱はんらん分離ぶんり運動うんどうこった。

ムーサー・ブン・ムーサーにひきいられたムラディのカシースペインばんナバラ王国おうこくイニゴ同盟どうめいむすんで反乱はんらんこし、(ムハンマド1せいアストゥリアスおうオルドーニョ1せいつづく)「スペインの3番目ばんめおう」とみずか名乗なのった。反乱はんらんこしたウマイヤあさ将校しょうこうイブン・マルワーン・アルジッリーキー英語えいごばんメリダもどり、ムハンマド1せいたいしても反乱はんらんこした。ムハンマド1せい反乱はんらん鎮圧ちんあつすることができず、875ねんにイブン・マルワーンにたい自由じゆう都市とし現在げんざいエストレマドゥーラしゅうバダホス)を建設けんせつすることを許可きょかした。最終さいしゅうてきトレドまちはオルドーニョ1せい支援しえん反乱はんらんこしたが、グアダラセテのたたかいにおいて敗北はいぼくした。

ムハンマド1せい西にしフランクおうであるシャルル禿頭はげあたまおう外交がいこう交渉こうしょうおこない、865ねんにラクダをおくった。

880ねん西にしゴートあるいはアフリカ出身しゅっしんのウマル・ブン・ハフスーンも反乱はんらんこし、928ねんアブド・アッラフマーン3せいのもとで鎮圧ちんあつされた。

ムハンマド1せいは886ねん死去しきょし、息子むすこムンジルがあといだ。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Altamira, Rafael (1999). “Il califfato occidentale”. Storia del mondo medievale. II. pp. 477–515 
  • Calmet, Augustin, 1672-1757. (1767). Histoire Universelle, Sacrée Et Profane. Chez Jean Renauld Doulssecker. OCLC 314190685