(Translated by https://www.hiragana.jp/)
スライマーン (ウマイヤ朝) - Wikipedia コンテンツにスキップ

スライマーン (ウマイヤあさ)

この記事は良質な記事に選ばれています
出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
スライマーン
سليمان بن عبد الملك
ウマイヤあさだい7だいカリフ
在位ざいい 715ねん2がつ24にち - 717ねん9月24にち

ぜん アブー・アイユーブ・スライマーン・ブン・アブドゥルマリク・ブン・マルワーン
出生しゅっしょう 675ねんごろ
マディーナ
死去しきょ 717ねん9がつ24にち
ダービク
埋葬まいそう ダービク
配偶はいぐうしゃ ウンム・アバーン・ビント・アバーン・ブン・アル=ハカム・ブン・アビー・アル=アース
  ウンム・ヤズィード・ビント・アブドゥッラー・ブン・ヤズィード
  スウダ・ビント・ヤフヤー・ブン・タルハ・ブン・ウバイドゥッラー
  アーイシャ・ビント・アスマー・ビント・アブドゥッラフマーン・ブン・アル=ハーリス・アル=マフズーミーヤ
子女しじょ
  • アイユーブ
  • ダーウード
  • ムハンマド
  • ヤズィード
  • アブドゥルワーヒド英語えいごばん
  • アル=カースィム
  • サイード
  • ウスマーン
  • ウバイドゥッラー
  • アル=ハーリス
  • アムル
  • ウマル
  • アブドゥッラフマーン
家名かめい マルワーン
王朝おうちょう ウマイヤあさ
父親ちちおや アブドゥルマリク
母親ははおや ワッラーダ・ビント・アル=アッバース・ブン・アル=ジャズ・アル=アブスィーヤ
宗教しゅうきょう イスラームきょう
テンプレートを表示ひょうじ

スライマーン(スライマーン・ブン・アブドゥルマリク・ブン・マルワーン, アラビア: سليمان بن عبد الملك بن مروان‎, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Sulaymān b. ʿAbd al-Malik b. Marwān, 675ねんごろ - 717ねん9月24にち)は、だい7だいウマイヤあさカリフである(在位ざいい715ねん2がつ24にち - 717ねん9がつ24にち)。

スライマーンは父親ちちおやアブドゥルマリク兄弟きょうだいワリード1せいがカリフとして統治とうちしていた時期じきパレスチナ総督そうとくとして経歴けいれき開始かいしさせ、現地げんち神学しんがくしゃラジャア・ブン・ハイワ・アル=キンディー英語えいごばんによる指導しどうけた。また、アブドゥルマリクとワリード1せいしたでイラクの総督そうとくつとめ、東方とうほう地域ちいきたいするつよ影響えいきょうりょくっていたアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ英語えいごばん敵対てきたいしたヤズィード・ブン・アル=ムハッラブ英語えいごばんとも親交しんこうふかめた。パレスチナでは新都しんとラムラ建設けんせつしたが、このあたらしい都市とし以前いぜんのパレスチナの首府しゅふであるリュッダわって経済けいざい中心ちゅうしんとして発展はってんし、11世紀せいきまでパレスチナの行政ぎょうせい中心ちゅうしんとして存続そんぞくした。

715ねんのワリード1せいともなってカリフに即位そくいしたスライマーンは前任ぜんにんしゃしたつかえていたおおくの総督そうとく将軍しょうぐん解任かいにんした。これらのものおおくはハッジャージュの後見こうけんした任命にんめいされた人物じんぶつだった。ハッジャージュに忠実ちゅうじつであった人物じんぶつなかにはマー・ワラー・アンナフル征服せいふく活動かつどう従事じゅうじしていたクタイバ・ブン・ムスリムがいたが、ハッジャージュと対立たいりつしていたスライマーンによる解任かいにん警戒けいかいしてこした反乱はんらん失敗しっぱいわり、クタイバは自軍じぐんものによって殺害さつがいされた。また、ハッジャージュの近親きんしんしゃインドシンド地方ちほう征服せいふく指揮しきしていたムハンマド・ブン・アル=カースィム英語えいごばん処刑しょけいされた。西方せいほうではイベリア半島はんとうアル=アンダルス)の征服せいふくしゃイフリーキヤきたアフリカ中部ちゅうぶ)の総督そうとくであったムーサー・ブン・ヌサイル英語えいごばん解任かいにんし、その息子むすこでアル=アンダルス総督そうとくアブドゥルアズィーズ・ブン・ムーサー英語えいごばん殺害さつがいさせた。

スライマーンは前任ぜんにんしゃ拡大かくだい主義しゅぎ政策せいさく維持いじしたが、中央ちゅうおうアジアの辺境へんきょうにおける抵抗ていこうやクタイバの死後しご指導しどうりょく組織そしきりょく低下ていかもあり、領土りょうど拡張かくちょうはほぼ停止ていしした。このような状況じょうきょうなか腹心ふくしんのヤズィード・ブン・アル=ムハッラブをホラーサーン派遣はけんし、ヤズィードは716ねんカスピ海かすぴかい南部なんぶ沿岸えんがん地域ちいき侵攻しんこうしたものの、現地げんちのペルシアじん支配しはいしゃやぶれ、ウマイヤあさへのみつぎおさめ条件じょうけんぐん撤退てったいさせた。さらにビザンツ帝国ていこく首都しゅとであるコンスタンティノープル攻略こうりゃくけて軍隊ぐんたい派遣はけんしたが、717ねんから718ねんにかけてつづいたコンスタンティノープルの包囲ほうい最終さいしゅうてき失敗しっぱいわった。

スライマーンはコンスタンティノープルにたいする包囲ほういつづいていた最中さいちゅうの717ねんダービク死去しきょした。長男ちょうなん後継こうけいしゃであったアイユーブに先立さきだたれていたスライマーンは、間際まぎわ息子むすこ兄弟きょうだいではなく従兄弟いとこのウマル・ブン・アブドゥルアズィーズ(ウマル2せい)を後継こうけいしゃ指名しめいするという異例いれい選択せんたくをした。コンスタンティノープルの征服せいふくへの期待きたいとスライマーンの治世ちせいヒジュラせい遷)の100周年しゅうねんちかづいていたことから、どう時代じだいのアラブの詩人しじんたちはスライマーンをメシアてき視点してんからひょうしている。

初期しょき経歴けいれき背景はいけい[編集へんしゅう]

ウマイヤ王朝おうちょう系図けいず青色あおいろマルワーン1せいとその子孫しそん(マルワーン)のカリフ黄色おうしょくムアーウィヤ1せいぞくしていたスフヤーンのカリフ、緑色みどりいろ正統せいとうカリフウスマーン

スライマーンはおそらく675ねん前後ぜんこうマディーナまれた[1][ちゅう 1]。しかし、中世ちゅうせい史料しりょうにおける誕生たんじょうから最初さいしょの30年間ねんかん経歴けいれきかんする記録きろく詳細しょうさいとぼしい[1]父親ちちおやアブドゥルマリク・ブン・マルワーンクライシュぞくのウマイヤぞくしていた。母親ははおやのワッラーダ・ビント・アル=アッバース・ブン・アル=ジャズはアラブ部族ぶぞくアブスぞく英語えいごばん出身しゅっしんで、6世紀せいき著名ちょめいなアブスぞく族長ぞくちょうであるズハイル・ブン・ジャズィーマ英語えいごばん曾孫そうそんであった[3][4]。スライマーンは一時期いちじき砂漠さばくにおいてアブスぞく近親きんしんしゃによってそだてられていた[5]

スライマーンがまれた当時とうじイスラーム国家こっかはスライマーンの遠縁とおえんにあたるムアーウィヤ1せい統治とうちしており[6]、ムアーウィヤ1せいは661ねんウマイヤあさ成立せいりつさせていた[7]。683ねんと684ねんにムアーウィヤ1せい後継こうけいしゃであるヤズィード1せいムアーウィヤ2せい相次あいついで死去しきょするとウマイヤあさ権威けんいはイスラーム国家こっか全域ぜんいき崩壊ほうかいし、ほとんどの地方ちほうメッカ拠点きょてんとしていたウマイヤ出身しゅっしんではないアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルをカリフとして承認しょうにんした[8][9]。その結果けっかとしてスライマーンをふくむマディーナのウマイヤ人々ひとびとまちから追放ついほうされ、シリア亡命ぼうめいした[1]。そしてシリアにおいてウマイヤあさ支持しじする複数ふくすうのアラブ部族ぶぞくから支援しえんけた[10]。これらのアラブ部族ぶぞくはスライマーンの祖父そふにあたるマルワーン1せいをカリフに選出せんしゅつして部族ぶぞく連合れんごうヤマンぞく英語えいごばん形成けいせいした。そしてアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルを支持しじし、シリア北部ほくぶジャズィーラメソポタミア北部ほくぶ)を支配しはいしていた同様どうよう部族ぶぞく連合れんごうであるカイスぞく英語えいごばん対抗たいこうした[11]。マルワーン1せいは685ねんまでにウマイヤあさによるシリア一帯いったいとエジプトの支配しはい回復かいふくさせた[12]。そのはマルワーン1せいのちいだ父親ちちおやのアブドゥルマリクが692ねんまでにイスラーム国家こっかのこりの地域ちいきさい征服せいふくした[13]

パレスチナ総督そうとく時代じだい[編集へんしゅう]

イスラーム時代じだいはいって以降いこうのシリアの軍事ぐんじジュンド)をしめした地図ちず。スライマーンはジュンド・フィラスティーン英語えいごばんパレスチナ)の総督そうとくつとめた。

正確せいかく時期じき不明ふめいなものの、アブドゥルマリクはスライマーンをジュンド・フィラスティーン英語えいごばんパレスチナ軍事ぐんじ)の総督そうとく任命にんめいした。この地位ちいはアブドゥルマリクが以前いぜんにマルワーン1せいしたつとめていたものだった[1][14]。スライマーンはアブドゥルマリクの叔父おじにあたるヤフヤー・ブン・アル=ハカム英語えいごばん異母いぼ兄弟きょうだいにあたるアバーン・ブン・マルワーンつづくジュンド・フィラスティーンの総督そうとくであった[15]。また、701ねんにはメッカでハッジ関連かんれんする各種かくしゅ儀式ぎしき統率とうそつした[1]。アブドゥルマリクは705ねん死去しきょするまえ長男ちょうなんのアル=ワリード(ワリード1せい在位ざいい:705ねん - 715ねん)を後継こうけいしゃ指名しめいし、さらにスライマーンがアル=ワリードにつづ後継こうけいしゃ指名しめいされた[1]。スライマーンは715ねんまでつづいたワリード1せい治世ちせいあいだとおしてパレスチナの総督そうとくしょくまりつづけた[1][16]。そしておそらくは現地げんち支配しはいしていたヤマンけい部族ぶぞく族長ぞくちょうたちと密接みっせつ関係かんけいきずいた[17]。また、現地げんちのヤマンぞく関係かんけいっていた神学しんがくしゃ以前いぜんにアブドゥルマリクによるエルサレムいわのドーム建設けんせつ指揮しきしていたラジャア・ブン・ハイワ・アル=キンディー英語えいごばんとも強固きょうこ関係かんけいきずいた[17]。ラジャアはスライマーンの家庭かてい教師きょうしとなり、高位こうい補佐ほさかんにもなった[17]

スライマーンはイラクとイスラーム国家こっか東方とうほう地域ちいき総督そうとくつとめていたアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ英語えいごばんのワリード1せいたいする影響えいきょうりょくこころよおもわず[18]、ハッジャージュの反対はんたいとの関係かんけいふかめた[17]。そのハッジャージュは708ねんか709ねんホラーサーン総督そうとくであったムハッラブ英語えいごばんヤズィード・ブン・アル=ムハッラブ英語えいごばん解任かいにんして投獄とうごくしたが、ヤズィードは脱獄だつごくしてパレスチナにかい、スライマーンはヤズィードをその家族かぞくとともにかくまった[1][17]。ヤズィードはスライマーンの庇護ひごるためにパレスチナに多数たすう居住きょじゅうするヤマンけいアズドぞく英語えいごばん人々ひとびととの部族ぶぞくてき人脈じんみゃく活用かつようした[19][20]。ワリード1せいはヤズィードがハッジャージュに反抗はんこうしたことにいかりをせ、これにたいしてスライマーンはハッジャージュがヤズィードにしていた罰金ばっきん支払しはらうともうた。さらにムハッラブ赦免しゃめんねが手紙てがみえて手枷てかせをつけたヤズィードと自分じぶん息子むすこのアイユーブをカリフのしたおくり、最終さいしゅうてきにカリフは赦免しゃめんみとめた[18][21]歴史れきしヒシャーム・ブン・アル=カルビー英語えいごばん(819ねんぼつ)の記録きろくによれば、ヤズィードはスライマーンの側近そっきんとなり、スライマーンはヤズィードに「きわめてたか尊敬そんけいねん」をいていた[22]。さらにヒシャームは、「ヤズィードは… かれ(スライマーン)のいえ滞在たいざいし、なりのととのかたおしえ、素晴すばらしい料理りょうりつくり、すうおおくのおくものをした」としるしている[22]。ヤズィードはハッジャージュが714ねん死去しきょするまでの9かげつあいだスライマーンとともにごし、ハッジャージュにかんするつよ影響えいきょうりょく偏見へんけんをスライマーンにけた[23][24]

ラムラの建設けんせつ[編集へんしゅう]

8世紀せいき初頭しょとうにスライマーンによって建設けんせつされ、11世紀せいきまでパレスチナ首府しゅふであったラムラ。(1895ねんごろ

スライマーンは総督そうとくとしての自身じしん統治とうち拠点きょてんとなるラムラ建設けんせつした[1][25][26]。この都市としはイスラーム教徒きょうとにとって最初さいしょのパレスチナの首府しゅふでありパレスチナにおけるスライマーンの最初さいしょ居所きょしょがあったリュッダわるものだった[1][25][27] 。ラムラはファーティマあさ統治とうち時代じだいの11世紀せいきまでパレスチナの首府しゅふとして存続そんぞくした[28]。また、スライマーンがラムラを建設けんせつした動機どうき個人こじんてき野心やしん現実げんじつてき配慮はいりょ双方そうほうによるものだった[29]なが歴史れきしち、繁栄はんえいしていた都市としであるリュッダは物流ぶつりゅうめんにおいても経済けいざいめんにおいても都合つごう立地りっちであったにもかかわらず、スライマーンはリュッダの完全かんぜん外側そとがわみずからの首府しゅふきずいた[26]

歴史れきしのニムロド・ルスによれば、これはおそらくリュッダにはだい規模きぼ開発かいはつのために利用りようできる敷地しきちがなかったことと、630年代ねんだいイスラーム教徒きょうとによる征服せいふく英語えいごばんころにさかのぼる協定きょうてい存在そんざいによって、すくなくとも形式けいしきじょうはスライマーンが都市としない価値かちのある資産しさん押収おうしゅうすることができなかったためである[29]歴史れきしイブン・ファドルッラーフ・アル=ウマリー英語えいごばん(1349ねんぼつ)によって記録きろくされた伝承でんしょうによれば、つよ影響えいきょうりょくっていた地元じもとキリスト教きりすときょう聖職せいしょくしゃがスライマーンによるリュッダ中心ちゅうしん区画くかく要求ようきゅう拒否きょひした。これに激怒げきどしたスライマーンはこの聖職せいしょくしゃ処刑しょけいしようとしたが、ラジャアが処刑しょけいおもとどまらせ、わりにより条件じょうけん隣接りんせつする土地とちあたらしい都市とし建設けんせつすることを提案ていあんした[30]

現代げんだい歴史れきしモシェ・シャロン英語えいごばんによれば、リュッダは「ウマイヤあさ支配しはいしゃたちの嗜好しこうからすれば、あまりにもキリスト教きりすときょう精神せいしんつよい」場所ばしょであった。また、アブドゥルマリクが国家こっかアラブとイスラームへの改革かいかくして以降いこうとくにそうであったと指摘してきしている[27]。10世紀せいき歴史れきしジャフシヤーリー英語えいごばん(942ねんぼつ)によれば、スライマーンは父親ちちおやのアブドゥルマリクやダマスクスウマイヤ・モスク創建そうけんしゃであるワリード1せいならい、偉大いだい建築けんちくしゃとして恒久こうきゅうてき評価ひょうかたいとかんがえていた[31]一方いっぽうでニムロド・ルスは、ラムラの建設けんせつはスライマーンの「不朽ふきゅう名声めいせいへの手段しゅだん」であり「パレスチナの景観けいかんにおける私的してき刻印こくいん」であったとべている[32]都市とし建設けんせつ場所ばしょ選定せんていするにあたって、スライマーンはすで明白めいはくとなっていた都市とし中心ちゅうしん物理ぶつりてき制約せいやく回避かいひする一方いっぽうで、リュッダの近隣きんりんという戦略せんりゃくじょう利点りてん活用かつようした[33]

スライマーンとその従兄弟いとこ後継こうけいしゃウマル2せいによっててられたラムラのしろモスク英語えいごばん遺跡いせき。(2014ねん

スライマーンがラムラにてた最初さいしょ建造けんぞうぶつはパレスチナの行政府ぎょうせいふディーワーン)の役割やくわりねていた自身じしん宮殿きゅうでんであった[33][34]あたらしい都市とし中心ちゅうしんにはのちラムラのしろモスク英語えいごばんられようになるモスクてられた[35]。このモスクはスライマーンの生前せいぜんには完成かんせいせず、完成かんせいしたのはウマル2せい在位ざいい:717ねん - 720ねん)の治世ちせいになってからであった[36]。ラムラははやくから周辺しゅうへん地域ちいき農産物のうさんぶつ市場いちばとして、また染物そめもの織物おりもの、および陶器とうき生産せいさん中心ちゅうしんとして経済けいざいてき発展はってんした。さらにはおおくのイスラーム法学ほうがくしゃ居住きょじゅうしていた[37]。スライマーンは市内しないにアル=バラダーとばれる導水どうすい建設けんせつし、南東なんとうにおよそ10キロメートルはなれたテル・ゲゼルからラムラへみず供給きょうきゅうしていた[38]

ラムラはパレスチナの商業しょうぎょう中心ちゅうしんとしてリュッダにってわった[34]。リュッダのキリスト教徒きりすときょうとサマリアじん、およびユダヤじん住民じゅうみんおおくはあたらしい都市としうつされた[39]。リュッダがラムラの建設けんせつのほぼ直後ちょくご世間せけんからわすられたことは伝承でんしょうにおける説明せつめいなか一致いっちしているが、スライマーンがリュッダの住民じゅうみんをラムラにうつそうとんださい規模きぼかんする説明せつめいはさまざまであり、リュッダの教会きょうかいこわしただけとするものや、都市とし完全かんぜん破壊はかいしたとするものもある[25]。9世紀せいき歴史れきしヤアクービー(897ねんぼつ)は、スライマーンがリュッダの住民じゅうみんいえ完全かんぜん破壊はかいしてラムラへの移住いじゅう強要きょうようし、抵抗ていこうするもの処罰しょばつしたとべている[40][41]一方いっぽうでジャフシヤーリーは、スライマーンは「ラムラのまちとそのモスクを建設けんせつし、その結果けっかとしてロード(リュッダ)を没落ぼつらくさせた」としるしている[31]

ラムラの南東なんとうへ40キロメートルに位置いちするエルサレムは[42]、パレスチナの宗教しゅうきょう的中てきちゅう心地ごこちでありつづけた[43]。8世紀せいきのアラビア史料しりょうによれば[44]、スライマーンはワリード1せい神殿しんでんおか(アル=ハラム・アッ=シャリーフ)の開発かいはつすすめていたのとおな時期じき公衆こうしゅう浴場よくじょうふくむいくつかの公共こうきょう施設しせつ建設けんせつめいじた[30]。この浴場よくじょういわのドームで礼拝れいはいするイスラーム教徒きょうとからだきよめるために使用しようされた[44]。さらに、スライマーンはシリア著述ちょじゅつしていた13世紀せいき名前なまえしょう年代ねんだい作家さっかによって、エリコにアーチ、製粉せいふんしょ、および公園こうえん建設けんせつしたと記録きろくされているが、これらの建造けんぞうぶつのち洪水こうずい破壊はかいされた[45]。また、ダマスクス近郊きんこうクタイファ英語えいごばんちかくにひろ農場のうじょう保有ほゆうし、この農場のうじょうはスライマーンのをとって「アッ=スライマーニーヤ」とばれた[5]

カリフ時代じだい[編集へんしゅう]

即位そくい[編集へんしゅう]

ワリード1せいはハッジャージュによってすすめられたか、あるいはハッジャージュの支援しえんたことで自分じぶん息子むすこのアブドゥルアズィーズを後継こうけいしゃえようとこころみ、スライマーンをワリード1せい後継こうけいしゃとしたアブドゥルマリクによるめを無効むこうにした[46][47]歴史れきしのウマル・ブン・シャッバ(878ねんぼつ)によれば、ワリード1せいはこの後継こうけいしゃ変更へんこうみとめさせようとスライマーンにたいしてしみなく報奨ほうしょうきんあたえるとちかけたが、スライマーンはこれを拒否きょひした[46]。それでもなおワリード1せいはアブドゥルアズィーズの継承けいしょう承認しょうにんするように地方ちほう総督そうとくたちへはたらきかけたが、ハッジャージュとホラーサーン総督そうとくマー・ワラー・アンナフル征服せいふく活動かつどう従事じゅうじしていたクタイバ・ブン・ムスリムからしか好意こういてき返事へんじられなかった[46]。ワリード1せい相談そうだん相手あいてであったアッバード・ブン・ズィヤード英語えいごばんは、スライマーンをダマスクスのカリフの宮廷きゅうてい召喚しょうかんすることで圧力あつりょくをかけるようにカリフへ助言じょげんしたが、スライマーンが召喚しょうかんたいする回答かいとうしぶっていると、今度こんどシュルタ英語えいごばん精鋭せいえい護衛ごえい部隊ぶたい)を動員どういんしてラムラのスライマーンを攻撃こうげきするように進言しんげんした[46]。しかしながら、ワリード1せいはそのあいだもない715ねん2がつ24にち死去しきょした[1]。スライマーンは自身じしん領地りょうちであるアッ=サブ(バイト・ジブリーン英語えいごばん)でそのらせを[48]抵抗ていこうするものもなくカリフの地位ちい継承けいしょうした[46]

スライマーンはラムラとダマスクスで忠誠ちゅうせいちかいをけたが、スライマーンがダマスクスをおとずれたとする記録きろくはこのとき唯一ゆいいつのものである[5][49]。スライマーンは伝統でんとうてきなウマイヤあさ行政ぎょうせいじょう首都しゅとであるダマスクスにわって(歴史れきしユリウス・ヴェルハウゼンによれば)「非常ひじょうあいされていた」パレスチナから統治とうちつづけた[5][50]歴史れきしのラインハルト・アイゼナーは、「スライマーンがエルサレムを主要しゅよう統治とうち拠点きょてんとしてえらんでいたことは(中世ちゅうせいの)シリアの史料しりょうからもあきらかである」と主張しゅちょうしているが[1]、ヴェルハウゼンと歴史れきしヒュー・ナイジェル・ケネディ英語えいごばんは、スライマーンはラムラにとどまっていたとする見解けんかいしめしている[51]

地方ちほう統治とうち[編集へんしゅう]

750ねん時点じてん地中海ちちゅうかい中東ちゅうとう地域ちいき勢力せいりょくみどりウマイヤあさうすだいだいビザンツ帝国ていこくあおランゴバルド王国おうこく

スライマーンは即位そくい最初さいしょいち年間ねんかんにワリード1せいとハッジャージュが任命にんめいした地方ちほう総督そうとくのほとんどを自分じぶん忠実ちゅうじつ総督そうとく交代こうたいさせた[1][52]。この交代こうたい以前いぜん自分じぶん即位そくい反対はんたいした人々ひとびとたいするいきどおりや疑念ぎねん結果けっかによるものなのか、忠実ちゅうじつ役人やくにん任命にんめいすることによって地方ちほうたいする支配しはいりょく確保かくほするための手段しゅだんであったのか、あるいは強力きょうりょくふるくからその地位ちいにあった総督そうとくたちによる統治とうちわらせるための政策せいさくであったのかは不明ふめいである[1]。アイゼナーはスライマーンの「総督そうとく人選じんせんはヤマンけい派閥はばつかたよっているという印象いんしょうあたえない」と主張しゅちょうしているが[1]一方いっぽうでケネディは、スライマーンの治世ちせい特徴とくちょうはヤマンぞく政治せいじてき復活ふっかつと「カリフのしんヤマンぞく傾向けいこう反映はんえい」にあったと主張しゅちょうしている[17]

スライマーンが即位そくいすぐに決定けっていした事項じこうひとつは腹心ふくしんのヤズィード・ブン・アル=ムハッラブをイラクの総督そうとくえることであった[51]歴史れきしのムハンマド・アブドゥルハイイ・シャアバーンによれば、スライマーンはヤズィードを「自分じぶんにとってのハッジャージュ」とみなしていた[53]。ヤズィードは徹底てっていしてヤマンぞく優遇ゆうぐうする行動こうどうせたが、ヴェルハウゼンはスライマーンにかんしては一方いっぽう派閥はばつをもう一方いっぽう派閥はばつよりも優遇ゆうぐうしていた形跡けいせきはないとべている[54]。しかしその一方いっぽうで、スライマーンはパレスチナの総督そうとくであったころから、ハッジャージュの統治とうちがイラクの人々ひとびとあいだでウマイヤあさたいする忠誠ちゅうせいしんそだてるのではなく、むしろ憎悪ぞうおんでいるとヤズィードに「くるめられていた」可能かのうせいがあると指摘してきしている[55]。このような事情じじょうから、スライマーンはハッジャージュに任命にんめいされたものたちやハッジャージュの同盟どうめいしゃたちを更迭こうてつしたが、ヴェルハウゼンによれば、この更迭こうてつはこれらのものたちがカイスぞくぞくしていたからではなく、ハッジャージュとの個人こじんてきつながりをっていたためである[55]実際じっさいにスライマーンはジャズィーラのカイスぞく軍隊ぐんたいとは密接みっせつ関係かんけい維持いじしていた[56]

ハッジャージュの後見こうけんけていた人物じんぶつであり、スライマーンとは対立たいりつ関係かんけいにあったクタイバ・ブン・ムスリムは、カリフによってその地位ちい追認ついにんされていたが、自分じぶん解任かいにん留保りゅうほされている状況じょうきょう警戒けいかいしんいだつづけていた[57]。スライマーンが即位そくいしたころにクタイバはマー・ワラー・アンナフルのシルダリヤかわ流域りゅういきへの遠征えんせいのために軍隊ぐんたいひきいていた。そしてフェルガナとどまっているあいだにスライマーンにたいする反乱はんらん宣言せんげんしたが、遠方えんぽうへのない軍事ぐんじ活動かつどうによって疲弊ひへいしていた部隊ぶたいのほとんどがクタイバに反旗はんきひるがえした[57]結局けっきょく、クタイバは715ねん8がつにワキー・ブン・アビー・スード・アッ=タミーミーがひきいるぐんない一派いっぱによって殺害さつがいされた[1]。ワキーはみずからをホラーサーン総督そうとくであると宣言せんげんし、スライマーンも追認ついにんしたものの、ワキーの権限けんげんかんしては軍事ぐんじ限定げんていさせた[57]。スライマーンはワキーの指名しめいがワキーみずからの主導しゅどうというよりもホラーサーンぐん内部ないぶ部族ぶぞくかく派閥はばつによる推挙すいきょであったことが地域ちいきない不安定ふあんていつながるのではないかと懸念けねんしていた[58]。その一方いっぽうでハッジャージュの近親きんしんしゃでありシンド征服せいふく指揮しきかんであったムハンマド・ブン・アル=カースィム英語えいごばんは、スライマーンに反抗はんこうしなかったにもかかわらず解任かいにんされ、ワースィト召喚しょうかんされたのち拷問ごうもんによって死亡しぼうした[59]

ヒジュラれき97ねん西暦せいれき715/6ねん)にインドシンド地方ちほうおそらくムルターン)で鋳造ちゅうぞうされたウマイヤあさディルハム銀貨ぎんか表面ひょうめん円形えんけい銘文めいぶんは「アッラー御名ぎょめいにおいて、7と90ねんアル=ヒンド英語えいごばんIndia in Abd al-Malik al-Hind coin 715 CE)にてこのディルハムを鋳造ちゅうぞうした」とれる。

ワキーによる暫定ざんていてき統治とうちは9かげつあいだつづ[20]、716ねん中頃なかごろにその統治とうちえた[57]。ヤズィードはスライマーンにたいしワキーが行政ぎょうせいめんでの資質ししつける厄介やっかいベドウィン(アラブの遊牧民ゆうぼくみん)であるといていた[20]。ホラーサーンはウマイヤあさほか東部とうぶ地域ちいきとともにヤズィードがにんじられていたイラク総督そうとく管轄かんかつかれた[1]。そしてスライマーンはヤズィードにイラクの軍営ぐんえい都市としであるクーファバスラ、およびワースィトにふく総督そうとくのこしてホラーサーンへ転任てんにんするようにめいじ、イラクの財政ざいせい同地どうちでのなが経験けいけん自身じしんマウラー複数ふくすうがたではマワーリー、アラブけい解放かいほう奴隷どれいまたは庇護ひごみん)のサーリフ・ブン・アブドゥッラフマーン英語えいごばんゆだねた[60]

715ねんから716ねんあいだにスライマーンはハッジャージュによる後見こうけんした任命にんめいされていたメッカ総督そうとくハーリド・ブン・アブドゥッラー・アル=カスリー英語えいごばんとマディーナ総督そうとくウスマーン・ブン・ハイヤーン・アル=ムッリー英語えいごばん解任かいにんした[59]。アル=カスリーの後任こうにんにはウマイヤ人物じんぶつ一人ひとりであるアブドゥルアズィーズ・ブン・アブドゥッラーが任命にんめいされた[1]解任かいにんされたアル=カスリーはのちにヤマンぞく擁護ようご人物じんぶつであるとみなされるようになった[55]

スライマーンは西方せいほうたいしてはヤマンぞくけいイフリーキヤ総督そうとくヒスパニアアル=アンダルス)を征服せいふく英語えいごばんしたムーサー・ブン・ヌサイル英語えいごばんとその息子むすこでアル=アンダルス総督そうとくアブドゥルアズィーズ英語えいごばん解任かいにんした[1][55][61]。ムーサーはスライマーンの即位そくい同時どうじにカリフによって投獄とうごくされ、アブドゥルアズィーズは716ねん3がつにカリフの命令めいれい暗殺あんさつされた。この暗殺あんさつ命令めいれいはアブドゥルアズィーズの筆頭ひっとう副官ふっかんであったハビーブ・ブン・アビー・ウバイダ・アル=フィフリー英語えいごばんふくむアル=アンダルスの有力ゆうりょくなアラブぐん司令しれいかんたちのによって実行じっこうされた[62][ちゅう 2]歴史れきしタバリー(923ねんぼつ)は、ハビーブがアブドゥルアズィーズのくびをカリフにとどけたとしている[64]。スライマーンはムーサーにわってクライシュぞくのマウラーを後任こうにんえ、あたらしい総督そうとくはカリフの命令めいれいしたでイフリーキヤのムーサーの家族かぞく財産ざいさん没収ぼっしゅうし、さらには拷問ごうもんけて家族かぞく殺害さつがいした[65]。ムーサーはその経歴けいれきなか資金しきん横領おうりょうした過去かこがあり、スライマーンは投獄とうごくちゅうにムーサーから相当そうとうがく金銭きんせんうばった[66]

軍事ぐんじ活動かつどう[編集へんしゅう]

ウマイヤあさ北部ほくぶ地域ちいき地図ちず中央ちゅうおう薄茶うすちゃしょくられた地域ちいきはスライマーンの治世ちせいちゅうカスピ海かすぴかい南部なんぶ沿岸えんがん沿ってタバリスターンジュルジャーン勢力せいりょく拡大かくだいしたことをしめしている。そののライムグリーン、ピンク、むらさき黄色おうしょく、およびオレンジにられた地域ちいきはスライマーンの前任ぜんにんしゃたちによって征服せいふくされた地域ちいきしめしている。

スライマーンは地方ちほう総督そうとくだい部分ぶぶん交代こうたいさせたが、前任ぜんにんしゃによる軍事ぐんじ優先ゆうせんてき政策せいさく維持いじした[1]。それにもかかわらず、ワリード1せいしたすすんでいたウマイヤあさ領土りょうど拡大かくだいはスライマーンの比較的ひかくてきみじか治世ちせいあいだ事実じじつじょう停止ていしした[1]

マー・ワラー・アンナフル[編集へんしゅう]

東方とうほう前線ぜんせんであるマー・ワラー・アンナフルではクタイバの死後しご四半世紀しはんせいきにわたってさらなる征服せいふく達成たっせいされることはなく、そのあいだにアラブじんはこの地域ちいき領土りょうどうしなはじめた[67]。スライマーンはホラーサーンぐんたいしフェルガナからメルヴ撤退てったいするようにめいじ、そのぐん解散かいさんさせた[57]。また、ワキーのしたでは軍事ぐんじ活動かつどうおこなわれなかった。ヤズィードの息子むすこでマー・ワラー・アンナフルにおけるヤズィードの代官だいかんであったムハッラドによる遠征えんせいは、ソグドじん集落しゅうらくたいする夏季かき襲撃しゅうげき限定げんていされていた[67]歴史れきしハミルトン・ギブは、マー・ワラー・アンナフルにおけるアラブぐん後退こうたいをクタイバのともな指導しどうりょく組織そしきりょく低下ていか起因きいんするとしている[67]一方いっぽうでアイゼナーは、ある程度ていどまでは辺境へんきょう地帯ちたい沿ってより効果こうかてき抵抗ていこう遭遇そうぐうしたことが原因げんいんであるとしている[1]。また、このような征服せいふく活動かつどう停滞ていたいは、スライマーンのしたで「拡大かくだい征服せいふくいきおいがよわまった」ことをしめすものではなかったとべている[1]

ジュルジャーンとタバリスターン[編集へんしゅう]

ヤズィードは716ねんカスピ海かすぴかい南岸なんがん位置いちするジュルジャーン(ゴルガーン)とタバリスターンしょ勢力せいりょくたいする征服せいふくこころみた。これらの地域ちいきはペルシアの地方ちほう王朝おうちょうによって統治とうちされていたが、アルボルズ山脈さんみゃくまもられていたために度重たびかさなる征服せいふくこころみにもかかわらずだい部分ぶぶん地域ちいきはイスラーム教徒きょうとによる支配しはいのがれて独立どくりつ維持いじしていた[68]遠征えんせいは4かげつにわたってつづき、クーファ、バスラ、レイ、メルヴ、そしてシリアに駐留ちゅうりゅうする守備しゅびたいから構成こうせいされた100,000にん規模きぼ軍隊ぐんたい投入とうにゅうされた[1][69]。ウマイヤあさ精鋭せいえいぐん構成こうせいするシリアの部隊ぶたいがホラーサーンへ派遣はけんされたのはこれがはじめてのことであった[70][71]。ヤズィードはアトラクがわ英語えいごばんきたでコル・テュルク(Chöl Turks)とばれる集団しゅうだんやぶり、そこに都市とし現代げんだいゴンバデ・カーブース英語えいごばん)を建設けんせつしてジュルジャーンの支配しはい確保かくほした[72]。ある手紙てがみなかでヤズィードは、スライマーンにわって「かみがこの征服せいふくおこなう」まで以前いぜんのカリフたちからのがれてきたこのふたつの地域ちいき征服せいふくいわった[73]。しかし、ヤズィードの当初とうしょ成功せいこうおなねん後半こうはんこったタバリスターンの支配しはいしゃであるだいファッルハーン英語えいごばん近隣きんりんダイラムギーラーンおよびジュルジャーンの連合れんごうぐん抵抗ていこうによってくつがえされた。その、ヤズィードはだいファッルハーンとみつぎおさめめをむすぶこととえにこの地域ちいきからイスラーム教徒きょうと軍隊ぐんたい撤退てったいさせた[74]。タバリスターンはウマイヤあさ支配しはい継承けいしょうしたアッバースあさによって760ねん征服せいふくされるまでアラブじんによる支配しはいから独立どくりつしていたが[75][76]、その現地げんち世襲せしゅう君主くんしゅ支配しはいする反抗はんこうてき地域ちいきでありつづけた[77]

コンスタンティノープルの包囲ほうい[編集へんしゅう]

740ねんごろビザンツ帝国ていこくアナトリアトラキア領土りょうどしめした地図ちず

スライマーンがもっと重要じゅうようしていた軍事ぐんじめんにおける焦点しょうてんは、ビザンツ帝国ていこくひがしマ帝国まていこく)との長期ちょうきにわたってつづ戦争せんそうであった。ビザンツ帝国ていこくはウマイヤあさ政権せいけん中心ちゅうしんであるシリアに隣接りんせつし、敵対てきたいする勢力せいりょくなかでは最大さいだいかつ最強さいきょうでありもっとおおくのとみかかえていた[51][78]。ムアーウィヤ1せい治世ちせいおこなわれたビザンツ帝国ていこく首都しゅとであるコンスタンティノープルたいする最初さいしょ攻撃こうげき失敗しっぱいわっていた[79][ちゅう 3]。それでもなおウマイヤあさは692ねん以降いこう攻勢こうせいてんじ、アルメニアコーカサス地方ちほう諸侯しょこうたいする支配しはいけん確保かくほするとともにビザンツ帝国ていこく国境こっきょう地帯ちたい徐々じょじょ侵食しんしょくしていった。ウマイヤあさ将軍しょうぐん大抵たいていにおいてウマイヤ一族いちぞくものであり、これらの将軍しょうぐんたちは毎年まいとしのようにビザンツ帝国ていこく領内りょうない襲撃しゅうげきし、まち要塞ようさい占領せんりょうしていった[81][82]。ビザンツ帝国ていこくではユスティニアノス2せい在位ざいい:685ねん - 695ねん、705ねん - 711ねん)の最初さいしょ廃位はいいはじまり、レオン3せい在位ざいい:717ねん - 741ねん)の即位そくいいたるまで暴力ぼうりょくてきなクーデターによって帝位ていいが7かいわるという長期ちょうきにわたる政情せいじょう不安ふあんつづき、このような状況じょうきょうもアラブがわすることになった[81][83][84]。712ねんまでにアラブがわ襲撃しゅうげきアナトリアしょうアジア)の深部しんぶまでおよぶようになり、ビザンツ帝国ていこく防衛ぼうえい体制たいせい崩壊ほうかいきざしをはじめた[85][86]

コンスタンティノス・マナッセス英語えいごばん年代ねんだいしるされたコンスタンティノープルの包囲ほういかんする描写びょうしゃ説明せつめい(14世紀せいき

ワリード1せい死後しご、スライマーンはコンスタンティノープルの攻略こうりゃくけた計画けいかくをより強力きょうりょくすすめた[87]。716ねんすえにメッカへの巡礼じゅんれいからもどったスライマーンはシリア北部ほくぶダービクじんかまえて軍隊ぐんたい動員どういんし、ビザンツ帝国ていこくとのだい規模きぼ戦争せんそうけた準備じゅんび監督かんとくした[1]。しかしながら、かなり健康けんこうがいしていたスライマーンはこの軍事ぐんじ作戦さくせんみずかひきいることができなかった[88]。このため、わりに異母いぼ兄弟きょうだいマスラマ・ブン・アブドゥルマリク英語えいごばん陸上りくじょうから都市とし包囲ほういさせるために派遣はけんし、同時どうじにビザンツ帝国ていこく首都しゅと征服せいふくするかカリフがもどすまで軍事ぐんじ作戦さくせん続行ぞっこうするようにめいじた[89]。その一方いっぽうで、すでに716ねん初頭しょとうにはアラブじんぐん司令しれいかんであるウマル・ブン・フバイラ・アル=ファザーリー英語えいごばんがコンスタンティノープルにたいする同様どうよう海軍かいぐんによる軍事ぐんじ行動こうどう開始かいししていた[1]おおくの部隊ぶたいがビザンツ帝国ていこく首都しゅとけて派遣はけんされているなか、スライマーンは717ねん息子むすこのダーウードをビザンツ帝国ていこく国境こっきょう地帯ちたいたいする夏季かき軍事ぐんじ作戦さくせん司令しれいかん任命にんめいした[90]。ダーウードはこの軍事ぐんじ作戦さくせんにおいてマラティヤちかいヒスン・アル=マルア(「女性じょせい要塞ようさい」を意味いみする)を占領せんりょうした[91]

スライマーンの努力どりょく最終さいしゅうてき失敗しっぱいわった[1]。マスラマがコンスタンティノープルにたいする包囲ほういつづけるなか、ビザンツぐんは717ねんなつにコンスタンティノープルでウマイヤあさ艦隊かんたい撃退げきたいした[92]。718ねんなつ包囲ほういぐん支援しえんするために派遣はけんされたあらたなウマイヤあさ艦隊かんたいもビザンツぐんによって破壊はかいされ、一方いっぽう陸上りくじょうのウマイヤあさ救援きゅうえん部隊ぶたいもアナトリアでやぶられて敗走はいそうした[93]包囲ほうい失敗しっぱいしたマスラマの軍隊ぐんたいは718ねん8がつにコンスタンティノープルから撤退てったいした[94]。この軍事ぐんじ作戦さくせん期間きかんちゅうこうむった多大ただい損失そんしつ影響えいきょうによって、ウマイヤあさ軍隊ぐんたい占領せんりょうしたビザンツ帝国ていこく辺境へんきょう地帯ちたいからも部分ぶぶんてき撤退てったいしたが[95][96]、720ねんにははやくもビザンツ帝国ていこくたいするウマイヤあさ襲撃しゅうげき再開さいかいされた。しかしながらコンスタンティノープルの征服せいふくという目標もくひょう事実じじつじょう放棄ほうきされ、ふたつの帝国ていこく境界きょうかいトロス山脈さんみゃくアンティトロス山脈さんみゃく英語えいごばん沿ったせん固定こていされた。そしてつづすう世紀せいきあいだ境界きょうかいせんえた定期ていきてき襲撃しゅうげき反撃はんげきかえされた[97][98]

後継こうけいしゃ[編集へんしゅう]

スライマーンは717ねん9がつにダービクで死去しきょ[1]、その埋葬まいそうされた[99]死去しきょした日付ひづけについて、11世紀せいきキリスト教徒きりすときょうと年代ねんだい作家さっかであるニシビスのエリヤ英語えいごばんは9月20にちか21にちとしているが、8世紀せいきのイスラーム教徒きょうと歴史れきしであるアブー・ミフナフ英語えいごばんは9月23にちか24にちとしている[50]。スライマーンは金曜きんよう礼拝れいはいからもどったのちやまいかかり、その数日すうじつくなった[100]

スライマーンは兄弟きょうだい後継こうけいしゃとなる可能かのうせいがあったマルワーン・アル=アクバル英語えいごばん死去しきょしたのち、715ねんか716ねん自分じぶん長男ちょうなんのアイユーブを後継こうけいしゃ指名しめいしていた[101]。この指名しめいどう時代じだい詩人しじんであるジャリール英語えいごばんの頌歌によって部分ぶぶんてき裏付うらづけられている。

イマーム(スライマーン)のつぎにその才能さいのうのぞまれるイマームは、えらばれし後継こうけいしゃのアイユーブ(ヨブのアラビアめい)である…… あなた(アイユーブ)は慈悲じひふかもの(スライマーン)をものであり、詩篇しへん朗唱ろうしょうする人々ひとびとみとめるものりつほうにそのきざまれたものである。[101]

しかしながら、アイユーブはシリアとイラクをおそっていたターウーン・アル=アシュラーフ(「高貴こうきもの疫病えきびょう」の)にたお[102]、717ねん初頭しょとう死去しきょした[103]。スライマーンのおな疫病えきびょう原因げんいんであった可能かのうせいがある[104]ゆかでスライマーンはべつ息子むすこであるダーウードの指名しめいかんがえたが、ラジャアはダーウードがコンスタンティノープルでのたたかいで不在ふざいであり、きているかどうかもわからないと主張しゅちょうしてダーウードを指名しめいしないように忠告ちゅうこくした[100]。そしてラジャアが「尊敬そんけいあたいする優秀ゆうしゅう人物じんぶつであり、誠実せいじつなイスラーム教徒きょうと」とひょうするスライマーンの父方ちちかた従兄弟いとこ助言じょげんしゃでもあったウマル・ブン・アブドゥルアズィーズ(のウマル2せい)をえらぶようにすすめた[100]。そしてウマルとスライマーンの兄弟きょうだいあいだこる可能かのうせいのある王家おうけないあらそいをけるため、ヤズィード・ブン・アブドゥルマリク(ヤズィード2せい在位ざいい:720ねん - 724ねん)がウマルの後継こうけいしゃ指名しめいされた[100]自分じぶん兄弟きょうだいよりも従兄弟いとこ優先ゆうせんしたスライマーンによるウマルの指名しめいは、カリフの地位ちいはアブドゥルマリクの家系かけいかぎられるとするウマイヤ内部ないぶかんがえられていた一般いっぱんてき想定そうていはんするものだった[105]。ラジャアはスライマーンの意志いし実行じっこうしゃとしてえらばれ、存在そんざい無視むしされたカリフの兄弟きょうだいによる抗議こうぎたい武力ぶりょくおどすことでウマルへの忠誠ちゅうせい確保かくほした[106]。アイゼナーによれば、ラジャアのスライマーンとの個人こじんてき関係かんけいは、伝承でんしょうもとづく指名しめいについてのイスラーム教徒きょうと記録きろくにおいて、ラジャアの後継こうけいしゃ手配てはいにおける役割やくわりを「おそらくは…大袈裟おおげさな」ものにした[103]一方いっぽうでシャアバーンによれば、スライマーンがウマルを指名しめいした理由りゆうは、ウマルが「スライマーンの政策せいさくもっと好意こういてきな」候補者こうほしゃであったためである[105]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

ヒジュラれき97ねん西暦せいれき715/6ねん)におそらくダマスクス鋳造ちゅうぞうされたスライマーンのディナール金貨きんか

アイゼナーは、その治世ちせい短期間たんきかんであったことから、「スライマーンの治世ちせい適切てきせつ描写びょうしゃする」ことが困難こんなんであると指摘してきしている[1]一方いっぽうでシャアバーンは、スライマーンのみじか統治とうちが「複数ふくすう解釈かいしゃく可能かのう」にし、そのことが「歴史れきしにとってスライマーンが非常ひじょう不明瞭ふめいりょう人物じんぶつ」になっている理由りゆうであるとべている[105]。また、中世ちゅうせい史料しりょうがスライマーンの後継こうけいしゃであるウマル2せい治世ちせいを「圧倒的あっとうてき重視じゅうししている」ため、「スライマーンの治世ちせい重要じゅうようせい認識にんしきされてこなかったようにおもえる」と指摘してきしている[107]。シャアバーンとケネディは、スライマーンがヤマンぞく派閥はばつ擁護ようごしてカイスぞく対抗たいこうしたことを強調きょうちょうしているが[105]一方いっぽうでアイゼナーは、スライマーンによる地方ちほう総督そうとく軍事ぐんじ関係かんけいしゃ任命にんめいは、所属しょぞくする派閥はばつとは関係かんけいなく自分じぶん忠実ちゅうじつもの権力けんりょくえることによって、国家こっか隅々すみずみまで支配しはい強化きょうかしようとする動機どうきもとづいていたとする見解けんかいしめしている[1]。また、アイゼナーとシャアバーンは、スライマーンがアブドゥルマリクとワリード1せい拡大かくだい主義しゅぎてき政策せいさく全般ぜんぱんてき維持いじしていたとべている[1][105]

シャアバーンはスライマーンがぐん階層かいそう組織そしきへのマワーリーの統合とうごう一層いっそうすすめようとしたことを強調きょうちょうしている[105]一方いっぽう歴史れきしパトリシア・クローン英語えいごばんは、このようなマワーリーの統合とうごうかんするあらゆる政策せいさく転換てんかんをスライマーンが監督かんとくしていたとする見方みかた否定ひていしている[108]。いくつかのイスラームの伝承でんしょうもとづく史料しりょうでは、700ねんから701ねんにかけてこったイブン・アル=アシュアスによるはんウマイヤあさ反乱はんらん支持しじしていた都市としのマワーリー(いいかえればジズヤイスラーム教徒きょうとせられる人頭じんとうぜい)を回避かいひするためにイスラームに改宗かいしゅうしてバスラへ移住いじゅうしたイラクの小作農こさくのう)のバスラへの帰還きかんみとめることによって、スライマーンがアラブけいのイスラームへの改宗かいしゅうしゃたいするハッジャージュの政策せいさく無効むこうにしたとされている。しかしクローンは、逃亡とうぼうした小作農こさくのう改宗かいしゅうしゃたいするスライマーンの政策せいさくについての伝統でんとうてき説明せつめいを「証拠しょうこあたいしない」として退しりぞけている[109]

スライマーンとどう時代じだい詩人しじんであるファラズダク英語えいごばんとジャリールによるパネジリック英語えいごばん称賛しょうさん)において、スライマーンは抑圧よくあつ時代じだい正義せいぎ回復かいふくするためにつかわされたマフディー(「まさしくみちびかれたもの」を意味いみする)であるとしてメシアてき文脈ぶんみゃくなか評価ひょうかされている[103][110]。ファラズダクはスライマーンがあらゆる不平ふへい対処たいしょすることを称賛しょうさんし、スライマーンを「司祭しさいラビによって予言よげんされたもの」として歓迎かんげいした[110]。スライマーンにたいするメシアてき見解けんかいにはヒジュラせい遷)の100周年しゅうねんちかづいていたことと、スライマーンの治世ちせいにおけるコンスタンティノープルの征服せいふくというイスラーム教徒きょうと期待きたいむすびついていた可能かのうせいがある[103]。いくつかのハディース預言よげんしゃムハンマドにする言説げんせつ伝承でんしょう)は、コンスタンティノープルの征服せいふくをマフディーとむすびつけ、スライマーンがその征服せいふくこころみる役割やくわりになうとしるしている[111]。クローンによれば、スライマーンは「賢明けんめいにも」ヒジュラの100周年しゅうねん自分じぶんたちの共同きょうどうたいか、あるいは世界せかい破壊はかいされるというイスラーム教徒きょうとあいだひろまっていたかんがえに公然こうぜん言及げんきゅうすることはなかった[111]

スライマーンは放縦ほうしょう生活せいかつおくっていたことでられ、伝統でんとうてき史料しりょうにおいて大食漢たいしょくかんであり性的せいてき見境みさかいのない人物じんぶつであったとつたえられている[112]。ヤアクービーはスライマーンを「大食たいしょくであり… ひときつけ、雄弁ゆうべんであり… たかく、色白いろじろで、空腹くうふくえることのできないからだをしていた」と説明せつめいしている[113]。また、アラビアによる弁論べんろんじゅつ非常ひじょうけていた[103]。スライマーンはその生活せいかつ習慣しゅうかんにもかかわらず敬虔けいけん人々ひとびと政治せいじてき共感きょうかんけていたが、このことはとりわけラジャアの助言じょげん敬意けいいはらっていたことからもうかがわれる[114]。さらに、スライマーンはイラクにおけるハッジャージュの宗教しゅうきょうめんでの敵対てきたいしゃとも関係かんけいふかめ、アリー英語えいごばん(イスラームの預言よげんしゃムハンマドのむすめ婿むこであるアリー・ブン・アビー・ターリブとその子孫しそん)にたい財政ざいせいめんしみない振舞ふるまいをせた。また、初期しょきのウマイヤ一員いちいんであり一族いちぞく後援こうえんしゃでもあった正統せいとうカリフウスマーン在位ざいい:644ねん - 656ねん)が落命らくめいした反乱はんらん関与かんよしていたもの一族いちぞくにいたにもかかわらず、マディーナの総督そうとくにその一族いちぞく出身しゅっしん都市とし信徒しんと集団しゅうだん一員いちいんであったアブー・バクル・ブン・ムハンマド・アル=アンサーリー英語えいごばん任命にんめいした[115]どう時代じだいのこされたとは対照たいしょうてきに、イスラームの伝承でんしょうにおいてスライマーンは一般いっぱん非情ひじょう不公平ふこうへい人物じんぶつとみなされ、敬虔けいけん人々ひとびとたいするスライマーンの態度たいど自身じしん不道徳ふどうとく行為こういたいする罪悪ざいあくかんからくるものとされている[103]

家族かぞく[編集へんしゅう]

スライマーンには複数ふくすうつまがいたが、そのなか一人ひとりでマルワーン1せいちちアル=ハカム・ブン・アビー・アル=アース英語えいごばん孫娘まごむすめにあたるウンム・アバーン・ビント・アバーンは息子むすこのアイユーブをんだ[116][101]。そののウマイヤ出身しゅっしんつまはカリフのヤズィード1せい孫娘まごむすめであり、のちにカリフの地位ちい僭称せんしょうしたアブー・ムハンマド・アッ=スフヤーニー英語えいごばんあねいもうとであるウンム・ヤズィードであった[117]。また、スライマーンはイスラームの預言よげんしゃムハンマドきょうともサハーバ)で初期しょきのイスラーム教徒きょうと指導しどうしゃであったタルハ・ブン・ウバイドゥッラー英語えいごばん孫娘まごむすめのスウダ・ビント・ヤフヤーと結婚けっこんしていた[118]。もう一人ひとりつまのアーイシャ・ビント・アスマー・ビント・アブドゥッラフマーン・ブン・アル=ハーリスは著名ちょめいなクライシュぞく氏族しぞくであるマフズーム英語えいごばん出身しゅっしんであり、スライマーンとのあいだにん息子むすこもうけた[119]。スライマーンのウンム・ワラド英語えいごばん主人しゅじん子供こどもんだじょ奴隷どれい)からは息子むすこのダーウードがまれた[101]

スライマーンには14にん息子むすこがいた[101]。9世紀せいき歴史れきしアブー・ハニーファ・アッ=ディーナワリーによれば、父親ちちおや死去しきょした時点じてんで12さいとなっていたムハンマドが存命ぞんめいちゅう息子むすこなかでは最年長さいねんちょうであった[120][ちゅう 4]。スライマーンの息子むすこたちはパレスチナにまり、パレスチナのヤマンぞく有力ゆうりょくしゃとの緊密きんみつ関係かんけい維持いじした[122][123]。また、これらのアラブ部族ぶぞくはパレスチナの守備しゅびたい構成こうせいし、スライマーンの一族いちぞくかた結束けっそくしめしていた。そして744ねんには部族ぶぞくひきいる立場たちばにあったスライマーンの息子むすこのヤズィードをカリフにえようとしたが、このこころみは失敗しっぱいわった[122]べつのスライマーンの息子むすこであるアブドゥルワーヒド英語えいごばんは、カリフのマルワーン2せい在位ざいい:744ねん - 750ねん)のしたで747ねんにメッカとマディーナの総督そうとくつとめた[124]。スライマーンがパレスチナにのこした資産しさんアッバース革命かくめいによって750ねんにウマイヤあさ崩壊ほうかいするまでスライマーンの一族いちぞく保有ほゆうしていた[122]。ダーウードとアブドゥルワーヒドの系統けいとう子孫しそん一部いちぶはイベリア半島はんとう成立せいりつしたこうウマイヤあさ(756ねん - 1031ねん)のんでいたことが複数ふくすう史料しりょう記録きろくされている[125]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ スライマーンが死去しきょした時点じてん年齢ねんれいヒジュラれき基準きじゅんで39さい、43さい、または45さい記録きろくされており、史料しりょうによって矛盾むじゅんられる[2]
  2. ^ 歴史れきしフィリップ・K・ヒッティ英語えいごばんは、最後さいご西にしゴートおうロデリック未亡人みぼうじんのエギロナと結婚けっこんしていたアブドゥルアズィーズにはキリスト教きりすときょう改宗かいしゅうしたといううわさがあり、このうわさへの対処たいしょとアブドゥルアズィーズの自立じりつへのおそれからスライマーンが殺害さつがいめいじたと説明せつめいしている[63]
  3. ^ 現代げんだい歴史れきしハーリド・ヤフヤー・ブランキンシップ英語えいごばんは、ムアーウィヤ1せいしたでのコンスタンティノープルにたいする攻撃こうげき包囲ほういせんとする従来じゅうらい見方みかたを「おおきな誇張こちょう」であるとし、スライマーンとウマル2せいしたで717ねんから718ねんにかけておこなわれたコンスタンティノープルにたいする包囲ほういがアラブじんによって「それまでに実行じっこううつされた唯一ゆいいつのそのたね軍事ぐんじ作戦さくせん」であると指摘してきしている[80]
  4. ^ 一方いっぽうで9世紀せいき歴史れきしヤアクービーは、スライマーンの息子むすこのアイユーブとダーウードにかんする言及げんきゅうほか、スライマーンがヤズィード、アル=カースィム、サイード、ウスマーン、アブドゥッラーもしくはウバイドゥッラー、アブドゥルワーヒド、アル=ハーリス、アムル、ウマル、そしてアブドゥッラフマーンの10にん息子むすこのこして死去しきょしたとべている[121]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae Eisener 1997, p. 821.
  2. ^ Bosworth 1982, p. 45.
  3. ^ Hinds 1990, p. 118.
  4. ^ Fück 1965, p. 1023.
  5. ^ a b c d Bosworth 1982, p. 90.
  6. ^ Kennedy 2002, p. 127.
  7. ^ Hinds 1993, p. 265.
  8. ^ Kennedy 2004, pp. 90–91.
  9. ^ Hawting 2000, p. 48.
  10. ^ Kennedy 2004, p. 91.
  11. ^ Kennedy 2004, pp. 91–93.
  12. ^ Kennedy 2004, pp. 92–93.
  13. ^ Kennedy 2004, pp. 92, 98.
  14. ^ Crone 1980, p. 125.
  15. ^ Crone 1980, pp. 124–125.
  16. ^ Crone 1980, p. 126.
  17. ^ a b c d e f Kennedy 2004, p. 105.
  18. ^ a b Wellhausen 1927, p. 257.
  19. ^ Crone 1994, p. 26.
  20. ^ a b c Bosworth 1968, p. 66.
  21. ^ Hinds 1990, pp. 160–162.
  22. ^ a b Hinds 1990, p. 162.
  23. ^ Wellhausen 1927, pp. 257–258.
  24. ^ Hinds 1990, p. 163, note 540.
  25. ^ a b c Bacharach 1996, p. 35.
  26. ^ a b Luz 1997, p. 52.
  27. ^ a b Sharon 1986, p. 799.
  28. ^ Taxel 2013, p. 161.
  29. ^ a b Luz 1997, pp. 52–53.
  30. ^ a b Luz 1997, p. 48.
  31. ^ a b Luz 1997, p. 47.
  32. ^ Luz 1997, pp. 53–54.
  33. ^ a b Luz 1997, p. 53.
  34. ^ a b Luz 1997, p. 43.
  35. ^ Luz 1997, pp. 37–38, 41.
  36. ^ Bacharach 1996, pp. 27, 35–36.
  37. ^ Luz 1997, pp. 43–45.
  38. ^ Luz 1997, pp. 38–39.
  39. ^ Luz 1997, p. 42.
  40. ^ Gordon et al. 2018, p. 1005.
  41. ^ Sharon 1986, p. 800.
  42. ^ Gordon et al. 2018, p. 1004, note 2278.
  43. ^ Luz 1997, p. 49.
  44. ^ a b Elad 1999, p. 28.
  45. ^ Bacharach 1996, p. 36.
  46. ^ a b c d e Hinds 1990, pp. 222–223.
  47. ^ Shaban 1970, p. 74.
  48. ^ Lecker 1989, pp. 33, 35.
  49. ^ Powers 1989, p. 3.
  50. ^ a b Wellhausen 1927, p. 263.
  51. ^ a b c Kennedy 2004, pp. 105–106.
  52. ^ Powers 1989, pp. 28–29.
  53. ^ Shaban 1970, p. 78.
  54. ^ Wellhausen 1927, pp. 259–261.
  55. ^ a b c d Wellhausen 1927, p. 260.
  56. ^ Wellhausen 1927, p. 261.
  57. ^ a b c d e Shaban 1970, p. 75.
  58. ^ Shaban 1970, pp. 78–79.
  59. ^ a b Wellhausen 1927, p. 258.
  60. ^ Shaban 1971, p. 128.
  61. ^ Powers 1989, pp. 28–30.
  62. ^ James 2009, p. 53.
  63. ^ Hitti 1956, p. 503.
  64. ^ Powers 1989, p. 30.
  65. ^ Crone 1994, pp. 18, 21, note 97.
  66. ^ Crone 1994, p. 21, note 97.
  67. ^ a b c Gibb 1923, p. 54.
  68. ^ Madelung 1975, pp. 198–199.
  69. ^ Powers 1989, pp. 42–43.
  70. ^ Hawting 2000, p. 74.
  71. ^ Wellhausen 1927, p. 446.
  72. ^ Madelung 1975, p. 198.
  73. ^ Powers 1989, pp. 58–59.
  74. ^ Madelung 2011, pp. 541–544.
  75. ^ Malek 2017, p. 105.
  76. ^ Madelung 1975, p. 200.
  77. ^ Madelung 1975, pp. 200–206.
  78. ^ Blankinship 1994, pp. 104, 117.
  79. ^ Hinds 1993, pp. 265–266.
  80. ^ Blankinship 1994, pp. 25–26, 31.
  81. ^ a b Blankinship 1994, p. 31.
  82. ^ Haldon 1990, pp. 72, 80.
  83. ^ Lilie 1976, p. 140.
  84. ^ Treadgold 1997, pp. 343–346.
  85. ^ Haldon 1990, p. 80.
  86. ^ Lilie 1976, pp. 120–122, 139–140.
  87. ^ Treadgold 1997, p. 344.
  88. ^ Guilland 1959, pp. 110–111.
  89. ^ Powers 1989, pp. 39–40.
  90. ^ Lilie 1976, p. 132.
  91. ^ Powers 1989, p. 38.
  92. ^ Treadgold 1997, p. 347.
  93. ^ Treadgold 1997, pp. 347–348.
  94. ^ Treadgold 1997, p. 349.
  95. ^ Blankinship 1994, pp. 33–34.
  96. ^ Lilie 1976, pp. 132–133.
  97. ^ Blankinship 1994, pp. 117–121.
  98. ^ Lilie 1976, pp. 143–144, 158–162.
  99. ^ Powers 1989, p. 65.
  100. ^ a b c d Powers 1989, p. 70.
  101. ^ a b c d e Bosworth 1982, p. 93.
  102. ^ Dols 1974, p. 379.
  103. ^ a b c d e f Eisener 1997, p. 822.
  104. ^ Dols 1974, pp. 379–380.
  105. ^ a b c d e f Shaban 1971, p. 130.
  106. ^ Shaban 1971, pp. 130–131.
  107. ^ Shaban 1970, p. 76.
  108. ^ Crone 1994, pp. 20–21.
  109. ^ Crone 1994, pp. 21–22.
  110. ^ a b Crone 2004, p. 75.
  111. ^ a b Crone 2004, p. 76.
  112. ^ Wellhausen 1927, p. 262.
  113. ^ Gordon et al. 2018, p. 1012.
  114. ^ Wellhausen 1927, p. 264.
  115. ^ Wellhausen 1927, pp. 263–264.
  116. ^ Robinson 2020, p. 145.
  117. ^ Ahmed 2010, p. 119.
  118. ^ Ahmed 2010, p. 93.
  119. ^ Ahmed 2010, p. 124.
  120. ^ Powers 1989, p. 71, note 250.
  121. ^ Gordon et al. 2018, p. 1013.
  122. ^ a b c Bosworth 1982, p. 92.
  123. ^ Hillenbrand 1989, pp. 189–190.
  124. ^ Williams 1985, p. 92.
  125. ^ Uzquiza Bartolomé 1994, p. 459.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

スライマーン

675ねん? - 717ねん9月24にち

先代せんだい
ワリード1せい
カリフ
715ねん2がつ24にち - 717ねん9月24にち
次代じだい
ウマル2せい