スライマーンسليمان بن عبد الملك
ウマイヤ朝 あさ 第 だい 7代 だい カリフ 在位 ざいい
715年 ねん 2月 がつ 24日 にち - 717年 ねん 9月24日 にち 全 ぜん 名 な
アブー・アイユーブ・スライマーン・ブン・アブドゥルマリク・ブン・マルワーン 出生 しゅっしょう
675年 ねん 頃 ごろ マディーナ 死去 しきょ
717年 ねん 9月 がつ 24日 にち ダービク 埋葬 まいそう
ダービク 配偶 はいぐう 者 しゃ
ウンム・アバーン・ビント・アバーン・ブン・アル=ハカム・ブン・アビー・アル=アース
ウンム・ヤズィード・ビント・アブドゥッラー・ブン・ヤズィード
スウダ・ビント・ヤフヤー・ブン・タルハ・ブン・ウバイドゥッラー
アーイシャ・ビント・アスマー・ビント・アブドゥッラフマーン・ブン・アル=ハーリス・アル=マフズーミーヤ 子女 しじょ
アイユーブ ダーウード ムハンマド ヤズィード アブドゥルワーヒド (英語 えいご 版 ばん ) アル=カースィム サイード ウスマーン ウバイドゥッラー アル=ハーリス アムル ウマル アブドゥッラフマーン 家名 かめい
マルワーン家 か 王朝 おうちょう
ウマイヤ朝 あさ 父親 ちちおや
アブドゥルマリク 母親 ははおや
ワッラーダ・ビント・アル=アッバース・ブン・アル=ジャズ・アル=アブスィーヤ 宗教 しゅうきょう
イスラーム教 きょう テンプレートを表示 ひょうじ
スライマーン (スライマーン・ブン・アブドゥルマリク・ブン・マルワーン, アラビア語 ご : سليمان بن عبد الملك بن مروان , ラテン文字 もじ 転写 てんしゃ : Sulaymān b. ʿAbd al-Malik b. Marwān , 675年 ねん 頃 ごろ - 717年 ねん 9月24日 にち )は、第 だい 7代 だい のウマイヤ朝 あさ のカリフ である(在位 ざいい :715年 ねん 2月 がつ 24日 にち - 717年 ねん 9月 がつ 24日 にち )。
スライマーンは父親 ちちおや のアブドゥルマリク と兄弟 きょうだい のワリード1世 せい がカリフとして統治 とうち していた時期 じき にパレスチナ の総督 そうとく として経歴 けいれき を開始 かいし させ、現地 げんち で神学 しんがく 者 しゃ のラジャア・ブン・ハイワ・アル=キンディー (英語 えいご 版 ばん ) による指導 しどう を受 う けた。また、アブドゥルマリクとワリード1世 せい の下 した でイラクの総督 そうとく を務 つと め、東方 とうほう 地域 ちいき に対 たい する強 つよ い影響 えいきょう 力 りょく を持 も っていたアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ (英語 えいご 版 ばん ) と敵対 てきたい したヤズィード・ブン・アル=ムハッラブ (英語 えいご 版 ばん ) とも親交 しんこう を深 ふか めた。パレスチナでは新都 しんと のラムラ を建設 けんせつ したが、この新 あたら しい都市 とし は以前 いぜん のパレスチナの首府 しゅふ であるリュッダ に代 か わって経済 けいざい の中心 ちゅうしん 地 ち として発展 はってん し、11世紀 せいき までパレスチナの行政 ぎょうせい の中心 ちゅうしん 地 ち として存続 そんぞく した。
715年 ねん のワリード1世 せい の死 し に伴 ともな ってカリフに即位 そくい したスライマーンは前任 ぜんにん 者 しゃ の下 した で仕 つか えていた多 おお くの総督 そうとく や将軍 しょうぐん を解任 かいにん した。これらの者 もの の多 おお くはハッジャージュの後見 こうけん の下 した で任命 にんめい された人物 じんぶつ だった。ハッジャージュに忠実 ちゅうじつ であった人物 じんぶつ の中 なか にはマー・ワラー・アンナフル の征服 せいふく 活動 かつどう に従事 じゅうじ していたクタイバ・ブン・ムスリム がいたが、ハッジャージュと対立 たいりつ していたスライマーンによる解任 かいにん を警戒 けいかい して起 お こした反乱 はんらん は失敗 しっぱい に終 お わり、クタイバは自軍 じぐん の者 もの の手 て によって殺害 さつがい された。また、ハッジャージュの近親 きんしん 者 しゃ でインド のシンド 地方 ちほう の征服 せいふく を指揮 しき していたムハンマド・ブン・アル=カースィム (英語 えいご 版 ばん ) も処刑 しょけい された。西方 せいほう ではイベリア半島 はんとう (アル=アンダルス )の征服 せいふく 者 しゃ でイフリーキヤ (北 きた アフリカ中部 ちゅうぶ )の総督 そうとく であったムーサー・ブン・ヌサイル (英語 えいご 版 ばん ) を解任 かいにん し、その息子 むすこ でアル=アンダルス総督 そうとく のアブドゥルアズィーズ・ブン・ムーサー (英語 えいご 版 ばん ) を殺害 さつがい させた。
スライマーンは前任 ぜんにん 者 しゃ の拡大 かくだい 主義 しゅぎ 政策 せいさく を維持 いじ したが、中央 ちゅうおう アジアの辺境 へんきょう における抵抗 ていこう やクタイバの死後 しご の指導 しどう 力 りょく と組織 そしき 力 りょく の低下 ていか もあり、領土 りょうど の拡張 かくちょう はほぼ停止 ていし した。このような状況 じょうきょう の中 なか で腹心 ふくしん のヤズィード・ブン・アル=ムハッラブをホラーサーン へ派遣 はけん し、ヤズィードは716年 ねん にカスピ海 かすぴかい の南部 なんぶ 沿岸 えんがん 地域 ちいき に侵攻 しんこう したものの、現地 げんち のペルシア人 じん 支配 しはい 者 しゃ に敗 やぶ れ、ウマイヤ朝 あさ への貢 みつぎ 納 おさめ を条件 じょうけん に軍 ぐん を撤退 てったい させた。さらにビザンツ帝国 ていこく の首都 しゅと であるコンスタンティノープル の攻略 こうりゃく に向 む けて軍隊 ぐんたい を派遣 はけん したが、717年 ねん から718年 ねん にかけて続 つづ いたコンスタンティノープルの包囲 ほうい は最終 さいしゅう 的 てき に失敗 しっぱい に終 お わった。
スライマーンはコンスタンティノープルに対 たい する包囲 ほうい が続 つづ いていた最中 さいちゅう の717年 ねん にダービク で死去 しきょ した。長男 ちょうなん で後継 こうけい 者 しゃ であったアイユーブに先立 さきだ たれていたスライマーンは、死 し の間際 まぎわ に息子 むすこ や兄弟 きょうだい ではなく従兄弟 いとこ のウマル・ブン・アブドゥルアズィーズ(ウマル2世 せい )を後継 こうけい 者 しゃ に指名 しめい するという異例 いれい な選択 せんたく をした。コンスタンティノープルの征服 せいふく への期待 きたい とスライマーンの治世 ちせい がヒジュラ (聖 せい 遷)の100周年 しゅうねん に近 ちか づいていたことから、同 どう 時代 じだい のアラブの詩人 しじん たちはスライマーンをメシア 的 てき な視点 してん から評 ひょう している。
初期 しょき の経歴 けいれき と背景 はいけい [ 編集 へんしゅう ]
ウマイヤ家 か と王朝 おうちょう の系図 けいず 。青色 あおいろ がマルワーン1世 せい とその子孫 しそん (マルワーン家 か )のカリフ 、黄色 おうしょく がムアーウィヤ1世 せい が属 ぞく していたスフヤーン家 か のカリフ、緑色 みどりいろ が正統 せいとう カリフ のウスマーン 。
スライマーンは恐 おそ らく675年 ねん 前後 ぜんこう にマディーナ で生 う まれた[注 ちゅう 1] 。しかし、中世 ちゅうせい の史料 しりょう における誕生 たんじょう から最初 さいしょ の30年間 ねんかん の経歴 けいれき に関 かん する記録 きろく は詳細 しょうさい に乏 とぼ しい。父親 ちちおや のアブドゥルマリク・ブン・マルワーン はクライシュ族 ぞく のウマイヤ家 か に属 ぞく していた。母親 ははおや のワッラーダ・ビント・アル=アッバース・ブン・アル=ジャズはアラブ部族 ぶぞく のアブス族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) の出身 しゅっしん で、6世紀 せいき の著名 ちょめい なアブス族 ぞく の族長 ぞくちょう であるズハイル・ブン・ジャズィーマ (英語 えいご 版 ばん ) の曾孫 そうそん であった。スライマーンは一時期 いちじき 砂漠 さばく においてアブス族 ぞく の近親 きんしん 者 しゃ の手 て によって育 そだ てられていた。
スライマーンが生 う まれた当時 とうじ 、イスラーム国家 こっか はスライマーンの遠縁 とおえん にあたるムアーウィヤ1世 せい が統治 とうち しており、ムアーウィヤ1世 せい は661年 ねん にウマイヤ朝 あさ を成立 せいりつ させていた。683年 ねん と684年 ねん にムアーウィヤ1世 せい の後継 こうけい 者 しゃ であるヤズィード1世 せい とムアーウィヤ2世 せい が相次 あいつ いで死去 しきょ するとウマイヤ朝 あさ の権威 けんい はイスラーム国家 こっか の全域 ぜんいき で崩壊 ほうかい し、ほとんどの地方 ちほう はメッカ を拠点 きょてん としていたウマイヤ家 か の出身 しゅっしん ではないアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル をカリフとして承認 しょうにん した。その結果 けっか としてスライマーンを含 ふく むマディーナのウマイヤ家 か の人々 ひとびと は町 まち から追放 ついほう され、シリア へ亡命 ぼうめい した。そしてシリアにおいてウマイヤ朝 あさ を支持 しじ する複数 ふくすう のアラブ部族 ぶぞく から支援 しえん を受 う けた。これらのアラブ部族 ぶぞく はスライマーンの祖父 そふ にあたるマルワーン1世 せい をカリフに選出 せんしゅつ して部族 ぶぞく 連合 れんごう のヤマン族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) を形成 けいせい した。そしてアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルを支持 しじ し、シリア北部 ほくぶ とジャズィーラ (メソポタミア 北部 ほくぶ )を支配 しはい していた同様 どうよう の部族 ぶぞく 連合 れんごう であるカイス族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) に対抗 たいこう した。マルワーン1世 せい は685年 ねん までにウマイヤ朝 あさ によるシリア一帯 いったい とエジプトの支配 しはい を回復 かいふく させた。その後 ご はマルワーン1世 せい の後 のち を継 つ いだ父親 ちちおや のアブドゥルマリクが692年 ねん までにイスラーム国家 こっか の残 のこ りの地域 ちいき を再 さい 征服 せいふく した。
パレスチナ総督 そうとく 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
イスラーム時代 じだい に入 はい って以降 いこう のシリアの軍事 ぐんじ 区 く (ジュンド )を示 しめ した地図 ちず 。スライマーンはジュンド・フィラスティーン (英語 えいご 版 ばん ) (パレスチナ )の総督 そうとく を務 つと めた。
正確 せいかく な時期 じき は不明 ふめい なものの、アブドゥルマリクはスライマーンをジュンド・フィラスティーン (英語 えいご 版 ばん ) (パレスチナ の軍事 ぐんじ 区 く )の総督 そうとく に任命 にんめい した。この地位 ちい はアブドゥルマリクが以前 いぜん にマルワーン1世 せい の下 した で務 つと めていたものだった。スライマーンはアブドゥルマリクの叔父 おじ にあたるヤフヤー・ブン・アル=ハカム (英語 えいご 版 ばん ) と異母 いぼ 兄弟 きょうだい にあたるアバーン・ブン・マルワーン に続 つづ くジュンド・フィラスティーンの総督 そうとく であった。また、701年 ねん にはメッカでハッジ に関連 かんれん する各種 かくしゅ の儀式 ぎしき を統率 とうそつ した。アブドゥルマリクは705年 ねん に死去 しきょ する前 まえ に長男 ちょうなん のアル=ワリード(ワリード1世 せい 、在位 ざいい :705年 ねん - 715年 ねん )を後継 こうけい 者 しゃ に指名 しめい し、さらにスライマーンがアル=ワリードに続 つづ く後継 こうけい 者 しゃ に指名 しめい された。スライマーンは715年 ねん まで続 つづ いたワリード1世 せい の治世 ちせい の間 あいだ を通 とお してパレスチナの総督 そうとく 職 しょく に留 と まり続 つづ けた。そして恐 おそ らくは現地 げんち を支配 しはい していたヤマン系 けい の部族 ぶぞく の族長 ぞくちょう たちと密接 みっせつ な関係 かんけい を築 きず いた。また、現地 げんち のヤマン族 ぞく と関係 かんけい を持 も っていた神学 しんがく 者 しゃ で以前 いぜん にアブドゥルマリクによるエルサレム の岩 いわ のドーム の建設 けんせつ を指揮 しき していたラジャア・ブン・ハイワ・アル=キンディー (英語 えいご 版 ばん ) とも強固 きょうこ な関係 かんけい を築 きず いた。ラジャアはスライマーンの家庭 かてい 教師 きょうし となり、高位 こうい の補佐 ほさ 官 かん にもなった。
スライマーンはイラク とイスラーム国家 こっか の東方 とうほう 地域 ちいき の総督 そうとく を務 つと めていたアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ (英語 えいご 版 ばん ) のワリード1世 せい に対 たい する影響 えいきょう 力 りょく を快 こころよ く思 おも わず、ハッジャージュの反対 はんたい 派 は との関係 かんけい を深 ふか めた。そのハッジャージュは708年 ねん か709年 ねん にホラーサーン 総督 そうとく であったムハッラブ家 か (英語 えいご 版 ばん ) のヤズィード・ブン・アル=ムハッラブ (英語 えいご 版 ばん ) を解任 かいにん して投獄 とうごく したが、ヤズィードは脱獄 だつごく してパレスチナに向 む かい、スライマーンはヤズィードをその家族 かぞく とともに匿 かくま った。ヤズィードはスライマーンの庇護 ひご を得 え るためにパレスチナに多数 たすう 居住 きょじゅう するヤマン系 けい のアズド族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) の人々 ひとびと との部族 ぶぞく 的 てき な人脈 じんみゃく を活用 かつよう した。ワリード1世 せい はヤズィードがハッジャージュに反抗 はんこう したことに怒 いか りを見 み せ、これに対 たい してスライマーンはハッジャージュがヤズィードに課 か していた罰金 ばっきん を支払 しはら うと申 もう し出 で た。さらにムハッラブ家 か の赦免 しゃめん を願 ねが い出 で る手紙 てがみ を添 そ えて手枷 てかせ をつけたヤズィードと自分 じぶん の息子 むすこ のアイユーブをカリフの下 した へ送 おく り、最終 さいしゅう 的 てき にカリフは赦免 しゃめん を認 みと めた。歴史 れきし 家 か のヒシャーム・ブン・アル=カルビー (英語 えいご 版 ばん ) (819年 ねん 没 ぼつ )の記録 きろく によれば、ヤズィードはスライマーンの側近 そっきん となり、スライマーンはヤズィードに「極 きわ めて高 たか い尊敬 そんけい の念 ねん 」を抱 だ いていた。さらにヒシャームは、「ヤズィードは… 彼 かれ (スライマーン)の家 いえ に滞在 たいざい し、身 み なりの整 ととの え方 かた を教 おし え、素晴 すば らしい料理 りょうり を作 つく り、数 すう 多 おお くの贈 おく り物 もの をした」と記 しる している。ヤズィードはハッジャージュが714年 ねん に死去 しきょ するまでの9か月 げつ 間 あいだ スライマーンとともに過 す ごし、ハッジャージュに関 かん する強 つよ い影響 えいきょう 力 りょく と偏見 へんけん をスライマーンに植 う え付 つ けた。
8世紀 せいき 初頭 しょとう にスライマーンによって建設 けんせつ され、11世紀 せいき までパレスチナ の首府 しゅふ であったラムラ 。(1895年 ねん 頃 ごろ )
スライマーンは総督 そうとく としての自身 じしん の統治 とうち 拠点 きょてん となるラムラ を建設 けんせつ した。この都市 とし はイスラーム教徒 きょうと にとって最初 さいしょ のパレスチナの首府 しゅふ でありパレスチナにおけるスライマーンの最初 さいしょ の居所 きょしょ があったリュッダ に代 か わるものだった 。ラムラはファーティマ朝 あさ 統治 とうち 時代 じだい の11世紀 せいき までパレスチナの首府 しゅふ として存続 そんぞく した。また、スライマーンがラムラを建設 けんせつ した動機 どうき は個人 こじん 的 てき な野心 やしん と現実 げんじつ 的 てき な配慮 はいりょ の双方 そうほう によるものだった。長 なが い歴史 れきし を持 も ち、繁栄 はんえい していた都市 とし であるリュッダは物流 ぶつりゅう 面 めん においても経済 けいざい 面 めん においても都合 つごう の良 よ い立地 りっち であったにもかかわらず、スライマーンはリュッダの完全 かんぜん な外側 そとがわ に自 みずか らの首府 しゅふ を築 きず いた。
歴史 れきし 家 か のニムロド・ルスによれば、これは恐 おそ らくリュッダには大 だい 規模 きぼ な開発 かいはつ のために利用 りよう できる敷地 しきち がなかったことと、630年代 ねんだい のイスラーム教徒 きょうと による征服 せいふく (英語 えいご 版 ばん ) の頃 ころ にさかのぼる協定 きょうてい の存在 そんざい によって、少 すく なくとも形式 けいしき 上 じょう はスライマーンが都市 とし 内 ない の価値 かち のある資産 しさん を押収 おうしゅう することができなかったためである。歴史 れきし 家 か のイブン・ファドルッラーフ・アル=ウマリー (英語 えいご 版 ばん ) (1349年 ねん 没 ぼつ )によって記録 きろく された伝承 でんしょう によれば、強 つよ い影響 えいきょう 力 りょく を持 も っていた地元 じもと のキリスト教 きりすときょう の聖職 せいしょく 者 しゃ がスライマーンによるリュッダ中心 ちゅうしん 部 ぶ の区画 くかく の要求 ようきゅう を拒否 きょひ した。これに激怒 げきど したスライマーンはこの聖職 せいしょく 者 しゃ を処刑 しょけい しようとしたが、ラジャアが処刑 しょけい を思 おも い止 とど まらせ、代 か わりにより条件 じょうけん の良 よ い隣接 りんせつ する土地 とち に新 あたら しい都市 とし を建設 けんせつ することを提案 ていあん した。
現代 げんだい の歴史 れきし 家 か のモシェ・シャロン (英語 えいご 版 ばん ) によれば、リュッダは「ウマイヤ朝 あさ の支配 しはい 者 しゃ たちの嗜好 しこう からすれば、あまりにもキリスト教 きりすときょう 精神 せいしん が強 つよ い」場所 ばしょ であった。また、アブドゥルマリクが国家 こっか のアラブ化 か とイスラーム化 か への改革 かいかく に乗 の り出 だ して以降 いこう は特 とく にそうであったと指摘 してき している。10世紀 せいき の歴史 れきし 家 か のジャフシヤーリー (英語 えいご 版 ばん ) (942年 ねん 没 ぼつ )によれば、スライマーンは父親 ちちおや のアブドゥルマリクやダマスクス のウマイヤ・モスク の創建 そうけん 者 しゃ であるワリード1世 せい に倣 なら い、偉大 いだい な建築 けんちく 者 しゃ として恒久 こうきゅう 的 てき な評価 ひょうか を得 え たいと考 かんが えていた。一方 いっぽう でニムロド・ルスは、ラムラの建設 けんせつ はスライマーンの「不朽 ふきゅう の名声 めいせい への手段 しゅだん 」であり「パレスチナの景観 けいかん における私的 してき な刻印 こくいん 」であったと述 の べている。都市 とし の建設 けんせつ 場所 ばしょ を選定 せんてい するにあたって、スライマーンは既 すで に明白 めいはく となっていた都市 とし の中心 ちゅうしん 部 ぶ の物理 ぶつり 的 てき 制約 せいやく を回避 かいひ する一方 いっぽう で、リュッダの近隣 きんりん という戦略 せんりゃく 上 じょう の利点 りてん を活用 かつよう した。
スライマーンとその従兄弟 いとこ で後継 こうけい 者 しゃ のウマル2世 せい によって建 た てられたラムラの白 しろ モスク (英語 えいご 版 ばん ) の遺跡 いせき 。(2014年 ねん )
スライマーンがラムラに建 た てた最初 さいしょ の建造 けんぞう 物 ぶつ はパレスチナの行政府 ぎょうせいふ (ディーワーン )の役割 やくわり を兼 か ねていた自身 じしん の宮殿 きゅうでん であった。新 あたら しい都市 とし の中心 ちゅうしん には後 のち にラムラの白 しろ モスク (英語 えいご 版 ばん ) の名 な で知 し られようになるモスク が建 た てられた。このモスクはスライマーンの生前 せいぜん には完成 かんせい せず、完成 かんせい したのはウマル2世 せい (在位 ざいい :717年 ねん - 720年 ねん )の治世 ちせい になってからであった。ラムラは早 はや くから周辺 しゅうへん 地域 ちいき の農産物 のうさんぶつ の市場 いちば として、また染物 そめもの 、織物 おりもの 、および陶器 とうき 生産 せいさん の中心 ちゅうしん 地 ち として経済 けいざい 的 てき に発展 はってん した。さらには多 おお くのイスラーム法学 ほうがく 者 しゃ も居住 きょじゅう していた。スライマーンは市内 しない にアル=バラダーと呼 よ ばれる導水 どうすい 路 ろ を建設 けんせつ し、南東 なんとう におよそ10キロメートル離 はな れたテル・ゲゼル からラムラへ水 みず を供給 きょうきゅう していた。
ラムラはパレスチナの商業 しょうぎょう の中心 ちゅうしん 地 ち としてリュッダに取 と って代 か わった。リュッダのキリスト教徒 きりすときょうと 、サマリア人 じん 、およびユダヤ人 じん の住民 じゅうみん の多 おお くは新 あたら しい都市 とし へ移 うつ された。リュッダがラムラの建設 けんせつ のほぼ直後 ちょくご に世間 せけん から忘 わす れ去 さ られたことは伝承 でんしょう における説明 せつめい の中 なか で一致 いっち しているが、スライマーンがリュッダの住民 じゅうみん をラムラに移 うつ そうと取 と り組 く んだ際 さい の規模 きぼ に関 かん する説明 せつめい はさまざまであり、リュッダの教会 きょうかい を取 と り壊 こわ しただけとするものや、都市 とし を完全 かんぜん に破壊 はかい したとするものもある。9世紀 せいき の歴史 れきし 家 か のヤアクービー (897年 ねん 没 ぼつ )は、スライマーンがリュッダの住民 じゅうみん の家 いえ を完全 かんぜん に破壊 はかい してラムラへの移住 いじゅう を強要 きょうよう し、抵抗 ていこう する者 もの を処罰 しょばつ したと述 の べている。一方 いっぽう でジャフシヤーリーは、スライマーンは「ラムラの町 まち とそのモスクを建設 けんせつ し、その結果 けっか としてロード(リュッダ)を没落 ぼつらく させた」と記 しる している。
ラムラの南東 なんとう へ40キロメートルに位置 いち するエルサレムは、パレスチナの宗教 しゅうきょう 的中 てきちゅう 心地 ごこち であり続 つづ けた。8世紀 せいき のアラビア語 ご の史料 しりょう によれば、スライマーンはワリード1世 せい が神殿 しんでん の丘 おか (アル=ハラム・アッ=シャリーフ)の開発 かいはつ を進 すす めていたのと同 おな じ時期 じき に公衆 こうしゅう 浴場 よくじょう を含 ふく むいくつかの公共 こうきょう 施設 しせつ の建設 けんせつ を命 めい じた。この浴場 よくじょう は岩 いわ のドームで礼拝 れいはい するイスラーム教徒 きょうと が体 からだ を清 きよ める ために使用 しよう された。さらに、スライマーンはシリア語 ご で著述 ちょじゅつ していた13世紀 せいき の名前 なまえ 不 ふ 詳 しょう の年代 ねんだい 記 き 作家 さっか によって、エリコ にアーチ、製粉 せいふん 所 しょ 、および公園 こうえん を建設 けんせつ したと記録 きろく されているが、これらの建造 けんぞう 物 ぶつ は後 のち に洪水 こうずい で破壊 はかい された。また、ダマスクス近郊 きんこう のクタイファ (英語 えいご 版 ばん ) の近 ちか くに広 ひろ い農場 のうじょう を保有 ほゆう し、この農場 のうじょう はスライマーンの名 な をとって「アッ=スライマーニーヤ」と呼 よ ばれた。
ワリード1世 せい はハッジャージュによって勧 すす められたか、あるいはハッジャージュの支援 しえん を得 え たことで自分 じぶん の息子 むすこ のアブドゥルアズィーズを後継 こうけい 者 しゃ に据 す えようと試 こころ み、スライマーンをワリード1世 せい の後継 こうけい 者 しゃ としたアブドゥルマリクによる取 と り決 き めを無効 むこう にした。歴史 れきし 家 か のウマル・ブン・シャッバ(878年 ねん 没 ぼつ )によれば、ワリード1世 せい はこの後継 こうけい 者 しゃ の変更 へんこう を認 みと めさせようとスライマーンに対 たい して惜 お しみなく報奨 ほうしょう 金 きん を与 あた えると持 も ちかけたが、スライマーンはこれを拒否 きょひ した。それでもなおワリード1世 せい はアブドゥルアズィーズの継承 けいしょう を承認 しょうにん するように地方 ちほう の総督 そうとく たちへ働 はたら きかけたが、ハッジャージュとホラーサーン総督 そうとく でマー・ワラー・アンナフル の征服 せいふく 活動 かつどう に従事 じゅうじ していたクタイバ・ブン・ムスリム からしか好意 こうい 的 てき な返事 へんじ を得 え られなかった。ワリード1世 せい の相談 そうだん 相手 あいて であったアッバード・ブン・ズィヤード (英語 えいご 版 ばん ) は、スライマーンをダマスクスのカリフの宮廷 きゅうてい に召喚 しょうかん することで圧力 あつりょく をかけるようにカリフへ助言 じょげん したが、スライマーンが召喚 しょうかん に対 たい する回答 かいとう を渋 しぶ っていると、今度 こんど はシュルタ (英語 えいご 版 ばん ) (精鋭 せいえい の護衛 ごえい 部隊 ぶたい )を動員 どういん してラムラのスライマーンを攻撃 こうげき するように進言 しんげん した。しかしながら、ワリード1世 せい はその後 ご 間 あいだ もない715年 ねん 2月 がつ 24日 にち に死去 しきょ した。スライマーンは自身 じしん の領地 りょうち であるアッ=サブ(バイト・ジブリーン (英語 えいご 版 ばん ) )でその知 し らせを受 う け、抵抗 ていこう する者 もの もなくカリフの地位 ちい を継承 けいしょう した。
スライマーンはラムラとダマスクスで忠誠 ちゅうせい の誓 ちか いを受 う けたが、スライマーンがダマスクスを訪 おとず れたとする記録 きろく はこの時 とき が唯一 ゆいいつ のものである。スライマーンは伝統 でんとう 的 てき なウマイヤ朝 あさ の行政 ぎょうせい 上 じょう の首都 しゅと であるダマスクスに代 か わって(歴史 れきし 家 か のユリウス・ヴェルハウゼン によれば)「非常 ひじょう に愛 あい されていた」パレスチナから統治 とうち を続 つづ けた。歴史 れきし 家 か のラインハルト・アイゼナーは、「スライマーンがエルサレムを主要 しゅよう な統治 とうち 拠点 きょてん として選 えら んでいたことは(中世 ちゅうせい の)シリアの史料 しりょう からも明 あき らかである」と主張 しゅちょう しているが、ヴェルハウゼンと歴史 れきし 家 か のヒュー・ナイジェル・ケネディ (英語 えいご 版 ばん ) は、スライマーンはラムラに留 とど まっていたとする見解 けんかい を示 しめ している。
750年 ねん 時点 じてん の地中海 ちちゅうかい と中東 ちゅうとう 地域 ちいき の勢力 せいりょく 図 ず 。緑 みどり …ウマイヤ朝 あさ 、薄 うす 橙 だいだい …ビザンツ帝国 ていこく 、青 あお …ランゴバルド王国 おうこく 。
スライマーンは即位 そくい 後 ご の最初 さいしょ の一 いち 年間 ねんかん にワリード1世 せい とハッジャージュが任命 にんめい した地方 ちほう 総督 そうとく のほとんどを自分 じぶん に忠実 ちゅうじつ な総督 そうとく と交代 こうたい させた。この交代 こうたい は以前 いぜん に自分 じぶん の即位 そくい に反対 はんたい した人々 ひとびと に対 たい する憤 いきどお りや疑念 ぎねん の結果 けっか によるものなのか、忠実 ちゅうじつ な役人 やくにん を任命 にんめい することによって地方 ちほう に対 たい する支配 しはい 力 りょく を確保 かくほ するための手段 しゅだん であったのか、あるいは強力 きょうりょく で古 ふる くからその地位 ちい にあった総督 そうとく たちによる統治 とうち を終 お わらせるための政策 せいさく であったのかは不明 ふめい である。アイゼナーはスライマーンの「総督 そうとく の人選 じんせん はヤマン系 けい の派閥 はばつ に偏 かたよ っているという印象 いんしょう を与 あた えない」と主張 しゅちょう しているが、一方 いっぽう でケネディは、スライマーンの治世 ちせい の特徴 とくちょう はヤマン族 ぞく の政治 せいじ 的 てき な復活 ふっかつ と「カリフの親 しん ヤマン族 ぞく の傾向 けいこう の反映 はんえい 」にあったと主張 しゅちょう している。
スライマーンが即位 そくい 後 ご すぐに決定 けってい した事項 じこう の一 ひと つは腹心 ふくしん のヤズィード・ブン・アル=ムハッラブをイラクの総督 そうとく に据 す えることであった。歴史 れきし 家 か のムハンマド・アブドゥルハイイ・シャアバーンによれば、スライマーンはヤズィードを「自分 じぶん にとってのハッジャージュ」とみなしていた。ヤズィードは徹底 てってい してヤマン族 ぞく を優遇 ゆうぐう する行動 こうどう を見 み せたが、ヴェルハウゼンはスライマーンに関 かん しては一方 いっぽう の派閥 はばつ をもう一方 いっぽう の派閥 はばつ よりも優遇 ゆうぐう していた形跡 けいせき はないと述 の べている。しかしその一方 いっぽう で、スライマーンはパレスチナの総督 そうとく であった頃 ころ から、ハッジャージュの統治 とうち がイラクの人々 ひとびと の間 あいだ でウマイヤ朝 あさ に対 たい する忠誠 ちゅうせい 心 しん を育 そだ てるのではなく、むしろ憎悪 ぞうお を生 う んでいるとヤズィードに「言 い い包 くる められていた」可能 かのう 性 せい があると指摘 してき している。このような事情 じじょう から、スライマーンはハッジャージュに任命 にんめい された者 もの たちやハッジャージュの同盟 どうめい 者 しゃ たちを更迭 こうてつ したが、ヴェルハウゼンによれば、この更迭 こうてつ はこれらの者 もの たちがカイス族 ぞく に属 ぞく していたからではなく、ハッジャージュとの個人 こじん 的 てき な繋 つな がりを持 も っていたためである。実際 じっさい にスライマーンはジャズィーラのカイス族 ぞく の軍隊 ぐんたい とは密接 みっせつ な関係 かんけい を維持 いじ していた。
ハッジャージュの後見 こうけん を受 う けていた人物 じんぶつ であり、スライマーンとは対立 たいりつ 関係 かんけい にあったクタイバ・ブン・ムスリムは、カリフによってその地位 ちい を追認 ついにん されていたが、自分 じぶん の解任 かいにん が留保 りゅうほ されている状況 じょうきょう に警戒 けいかい 心 しん を抱 いだ き続 つづ けていた。スライマーンが即位 そくい した頃 ころ にクタイバはマー・ワラー・アンナフルのシルダリヤ川 かわ 流域 りゅういき への遠征 えんせい のために軍隊 ぐんたい を率 ひき いていた。そしてフェルガナ で留 とど まっている間 あいだ にスライマーンに対 たい する反乱 はんらん を宣言 せんげん したが、遠方 えんぽう への絶 た え間 ま ない軍事 ぐんじ 活動 かつどう によって疲弊 ひへい していた部隊 ぶたい のほとんどがクタイバに反旗 はんき を翻 ひるがえ した。結局 けっきょく 、クタイバは715年 ねん 8月 がつ にワキー・ブン・アビー・スード・アッ=タミーミーが率 ひき いる軍 ぐん 内 ない の一派 いっぱ によって殺害 さつがい された。ワキーは自 みずか らをホラーサーン総督 そうとく であると宣言 せんげん し、スライマーンも追認 ついにん したものの、ワキーの権限 けんげん に関 かん しては軍事 ぐんじ に限定 げんてい させた。スライマーンはワキーの指名 しめい がワキー自 みずか らの主導 しゅどう というよりもホラーサーン軍 ぐん 内部 ないぶ の部族 ぶぞく の各 かく 派閥 はばつ による推挙 すいきょ であったことが地域 ちいき 内 ない の不安定 ふあんてい 化 か に繋 つな がるのではないかと懸念 けねん していた。その一方 いっぽう でハッジャージュの近親 きんしん 者 しゃ でありシンド 征服 せいふく の指揮 しき 官 かん であったムハンマド・ブン・アル=カースィム (英語 えいご 版 ばん ) は、スライマーンに反抗 はんこう しなかったにもかかわらず解任 かいにん され、ワースィト に召喚 しょうかん された後 のち に拷問 ごうもん によって死亡 しぼう した。
ヒジュラ暦 れき 97年 ねん (西暦 せいれき 715/6年 ねん )にインド のシンド 地方 ちほう (恐 おそ らくムルターン )で鋳造 ちゅうぞう されたウマイヤ朝 あさ のディルハム 銀貨 ぎんか 。表面 ひょうめん の円形 えんけい の銘文 めいぶん は「アッラー の御名 ぎょめい において、7と90年 ねん にアル=ヒンド (英語 えいご 版 ばん ) ( )にてこのディルハムを鋳造 ちゅうぞう した」と読 よ み取 と れる。
ワキーによる暫定 ざんてい 的 てき な統治 とうち は9か月 げつ 間 あいだ 続 つづ き、716年 ねん の中頃 なかごろ にその統治 とうち を終 お えた。ヤズィードはスライマーンに対 たい しワキーが行政 ぎょうせい 面 めん での資質 ししつ に欠 か ける厄介 やっかい なベドウィン (アラブの遊牧民 ゆうぼくみん )であると説 と いていた。ホラーサーンはウマイヤ朝 あさ の他 ほか の東部 とうぶ 地域 ちいき とともにヤズィードが任 にん じられていたイラク総督 そうとく の管轄 かんかつ 下 か に置 お かれた。そしてスライマーンはヤズィードにイラクの軍営 ぐんえい 都市 とし であるクーファ 、バスラ 、およびワースィトに副 ふく 総督 そうとく を残 のこ してホラーサーンへ転任 てんにん するように命 めい じ、イラクの財政 ざいせい を同地 どうち での長 なが い経験 けいけん を持 も つ自身 じしん のマウラー (複数 ふくすう 形 がた ではマワーリー、非 ひ アラブ系 けい の解放 かいほう 奴隷 どれい または庇護 ひご 民 みん )のサーリフ・ブン・アブドゥッラフマーン (英語 えいご 版 ばん ) に委 ゆだ ねた。
715年 ねん から716年 ねん の間 あいだ にスライマーンはハッジャージュによる後見 こうけん の下 した で任命 にんめい されていたメッカ総督 そうとく のハーリド・ブン・アブドゥッラー・アル=カスリー (英語 えいご 版 ばん ) とマディーナ総督 そうとく のウスマーン・ブン・ハイヤーン・アル=ムッリー (英語 えいご 版 ばん ) を解任 かいにん した。アル=カスリーの後任 こうにん にはウマイヤ家 か の人物 じんぶつ の一人 ひとり であるアブドゥルアズィーズ・ブン・アブドゥッラーが任命 にんめい された。解任 かいにん されたアル=カスリーは後 のち にヤマン族 ぞく 擁護 ようご 派 は の人物 じんぶつ であるとみなされるようになった。
スライマーンは西方 せいほう に対 たい してはヤマン族 ぞく 系 けい のイフリーキヤ 総督 そうとく でヒスパニア (アル=アンダルス )を征服 せいふく (英語 えいご 版 ばん ) したムーサー・ブン・ヌサイル (英語 えいご 版 ばん ) とその息子 むすこ でアル=アンダルス総督 そうとく のアブドゥルアズィーズ (英語 えいご 版 ばん ) を解任 かいにん した。ムーサーはスライマーンの即位 そくい と同時 どうじ にカリフによって投獄 とうごく され、アブドゥルアズィーズは716年 ねん 3月 がつ にカリフの命令 めいれい で暗殺 あんさつ された。この暗殺 あんさつ 命令 めいれい はアブドゥルアズィーズの筆頭 ひっとう 副官 ふっかん であったハビーブ・ブン・アビー・ウバイダ・アル=フィフリー (英語 えいご 版 ばん ) を含 ふく むアル=アンダルスの有力 ゆうりょく なアラブ軍 ぐん 司令 しれい 官 かん たちの手 て によって実行 じっこう された[注 ちゅう 2] 。歴史 れきし 家 か のタバリー (923年 ねん 没 ぼつ )は、ハビーブがアブドゥルアズィーズの首 くび をカリフに届 とど けたとしている。スライマーンはムーサーに代 か わってクライシュ族 ぞく のマウラーを後任 こうにん に据 す え、新 あたら しい総督 そうとく はカリフの命令 めいれい の下 した でイフリーキヤのムーサーの家族 かぞく の財産 ざいさん を没収 ぼっしゅう し、さらには拷問 ごうもん に掛 か けて家族 かぞく を殺害 さつがい した。ムーサーはその経歴 けいれき の中 なか で資金 しきん を横領 おうりょう した過去 かこ があり、スライマーンは投獄 とうごく 中 ちゅう にムーサーから相当 そうとう な額 がく の金銭 きんせん を奪 うば い取 と った。
ウマイヤ朝 あさ の北部 ほくぶ 地域 ちいき の地図 ちず 。中央 ちゅうおう の薄茶 うすちゃ 色 しょく に塗 ぬ られた地域 ちいき はスライマーンの治世 ちせい 中 ちゅう にカスピ海 かすぴかい の南部 なんぶ 沿岸 えんがん に沿 そ ってタバリスターン とジュルジャーン に勢力 せいりょく を拡大 かくだい したことを示 しめ している。その他 た のライムグリーン、ピンク、紫 むらさき 、黄色 おうしょく 、およびオレンジに塗 ぬ られた地域 ちいき はスライマーンの前任 ぜんにん 者 しゃ たちによって征服 せいふく された地域 ちいき を示 しめ している。
スライマーンは地方 ちほう 総督 そうとく の大 だい 部分 ぶぶん を交代 こうたい させたが、前任 ぜんにん 者 しゃ による軍事 ぐんじ 優先 ゆうせん 的 てき な政策 せいさく は維持 いじ した。それにもかかわらず、ワリード1世 せい の下 した で進 すす んでいたウマイヤ朝 あさ の領土 りょうど の拡大 かくだい はスライマーンの比較的 ひかくてき 短 みじか い治世 ちせい の間 あいだ に事実 じじつ 上 じょう 停止 ていし した。
東方 とうほう の前線 ぜんせん であるマー・ワラー・アンナフル ではクタイバの死後 しご 四半世紀 しはんせいき にわたってさらなる征服 せいふく が達成 たっせい されることはなく、その間 あいだ にアラブ人 じん はこの地域 ちいき の領土 りょうど を失 うしな い始 はじ めた。スライマーンはホラーサーン軍 ぐん に対 たい しフェルガナからメルヴ へ撤退 てったい するように命 めい じ、その後 ご に軍 ぐん を解散 かいさん させた。また、ワキーの下 した では軍事 ぐんじ 活動 かつどう は行 おこな われなかった。ヤズィードの息子 むすこ でマー・ワラー・アンナフルにおけるヤズィードの代官 だいかん であったムハッラドによる遠征 えんせい は、ソグド人 じん の集落 しゅうらく に対 たい する夏季 かき の襲撃 しゅうげき に限定 げんてい されていた。歴史 れきし 家 か のハミルトン・ギブ は、マー・ワラー・アンナフルにおけるアラブ軍 ぐん の後退 こうたい をクタイバの死 し に伴 ともな う指導 しどう 力 りょく と組織 そしき 力 りょく の低下 ていか に起因 きいん するとしている。一方 いっぽう でアイゼナーは、ある程度 ていど までは辺境 へんきょう 地帯 ちたい に沿 そ ってより効果 こうか 的 てき な抵抗 ていこう に遭遇 そうぐう したことが原因 げんいん であるとしている。また、このような征服 せいふく 活動 かつどう の停滞 ていたい は、スライマーンの下 した で「拡大 かくだい と征服 せいふく の勢 いきお いが弱 よわ まった」ことを示 しめ すものではなかったと述 の べている。
ジュルジャーンとタバリスターン [ 編集 へんしゅう ]
ヤズィードは716年 ねん にカスピ海 かすぴかい の南岸 なんがん に位置 いち するジュルジャーン (ゴルガーン)とタバリスターン の諸 しょ 勢力 せいりょく に対 たい する征服 せいふく を試 こころ みた。これらの地域 ちいき はペルシアの地方 ちほう 王朝 おうちょう によって統治 とうち されていたが、アルボルズ山脈 さんみゃく に守 まも られていたために度重 たびかさ なる征服 せいふく の試 こころ みにもかかわらず大 だい 部分 ぶぶん の地域 ちいき はイスラーム教徒 きょうと による支配 しはい を逃 のが れて独立 どくりつ を維持 いじ していた。遠征 えんせい は4か月 げつ にわたって続 つづ き、クーファ、バスラ、レイ 、メルヴ、そしてシリアに駐留 ちゅうりゅう する守備 しゅび 隊 たい から構成 こうせい された100,000人 にん 規模 きぼ の軍隊 ぐんたい が投入 とうにゅう された。ウマイヤ朝 あさ の精鋭 せいえい 軍 ぐん を構成 こうせい するシリアの部隊 ぶたい がホラーサーンへ派遣 はけん されたのはこれが初 はじ めてのことであった。ヤズィードはアトラク川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) の北 きた でコル・テュルク(Chöl Turks )と呼 よ ばれる集団 しゅうだん を破 やぶ り、そこに都市 とし (現代 げんだい のゴンバデ・カーブース (英語 えいご 版 ばん ) )を建設 けんせつ してジュルジャーンの支配 しはい を確保 かくほ した。ある手紙 てがみ の中 なか でヤズィードは、スライマーンに代 か わって「神 かみ がこの征服 せいふく を行 おこな う」まで以前 いぜん のカリフたちから逃 のが れてきたこの二 ふた つの地域 ちいき の征服 せいふく を祝 いわ った。しかし、ヤズィードの当初 とうしょ の成功 せいこう は同 おな じ年 ねん の後半 こうはん に起 お こったタバリスターンの支配 しはい 者 しゃ である大 だい ファッルハーン(英語 えいご 版 ばん ) と近隣 きんりん のダイラム 、ギーラーン およびジュルジャーンの連合 れんごう 軍 ぐん の抵抗 ていこう によって覆 くつがえ された。その後 ご 、ヤズィードは大 だい ファッルハーンと貢 みつぎ 納 おさめ の取 と り決 き めを結 むす ぶことと引 ひ き換 か えにこの地域 ちいき からイスラーム教徒 きょうと の軍隊 ぐんたい を撤退 てったい させた。タバリスターンはウマイヤ朝 あさ の支配 しはい を継承 けいしょう したアッバース朝 あさ によって760年 ねん に征服 せいふく されるまでアラブ人 じん による支配 しはい から独立 どくりつ していたが、その後 ご も現地 げんち の世襲 せしゅう の君主 くんしゅ が支配 しはい する反抗 はんこう 的 てき な地域 ちいき であり続 つづ けた。
コンスタンティノープルの包囲 ほうい [ 編集 へんしゅう ]
740年 ねん 頃 ごろ のビザンツ帝国 ていこく のアナトリア とトラキア の領土 りょうど を示 しめ した地図 ちず 。
スライマーンが最 もっと も重要 じゅうよう 視 し していた軍事 ぐんじ 面 めん における焦点 しょうてん は、ビザンツ帝国 ていこく (東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく )との長期 ちょうき にわたって続 つづ く戦争 せんそう であった。ビザンツ帝国 ていこく はウマイヤ朝 あさ 政権 せいけん の中心 ちゅうしん 地 ち であるシリアに隣接 りんせつ し、敵対 てきたい する勢力 せいりょく の中 なか では最大 さいだい かつ最強 さいきょう であり最 もっと も多 おお くの富 とみ を抱 かか えていた。ムアーウィヤ1世 せい の治世 ちせい 下 か で行 おこな われたビザンツ帝国 ていこく の首都 しゅと であるコンスタンティノープル に対 たい する最初 さいしょ の攻撃 こうげき は失敗 しっぱい に終 お わっていた[注 ちゅう 3] 。それでもなおウマイヤ朝 あさ は692年 ねん 以降 いこう 攻勢 こうせい に転 てん じ、アルメニア とコーカサス 地方 ちほう の諸侯 しょこう に対 たい する支配 しはい 権 けん を確保 かくほ するとともにビザンツ帝国 ていこく の国境 こっきょう 地帯 ちたい を徐々 じょじょ に侵食 しんしょく していった。ウマイヤ朝 あさ の将軍 しょうぐん は大抵 たいてい においてウマイヤ家 か の一族 いちぞく の者 もの であり、これらの将軍 しょうぐん たちは毎年 まいとし のようにビザンツ帝国 ていこく の領内 りょうない を襲撃 しゅうげき し、町 まち や要塞 ようさい を占領 せんりょう していった。ビザンツ帝国 ていこく ではユスティニアノス2世 せい (在位 ざいい :685年 ねん - 695年 ねん 、705年 ねん - 711年 ねん )の最初 さいしょ の廃位 はいい に始 はじ まり、レオン3世 せい (在位 ざいい :717年 ねん - 741年 ねん )の即位 そくい に至 いた るまで暴力 ぼうりょく 的 てき なクーデターによって帝位 ていい が7回 かい 入 い れ替 か わるという長期 ちょうき にわたる政情 せいじょう 不安 ふあん が続 つづ き、このような状況 じょうきょう もアラブ側 がわ を利 り することになった。712年 ねん までにアラブ側 がわ の襲撃 しゅうげき はアナトリア (小 しょう アジア)の深部 しんぶ まで及 およ ぶようになり、ビザンツ帝国 ていこく の防衛 ぼうえい 体制 たいせい は崩壊 ほうかい の兆 きざ しを見 み せ始 はじ めた。
コンスタンティノス・マナッセス (英語 えいご 版 ばん ) の年代 ねんだい 記 き に記 しる されたコンスタンティノープルの包囲 ほうい に関 かん する描写 びょうしゃ と説明 せつめい (14世紀 せいき )
ワリード1世 せい の死後 しご 、スライマーンはコンスタンティノープルの攻略 こうりゃく に向 む けた計画 けいかく をより強力 きょうりょく に推 お し進 すす めた。716年 ねん の末 すえ にメッカへの巡礼 じゅんれい から戻 もど ったスライマーンはシリア北部 ほくぶ のダービク に陣 じん を構 かま えて軍隊 ぐんたい を動員 どういん し、ビザンツ帝国 ていこく との大 だい 規模 きぼ な戦争 せんそう に向 む けた準備 じゅんび を監督 かんとく した。しかしながら、かなり健康 けんこう を害 がい していたスライマーンはこの軍事 ぐんじ 作戦 さくせん を自 みずか ら率 ひき いることができなかった[88] 。このため、代 か わりに異母 いぼ 兄弟 きょうだい のマスラマ・ブン・アブドゥルマリク (英語 えいご 版 ばん ) を陸上 りくじょう から都市 とし を包囲 ほうい させるために派遣 はけん し、同時 どうじ にビザンツ帝国 ていこく の首都 しゅと を征服 せいふく するかカリフが呼 よ び戻 もど すまで軍事 ぐんじ 作戦 さくせん を続行 ぞっこう するように命 めい じた。その一方 いっぽう で、すでに716年 ねん の初頭 しょとう にはアラブ人 じん の軍 ぐん 司令 しれい 官 かん であるウマル・ブン・フバイラ・アル=ファザーリー (英語 えいご 版 ばん ) がコンスタンティノープルに対 たい する同様 どうよう の海軍 かいぐん による軍事 ぐんじ 行動 こうどう を開始 かいし していた。多 おお くの部隊 ぶたい がビザンツ帝国 ていこく の首都 しゅと に向 む けて派遣 はけん されている中 なか 、スライマーンは717年 ねん に息子 むすこ のダーウードをビザンツ帝国 ていこく の国境 こっきょう 地帯 ちたい に対 たい する夏季 かき の軍事 ぐんじ 作戦 さくせん の司令 しれい 官 かん に任命 にんめい した。ダーウードはこの軍事 ぐんじ 作戦 さくせん においてマラティヤ に近 ちか いヒスン・アル=マルア(「女性 じょせい の要塞 ようさい 」を意味 いみ する)を占領 せんりょう した。
スライマーンの努力 どりょく は最終 さいしゅう 的 てき に失敗 しっぱい に終 お わった。マスラマがコンスタンティノープルに対 たい する包囲 ほうい を続 つづ ける中 なか 、ビザンツ軍 ぐん は717年 ねん の夏 なつ にコンスタンティノープルでウマイヤ朝 あさ の艦隊 かんたい を撃退 げきたい した。718年 ねん の夏 なつ に包囲 ほうい 軍 ぐん を支援 しえん するために派遣 はけん された新 あら たなウマイヤ朝 あさ の艦隊 かんたい もビザンツ軍 ぐん によって破壊 はかい され、一方 いっぽう で陸上 りくじょう のウマイヤ朝 あさ の救援 きゅうえん 部隊 ぶたい もアナトリアで打 う ち破 やぶ られて敗走 はいそう した。包囲 ほうい に失敗 しっぱい したマスラマの軍隊 ぐんたい は718年 ねん 8月 がつ にコンスタンティノープルから撤退 てったい した。この軍事 ぐんじ 作戦 さくせん の期間 きかん 中 ちゅう に被 こうむ った多大 ただい な損失 そんしつ の影響 えいきょう によって、ウマイヤ朝 あさ の軍隊 ぐんたい は占領 せんりょう したビザンツ帝国 ていこく の辺境 へんきょう 地帯 ちたい からも部分 ぶぶん 的 てき に撤退 てったい したが、720年 ねん には早 はや くもビザンツ帝国 ていこく に対 たい するウマイヤ朝 あさ の襲撃 しゅうげき が再開 さいかい された。しかしながらコンスタンティノープルの征服 せいふく という目標 もくひょう は事実 じじつ 上 じょう 放棄 ほうき され、二 ふた つの帝国 ていこく の境界 きょうかい はトロス山脈 さんみゃく とアンティトロス山脈 さんみゃく (英語 えいご 版 ばん ) に沿 そ った線 せん で固定 こてい 化 か された。そして続 つづ く数 すう 世紀 せいき の間 あいだ 、境界 きょうかい 線 せん を超 こ えた定期 ていき 的 てき な襲撃 しゅうげき と反撃 はんげき が繰 く り返 かえ された。
スライマーンは717年 ねん 9月 がつ にダービクで死去 しきょ し、その地 ち に埋葬 まいそう された。死去 しきょ した日付 ひづけ について、11世紀 せいき のキリスト教徒 きりすときょうと の年代 ねんだい 記 き 作家 さっか であるニシビスのエリヤ (英語 えいご 版 ばん ) は9月20日 にち か21日 にち としているが、8世紀 せいき のイスラーム教徒 きょうと の歴史 れきし 家 か であるアブー・ミフナフ (英語 えいご 版 ばん ) は9月23日 にち か24日 にち としている。スライマーンは金曜 きんよう 礼拝 れいはい から戻 もど った後 のち に病 やまい に罹 かか り、その数日 すうじつ 後 ご に亡 な くなった。
スライマーンは兄弟 きょうだい で後継 こうけい 者 しゃ となる可能 かのう 性 せい があったマルワーン・アル=アクバル (英語 えいご 版 ばん ) が死去 しきょ した後 のち 、715年 ねん か716年 ねん に自分 じぶん の長男 ちょうなん のアイユーブを後継 こうけい 者 しゃ に指名 しめい していた。この指名 しめい は同 どう 時代 じだい の詩人 しじん であるジャリール (英語 えいご 版 ばん ) の頌歌によって部分 ぶぶん 的 てき に裏付 うらづ けられている。
イマーム (スライマーン)の次 つぎ にその才能 さいのう が望 のぞ まれるイマームは、選 えら ばれし後継 こうけい 者 しゃ のアイユーブ(ヨブ のアラビア語 ご 名 めい )である…… あなた(アイユーブ)は慈悲 じひ 深 ふか い者 もの (スライマーン)を継 つ ぐ者 もの であり、詩篇 しへん を朗唱 ろうしょう する人々 ひとびと が認 みと める者 もの 、律 りつ 法 ほう にその名 な が刻 きざ まれた者 もの である。
しかしながら、アイユーブはシリアとイラクを襲 おそ っていたターウーン・アル=アシュラーフ(「高貴 こうき な者 もの の疫病 えきびょう 」の意 い )に倒 たお れ、717年 ねん の初頭 しょとう に死去 しきょ した。スライマーンの死 し も同 おな じ疫病 えきびょう が原因 げんいん であった可能 かのう 性 せい がある。死 し の床 ゆか でスライマーンは別 べつ の息子 むすこ であるダーウードの指名 しめい を考 かんが えたが、ラジャアはダーウードがコンスタンティノープルでの戦 たたか いで不在 ふざい であり、生 い きているかどうかも判 わか らないと主張 しゅちょう してダーウードを指名 しめい しないように忠告 ちゅうこく した。そしてラジャアが「尊敬 そんけい に値 あたい する優秀 ゆうしゅう な人物 じんぶつ であり、誠実 せいじつ なイスラーム教徒 きょうと 」と評 ひょう するスライマーンの父方 ちちかた の従兄弟 いとこ で助言 じょげん 者 しゃ でもあったウマル・ブン・アブドゥルアズィーズ(後 ご のウマル2世 せい )を選 えら ぶように勧 すす めた。そしてウマルとスライマーンの兄弟 きょうだい の間 あいだ で起 お こる可能 かのう 性 せい のある王家 おうけ 内 ない の争 あらそ いを避 さ けるため、ヤズィード・ブン・アブドゥルマリク(後 ご のヤズィード2世 せい 、在位 ざいい :720年 ねん - 724年 ねん )がウマルの後継 こうけい 者 しゃ に指名 しめい された。自分 じぶん の兄弟 きょうだい よりも従兄弟 いとこ を優先 ゆうせん したスライマーンによるウマルの指名 しめい は、カリフの地位 ちい はアブドゥルマリクの家系 かけい に限 かぎ られるとするウマイヤ家 か の内部 ないぶ で考 かんが えられていた一般 いっぱん 的 てき な想定 そうてい に反 はん するものだった。ラジャアはスライマーンの意志 いし の実行 じっこう 者 しゃ として選 えら ばれ、存在 そんざい を無視 むし されたカリフの兄弟 きょうだい による抗議 こうぎ に対 たい し武力 ぶりょく で脅 おど すことでウマルへの忠誠 ちゅうせい を確保 かくほ した。アイゼナーによれば、ラジャアのスライマーンとの個人 こじん 的 てき な関係 かんけい は、伝承 でんしょう に基 もと づく指名 しめい についてのイスラーム教徒 きょうと の記録 きろく において、ラジャアの後継 こうけい 者 しゃ の手配 てはい における役割 やくわり を「恐 おそ らくは…大袈裟 おおげさ な」ものにした。一方 いっぽう でシャアバーンによれば、スライマーンがウマルを指名 しめい した理由 りゆう は、ウマルが「スライマーンの政策 せいさく に最 もっと も好意 こうい 的 てき な」候補者 こうほしゃ であったためである。
ヒジュラ暦 れき 97年 ねん (西暦 せいれき 715/6年 ねん )に恐 おそ らくダマスクス で鋳造 ちゅうぞう されたスライマーンのディナール 金貨 きんか
アイゼナーは、その治世 ちせい が短期間 たんきかん であったことから、「スライマーンの治世 ちせい を適切 てきせつ に描写 びょうしゃ する」ことが困難 こんなん であると指摘 してき している。一方 いっぽう でシャアバーンは、スライマーンの短 みじか い統治 とうち が「複数 ふくすう の解釈 かいしゃく を可能 かのう 」にし、そのことが「歴史 れきし 家 か にとってスライマーンが非常 ひじょう に不明瞭 ふめいりょう な人物 じんぶつ 」になっている理由 りゆう であると述 の べている。また、中世 ちゅうせい の史料 しりょう がスライマーンの後継 こうけい 者 しゃ であるウマル2世 せい の治世 ちせい を「圧倒的 あっとうてき に重視 じゅうし している」ため、「スライマーンの治世 ちせい の重要 じゅうよう 性 せい が認識 にんしき されてこなかったように思 おも える」と指摘 してき している。シャアバーンとケネディは、スライマーンがヤマン族 ぞく の派閥 はばつ を擁護 ようご してカイス族 ぞく に対抗 たいこう したことを強調 きょうちょう しているが、一方 いっぽう でアイゼナーは、スライマーンによる地方 ちほう 総督 そうとく や軍事 ぐんじ 関係 かんけい 者 しゃ の任命 にんめい は、所属 しょぞく する派閥 はばつ とは関係 かんけい なく自分 じぶん に忠実 ちゅうじつ な者 もの を権力 けんりょく の座 ざ に据 す えることによって、国家 こっか の隅々 すみずみ まで支配 しはい を強化 きょうか しようとする動機 どうき に基 もと づいていたとする見解 けんかい を示 しめ している。また、アイゼナーとシャアバーンは、スライマーンがアブドゥルマリクとワリード1世 せい の拡大 かくだい 主義 しゅぎ 的 てき な政策 せいさく を全般 ぜんぱん 的 てき に維持 いじ していたと述 の べている。
シャアバーンはスライマーンが軍 ぐん の階層 かいそう 組織 そしき へのマワーリーの統合 とうごう を一層 いっそう 推 お し進 すす めようとしたことを強調 きょうちょう している。一方 いっぽう で歴史 れきし 家 か のパトリシア・クローン (英語 えいご 版 ばん ) は、このようなマワーリーの統合 とうごう に関 かん するあらゆる政策 せいさく の転換 てんかん をスライマーンが監督 かんとく していたとする見方 みかた を否定 ひてい している。いくつかのイスラームの伝承 でんしょう に基 もと づく史料 しりょう では、700年 ねん から701年 ねん にかけて起 お こったイブン・アル=アシュアス による反 はん ウマイヤ朝 あさ の反乱 はんらん を支持 しじ していた都市 とし 部 ぶ のマワーリー(い換 いか えればジズヤ (非 ひ イスラーム教徒 きょうと に課 か せられる人頭 じんとう 税 ぜい )を回避 かいひ するためにイスラームに改宗 かいしゅう してバスラへ移住 いじゅう したイラクの小作農 こさくのう )のバスラへの帰還 きかん を認 みと めることによって、スライマーンが非 ひ アラブ系 けい のイスラームへの改宗 かいしゅう 者 しゃ に対 たい するハッジャージュの政策 せいさく を無効 むこう にしたとされている。しかしクローンは、逃亡 とうぼう した小作農 こさくのう の改宗 かいしゅう 者 しゃ に対 たい するスライマーンの政策 せいさく についての伝統 でんとう 的 てき な説明 せつめい を「証拠 しょうこ に値 あたい しない」として退 しりぞ けている。
スライマーンと同 どう 時代 じだい の詩人 しじん であるファラズダク (英語 えいご 版 ばん ) とジャリールによるパネジリック (英語 えいご 版 ばん ) (称賛 しょうさん の辞 じ )において、スライマーンは抑圧 よくあつ の時代 じだい を経 へ て正義 せいぎ を回復 かいふく するために遣 つか わされたマフディー (「正 まさ しく導 みちび かれた者 もの 」を意味 いみ する)であるとしてメシア 的 てき な文脈 ぶんみゃく の中 なか で評価 ひょうか されている。ファラズダクはスライマーンがあらゆる不平 ふへい に対処 たいしょ することを称賛 しょうさん し、スライマーンを「司祭 しさい とラビ によって予言 よげん された者 もの 」として歓迎 かんげい した。スライマーンに対 たい するメシア的 てき な見解 けんかい にはヒジュラ (聖 せい 遷)の100周年 しゅうねん が近 ちか づいていたことと、スライマーンの治世 ちせい におけるコンスタンティノープルの征服 せいふく というイスラーム教徒 きょうと の期待 きたい が結 むす びついていた可能 かのう 性 せい がある。いくつかのハディース (預言 よげん 者 しゃ ムハンマドに帰 き する言説 げんせつ や伝承 でんしょう )は、コンスタンティノープルの征服 せいふく をマフディーと結 むす びつけ、スライマーンがその征服 せいふく を試 こころ みる役割 やくわり を担 にな うと記 しる している。クローンによれば、スライマーンは「賢明 けんめい にも」ヒジュラの100周年 しゅうねん に自分 じぶん たちの共同 きょうどう 体 たい か、あるいは世界 せかい が破壊 はかい されるというイスラーム教徒 きょうと の間 あいだ で広 ひろ まっていた考 かんが えに公然 こうぜん と言及 げんきゅう することはなかった。
スライマーンは放縦 ほうしょう な生活 せいかつ を送 おく っていたことで知 し られ、伝統 でんとう 的 てき な史料 しりょう において大食漢 たいしょくかん であり性的 せいてき に見境 みさかい のない人物 じんぶつ であったと伝 つた えられている。ヤアクービーはスライマーンを「大食 たいしょく 家 か であり… 人 ひと を引 ひ きつけ、雄弁 ゆうべん であり… 背 せ が高 たか く、色白 いろじろ で、空腹 くうふく に耐 た えることのできない体 からだ をしていた」と説明 せつめい している。また、アラビア語 ご による弁論 べんろん 術 じゅつ に非常 ひじょう に長 た けていた。スライマーンはその生活 せいかつ 習慣 しゅうかん にもかかわらず敬虔 けいけん な人々 ひとびと に政治 せいじ 的 てき な共感 きょうかん を向 む けていたが、このことはとりわけラジャアの助言 じょげん に敬意 けいい を払 はら っていたことからも窺 うかが われる。さらに、スライマーンはイラクにおけるハッジャージュの宗教 しゅうきょう 面 めん での敵対 てきたい 者 しゃ とも関係 かんけい を深 ふか め、アリー家 か (英語 えいご 版 ばん ) (イスラームの預言 よげん 者 しゃ ムハンマドの娘 むすめ 婿 むこ であるアリー・ブン・アビー・ターリブ とその子孫 しそん )に対 たい し財政 ざいせい 面 めん で惜 お しみない振舞 ふるま いを見 み せた。また、初期 しょき のウマイヤ家 か の一員 いちいん であり一族 いちぞく の後援 こうえん 者 しゃ でもあった正統 せいとう カリフ のウスマーン (在位 ざいい :644年 ねん - 656年 ねん )が落命 らくめい した反乱 はんらん に関与 かんよ していた者 もの が一族 いちぞく にいたにもかかわらず、マディーナの総督 そうとく にその一族 いちぞく の出身 しゅっしん で都市 とし の信徒 しんと 集団 しゅうだん の一員 いちいん であったアブー・バクル・ブン・ムハンマド・アル=アンサーリー (英語 えいご 版 ばん ) を任命 にんめい した。同 どう 時代 じだい に残 のこ された詩 し とは対照 たいしょう 的 てき に、イスラームの伝承 でんしょう においてスライマーンは一般 いっぱん に非情 ひじょう で不公平 ふこうへい な人物 じんぶつ とみなされ、敬虔 けいけん な人々 ひとびと に対 たい するスライマーンの態度 たいど は自身 じしん の不道徳 ふどうとく な行為 こうい に対 たい する罪悪 ざいあく 感 かん からくるものとされている。
スライマーンには複数 ふくすう の妻 つま がいたが、その中 なか の一人 ひとり でマルワーン1世 せい の父 ちち のアル=ハカム・ブン・アビー・アル=アース (英語 えいご 版 ばん ) の孫娘 まごむすめ にあたるウンム・アバーン・ビント・アバーンは息子 むすこ のアイユーブを産 う んだ。その他 た のウマイヤ家 か 出身 しゅっしん の妻 つま はカリフのヤズィード1世 せい の孫娘 まごむすめ であり、後 のち にカリフの地位 ちい を僭称 せんしょう したアブー・ムハンマド・アッ=スフヤーニー (英語 えいご 版 ばん ) の姉 あね か妹 いもうと であるウンム・ヤズィードであった。また、スライマーンはイスラームの預言 よげん 者 しゃ ムハンマド の教 きょう 友 とも (サハーバ )で初期 しょき のイスラーム教徒 きょうと の指導 しどう 者 しゃ であったタルハ・ブン・ウバイドゥッラー (英語 えいご 版 ばん ) の孫娘 まごむすめ のスウダ・ビント・ヤフヤーと結婚 けっこん していた。もう一人 ひとり の妻 つま のアーイシャ・ビント・アスマー・ビント・アブドゥッラフマーン・ブン・アル=ハーリスは著名 ちょめい なクライシュ族 ぞく の氏族 しぞく であるマフズーム家 か (英語 えいご 版 ばん ) の出身 しゅっしん であり、スライマーンとの間 あいだ に二 に 人 にん の息子 むすこ を儲 もう けた。スライマーンのウンム・ワラド (英語 えいご 版 ばん ) (主人 しゅじん の子供 こども を産 う んだ女 じょ 奴隷 どれい )からは息子 むすこ のダーウードが生 う まれた。
スライマーンには14人 にん の息子 むすこ がいた。9世紀 せいき の歴史 れきし 家 か のアブー・ハニーファ・アッ=ディーナワリー によれば、父親 ちちおや が死去 しきょ した時点 じてん で12歳 さい となっていたムハンマドが存命 ぞんめい 中 ちゅう の息子 むすこ の中 なか では最年長 さいねんちょう であった[注 ちゅう 4] 。スライマーンの息子 むすこ たちはパレスチナに留 と まり、パレスチナのヤマン族 ぞく の有力 ゆうりょく 者 しゃ との緊密 きんみつ な関係 かんけい を維持 いじ した[123] 。また、これらのアラブ部族 ぶぞく はパレスチナの守備 しゅび 隊 たい を構成 こうせい し、スライマーンの一族 いちぞく と固 かた い結束 けっそく を示 しめ していた。そして744年 ねん には部族 ぶぞく を率 ひき いる立場 たちば にあったスライマーンの息子 むすこ のヤズィードをカリフに据 す えようとしたが、この試 こころ みは失敗 しっぱい に終 お わった。別 べつ のスライマーンの息子 むすこ であるアブドゥルワーヒド (英語 えいご 版 ばん ) は、カリフのマルワーン2世 せい (在位 ざいい :744年 ねん - 750年 ねん )の下 した で747年 ねん にメッカとマディーナの総督 そうとく を務 つと めた。スライマーンがパレスチナに残 のこ した資産 しさん はアッバース革命 かくめい によって750年 ねん にウマイヤ朝 あさ が崩壊 ほうかい するまでスライマーンの一族 いちぞく が保有 ほゆう していた。ダーウードとアブドゥルワーヒドの系統 けいとう の子孫 しそん の一部 いちぶ はイベリア半島 はんとう に成立 せいりつ した後 こう ウマイヤ朝 あさ (756年 ねん - 1031年 ねん )の地 ち に住 す んでいたことが複数 ふくすう の史料 しりょう に記録 きろく されている。
^ スライマーンが死去 しきょ した時点 じてん の年齢 ねんれい はヒジュラ暦 れき 基準 きじゅん で39歳 さい 、43歳 さい 、または45歳 さい と記録 きろく されており、史料 しりょう によって矛盾 むじゅん が見 み られる。
^ 歴史 れきし 家 か のフィリップ・K・ヒッティ (英語 えいご 版 ばん ) は、最後 さいご の西 にし ゴート王 おう ロデリック の未亡人 みぼうじん のエギロナと結婚 けっこん していたアブドゥルアズィーズにはキリスト教 きりすときょう へ改宗 かいしゅう したという噂 うわさ があり、この噂 うわさ への対処 たいしょ とアブドゥルアズィーズの自立 じりつ への恐 おそ れからスライマーンが殺害 さつがい を命 めい じたと説明 せつめい している。
^ 現代 げんだい の歴史 れきし 家 か のハーリド・ヤフヤー・ブランキンシップ (英語 えいご 版 ばん ) は、ムアーウィヤ1世 せい の下 した でのコンスタンティノープルに対 たい する攻撃 こうげき を包囲 ほうい 戦 せん とする従来 じゅうらい の見方 みかた を「大 おお きな誇張 こちょう 」であるとし、スライマーンとウマル2世 せい の下 した で717年 ねん から718年 ねん にかけて行 おこな われたコンスタンティノープルに対 たい する包囲 ほうい がアラブ人 じん によって「それまでに実行 じっこう に移 うつ された唯一 ゆいいつ のその種 たね の軍事 ぐんじ 作戦 さくせん 」であると指摘 してき している。
^ 一方 いっぽう で9世紀 せいき の歴史 れきし 家 か のヤアクービー は、スライマーンの息子 むすこ のアイユーブとダーウードに関 かん する言及 げんきゅう の他 ほか 、スライマーンがヤズィード、アル=カースィム、サイード、ウスマーン、アブドゥッラーもしくはウバイドゥッラー、アブドゥルワーヒド、アル=ハーリス、アムル、ウマル、そしてアブドゥッラフマーンの10人 にん の息子 むすこ を残 のこ して死去 しきょ したと述 の べている。
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